ケインジアンアプローチ

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ケインズ経済学の基盤

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一つの経済理論の生誕の必然性を把握することはきわめて困難な仕事である.しかし,ごく一般的にいって,すべての経済理論をその十分なる基礎から把握するためには,その理論をそれが対象としている経済社会との関連性において把握すると同時に,その理論に先行する理論的継承性を統一的に把握することが必要であると考える.勿論われわれが痛切に感じているようにすべての理論がそれが当然対決していたと考えられるところの歴史的現実を直接的に反映しているわけではない.さらに,仮に一つの理論が歴史的現実を直接に反映させているとしても,経済理論家の階級性・方法等々の如何に対応して,必ずしも現実を全面的に反映させているとは限らない.むしろ一般にはこの対応は一面的=特殊的であり,したがってまたかなりの程度において屈折的であるのが通常である.ところが幸いにしてケインズは経済理論家であるまえにイギリス経済の苦悩を救済せんとした政治家であったために,(そのイデオロギー的歪曲にもかかわらず)きわめて強い現実接近的態度をもちつづけた.「一般理論」を生む以前の彼が,その政策的主張において原理的一貫性をもたず,たえず現実道程の変化に即応して変遷したことをみてもわかるであろう.一部の理論家はケインズのこのような態度を非難しているけれども,これはむしろケインズの罪であるよりは,当時の経済学が変遷する歴史的過程を説明できる一つの統一的原理をもちえなかったことによるという方が妥当である.次にケインズは,歪曲の激しいプチ・プル的視角からではなく,英国経済を動かすものとして,そのイデオロギー的制約にもかかわらず,正面から現実に対決するという態度をもっていた.
以上のことは,われわれが,「一般理論」の生誕過程を歴史的基礎課程の展開と関連して考察することを有意義にしている.

ケインズの思想を育てたもの

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ケインズはよかれあしかれ時代の子であった.この時代の子としてのケインズの経済学的体系を体系的に把握するためには,ことに,鋭敏な感受性をもっていた彼の青年時代から分析することが必要となる.本章においては,第一節においてケインズのイデオロギー形成の上に重要な役割を果たした「ソサエティ」を中心にとりあげ,第二節においては,ケインズが経済学の研究をはじめた時代における英国資本主義の変貌過程,最後に彼の貨幣経済学者としての第一歩を画することになった最初の著作「インドの通貨と金融」について触れる.

ケインズの思想を育てたもの

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われわれがここで研究の対象としている J. M. ケインズ(John Maynard Keynes) は,1883 年にイギリスの大学都市ケンブリッジに生まれ,1946 年に死んだ.父 J. N. ケインズ (John Neville Keynes) はケインズの生まれた年に「形式論理学」を著し,また 1890 年には「経済学の範囲と方法(The Scope and Method of Political Economy) を書いた高名の大学講師であった.A. ハロッドがその著「J. M. ケインズ伝」において示しているように,父ネヴィルはオックスフォードの経済学教授の地位を断りケンブリッジに止まり続けた.アルフレッド・マーシャルやフォックスウェル教授等々と親交を重ねた父のもとで,こうしてメイナードは生まれながらにしてケンブリッジ人であることを運命付けられた.1902 年彼はイートンからケンブリッジのキングス・カレッジに進み,1905 年卒業,翌 1906 年文官試験合格,3 年後の 1909 年にはマーシャルの努力でキングス・カレッジのフェローになった.われわれの分析もこのあたりから始めよう.
A.ハロッドによれば,ケインズの思想的成長にもっとも大きな影響を与えたと思われるものは,学生時代に彼が加入した「ソサエティ」("The Society") であった.「ソサエティ」は古くから続いていた秘密結社的クラブで,その信条の一つは「世俗の超越」であったともいわれる.指導的なメンバーは G.E.ムーア,L.ストレイチイ,L.ウォルフ等であったが,なかでもムーアに対するケインズの傾倒ぶりは異常なほどであった.このことは,例えば彼が,「絶対的にそしてすべての事柄に関して―第二義的性質においてさえも―ムーアに賛成」し,特にムーアの主著「倫理学原理」(Principia Ethica) に対して,「魂を奪うばかりの書物」として尊敬の念をささげていることからも明らかである.―ケインズ自身によってかかれた回想録「わが若き日の信念」の大半がムーアのためにさかれていることを想い起こし給え.―
彼がここでうけた主要な影響の一つは,「もしわれわれが正確な質問をだすことができさえすれば,誰でも答えを用意できるという信念を確信して,われわれが正確にいえばどんな質問を聞こうとしているかということを発見する」ということ,換言すれば,明快な純化された思想を誤解を生むことができないようにしてはっきりと表現することであった.―この思想はのちに数学の記号の利用,とりわけ彼自身のべているようにムーアの「倫理学原理」とラッセルの「数学原理」との共同の影響を受けて「確率論」にまで発展した.―第二の栄養は,第一と関連したムーアのいわゆる善定義不能説の容認である.ケインズ自身の要約に従うと,どんな精神状態が善であるということができるか.「これは直接的な検討の課題であり,それについて議論をすることが無益であり不可能である直接的な分析不可能な直観の問題である.その場合,意見の違いがあるとすれば誰が正しいのか.……実際には,明快で疑う余地のない字死人をもっているような顔つきそのもので意見をのべ,しかも誤りのないアクセントを最もうまく用いることのできるものが勝つのである」
善に対するこのような態度は,他方では特殊の宗教観と結びついた.彼は述べている.「われわれはいわばムーアの宗教を受け入れて,彼の道徳を放棄したのである.―ここで『宗教』というのは,自分自身ならびに究極的なものに対する人間の態度を意味し,『道徳』というのは,外界ならびに中間的なもの(intermediate)に対する人間の態度を意味する」と.ここに一貫してみられるものは『合理的で科学的な』態度である.当時のケインズは,愛と美と真の対象と密接にむすびついているものから成っていると考えた彼自身の善に対する信念を宗教とよび,それは,「他の科学の領域におけると同じように,感覚資料としてだされた材料に対する論理と合理的分析の適用以外の何者でもない」と考えていた.
このような宗教感は,ケインズ自身「一つの大きな利益」とよんでいるように,一切の「ヘドニズム」を窓の外に抛り出す」こととなり,ヴィクトリア時代の伝統的保守主義と道徳主義に対する反逆となって現れた.ケインズの非国教徒的性格と,それと結びついた自由党への関連の思想的基盤はここに見出される.蓋しヘドニズムへの批判は同時にキリスト教への批判でもあったからである.彼はいう.「私はベンタム的伝統が近代文明の内部をむしばんできた虫であり,近代文明の道徳的廃頽の責任はそれにあると現在思っている.われわれはよくクリスチャンを敵と考えてきた.というのは彼等は伝統と慣習とごまかし(hocus-pocus) の代表者として姿をあらわすからだ.実際のところクリスチャンは経済的基準の過大評価に立脚しているベンタム的結石であり,このベンタム的結石こそ一般的な理念の品性を破壊しつつあったのである」と.ケインズが大学生のはじめの時期に「興味を持った本」としてあげている「十八世紀英国史」の著者 W.E.H.レッキイが宗教的には合理主義者であり,政治的には自由党員であったことをここで付け加えておくことは興味をそそる事実である.
ビクトリア的世界に対するこの容赦のない批判が,彼にとっては同時にマルクス主義批判の基底をも提起するものであったことは重要である.なぜなら,ケインズにとっては,マルクス主義はベンタム主義の誤解にもとづいて五十年前の諸問題を解決しようとするほこりにうずまった計画の残滓にほかならず,したがって,「このベンタムからの脱皮」は,「マルクス主義として知られているベンタム主義の最後の帰謬法(reductio ad absurdum)からわれわれの哲学である不抜の個人主義と協力して,われわれの全運命を保護してくれるので役立った」からである.
こうして「ソサエティ」およびそこを中心としたムーアの影響は,恩師マーシャルのもっていたヴィクトリア朝的道徳観への批判となって現れたのみでなく,一切の保守主義と伝統への批判,したがってまた保守党に対する嫌悪と自由党への期待となって高まっていった.1904 年ケインズは大学の自由党クラブの会長になったが,この間の事情を説明するハロッドの次の一句は注目に値する.すなわち彼はいう.「シェパード氏はケインズが大学生のとき自由党の会合でやった演説を記憶している.ケインズは保守党員と自由党員とをこう定義した.いま住民が貧乏と貧窮の状態のなかに生活している一つの村があるとする.この村をみせられて典型的な保守党員は,『非常に悲惨だ.しかし不幸にも救うことはできない』といい,自由党員は,『これはなんとかしなければならない』という.これがケインズが自由主義者である理由であった.‥‥‥自由党員としてのべられたものはたしかに生涯を通じてのケインズの見解であった.」と.この一句には必ずしも上述したような見解との必然的連関は明確でない.しかし,そこにわれわれは伝統と慣習とごまかしの体系としての保守主義に対する強烈な被案を見出すことができる.
ところでケインズはすくなくとも1905年前半頃までは,経済学研究に一生を捧げようなどという気持ちをきめていなかったようである.―もっとも,この年の7月,ケインズは友人 G.L.ストレイティ宛にジェポンスの「通貨および金融に関する研究」のことを大いに賞賛して手紙をかいているし,その年の12月にはマーシャルが父宛にメイナードに束行的敬愛学者になるようにすすめたとしらせてはいる.またピグーが一週に一度学科のコーチをしたようにはいわれているが.―したがって,当時の彼が「なんとかしなければならない」という事態をそれほど真剣にとりあげていたかどうかは疑問である.しかし,当時のイギリス経済社会には,たしかに「なんとかしなければならない」事態が生まれつつあった.この点をあきらかにしておくことは,われわれがのちにケインズの諸著作を展望していく場合にどうしても必要である.ことに時節でみるように,かれがケンブリッジの経済学講師になった1908年以降,そして「経済学クラブ」をつくり(1909年),「エコノミック・ジャーナル」の編集者になった(1911年)ころからのちは,英国経済社会が構造的変化を明白に示しつつあった時代であるから,若い経済学者としての,彼の眼前に展開されていた諸事実をみておくことは意味なしとしない.

イギリス資本主義の変貌

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周知のように,十九世紀の半ば,英国は他国に先んじて資本主義的工業化を完成し,世界の工場として世界市場を独占していた.ところが,1870年普仏戦争の勝利に伴ってドイツ帝国が生まれ,イタリー,アメリカも急激に発展しつつあった.その直前1868年には日本もまた資本主義化への第一歩をふみ出していおた.いわば世界市場は新しい変化を示しつつあったのである.
このような変化は,1873年にはじまり 1890年代のなかごろまで続いた不況―もっともこの不況は1880年と1888年のにわか景気によって中断されたが―に集中的に現れた.その意味でこの不況が,ドップも云うように「資本主義の二つの段階をわかつ分水嶺となると考えられてきた」ことは意味深いものがある.「すなわち,まえの段階は,活気のある,反映した,大胆な楽観主義にかがやいた資本主義であり,あとの段階は,いっそう不安げな,ためらいがちな,そしてあるひとがいうように,すでに老衰と荒廃の影をやどした資本主義である」と.しかし,この時期の英国は依然として世界最大の工業国であった.したがって「老衰と荒廃」は現実のものではなく,文字通り影を宿していたにすぎなかった.―われわれはここで,1885年には英国史上はじめて11名の労働者代表国会議員グループがつくられ(もっとも彼等は独立の政党としてではなく,自由党と一翼として活動したのではあるが),1892年には労働組合員も160万人に達していたこと,しかも1886年には失業者のデモと軍隊との衝突が起こるほど労働運動も尖鋭化してきていたことは忘れてはならないが―.このことはこの不況の原因そのものとその結果についても見ることができる.すなわち,この時期の恐慌は,金の供給に結びついた貨幣の側の影響によって引き起こされたのではなく,過去数年間の技術革新によるコスト低下の必然的結果であるとか,あるいはまた,資本蓄積が余りに急激に増大しすぎた結果,生産過程から搾取できる剰余価値量をふやすことができず,そのために起こった利潤率低下の必然的結果であるとか(いわゆる資本の絶対的過剰生産)いわれるように,18790年代のなかごろを通じて,資本財生産部門の産業において,とくに目立っていた.熔鋼炉の数はひきつづいて増加し,資本財生産は,全体としては,指数にして 1873年の 55.3 から,1877年には 61.6 に増加した.1877年の終わりになると,数年前に海外投資が憂目をみたと同じように,国内投資もまた行き詰まってきた.けれども,その事実があるにもかかわらず,資本財の生産指数は,1879年においては 1877年のそれよりも指数にして8低いだけであった.そして失業率は 10 パーセントをこえていたにもかかわらず,生産指数の方は 1873 年から 1879 年ににかけて,わずかに 62 から 60 に減少しただけであった.」
なるほどこの恐慌の一つの重要な要因であった海外需要の衰退,すなわち後進諸国であったドイツ,とりわけアメリカ市場の喪失の意義は否定できない.それはたしかに,「バーミンガムやシェフィールドのような中心地における実業家のひとびと」をして,「アメリカ市場の喪失をつぐなうためには,われわれは植民地市場をもたねばならない」という声をひきだすのに十分であった.だが,北ボルネオ(1881年),ナイジェリア(1884年-1886年),サクラワ(1885年),ローデシア(1888年―1889年)等々の併合が端的に示しているように,この危機も今日の大植民地を作り出すことになった猛烈な植民地獲得の実現によって補われることができる状勢にあった.(もっとも,そのために今日のイギリスの危機は一層深化せざるをえなくなったのではあるが)
1900年に再び不況が訪れた. 1901年にはモルガンの指導のもとにアメリカ鉄鋼トラストが成立し,また翌 1902年には,アメリカに,イギリスの航路を買収し海運独占をはかった大西洋航路トラストが成立した.ドイツ造船業も勃興し,世界的な鉄道網の発達がさらに加わって,イギリスの海運上の特権,それを介してイギリス造船業および鉄鋼業は脅威をうけることになった.しかしこのときの不況も 1904年のアメリカの大豊作―それはイギリス商品に対する莫大な需要をつくった―と,日露戦争による極東向け輸出の増大を主要な条件として回復した.
以上のことは,いまやイギリスをして世界市場を独占せしめていた諸条件が消滅の危機にさらされつつあったこと,したがって,大英帝国の反映をきずいてきた資本主義社会が「老衰と荒廃の影」をやどしてきていたことをはっきりと示している.しかし,それはまた同時に,そのような「影」があたらしい帝国主義的好機によっておおいかくされ,この資本主義の運命に対する絶望ないし懐疑にまで高昇されることがなかった理由をも教えるものである.
このような傾向は政治過程の上にもあらわれた.しなわち,当時イギリスの主要政党は自由党,自由統一党,および保守党であったが,(ただし1906年より1923年まで自由統一党と保守党とは合併して統一党を名乗った)かれらは共に真になにが起こりつつあるかを的確に把握していたとは思われない.1880年から1890年にかけての植民地獲得に対して,自由党のグラッドストンは保守党の帝国主義政策を痛撃,「平和主義」と理想主義を強調していたし(もっとも,1880年彼が第二次グラッドストン内閣を組織すると,エジプト鎮圧にのりだし,1982年閣僚無頼とが平和主義(?)に殉じて辞職したことは忘れてはならない),また1905年「イギリスの典型的自由主義政治家」とよばれたキャメル・パナマンのもとに政権を握っていた自由党は,貧民子弟のための「学童給食法」の制定,初等教育から宗教的色彩を払拭するための新教育案の審議,「労働争議法」の制定(1906年)等々に集中していた.ただ,1900年に結成された「労働代表委員会」が,1906年「労働党」と改称,しかも同年の総選挙ではじめて29名の代議士をもつようになったことは,前述の「影」を暗示するものとして興味深い事実である.
だが歴史の歩みは冷酷である.1905年頃にはイギリスは主要生産物の生産において,完全にアメリカに凌駕された.イギリスの資本家はそれと同時に狭隘化した市場に対決するために無制限競争の脅威に対して自己自身を防衛する方策を考えずにはいられなくなっていた.しかも失業は切実な問題になり,労働者階級の実質賃金は低下の傾向にあった.1907年頃からはいろりろなかたちでのストライキ,(例えば演芸館スト,機械工スト,指物師スト等々)が起こり,ことに1907年11月には全国鉄道従業員協会(ASRS)と一般鉄道労働者組合(GRWU)とは圧倒的支持で全国的鉄道ストを決定するまでに至った.炭鉱夫の間でも,賃金切り下げに対する全国ストライキが決定されるに至り,自由党政府は1908年8時間労働制を制定するに至った.自由党政府は急速に,労働委員会や職業紹介所を設立し,国民保険を制定して労働運動の「不毛化」を企図したが,このことは決して予想された効果を伴わなかった.
すなわち,1911年海員ストライキをきっかけに,ドッグ労働者が加わり,時の内務大臣ウインストン・チャーチル氏は,2万5000人の陸軍を波止場に送らざるをえなかった.鉄道従業員の自然発生的地域ストもまた全国的に拡がり,20万人のストになると同時に,このストは1913年には最初の産業別労働組合である全国鉄道従業員組合(NUR, これは別記 ASRS と GRWU,それに連合転轍手・信号手組合が合併してできた)が生まれた.1912年には炭鉱夫が最低賃金原則を要求して,44万5000 票対 11万5000票でストライキを決定,2ヶ月間は完全なストライキ状態になった.A.S.ハットはロイド・ジョージ氏のつぎの言葉,すなわち,この危機は,「数世紀の間,いかなる政府も遭遇したことのないような,もっとも重大なものになりそう」であったという一句をひいているが,その意味では大英帝国はその老衰の第一歩を労働運動を通じてしらされることになったのである.
だが1914年7月,第一次正解対戦の幕は切って落とされた.それによって,この国内的危機はとりのぞくことができたように思えたが,このような形での危機の回避が英国にとって幸せであったかどうかは,また歴史の審判にたよる以外にはなかった.ともあれ,ケンブリッジの人ケインズはこのようなところから彼の経済学研究を出発せねばならなかったのである.

インドの通貨と金融

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ケインズはキングス・カレッジ卒業後インド省勤務.のち上述したように母校のフェローになり,経済学研究に専念するようになった.1913年彼はインドの財政通貨調査委員会(Royal Commission on Indian Finance and Currency) の委員となり,そのとしの5月には前年から準備していた最初の著書「インドの通貨と金融」(Indian Currency and Finance, London, 263p.) を発刊した.周知のようにこの大英帝国の大属領インドは 1813年東インド会社の貿易独占権廃止以来急激な構造的変化をもたらし,イギリス商品のための販売市場および原料市場として商品経済化の波にまきこまれていた.1851年には民族資本による最初の綿工場が設立され,このような動きは綿工業・黄麻工業・炭鉱業において急速に発展した.1895年-1900年の間に大飢饉・悪疫が流行したが,丁度このころイギリスは先にみたように資本主義の新しい段階に入りこみつつあった.狭隘化した市場を補う植民地の獲得と商品輸出の重視とが一つの特徴をなしていた.1893 年従来の銀本位制度が廃止されて,インドはここに金為替本位制(Gold Exchange Standard System) をもつことになったが,その意味ではこの新制度の導入は変動きわまりなかったルピー(Rupee) に代わって,インド貨幣価値の安定を図り,イギリス資本輸出の受け入れ条件を創出せんとするものであったといって決して誤りではなかろう.金為替本位制の代表的労作と称される彼の前掲書は,したがってことイギリス資本主義の新段階に対決しようとしたものであったといってよい.
それと同時に,われわれはここに一つの事件を想起しておこう.1911年国王にして皇帝たるジョージ五世はインドを訪問し,盛大な接見式を行ったが,翌1912年ハーデング卿が総督として新首都デリーに入ったとたん爆弾のために重傷を受け,テロをともなったインド自治の要求が高揚してきたのである.勿論問題は既に30年ほど前から徐々に生起しており,ことに日露戦争における「東洋人」日本の勝利と関連して,二十世紀初頭急激に激化していたのを,いわゆるモーレイ・ミントー改革(インドの代議制度に直接選挙された議員を加え,さらにインド人議員一名をロンドンインド会議代表に加える等々の改革)によって一応回避していたときであるだけに,この事件のイギリス本国に与えた衝動は大きかった.ケインズがこの年,前掲書の執筆にかかったことは決して偶然であるとは言えまい.
しかしさしあたりルピーの問題は,19世紀中葉からの銀生産の急増,それに伴う金銀比価の急激な変更を契機としたものであり,1870年代における欧米諸国のあいだで銀本位制度放棄による銀価格の下落が直接の機縁であった.すなわち,それによって銀本位制下にあったインドの為替はきわめて不安定なものになったのである.マーシャルがその著「貨幣・信用および商業」(Money, Credit and Commerce, 1923) でものべているように,―ちなみに,本書は公刊はおくれたけれども,事実上ケインズはフェローとしての講義をマーシャルの本にもとづいて行ったといわれる―いわゆる複本位制(Himetalism)または二金属制度は,実際においては交互に二金属の影響をうけ,事実上交互本位制(alternative-metalism)の危険をもつものであったが,この危険性はいまや銀価格の下落を通じて銀本位制度に一つの困難を斎したのである.
しかしこのような事態にも拘わらず,金本位制そのものは,1821年以降は一度の破綻もなく完璧に維持されてきた.その意味ではケインズの本書の所説は,のちにみるようにその現実に安座するものであったといってもよい.ただ,A.M.リンゼイ氏によって 1876年最初に主張されはじめ,1983年採用されるようになった金為替本位制(Gold-Exchange Standard)は当時においても,金貨を伴わない金本位制度というものは不可能だとうする批判を受けていたが,1900年に入っても,以前としてこの制度の(1)不安定さと,(2)外国貿易に対する悪影響を批判する人々があったのに対して,ケインズは古典的な金本位制度に対する金為替本位制の必然性を明確に示そうとした.しなわち「金が国債的負債の支払いのために自国通貨のほとんど不変率で利用できる限り,金が現にその国の通貨になるかどうかはむしろどうでもいいことであるという発見から生じたもの」としての金為替本位制が,各国通貨問題の正当な解決策であることを明示しようとするのである.その場合,彼が,各国塚問題の正当な解決のために吟味さるべきこととしてあげたものは,(1)その国の国際的貨幣市場における地位,(2)その国の主要金融センターとの関係,および (3)それを攪乱することは賢明でないところの通貨問題における各国民の慣習であり,とくに「理論家として」この制度が「将来の理想的通貨における一つの本質的要素,すなわち国債通貨または国債的価値標準に人工的に等価に維持される安価の地方的通過の使用ということを含む」ことを確信して,その利点を強調しようとした.しかも,とくに注意すべきことは,このインドの通過制度にちて論じながら,彼がすでに理論家として「将来の理想的通貨」についての構想を伴って議論していることであり,その意味でいわゆる管理通貨への着想はここに始まるといってもよかろう.このことを示すために,もう一つの文を挙げておこう.すなわち,彼はいう.「金本位制度の基礎の上にその交換のメカニズムを完成したのち,ヨーロッパが一層合理的で安定的な基礎の上にその価値標準を規整する可能性を見出すようになるときはそれほど遠いさきのことではないだろう」と.
ともあれ,こうしてインドにおける為替不安定,貨幣市場の動揺の原因が金為替本意制度そのものではないことをあきらかにした後,彼は欠陥はむしろインドによる紙幣発行の管理,インド政府と貨幣市場との関連,なかんずくインドの銀行制度にあるという.事実後者が分析された第7章は本書のなかでも最大の頁がさかれており,この分析を通じては彼は結局,地方的通貨たるルピー貨を国債通貨と人口的に等価に維持するために必須なものとしての中央銀行,すなわち,インド銀行を設立を提案する(しかし,このような主張はすでに多くの人々によって 1836年以降何回となくくりかえされたことろであり,ケインズの彼らに対する特徴は,その提案が金為替本位制度そのものの性質,その運用と必然的なつながりを持つことを根拠にしている点を根拠にしている点を明記しておくべきであろう).当時はインド貨幣市場は為替銀行と省立銀行(Presidency Bank) の抗争,利害の波乱のなかにあり,重圧されたインド貨幣市場の救済の役割を果たし得なかったことを考えると,このような主張はインド通貨価値安定の一つに必須条件ではあった.しかし,委員会の最終会議の前にケインズは病気になり,1913年の四度目の流産をした.この省立銀行合同による中央銀行設立計画がまがりなりにも Imperial Bank of India として成立するのは 1920年のことに過ぎない.しかもそれが競争の可能性をおそれる為替銀行の反対によって,発券統制権をもたない実質的には商業銀行としての性格にとどまらざるをえなかったことは,今後のケインズの諸提案を考える上できわめて意味深い事実であった.

第一次世界大戦とケインズ

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第一次大戦が,世界資本主義,とりわけ英国資本主義に与えた影響は根本的であった.しかし,それと同時に,大戦がケインズにのちにみるように「悪魔の舞台」への登場を強要し,ケインズの貨幣専門家としての地位を確固たるものにしたことは忘れてはならない.本章においては「平和の経済的帰結」および「貨幣改革論」を中心に,その背景との関連においてケインズの研究過程が概説される.

大戦と「悪魔の舞台」

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1914年第一次世界大戦が勃発した.この戦争はいうまでもなく,その規模の点で,人類史上のこれまでのどの戦争をもしのぎ,資本主義世界をそのもっとも深い奥底から揺り動かした.ことに,その後の英国資本主義の世界市場における地位を考えれば直ちにわかるように,この戦争はイギリス資本主義の世界的地位をその根底から揺り動かした.すでに1912年社会主義インターナショナル事務局はバーゼルに第二インターナショナル臨時大会を召集し,この戦争の帝国主義的性格を強調し,ドイツ,ロシア,イギリス,フランス,イタリアの各政府を戦争準備の点で批難していたが,1916年レーニンがその著「帝国主義論」で明確にしたように,この戦争はあきらかに資本主義列強の不均等発展を根源の力とする世界再分配戦争であった.したがって,イギリス資本主義の根底が揺り動かされるようになったのは,むしろ戦争そのものによるものではなくて,それを生み出した諸要因によるといわなくてはならない.なぜなら,すでに20世紀初頭にイギリスを追い越して,工業発展水準ではアメリカについで世界第二,ヨーロッパでは一位を占めるようになっていたドイツの登場,一般に世界資本主義の構造的変化が,イギリス資本主義衰退の直接的原因であったからである.事実このような徴候はわれわれが第一章でみたようにすでに現実に現れていた.したがって,むしろ問題は,この大戦によって,「イギリスの金本位はどうなるだろうか.イギリスの金融上の指導的地位はどうなるであろうか」という点で自覚された.ケインズの貨幣専門家としての役割はこうして舞台の正面に立たざるをえないことになってきた.
彼の舞台への登場は,友人バジル・ブラケットによる当時の大蔵大臣ロイド・ジョージ(自由党員)の接近に始まる.すなわち,戦争に伴って株式銀行家連はいちはやく新資産の創造と債務の償還停止を要求しつつあったのに対して,ブラケットはケインズによって正貨支払維持の必要性をなによりもロイド・ジョージその人に確認させる必要があったわけである.その後ケインズ自身は「エコノミック・ジャーナル」に,「戦争と金融制度,一九一四年八月」という論文を,あるいは「クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミックス」11月号に「ロンドン・シティと英蘭銀行」等々の論文を書きこの主張を固めつつあったが,実際に彼がこの問題の権威者としての大蔵省入りをしたのは1915年の初めであった.
しかし,ケインズ自身,1919年6月5日付けのノーマン・ディビスおよびロイド・ジョージ宛の手紙でいっているように,彼にとってこの舞台は「悪魔の舞台」であった.なるほど,彼はこの期間中,例えば1915年にはロイド・ジョージと共にパリに行き,フランスの戦時金融措置について調査したり,イタリアとの金融協定をマッケンナと共に結んだり,あるいは1916年にはW.A.アッシュレーと共にドイツ賠償問題の大蔵省原案をつくり,そして最後に1919年1月大蔵省出席代表として休戦条約のイギリス代表団に加わって,華々しい役割を果たした.これによって最早彼の地位は動かすべからざるものになった.だが,ハロッドがその著,「ジョン・メイナード・ケインズ伝」で詳細に示しているように,あるいはまたケインズ自身「平和の経済的帰結」第二章「会議」において書いているように,1919年彼が賠償委員会に参加できないまま,「各国をそれぞれ自立させるための」彼の計画が頓挫し,「ヨーロッパを経済的に瓦解させ,ヨーロッパの人口を何百万人も減らすことにならざるを得ない」別の案が通過したとき,完全な「手遅れ」を感じ,戦いに敗れて大蔵省を辞職するほかなかったからである.彼はこうして,大胆不敵に直ちに彼の第二の著書「平和の経済的帰結」(The Economic Consequences of Peace) を書き始めたが,この本を書くに至った彼の挑戦的態度ともいうべきものは,この本の序文にさえあらわれた.すなわち彼はある種の感情を含めて,自己自身をすべて第三人称「彼」で紹介しているのである.ハロッドの評価によれば,この本は「英語で書かれた最もすぐれた論駁の書のひとつ」であり,そのためには彼は「長年のあいだイギリスの官界から破門される」ことになった.

「平和の経済的帰結」

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我々は賠償問題それ自身をとりあげようと思わないし,そのためにはまた別に一冊を準備しなければならない.我々がここで興味を持つのは,ケインズ経済学の成立と関連した一連の新しい経済学的見解の提出である.しかし,それにしても若干のことは触れておかねばなるまい.
この本は,序説,大戦前のヨーロッパ,会議,条約,賠償,条約後のヨーロッパ,修正という七つの省からなる279頁の著作であるが,第三章会議において,彼はクレマンソーとウィルソンについての「容赦のない恐るべき性格描写」からはじめ,世界的物議を醸し出した.それに引き続いて第四,五章において,条約が,ウィルソンによって提示された休戦条件に違反しておるばかりでなく,偽善的であり,しかもその賠償が支払能力を超えドイツをして全く混乱に陥しいれるような苛酷なものであることを独特の調子で公衆に訴えたものであった.1916年ケインズがアッシュレーと共に構想を練った賠償の大蔵省原案が20億ポンドであったのに対して,戦時内閣の一員であったヒューズを議長とする委員会が,ドイツは連合国に戦費全額を支払うべきであるとの原則で,240億ポンドの賠償要求額を決定していたことを考えると,この批難は実はこのときにさかのぼるものである.
ともあれ,ケインズは本書の第七章でヴェルサイユ平和条約のとりきめに反対して,次の四つの‥の再考を訴えている.すなわち,(1)条約の改訂,(2)連合国環の負債の解決,(3)国債借款と通貨改革および(4)中央ヨーロッパとロシアとの関係,がこれである.
第一の条約の改訂の中心問題は,賠償,石炭と鉄,および関税の三つの問題からなっていたが,その核心は何と言っても賠償問題であり,そこでケインズは彼が大蔵省「A」課で構想したとおりの20億ポンドを固執し,うち5億ポンドは商船隊,海底電線等の接収により,現金賠償としては15億ポンドを1923年より毎年5千万ポンド30年間支払うべきものとした.ハロッドは前に挙げた本の中で,「平和の経済的帰結」のなかの議論を必要とする三つの主な内容として,(1)平和の条件は寛大であることが公正でありかつ得策であった.(2)賠償要求額は実行可能性の領域を超えていた.(3)ヨーロッパの経済問題は国境に関する政治問題よりもはるかに重要である.ということを挙げ,特に第二と関連して第一の寛大さがケインズの受けた薫陶と環境のせいであるばかりでなく,アスキス・ブレイ・セシル,さらにチャーチルにも共通の精神であり,さらにまた「普通のイギリス市民の特徴」であることを論証しようとしている.もちろん我々もこのことを頭から否定してしまおうとは思わない.しかし少なくともこの点に関しては,第一に師ケインズに対するハロッドの熱愛の精神が高昇しすぎたきらいがあること,第二に第一次世界大戦勃発の一つの責任を負わざるをえなかった英国の一種の道徳的免罪の希望がはいりこんでいることを否定できない.なぜなら,ケインズによって賠償問題がこのような主張を伴ってできた背景には,ハロッド自身んも別のところでのべているようにつぎの二つの事情があったことを否定するわけにはいかなからである.
第一に,ドイツに巨額な賠償を課せば,ドイツはそれを重税によって支払わなくてはならない.このことはドイツの生産費を騰貴させるのに対して,賠償受け取り国たるイギリスは税を軽減できるから逆に生産費を減少でき,したがってドイツに対するイギリスの市場競争は有理になるであろうというヒューズの見解に端的にしめされている.ただ「寛大な」案とことなっているのは,それがトランスファー問題に対して無知であったというだけのことであり,ケインズの主張も依然として賠償によるイギリスとドイツとの国際市場戦の観点がはいりこんでいたことは否定できない.すなわち,もし重い賠償を課せば,それを支払うためにドイツはどうしても貿易の黒字をもってうめあわさなければならない.もし税が高ければ,ドイツ商品が安くなり競争に勝利をえてすべての市場をドイツが手にいれることができるまで賃金を引き下げる以外に方法はないであろう.ケインズは明白にこのことを知っていた.平和な条件が寛大であることは,こうして倫理的な信念であるよりは,崩れつつあったイギリスの世界市場における地位を維持するか,あるいは不当に弱化させないためにも必要であった.
これと関連して第二の事情が浮かびあがってくる.ケインズは本書の第一章および第二章で,それによって西欧が過去半世紀の間生活してきた経済組織が,きわめて不安定で,信頼できない,一時的性質のものであることを説得しようそしているが,そのやり方は人口とそれを扶養すべき生活力との間の不均衡から説明されている.この方法はのちにみるように,重大な欠陥を含んでいるが,しかしともかくそれによって,第一次世界大戦後のドイツおよび中央ヨーロッパが,人口の増大に対して急激に生産力を破壊させることによって直面せざるをえなくなった飢餓を明白に示すことができたことは否定できない.第六章「条約後のヨーロッパ」でも見られるように,ケインズはこのような「飢餓が(人間のいろいろな)他の性質をヒステリーの神経質な不安定性と狂った絶望とにおいやり,……これらがせっぱつまれば組織の断片すらひっくりかえし,個々人の不可抗的な諸欲望を絶望的に満足しようとして文明それ自身さえ利没してしまうかもしれない」という危機,要するに現存資本主義体制の崩壊に導くかもしれないことを直感していた.単なる人口としげんのアンバランスの問題では決してなかったけれども,現実に飢餓を一つの原因として1917年に世界で最初の社会主義革命=資本主義制度の崩壊がロシアにおいて起こったことを考えるとケインズのこの直感は決して誇張ではなかった.
しかも,このような危機は「市民の富の大部分を,ひそかに気づかれずに,収奪する(confiscate)ところのインフレーションによって一層倍化させることになった.彼はそこで,「資本主義を破壊する最善の方法は通貨を暴落させることである」ということが,レーニンの考えであるとのべつつ,次のようにもいっている.すなわち,「企業者階級に対する大衆の怨詛を,インフレーションの不可避的な結果としての契約と富の既存の均衡との激しいかつ恣意的な攪乱によってすでに社会的安全さに与えられた打撃と結びつけることによって,これらの政府は十九世紀の社会,経済秩序の持続を急速に不可能ならしめつつある.」と.このようなときに,巨額の賠償を課することによって,この危機にもう一つ重大な打撃を結びつけることがどうして許されようか.しかも当の相手たるドイツは,輸出入の関係においても,ノルウェー,オランダ,ベルギー,スイス,イタリア,オーストリア=ハンガリー,イギリス,フランス等々と切り離すことのできない関係なのである.「一般理論」が,大恐慌後資本主義制度の全面的崩壊を回避する唯一の手段を発見することに結びついていたことを考えると,ケインズの主張はまことに運命的なものであるといってよかろう.
一般に本書の評価は賠償問題を中心として議論されている.このことは決して誤りでない.しかし,金融専門家としてのケインズの面目はむしろ,我々が上述した救済策の第二,第三の中に集中的に現れている.すなわち,彼はそこでなによりも「将来の世界の繁栄のために絶対不可欠のもの」であると確信して,戦争目的のために支出された連合国間の借款を全額キャンセルすることを提案している.この戦争のために連合国に与えられた借款総額は39億9500万ポンドであり,うちイギリスの与えたものは17億4000万ポンド,アメリカが与えたのは19億ポンド(うち8億4200万ポンドは英国へ供与)であったが,この提案の根拠の一つが債務の永年にわたる支払いがある種の内政干渉を伴い,また債務支払い国民の借款供与国への悪感情のもとになることであったのは,第二次世界大戦後のアメリカのいわゆる,海外援助とアメリカへの反感を想い起こすときわめて興味深いものがある.ケインズの提案した第二の財政的措置は,総額2億温度の国際借款の供給を,第一のそれと共にアメリカに要請し,「通貨の一般的再建」のために使うことであった.これはあきらかに,「個々人の関心と期待を,流動性こそ絶対に必要であるという考え方から逸らし,それによって大衆の行動を有害なものからむしろ助けになるものに天下させるものは,無限の資金が市場で自由に動くという揺るがしがたい知識」すなわち伝統的なバジョットの協議をたとえ不十分でも新しい潜在的債権国の筆頭であるアメリカに守らせ,それによって金本位制度を維持しようとしたものであるといってよい.これはかつて大戦前まで世界の債権国であったイギリスが絶えず行ってきた政策であったが,今では英国はそれを米国に要請せざるをえなくなったのである.もっとも,米国はこの役割を引き受けはしなかった.賠償問題に関する第二の著書「条約の改訂」(A Revision of the Treaty, 1922) は,さらにこの点を力説した.
しかし,ここで忘れてはならないことがある.それはのちにシェムペーターもふれているように,この「平和の経済的帰結」のなかに,「一般理論」において経済学的に明確に提示された「自由奔放の終焉」の思想がはじめてあらわれたことである.もっとも本章のなかでは,自由放任の終焉というような言葉は現れてはいない.しかし,少なくとも第一次世界大戦と共に,「古い世界」と「新しい世界」とに分かれたこと,そして人口の急激な増加,生産力の増進,食料および原料の新資源の獲得に裏付けられて最大限の資本蓄積をすることができ,またこのような状態に基づいて貯蓄をすることが安定的な「社会の心理」であった時代が過ぎ去ったという認識だけは見ることができる.この認識はたしかに「自由放任の終焉」に前進すべき最初の一歩であった.

「貨幣改革論」とその背景

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我々は前節で,ケインズの諸提案が,資本主義の崩壊の危機の自覚と結びついていることをみたが,実際1917年のソビエト・ロシアの成立は,各国の労働者階級に大きな刺戟となった.例えば,日本においては1918年には有名な米騒動が起こり,朝鮮では1919年3月独立のための大蜂起が,1919年5月には中国に五・四運動が展開するという具合である.ケインズが本書のなかで,このような危機は現れてはいないといった英国でも,例外ではなかった.1919年1月末から有名な40時間ストがフロイド沿岸で起こり,1920年には前章でのべた TUC は組合員 650万人に達し,共産党もその年には創立され,幾多の組合の重要な合同が相次いで起こっていった.
それでも戦後の1年半は物価上昇によって矛盾はそれほど顕在化はしなかった.しかし,ケインズが恐れていた事態がやってきた.すなわち,ドイツはその膨大な債務を支払うために,異常な輸出の増大を生むと共に,極度に輸入を削減し,世界の為替体系は混乱する一方,かつての連合国はそれと関連して戦後恐慌に巻き込まれることになった.イギリスにおける失業者の数は1921年2月に100万を超え,1921年6月には200万を超えた.失業と賃下げに反対する労働者階級に対抗するために,政府は新しく「非常事態措置法」(The Emergency Power Act) をつくり,あるいはスト破りのための防衛隊(the Defence Force)という特別の軍団を編成する必要まで生じるほどであった.この年にはアイルランドの自治の問題をめぐって叛乱も起こった.
ドイツでは事態は一層深刻であった.ワルンケによれば,この時期(1919年から1923年に至る)は「革命的大衆斗争」のときであり,1920年3月に約1200万の労働者,事務員および官公吏がゼネストに参加した.1922年―1923年にはインフレーションは最高潮に達した.全労働者の60%以上が失業し,労働者の平均的賃金は,この年 1914年の約半分に下落したといわれる.このような危機は1923年10月ハンブルク労働者の武装蜂起にまで発展した.もっともこの蜂起の妥当と共に危機は一応回避されたのではあるが,しかしこの時期はヒトラーの反議会主義,反民主主義,反ユダヤ主義の思想がますます明白なものとして形成されつつあった時期であることは見逃すことができない.こうしていわゆる資本主義の全般的危機の諸徴候があらわれた.
これよりさき,アメリカは1920年ベルサイユ条約への批准を拒み,スペンダーの述べるところによると,イギリスも1920年,1921年頃にはケインズの所説を無理なかることと思いはじめており,賠償問題の実施はきわめて困難を加えていた.ドイツ自身は賠償決定額60億ポンドの支払いを1922年から借金により1億ポンド支払ったが,それと同時に1923年には2000万ポンドしか払えないことを通告した.フランスは孤立して1923年ルール占領に乗り出したが,ポアンカレ自身は1924年5月の総選挙で失脚した.このとしアメリカが再び乗り出して賠償額20億ポンドのドーズ案―後にヤング案―を提出しなければならなかったことは,ケインズの1916年以来の主張を考えるときわめて興味深い経過であった.
イギリスの国内政治情勢もまた複雑であった.自由党のロイド・ジョージを首相とする連立内閣は,1億ポンドにも達した対ソ干渉の失敗,トルコ=ギリシャ問題への干渉の失敗等々のために,1922年総辞職,保守党内閣がこれに代わった.しかし 1923年12月保守党は自らの破綻のために総選挙を行い,第一党にはなったが,191名の労働党に席を譲らざるをえなかった.こうして1924年第一次労働党内閣が成立,ラムジイ・マクドナルドが首相になった.
ところで資本主義の全般的危機は,第一次大戦前まで維持されてきた金本位制度が,それを維持させていたイギリス資本主義の後退と必然的に結びついて崩壊したことに典型的に現れたが,この点について簡単にでも触れておくことは,ケインズ経済学の生成を把握するためににも重要なことであろう.すでに述べたように,金本位制は,金の国際自由移動の前提の上で,金受取国の信用膨張と喪失国における信用収縮とがそれぞれの国々における物価の変化を通じて国際収支のギャップを保証するように作用する.ところが第一次世界大戦後たとえば英国においては1919年3月金貨および金地金の輸出が禁止されたし,多くのヨーロッパ大陸では戦争による運転資本の不足をカバーするための多額の輸入が行われ,これに伴って生じた外国為替に対する強い需要を充たすために為替切り下げが行われた.しかしこの為替切り下げは,他方では資本の海外逃避を伴い,あるいは国内における継続的な物価騰貴の予想と共に一層の切り下げを飛鳥とさせることによって,資本の流入による均衡化要因になるどころか,逆に均衡破壊的要因となった.国際物価の不均衡も顕著であった.これに対して 1920年~1924年にわたって世界の大国中唯一の金本位国であったアメリカは,流入した大量の金をかかえながら,将来ヨーロッパが復興し,各国が金本位制にかえったときに,アメリカに急激な信用収縮の来ることを恐れてその金の大部分を中立化していた.
英国ではこのような時期に,物価騰貴に対抗するために一つの方策として,銀行利子率の引き上げが行われていた.ピグーが詳細にのべているように,1920年4月15日利子率は7%にあげられ,戦後景気は逆転した.4月28日には,6.5%に引き下げられ,11月3日には5%に下げられた.このときには既に 1919年4月に比べると物価は20%下落していた.1922年6月には利子率は3%に下げられたが,7月には物価はさらに 3%下落し,1919年に比べると77%の水準になった.これに対してアメリカの物価は1919年の80%近くであった.1923年7月利率は 3%から4%に引き上げられた.最初は確かに国内信用の調整のために行われた利率の変更は,しかし物価が依然として低落しているときにひきあげられることによって,それが「スターリング(英国ポンド)を戦前の金平価にもどすための措置」であることが明白に示されることになった.
「平和の経済的帰結」をかいたあと,ケインズは 1921年には「確率論」(A Treatise on Probability, pp.xi+466) をかき,実際的提案と結びついていた彼の研究の底にあるものを明白に示したが,同じ年には国民相互生命保険会社の会長になり,1923年には「地方保険会社」の取締役会に参加,その金融委員長になってその投資活動を指導しつつあった.また 1920年にはキングス・カレッジの副会計官になり,1924年に正会計官になったときにあh,すでに3万ポンドの基金をつくりあげるまでになっていた.1922年に「条約の改訂」が出版されたことは既に述べたが,上述したような英国経済のデフレーション過程のなかで,ケインズの関心は賠償問題から国内金融へと移っていった.1923年ケインズ経済学の端緒的形態として「貨幣改革論」(A Tract on Monetary Reform) が出版された.それは単に改革論であるばかりでなく,在来の経済理論への批判をも含んだ最初の著作であった.
本書は「貨幣価値の変化の社会への諸帰結」,「財政と貨幣価値の変化」,「貨幣および為替の理論」,「貨幣政策における二社択一的目的」および「将来の貨幣統制のための積極的提案」という五つの章からなる.我々は先に本書がケインズ経済学の端緒的形態になったといった.もちろん,分析の方法の点では「一般理論」の方法は貫かれていない.しかし,彼は本書の序文で述べているように,いまや生産費の中に含まれるべき第四の要素として「危険性」(risk) を取り上げ,しかもこの将来のリスクが貨幣価値の不安定性によって一層拡大されるという観点から,すなわち貨幣価値の不安定性という点から失業の問題に迫るようになる.眼前に展開されつつあったデフレーションとその資本制経済に与える破壊的作用を目の前にして,ケインズは第一章でインフレーションとデフレーションがそれぞれ投資家階級,事業家階級,および賃金生活者の三つの階級に与える結果の分析からはじめる.その結論は彼自身をして語らせよう.すなわち彼はいう.「かくしてインフレーションは不正であり,デフレーションは不適当である.二つのうち,もし我々がドイツのような大げさなインフレーションを考慮の外に置くなら,おそらくデフレーションのほうが悪い.なぜならば,貧困になった世界では,利子生活者を失望させるよりは失業を生むことのほうが悪いからである」と.こうして「一般理論」に出てくる有名な利子生活者の「極楽往生」の思想が前触れされると共に失業問題解明の鍵への第一歩が踏み出される.もっともこの歩みは決して坦々たるものではなかったが.
第二章では国民大衆を収奪するものとしてのインフレを政府がどの程度に利用しうるのかということと,それに関連してインフレ過程での既存債務の返済方法について分析が行われ,続いて第三章で貨幣数量説の吟味および購買力平価説の有用性と限界とが明らかにされる.有名な現金残高方程式が示されるのもここであり,彼も「結局においてはこれはおそらく正しい」と結論する.しかし,金本位制度崩壊後,貨幣価値の不断の変化のために動揺している資本主義そのものを分析しようとした彼にとっては,「しかしこの結局(long run)というのは時々の問題に対しては人を誤らせる手引きである.結局においては人はみな死んでしまう(In the long run we are all dead.).もし経済学者が嵐の吹きすさぶ季節に,嵐が遠く過ぎ去ったあとは大洋はふたたびしずかであるとしか我々にいえないならば,彼はあまりにも安易な,あまりにも無用な仕事に従事していることになる」と考えたことは当然であった.こうして,予想要因と結びついて,貨幣価値の変動が財貨の生産におよぼす攪乱的作用への着想が生じてくる.のちに第二部でみるように,この着想は「一般理論」においてはじめて理論化される.しかしそれが資本制経済そのものが結局においてまぬがれえないものとして把握されるのではなく,たんに短期のものとして理論化されるところに,ケインズ的分析の世界の限界が横たわっていたことは否定できないところであった.こうして彼は第四章,第五章でこの本の主題である改革の問題に入り込む.
第一の問題は平価切下げを選ぶべきか,それともデフレーションを選ぶべきかということであった.ところで第一章であきらかにされたようにデフレーションは社会の富を他の二つの階級から投資家階級に移すものであり,失業を生むもととして彼にとって不適当と考えられていた.こうして彼は戦前価値においてではなく現在価値水準で貨幣価値を安定されることを,すなわち平価切下げを選ぶ.
第二の問題は,物価安定か為替安定かということであった.すでに第一の答えから予想されるように,ケインズは最初の方を選ぶことは明白だった.ただここでケインズは,為替は二国間の物価水準に依存するから,双方の国の物価が安定しないかぎり,一国のみの物価の安定をもってしおては安定できない.しかも国外物価は他の国が統制できないからしたがってまず国内物価を安定させ,為替を国内物価にちかづける戦後の方法の方がよりすぐれていると考える.
これと関連してケインズは金本位制度に復帰すべきかどうかの当面の問題に結論を与える.若干の人々はこの問題を,自動的本位制に帰るべきかまたは管理通貨をもつべきかというように受け取っている.しかし,ハロッドもいうように,問題はあきらかにイギリスの通貨が安定的な対外価値をもつように管理するか,それとも対外価値は動いても安定的な国内物価水準を維持できるように管理すべきかということであった.したがって,問題はむしろ金本位に帰り,安定的な対外価値すなわちドル平価を維持しようとすることによって,「我々の行動の自由を合衆国の連邦準備局に引き渡すことは早計である」と考えた点にある.なぜなら彼は金本位制に帰ることは,当時の片寄った金の分布状態からみて,英国の「物価水準の統制および信用循環の操作を放棄して合衆国の連邦準備局にまかす」ことになり,しかも後者は「セクト的な利益の圧力から」解放されていないと考えたからである.これと関連して最後の章で彼は英蘭銀行のとるべき政策をのべているが,これらの諸見解に共通してみられるものは,あきらかにハロッドもいうように,「社会主義と崩壊していく資本主義との間の中道を用意しようとする考え」であり,崩れ落ちたかつての大英帝国の指導的地位を何とかして維持したいとの願望であった.
1942年政権を離れていたロイド・ジョージは約100万の失業者を救済するための大規模な公共事業計画を発表し,ケインズもこれに賛意を表し,さらにそれを徹底的にすすめることを奨励した.ケインズはここではじめて,「私は国家を持ち出す.私は自由放任を放棄する―熱狂的にではなく,またそのすぐれた古い教義を侮蔑するからでもなく,我々がそれを好むと否とにかかわらず,それが成功するための諸条件が消え去ったからである」と叫ぶに至る(我々はこの点について後に述べる).だが,公共事業はこのような形では採用されず,また改革も行われなかった.イギリス資本主義を根底から揺り動かす事件が迫りつつあった.ハロッドは彼の提案が二つとも受け入れられなかった理由として,筋道に欠けたところのあったこと,すなわちケインズ自身が基本的な経済理論の言葉をもってする失業の原因の説明ができなかったことを挙げている.「一般理論」のビジョンが徐々に形成されていたこの過程のことを考えると,ケインズ自身もおそらくもどかしく思っていたことであろう.しかし,これらの諸提案は仮に失業の原因についての経済的な説明が行われたにしても,おそらく受け入れられなかったであろう.人々が現実の諸現象を依然として過渡的なもの,一時的なものと考えている限り不可能であったろう.その意味では 1926 年のゼネ・ストと 1929 年の大恐慌の後に「一般理論」が出版されたことがやはり必要なことであったのである.

ケインズの危機意識

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第一次大戦後の混乱と階級闘争の激化とを経て,1924 年代以降世界資本主義がいわゆる相対的安定期に入った.すなわち,第一に,アメリカ・イギリス・フランスがドイツ賠償の方法と規模について取り決めができた.第二に,イギリス・アメリカ・日本等々が,広大な市場である中国における勢力範囲の確立について取り決めをすることができた.最後に,先進資本主義国が「自国の」植民地の略奪と圧迫には相互に干渉しないことが取り決めできた.ところが,戦争によってその地位を失墜したイギリスは,変化した世界市場構造のもとで,再びかつての栄光を求めて伝統的経済政策による再建に入った.この結果は激しい階級闘争を伴い,英国資本主義はここに特有の危機に突入することになった.本章ではまず,第一節でケインズの経済学研究における基本的態度,とりわけ,いわゆる「自由放任主義の終焉」に関する彼の見解を明らかにし,ついで英国資本主義の危機の実態を,最後に,その過程で書かれた「貨幣論」について概説する.それによって,読者は「一般理論」生誕の一つの必然性をよみとることができるだろう.

「自由放任主義」との袂別

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1924 年 7 月 13 日マーシャルが亡くなった.ケインズはその追悼録を「エコノミック・ジャーナル」に書いたが,この機会に経済理論研究に対する彼の態度を要約しておくことは意義のないことではない.ことにこの時代は前にもみたように彼の提案が何か欠けたところがあることを示しつつあり,新しい理論的研究に入り込もうとしていたときであるから,この点について触れておくことはむしろ必要であろう.
シュムペーターはかつて,我々が後に触れるであろう「貨幣論」に対して,この書物にはいわばアングロ・サクソン流の不必要な独創性があること,別言すれば,ケインズが先人の労作,文献に充分な注意を払っていないというミルダールの言葉を上げている.おそらくケインズの文献を手にした人々は,特に我が国の経済学文献と比較して,一様にこのことを感ずるであろう.その点ハロッドの指摘はまことに興味深いものがある.すなわち彼はいう,「ケインズは,貨幣および景気循環の理論においてあれほど偉大な専門家でありながら,伝統的な価値観に全然基礎を置いていない,といわれてきている.私の回想はそのことを確証しない.私には彼のマーシャルに関する知識は非常に完全でかつ詳細であったように思われた.彼はそのころ,経済理論の内容は極めてわずかなものであって,それを正しくすることは困難であるけれども,有能な人ならば極めて早く習得することができる,という見解をとるのが常であった.彼は経済理論を広く読むことが必要であるとは考えていなかった.彼は,マーシャルに従って,その分野にはなさるべき仕事は最早あまり多くなく,経済学の進歩は理論を実際問題に応用することにあるだろうと信じていた.若い経済学徒に与えた彼の秘伝は,書物の形をとった膨大な量の現代の出版物はあまり気にしないで,マーシャルを完全に理解するとともに『タイムズ』誌を毎日注意深く読むようにということであった.彼は注意深く,ピグーならびに選ばれた小数者の筆になるものを読まなければならないと付け加えた」と.このハロッドの言葉はケインズの諸論著を理解していく上に一つの鍵を提供する.「経済学史」をかき,「十大経済学者」の評伝を書き,さらに膨大な「経済分析の歴史」を書いたシュムペーターの眼からみると,ケインズはアングロ=サクソン派の批難を免れない.事実,後述するディラードも述べているように,マルクスをゲゼルやダグラス少佐と並列するといった学史的評価の仕方には十大な一つのものの欠如を見出さざるをえない.(もっとも,後に見るように,「一般理論」がマルクス主義のリカード的基礎を打ち破るものとして考えられていたことを考えると,必ずしもそうはいえないのであるが)しかし,ケインズが「一般理論」にまでその思索を結集せざるをえなかった必然性が,逆に正に批難される「アングロ=サクソン的な不必要な独創性」を一つの重要な契機としていたことは,経済学研究者にとって一つの問題であることを否定するわけにはゆかない.経済学研究者の資格についての彼のつぎの言葉は,その意味で一読に値する.すなわち,彼はいう.「経済学の研究には非凡な (of an unusually high order) 特殊の天分が必要であるとは思われない.知的に考えるときには,哲学や純粋科学のより高級な部門に比較して非常に易しい学科ではなかろうか.……易しい学科であってしかも卓抜な (excel) 人が非常に少ないとは! このパラドックスはおそらく経済学の大家は種々の天分の類稀な組み合わせを持たねばならないという点にそのわけが見出されるであろう.……彼は相当の程度に (in some degree) 数学者・歴史家・政治家・哲学者でなければならない.彼は記号を理解しまた言葉で表現しなければならない.彼は特殊的なものを一般的な関係で観照し,抽象的なものと具体的なものとに同じ高さの思考をもって触れなければならない.彼はまた将来の目的のために過去の光に照らして現在を研究しなければならない.人間の性質または制度のいかなる部分も完全に彼の関心の外に置かれてはならない」と.この一文は本来マーシャルのために彼が捧げたものであり,光を求めるのではなく,果実を求める科学として経済学を考えてきたピグーおよびケインズ自身のしたがってまたケンブリッジの伝統でもあった.ただケインズは,彼らよりは一つの目的のためにもっと「政治家のように地上の近くにいる」ことによって彼らの一歩前へでたのである.
事実すでにみてきたように彼がそのなかに生き思考したイギリス資本主義は,人間の性質または制度のいかなる部分をも彼の関心の外におくことのできない状態であった.
その第一は,あきらかにさきにもみたように,ソヴィエト・ロシアの資本主義体制からの離脱および植民地の民族主義の登場であった.前者は完全に,そして後者においてはその抵抗の程度に応じて,これらの領域でのイギリス資本の特権のあらゆる拡張をはばんだ.ドップもいうように,「植民地の市場と投資領域とは,旧世界の資本主義経済を支える一要因としては,もはやその盛時を終えた」ようにみえた.
第二に,欧州最大の顧客ドイツは,猛烈なインフレーションを通じて再び脅威を感じされるものになりつつあった.
第三に,なによりもいまや英国に代わって世界資本主義体制の母国の地位にあったアメリカは,ヨーロッパでは依然として混乱が起こっているのに,戦後 14ヶ月の景気後退の後は, 1923-1924年のそれをのぞくと,景気上昇過程にあり,ことに 1925年から 1929年までは未曾有の好況が続くのである.
ところがあきらかに,かつての世界の指導者大英帝国では事態は全く灰色であった.先にもみたように,1921-1922年の不況を反映して,1922年には労働党が前回の総選挙の二倍以上の 142名の議席を得,ついで1923年末の総選挙ではさらに 191名を得て, 1924年1月,第一次労働党内閣が成立した.しかし依然として好転はできなかった.彼らが失業対策としての公共事業体機構結成の仕事にかかり,失業保険給付率と児童手当の増額,最低賃金保障のための農業賃金法,住宅補助金を給付する住宅法の制定,あるいはまた閉鎖されていたロシア市場再開のためのソヴィエト政府承認の動き,および賠償問題の合理的解決によってドイツとの貿易の正常化とドイツ商品の競争を排除しようとしてドーズ案の実施を軌道にのせようと努力していたにもかかわらず,事態はよくはならなかった.「これが保守党政府ならばまだしもであったのに」とペヴィンを嘆かせた労働運動への厳しい圧力もきかなかった. 1924年秋の総選挙には労働党内閣は完全に保守党に敗れた.しかし,失業の広汎な存在は,かつての栄光を失いつつあった自由党首ロイド・ジョージがケインズが主筆であり,H.D.ヘンダーソンが編集者を務めていた自由党機関紙「ネーション」を通じて,経済発展による失業救済を盛時綱領として呼びかけなければならない状態にあった.
このような状勢のなかで,ケインズの新しい見解は急速に発展せざるをえなかった.この年,「平和の経済的帰結」以来自覚されていた古い世界と新しい世界との分岐は,明確に「自由放任の終焉」(The end of Laissez-Faire) となってあらわれた.(この小冊子は実際には 1926年に出版されたが,ハロッドによればこれは 1924年のオックスフォード大学での講義,1926年のベルリン大学でのそれをもとにしているといわれるので,むしろここで扱うことにする.もっとも彼が 1924 年の公園で述べたことに比べると一層洗練されていると考えられるが,その点は問わないことにしよう.)ケインズはここでまず,「個人主義と自由主義」とが教会神権論にとって代わり,「なぜ我々が自由放任に有利な強い偏見を持つか」ということを説明するために,ロック,ヒューム,ルソー,ベンサム等々の所説を吟味し,引き続いてこれらの所説に権威を与えることになった経済学者の見解を展開しながら,この種の「自由放任論がよってたっていた形而上的あるいは一般的原則」の根底をあきらかにする.きわめて抽象的ではあるがこの自由放任論に対する彼の批判は次のようなものであった.すなわち「個人がその経済活動の分野で,慣例の『自然的自由』をもつということは真実ではない.人が所有するものまたは獲得するものに対して恒久的権利を与えるという「約定」はない.世界は個人的利益と社会的利益が常に一致するように,上から (From above) おさめられてはいない.このもとでも両者が現実的に一致するように管理されてはいない.個人利益を明らかにすると常に公共の利益になるように作用するということは,経済学の原理から引き出された正しい推論ではない.個人利益が一般に明らかにされるというも正しくはない.」と.もちろん,ここにはきわめて抽象的ではあれ,「一般理論」のビジョンは整い始めているが,見られるとおり説得力はない.しかし,こうして彼が「経済学者の主たる仕事」として,「政府の『なすべきこと』(Agenda)を『なすべからざること』(Non-agenda)から新しく区別することである」と考え,国家内の半自治的団体(例えば,英蘭銀行等)および半社会化された株式会社のなかに,資本主義の新しい形態を見出していることは本質的に重要な点である.なぜなら,彼は「現在の最大の経済的悪の多くは」個人の自由放任の結果であり,したがって「その救済策は個人の働きの外にある」から,この「国家がしなければ誰もしないでしまう決定」を国家の「なすべきこと」とし,それによって「集団的活動の作用による (by the agency of collective action) 現代資本主義の技術に関する可能な改善」を明確に自覚するようになるからである.従来の緒論にみられた中央銀行による通貨・信用の統制に加えて,あきらかに国家による投資の社会化の着想が結びついてきた.しかし,ハロッドと共にこの段階においては,「彼はまだ問題を徹底的に考え抜いてはいなかった」といわねばならない.

イギリス資本主義の危機とケインズの危機意識

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1925 年 4 月 29 日,ケインズの恐れていた金本位制復帰が,当時の大蔵大臣 W.チャーチルによって行われた.「英国現代史」の著者スペンダーはチャーチルが当時下院にて説明したこととして,彼は金本位制に復帰するにつれて,「大英国は大金本位制国としての国際的立場を回復するであろう,そして為替相場が変動をうけることがなくなるにつれ,取引は容易になり,信用はますます樹立されるであろうと考えた」といっている.たしかに,ポンド為替が 1924 年に比べると約一割騰貴し(すなわち,4.40 ドルから 4.80 ドルへ),したがって戦前価値に復帰した 1925 年は一つの時期ではあった.しかし,ケインズがつとに心配したように,この騰貴はイギリスの生産費も下がらず,アメリカの物価も騰貴しないのにみられたものであり,しかもイギリスは生産費切り下げのための積極的な努力をしてはいなかった.
ケインズはただちに筆をとり,「イヴニング・スタンダード」誌に三つの論文を発表した.のちに「チャーチル氏の経済的帰結」(The Economic Consequences of Mr. Churchill) として発表されたものがそれである.「貨幣改革論」におけるインフレーションとデフレーションの分析,為替安定と国内物価安定に関する主張を思い起こしていただければ,ここで彼が何を言おうとしたかはただちに明白である.すなわち,彼はここで通貨の対内価値を調整するなんらのプランなしに,対外価値を一割引き上げる結果,輸出産業,とりわけ石炭業の労働者の賃金切り下げを伴わざるをえないということ,あるいは賃金切り下げをおしつけることを可能ならしめるに十分な失業をつくりだすことになることを取り上げ,これに反対する.その反対の根拠は,あきらかに賃金切り下げに対して諸商品価格が遅れて下落する結果,労働者階級意外の諸階級,とりわけ利子生活者を不当に有利にさせる点にあった.(ケインズはここで,ポンド 10% 切り上げでほぼ 10 億ポンドが利子生活者以外のポケットから利子生活者のポケットに移されたことになると計算している)もっとも,ここで彼は「社会正義」をもちだしているけれども,何よりも彼が恐れていたことは,このような政策が労働組合の強烈な反撃に有利な口実を与えるという点であったことは否定できない.我々が「一般理論」を理解するときに忘れてはならない点は,この論文の中で,「自由放任と自由競争の仮設の上に展開されている一つの経済学の原理をこれらの仮設を急速に放棄しつつある社会に適用し続ける」ことの危険性を訴えていることである.
この年,ケンブリッジで開かれた自由党夏季大会において彼の朗読した論文「私は自由党員か」(Am I a Liberal?) ではこの点が一層明白になる.すなわち,彼はここで,「財務当局と英蘭銀行は,供給と需要の力の自由な働きによって,経済的調整がなわれうるし,またなされなければならぬという前提に基づく正統派の十九世紀の政策を踏襲している」といい,このような「貨幣の価値を変えてから,供給と需要の力によってその後の調整を計るに任せることができるという旧世界の政党の思想は,労働組合が無力で,経済上の習慣が障害もなしに,それどころか賞賛さえされて,進歩の大道を打ち破って進むことのできた五十年前百年以前の時代のものである.」と述べている.我々はこうして,自由放任と自由競争の仮設が急速に放棄されつつあるということは,労働組合が黙っていないほどの力になったということであり,その仮設に基づく経済学の原理を社会に適用することの危険というのは,もしそうしたことをすれば,労働組合の猛烈な反撃にあって英国社会そのものが危機に晒されるであろうという自覚であることを知る.この貨幣政策に対する彼の反対は,こうして「社会正義」の観点からではなくて,むしろ明白に「社会危機」の観点からなのである.
1926 年には実際に一つの危機が訪れた.それより先, 1925 年 4 月 29 日の金本位制復帰声明後,6 月には鉱山主協会は一ヶ月の予告で,現在の賃金協定を廃止,賃下げと労働時間延長を申し出た.もちろん炭鉱労働者はこの申し入れを拒否,7 月には全国の労働組合代表が,鉄道道路運輸労働者に石炭輸送ストを指令するに至った.ポールドウィン内閣は遂に降伏して,1926 年 3 月までは補助金 1000 万ポンドを交付して賃下げは取りやめ,その間サー・ハーバート・サミュエルを委員長とする石炭産業王立委員会を設置して調査をすると訳せねばならなかった.当時の大蔵大臣チャーチルは,「それは時機到来を待って有利に対決する」目的で,「危機引き伸ばし」を決定したの過ぎないと言明したといわれるが,事態は全くそのとおりになった.政府は自発的なスト破りの組織である労務供給維持団を支持しそれに訓練を与え,また 10人の閣僚級委員が全権力を握る独裁的な機関を作った.共産党の指導者 12 名は逮捕されてロンドン中央刑事裁判所の裁判にかけられた.これに対して労働組合は積極的な準備をせず,むしろ労働組合会議総評議会 (TUC) は,指導部内の右傾化と関連して動揺をはじめた.
約束の三月に委員会が提出した報告書は,補助金は廃止,労働時間 1 時間延長,賃金は 15 %切り下げという徹底したものであった.これには後退しつつあった TUC も立ち向かわざるをえなかった.英国史はじまって以来のゼネストがはじまった.なるほど,分裂のためにゼネストは 9 日間で終わり,炭鉱労働者だけ 6 ヶ月間闘って, 1926 年 11 月争議は一応終了した.しかし,あきらかにこれは一つの革命的な出来事であった.労働党およびロイド・ジョージとその少数の自由党員を除く下院のすべての人々は,このストライキを「非合法」的なものとし,これの徹底的な弾圧を主張した.この機会にアスキスにひきいられた自由党員がロイドジョージ一派と袂を分かち,そしてそれがそれ以降の自由党凋落の第一歩であったことはきわめて印象的なできごとであった.
1927年,政府は早速ゼネスト禁止のために,通称スト破りの大憲章と呼ばれる「労働争議ならびに労働組合法」が法令集に収録された.経済状態も多少持ち直したけれども依然として 100 万人以上の失業者と数十万の救貧授産所収容者が存在した.1924 年以来の一連の過程を経て,1927年には自由党は通常「自由党黄書」として知られる「イギリスの産業の将来」の仕事を進めていた.ケインズはこの委員会の積極的な委員であった.この「黄書」が 1928 年 1 月発行された.その後自由党は,「我々は失業を克服できる」という小冊子を発行したが,それらに対する保守党その他の批判に応えて,1929 年 5 月,ヘンダーソンと共に「ロイド・ジョージはそれをなしうるか?」(Can Lloyd George do It?, the Nation and Athenaeum, 1929, 44 p.) を発刊した.本書はそれぞれが二,三頁からなる 11 章で構成されており, 1929 年 3 月のロイド・ジョージの言明に対する弁護をするものであった.
問題の中心はあきらかに失業問題であった.ケインズはこの第三章「失業の事実」において,興味ある数字を挙げて説得しようとしている.すなわち,1924 年の生産調査で英国労働者の純年生産高の平均価格が 220 ポンドであり,1924 年 4 月の失業者は 114 万人であるから,失業による浪費は約 20 億ポンドに達し,それはアメリカからの借款の 2 倍,ドイツへの連合国の賠償総額を超えるという訳である.提案は国家による事業のための資金調達を中心とするものであったが,これは根本的には二重の反対に会った.一つはそれが社会主義をもたらすものだということであり,他は生産計画に金融するために国家が資金を調達すれば,それだけ普通産業に利用できる資金供給を減少させるから失業のなんらの解決にもならないという批判である.前者に対してはケインズは協力は反社会主義的週刊誌「インベスターズ・クロニクル・アンド・マニー・マーケット・レビュー」が自分達の主張が社会主義でないと保障してくれているというその論説をかかげ,第二の点については,次のように説明している.すなわち,第一に,貯蓄がフルに投資されていない場合,貯蓄の一部を失業基金に使うことは決して不合理ではない.第二に,多くの人は英蘭銀行による信用創造がインフレを招くというが,「インフレーションは,我々が戦時および戦後にやったようにすべての人々が既に雇用され,我々の貯蓄が全く使いつくされた後にも,さらに一層我々の活動を拡張とするときにのみ起こる」のであって,今はその時期ではない.したがって,通常産業の資金を全く削減しないで,信用創造による雇用増大が現在は可能である.最後に,厖大になりすぎた外国借款供与を削減することによって資金を獲得しうるというのがそれであった.彼が力点を置いたのは,第二,および第三の根拠であったが,なかんずく第二の点は,我々が「一般理論」の主張と思い合わせるとき,特に忘れてはならない点ではある.
この年,ケインズは自由党から立候補を薦められた.ケインズはこれを断ったけれども,鳴り物入りの宣伝にも拘わらず,1929年の春の総選挙において,自由党は完敗し,わずか 95 名しか当選しなかった.自由党と共に失業者九歳を宣伝した労働党はここにはじめて 287 名の議席を得て第一党になった.ケインズはこの年,トランスファー問題を巡って,オーリンとの有名な論争に入った.自由党の凋落はしかし,一つのより凶悪なものへの前触れにすぎなかった.この年大恐慌がイギリスにも波及した.失業者は 1929 年末には 120 万程度であったが,1930 年 4 月には 166 万, さらに年末には 250 万,1931 年には 300 万を超えるに至った. 1931 年 8 月,総選挙が行われたときには失業者は最高潮に達し,労働者階級は第二次労働党政府の実績と政策に失望して,選挙には保守党が勝った.その後,ボールドウィン保守党総裁とサミュエル自由党総裁の参加した挙国内閣の首相となった労働党のマクドナルドは,緊縮と増税による国際収支の均衡を図ったが成功せず,大英帝国に巨大な犠牲を強いた金本位制度は、1931年9月21日についに再び放棄されなければならなかった。その前年 1930 年12月、ついに「貨幣論」(Treatise on Money, 2.Vol)が出版された。

貨幣論

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五年間にわたって準備された本書について、ハロッドは、「ケインズの経済学者としての重要性と影響の完全な尺度を得ようとする将来の研究者は『貨幣論』を読まずしてはその目的を果たし得ないであろう」とまでいっている。確かに、ケインズ経済学の構造をみる上で本書の占める地位は大きい。しかし、またハロッドもいうように、その内容を要約しようとするすべての企ては、きわめて困難である。おそらくそのためにはまた、十分数章を準備する必要があるだろう。しかしわれわれはいまそれを断念しなければならない。
「貨幣論」は、あきらかに、「世界の福祉に対して非常に実際的な重要さをもつもの」との確信から、「貨幣的理論の基本的諸問題への斬新な接近方法を提唱し」たものであった。その斬新性はいったいどこにあったのであろうか。われわれは貨幣理論について有名な貨幣数量説の方程式  を知っている。この方程式はあきらかに、取引高または生産高( )が完全雇用水準で所与であり、流通速度( ) が制度的に与えられた定数である場合には、物価水準 ( ) はもっぱら貨幣存在量 ( ) によって変動することを示そうとしていた。ケインズがこれに対して新しくいおうとしたことは、物価水準が、   以外の経済諸量の変化によっても、すなわち利子率の変化によっても左右されるという点であった。もっとも、古典派の場合にあっても、利子率の変動が物価水準を左右することを否定するわけではない。しかしその場合においても市場利子率が変化することによって、銀行信用が変動し、それを通じて現金残高の存在量が変化することによって説明されたのであって、ケインズはこの点を顕在的に説明しようとした。このことはいわゆる基本方程式によって明白になる。
ケインズはここで、純国民所得を   とし、それは生産要因に対する支払所得 ( ) と意外の利潤との合計と定義した。支払所得 ( ) というのは、賃金・失業手当・利子・地代・企業者の正常利潤、規則的な独占利潤と定義され、さらに企業者の正常利潤は、企業者がそのときの収入率で諸生産要因と自由に新たな契約ができるとしても、その操業規模を変更しようとする動機を与えぬような報酬率として定義された。したがっていま、生産高を  、そして物価水準を   意外の利潤、(それは新投資   の市場価値と貯蓄   との差と定義された)を   とすれば、
 
となり、したがってまた
 
となる。ところが、ケインズはこの場合第一に古典派的な生産水準決定の理論を前提し、生産高   は所与と考えた。このことは、彼が「一般理論」の序文において「私のいわゆる『基本方程式』は生産高を所与と仮定したうえでの瞬間的描写であった」という有名な字句によってもあきらかである。第二にに、支払い所得   についてもケインズは十分の分析を行わなかった。この   はあきらかに有効需要をあらわしているのに、それがいかにして決まるかという有効需要の理論をかいていたことは、「一般理論」と「貨幣論」を区別する重要なひとつの論点であるといってよい。彼は   を生産要因の能率収入率と予備、それは時の経過とともに徐々にしか変わらない値をもつと考えた。こうして物価水準の決定因として、戦略変数   または   が登場する。すなわち、この   あるいは   は、市場利子率と自然利子率との差によって変動し、後者自然利子率が前者市場利子率より大ならば   はゼロより大、両者の等しい場合は  ゼロ、前者市場利子率が後者自然利子率より大なら   はゼロより小となると家庭されたから、物価変動の理論は二つの利子率の変動を軸とする投資の流れと貯蓄の流れとの相対的な動きによって説明されることになるのである。彼の物価水準の決定に関してより詳細にみるためには、さらに消費財物価水準   および生産財物価水準   n決定に関する彼の見解ものべなければならない。しかし、話の大綱をみるには以上の論理だけでも許されるであろうし、それによって物価水準の安定のために銀行の統制しうる重要な経済的変数、なかんずく主要なてことして利子率がクローズ・アップされるその仕方を理解することができたと思う。
ケインズが、利子率の戦略変数としての役割をいかに重視していたかは、「貨幣論」第 37 章国民的統制の問題第三節において、1930 年の景気沈滞を分析した際にもっとも明白にしめされている。すなわち、彼の考えでは、第一次大戦後 1925 年までにしばらく続いた高率の自然利子率は投資誘因の減退とともに当然下落するべきはずのものであった。ところが、金本位への一般的復帰、および賠償引渡しと戦債支払いのために市場利子率は異常な高水準に達した。アメリカだけはなんらの信用制限をしなかった。そこでヨーロッパの国々は、新投資によってどれだけ儲かるかということとは無関係に、彼らの切迫した負債の支払いのために資本を高い利子で借りなければならなかった。それに投機的借り手が加わり、この熱病を終止させようとする中央銀行の信用制限によって恐慌は爆発したと考えるのである。こうして恐慌の原因は、「誤って指導された貨幣政策の頑強な固守」の結果として把握された。したがって、ここから、英蘭銀行と連邦準備局とが、共同して短期利子率(市場利子率)を自然利子率(投資と貯蓄とを均衡させるような利子率)に見合う低水準に維持するような銀行利率政策と、公開市場政策をとるおとが要求されるのであり、一般に本書においてケインズは利子率操作による資本制経済の規制可能性についてきわめて楽観的であったといってよい。
もっとも、時がたつとともに、銀行利子率の操作を通じて投資を規制することの困難が自覚されてき、それと関連して多くの人々が基本方程式の批判に向かってきた。しかし、クラインのように、「基本方程式はこの書物の本質的な貢献ではなかった」というのはいい過ぎであるが、ハロッドの表現に従えば、本書の中心的な教義は、投資過程と貯蓄過程との区別に依存する。すなわち、ポイントはまさに次の点にあった。古典派経済学は、疑いもなく貯蓄は通常資本支出=投資され、したがって貯蓄は投資に等しいと考えていたが、ケインズはここで、資本支出を企てようとする決意と貯蓄をしようという決意がそれぞれ社会の別の階級によって行われ、両者はしたがって必ずしも等しくなるものではなく、投資が貯蓄よりも大なら、ブームまたはインフレーションが訪れ、逆の場合には不況と失業が現れるであろうことを主張した点にあった。このことから直ちに、正統派経済学者たちによって強調された節倹の美徳も、彼の場合には、いつでもそれが美徳になるものとして考えられなかったということもわかる。なぜなら、節倹が美徳たりうるのはインフレーションのはじめの段階だけであって、逆に不況と失業の存在する場合には、気前よく金を使うことのほうが社会的美徳になるからである。
しかし、この中心的な教義も、「一般理論」に見られる有効需要の理論が欠落していたために、理論的限界をもち、したがってまた説得力を欠かざるをえなかった。第二部でみるように、「一般理論」の一つの重要な槓杆は、貯蓄と投資とが,いろいろな雇用水準のもとで均衡しうることを論証した点にあった.ところが,「貨幣論」においては,以上のことから直接貯蓄,投資の均衡が物価安定条件として導き出される結果,単に貯蓄,投資の均衡が表面に浮かび上がることになり,それが雇用水準との明確な論理的関連をもっていない.
以上,われわれは二巻にわたって,諸定義,いろいろの理論的分析,歴史的回顧,最近の時期に関する統計的計算,および貨幣的統制に関する実践的提案等々が精密に行われている「貨幣論」のほんのわずかな部分の要約を行った.最近ケインズ経済学を研究しようとする場合に,「一般理論」からはじめる場合が多いことを考慮すると「彼の経済学に対する全貢献の最善の姿」といわれる「貨幣論」こそ,本書のでは逆に詳述すべきであったかもしれない.しかし,はじめに述べたように,それも許されない.

大不況とケインズ経済学の生誕

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 以上で我々は 1890 年代以降顕著に現れてきたイギリス資本主義の変貌とその後の危機,とりわけ 1920 年代後半を通じて,ケインズの「新しい経済学」的見解が生み出されていく過程を示してきた.ことに,1925 年金本位制度復帰以後の危機の激化が,「一般理論」の生誕に与えた衝撃は忘れられてはならない.しかし,「一般理論」は直接には大不況のなかで懐妊され,1934 年にはその原稿が出来上がった.本章においては大不況後の社会・経済的背景と,「一般理論」後の英国および第二次大戦前夜におけるケインズの動向について明らかにし,最後に戦後世界資本主義の構造変動について概観する.

「一般理論」の懐妊―「繁栄への道」―

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 1929 年,大恐慌が訪れた.
 彼は 1930 年 12 月の「ネーション」誌や 1931 年 1 月のラジオ放送で,この恐慌が「現代世界史の上にかつて起こった最悪のもの」であり,「現代史のなかで最も大きい経済的破局」であることを訴えていた.しかし,大恐慌の原因を前章でもみたように,誤った政策の結果として把握した彼は,この経済的破局をむしろ彼の主張の勝利の時期として把握した.1931 年 11 月に出版した「説得論文集」(Essays in Persuation, 376 p.) の序文はこのことをはっきりと示している.すなわち彼はいう,「我々が立っている移行点は国家的危機と呼ばれている.しかし,それは正確ではない.なぜなら,大英帝国にとって主たる危機は過ぎ去ったのである.‥‥ 1931 年の秋に我々は二つの瀑布の相代の静穏なプールに憩っているのである.重要な点は我々が選択の自由を再び得たということである.今日ヴェルサイユ条約とか戦前の金本位制とかデフレーション政策とかを信頼しているような英国人はほとんどいなくなっている.主として事柄の抵抗すべからざる圧迫によって,またただ第二次的には古い偏見が徐々に破壊されることによって,これらのものとの戦いに勝ったのである.しかし,大抵の人々はいまだに我々が次に何をしようとしているか,我々が再び獲得した選択の自由をいかに使おうとしているかということについて曖昧な考えしか持っていない.」と.
 ケインズにとって必要なことは,こうして人々に彼らの獲得した選択の自由をどのように使うべきかを,積極的に示すことであった.1931 年 7 月には,1929 年 11 月以降組織されていた「金融および産業委員会」(Committee on Finance and Industry, or the so-called Macmillan Committee) が有名な報告書を発表した.ケインズはその活動的な委員であったが,この報告書の提案にもかかわらず,前にのべたように,英国は 1931 年 9 月は金本位制を再び離脱して,事実上「この報告書は‥‥実施されないで投げ出されてしまった一個の歴史的文書となってしまった.」しかし,1931 年 6 月,すでにアメリカにわたりハリス基金によるシカゴ大学での講演「失業の経済学的分析」(An Economic analysis of Unemployment) において,人々への働きかけを開始した.この講演は,Ⅰ.世界の失業の始発的原因,Ⅱ.不況の抽象的分析,および Ⅲ.回復への道という三つの部分から成り立っていた.しかし,この講演で述べたことは,彼の「貨幣論」の論旨と全く同一のものであり,ブームとスランプを,企業者の売上高と生産費との差である利潤の変動から説明しようとするものであった.すなわち,利潤の減少が産出高の減少,したがって雇用の減少をもたらし,逆は逆であるという説明に止まっていた.したがって,シュプラーギュウ博士の物価引下げ政策に反対して,利潤を増大させ,投資を増大させるような「価格の引き上げが私の政策の本質的構成部分である」といいながら,なぜ物価引下げに反対するかは,(1)それが,「社会秩序をその根底から動揺させる」という社会的安定性の観点,(2)社会正義の観点という彼の「貨幣改革論」以来の根拠に,失業を救済するためには投資を,したがって利潤を増大させねばならないという,(3)技術的観点からのべたに止まって,のちに「繁栄への道」でみるような観点は明白になっていなかった.ただ彼がその回復への道を発見しようとして,(1)貸し手と借り手の双方での自信の回復を与えること,(2)投資を促進するための十分な長期利子率の切り下げ,とならんで,(3)三番目に 1924 年以来の主張であった政府および他の公共当局による新建設計画の必要性を力説したことだけはつけ加えておかねばならない.
 1932 年にイギリスに回復のかすかな徴候があったが,世界は依然として不況のさなかにあった.それは単なる不況ではなくてきわめて大きな危機を伴っていた.スペインでは 1930 年 1 月の労働攻勢が転じて革命的運動になり,1931 年 4 月には王政が倒れてスペイン共和国が生まれた.ドイツでも 1930 年 9 月の総選挙で共産党は 490 万票を得,この政治的危機にとってかわろうとして,1930 年から 1932 年にかけて悪夢の前触れ,ナチスが進出しており,ついに 1933 年 1 月にヒトラーは首相になった.
 イギリスにとっても事態は深刻であった.1929 年 2 月からインドでは大規模な反英デモが起こり,1929 年の 12 月にはガンジーの首唱により国民会議派は独立を決議,その後事態は収拾されず,1932 年ついにガンジー以下の大規模な逮捕をもって弾圧しなければならなくなっていんた.1933 年にはインド共産党も創立された.一方,社会主義国ソヴィエトでは,1928 年来の第一次五ヵ年計画が成功裡に進み,1932 年には資本主義の工業生産の低下にもかかわらず,1929 年を基準として 85% の生産上昇をみつつあった.
 アメリカでは危機の深まりのなかで 1932 年秋,ルーズベルトが大統領に選ばれ,ニューディール政策が準備されつつあったが,イギリスはこのような危機のなかで,1932 年有名なオタワ会議を開き,その支配体制の強化を企図した.
 ケインズはこのような時期に,オタワ会議の結果に失望し,1933 年中にロンドンで開かれるはずの国際経済会議に期待して,有名な論文「繁栄への道」(The Means to Prosperity) を 1933 年を 3 月 13 日から 16 日にわたって「タイムズ」紙上に連載した.資本主義体制の全面的崩壊の危機を前にして終始失業救済を説いてきた彼の提案は,これによって一歩前進した.それは,「平和の経済的帰結」以来欠けていた何かが明白な形をとる第一歩であった.提案は,(1)行動のための議論,(2)価格水準の引き上げ,(3)世界の課題,および (4) 新通貨の発行の四つの部分から成っていた.
 ケインズはまず繁栄を回復するための手段としての国内での資本開発計画に対する二つの反対論への批判から出発する.すなわち,二つの反対論とは,(1)一定量の支出によって創られる雇用が不十分ある,というものと,(2)このような計画が必要とする補助金が国家および地方予算に重圧を加える,ということであった.ケインズはこの第一の議論に対して,「支払われた附加的資金および他の所得が附加的購買に使われると,それから今度はさらに一層の雇用を引き起こす」ことを示し,さらに転じて雇用の無限連鎖的拡大の危険性に対しては,1931 年 6 月「エコノミック・ジャーナル」誌上の R.T.カーンの有名な論文の名をあげて,はじめてここに「乗数」(multiplier) の概念をもちだし,いわゆる「洩れ」(leakage) に言及する.また第二の議論に対しては,具体例を示しつつ,現実に失業手当として支払われている,その社会の借金による支出 (loan-expenditure) のうち,それが労働者を雇用しうる数だけ失業手当を減らしうること,さらに乗数効果によりあらたにつくりだされた所得のうち,政府が所得税を徴収した分だけ実際の支出が縮小することを示して,「国民所得の増加による以外には,同じことであるが雇用の増大による以外には予算均衡の可能性がない」ことを,むしろ積極的に主張する.
 ついで彼は,前に述べたオタワ会議が供給制限による価格引き上げを決定したことに対して,「統制することのできる地位にある商品の供給を制限することは,世界の他の国々を犠牲にするものではあるが,ある一国にとっては利益になるかもしれない」と,事実上英帝国による植民地の人民の収奪を容認しつつ,しかしそれが社会全体としては,所得を,したがって需要を減少せしめ,したがってまた,「失業を減少する手段になるどころか,むしろ存在する失業をより均等に配分する方法にしかすぎない」と非難する.なぜなら,彼はそこで,物価上昇と雇用増大のためには社会の「総消費力」(aggregate spending power) の増大以外にないと考えていたからである.では総消費力の上昇をもたらすものはなにか.彼はそれは,「(1)社会の借金による支出を増加するか,あるいは (2)国際収支の改善により年々の支出額のうち国内生産者の手に再び入る所得部分の増大によるか」の二つの方法しかないと考える.しかも,第二の一国の国際収支の改善は,それだけ他国の悪化を意味するから,したがって,「全世界にわたって借金による支出を増加されること以外には世界物価を引き上げる有効な手段はない」という認識に到達する.
 しかしそのためにはいくつかの準備的段階がある.「何よりも第一に必要なことは,銀行信用が低廉でしかも豊富でなければならない」ということであるが,しかし,「これは各国の中央銀行が国際貨幣の適当な準備を持たなければならぬという懸念から自由である場合にのみ可能である」ところで,現実にアメリカを除くとすべての国々がこの自由を持っていない.そこで,準備保有の増加を可能にするいくつかの場合をあげながら,しかも,「景気回復の初期の局面では,短期の銀行信用によって安全に融資されうるようなローン・イクスペンディチュアはそれほど存在しない.銀行信用の役割は景気回復が確定的に始まった後に,運転資本の復興に金融することである」として,「したがって,長期利子率が相当程度健全なすべての借り手にとって低率であるという第二段階が成立していなければならない」と考える.このようなものとして中央銀行の公開市場政策および大蔵省の公債借款計画があげられる.
 「しかしながら第三段階が残っている.」彼は第二段階でも私企業が率先して十分な規模の新しいローン・イクスペンディチュアをするとは考えない.なぜなら「営利企業は利潤が再び回復するまでは(規模を)拡大しようとしないだろう」から.こうして彼は何よりも公共当局のイニシアティブの必要性を説く.ただその場合彼が次のようにいっていることは,あとでケインズ理論と政策との結びつきを考える際にも興味の深いことである.すなわち,「ここまでの主張に従ってきた皮肉家は,戦争以外にはこの主たるスランプを終結させるものはありえないと結論する.なぜなら,これまでのところ戦争のみが政府が尊重すべきものと考えた大規模な政府支出の唯一の対象であったからである」と.そこで彼は,平和なときには,彼らが臆病になり,あまりに用心深くなり,政府支出を,「さもなければ浪費されてしまうであろう社会の剰余資源を有益な資本資産に転化することの連鎖として」考えられないことを非難している.
 こうして第四の段階,すなわち世界物価を引き上げるための提案が生まれる.ここでケインズが望もうとしていることは,(1)可能性はないがもっとも強力な金融国が諸外国に直接借款を与えること,(2)強力な金融国が国内で物価引き上げを行うことであり,しかもそれが,(3)一国だけではなく,「一般的行動はいつでも危険を伴うものではない」という観点から,すべての国々が物価引き上げ政策を行うことであった.
 ケインズのこの提案は,新しい国際機関による 50 億ドルを最高限度とする金証券(Gold-note)の発行と,それを 1928 年の世界各国の金分布に比例して(ただし一国について 4 億 5 千万ドルを限度として)分配するものとなって現れた.彼が,当時の有効需要不足の一因を金の偏在にもとめていたことは,この提案からでも理解できるが,しかしその場合,第一の方法の典型的な採用,すなわち,最も強力な金保有国であるアメリカによる直接融資ではなく,このような新証券発行の方法をとったことは,アメリカの世界支配を排して,イギリスの経済的地位の保全を狙ったものであることは否定できないことであった.その意味で,ケインズがかつて自己の保護貿易論に対するロビンズの批判に応えて,「私の実践的目標は,国際的な賃金切り下げ競争と,それがもたらすべき社会的競争を除去すること,我が国のみが一般的利益のために使いうる世界の金融的指導者の位を取り戻させること」にあるといっていることを,ここに挙げておくことは無意味ではない.
この提案は実際には採用されなかったけれども.しかし,「繁栄への道」は,あきらかに「一般理論」の骨子の成立を反映している.事実ハロッドやクラインのように,ケンブリッジの内部では,この年にいわゆる「ケインズ革命」が起こった. 1934 年それは「一般理論」の初稿ができあがった年であった.

「一般理論」の生誕

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 「雇用,利子および貨幣の一般理論」(The General Theory of Employment, Interest, and Money.)は,1936 年に出版された. 1934 年に初稿ができてからでも 2 年間かかっているが,ハロッドによると,それは彼が「自分の心のなかで『一般理論』が考え方に革命をもたらすであろうごいうことを固く信じていた」こと,「しかし,そうするためには,彼は彼の立場を絶対的な明快さをもって叙述しなければならなかった.彼はあらゆる反対論に耳を傾けなければならなかった」からであった.「一般理論」が失業の原因に関する伝統的な分析に対する原理的批判の書物であったこと,それと同時に経済学の一般理論を貨幣理論と再統合するものであったことは,あまりにも有名である.しかし,その内容については,第二部において詳細に取り扱うことにしているし,またその限界については第三部で吟味することにしているのでここでは一切触れないことにする.
 ケインズの忠実な弟子ハロッドが「アダム・スミスやリカードと同列に位するように思う」と述べたこの「一般理論」の著者は,暗雲の漂うのをみて,対外政策についても論評を掲げながら,1937 年には,「タイムズ」紙に 3 日間にわたって,「どうして不況をさけるか」(How to Avoid a Slump?)という論文を書いた.この論文はあきらかに,景気の回復に伴って,「総需要を一層大きくするよりも,正しく配分された需要が必要である」という認識から,それに対応した政策を見出そうとするものであった.すなわち,彼は繁栄期の消費性向が低いという事実から,所得の安定的増大のためにはこれを補うために投資が「新しい比率」で行われる必要があると考えた.ところが従来の見解は高利子率を回復の健全な,または自然な結果としてむしろ歓迎していた.ケインズはこれに対して,高利子率は投資を阻害し,したがって投資の正しい比率での配分を阻害し,究極的にはさらに不況を引き起こすことになるとの立場で,高価な貨幣(dear money) を排し,公共投資局のような機関で,不況がやってきたときの準備をしておくべきだと主張した.実際この年の終わりに不況がやってきた.しかし,1931 年二本の満州侵略の開始とともに,第二次大戦の前奏曲はかなでられていた.イギリスでも 1936 年には,軍事費は 1930 年の倍,即ち 1 億 7800 万ポンドになり,防衛対策も準備されつつった.空襲警戒本部ができ,防衛協力省が新設され,教育発注の形態として軍需品の下請工場への分担が行われていた.
 1937 年 11 月には,英国政府は,英・仏・伊・独による反ソ的なヨーロッパ同盟を提案,ナチスは翌 1938 年 3 月にはオーストリア進入を開始した.1938 年 9 月,イギリスはいわゆるミュンヒェン協定によって,独・伊・仏と共に,当のチェコを交えず,ズデーデン地方のドイツ合併を決定した.これは明らかにナチスに対する「宥和」政策であったが,しかしこの「宥和」に勢いを得た彼等は,1939 年 3 月,チェコスロバキア全土を侵略,1939 年 5 月には独伊軍事協定を結び,さらに 1939 年 9 月 1 日にはポーランド侵攻戦争を始めた.1939 年 9 月 3 日,新しい全面戦争の基はきっておとされた.
ケインズは 1937 年度,結局は彼の命取りになった重い心臓病になったが,戦争の開始と共に活躍を開始した.彼は早速,ヒトラーが倒された後,ドイツが共産主義化するのを防ぐため,未曾有に寛大な条件で合衆国によって援助されるべき復興資金の考えを含む覚書を起案したといわれる(戦後のアメリカの対外政策を考慮すると,これはきわめて意味深長な提案であった).1940 年には有名な「戦費調達論」(How to pay or the War)が小冊子の形で出版された.戦費調達の方法については,彼はすでに 1930 年代に眼を向け始めており,1939 年 11 月 14 日および 15 日にはこの小冊子の基礎になる「強制貯蓄」という論文が「タイムズ」誌に発表されている.本書はあきらかに「戦争の要請と私的消費の要求とをどうして最もうまく宥和させるか」ということを明らかにしようとしたものであった.
 一般に戦費を調達するのには,三つの方法が考えられる.第一は,十分なる直接課税であり,第二はインフレーションであり,そして第三は国債の発行である.しかし第一の穂方は国民なかんずく賃金労働者の賃上げ要求の基礎となるばかりでなく重大な政治的困難を内包している.第二の方法は無秩序かつ不公平であり依然として第一の困難をも含んでいる.第三の方法は,なるほど強制貯蓄ではあるが,「繰り延べ支払い」(deferred pay) という形でその購入者にとって一見自発的貯蓄と考えられ,したがってもっとも政治的困難を含むことの少ないもののごとく現象する.なぜなら,それはあとで返済するという誓約とちきかえになされる事実上の課税でありながら,個々の国債購入者にとっては自発的な貯蓄に近いものとして反英するからである.ケインズは本書においてこの第三の方法を提唱する.しかも,巧妙にも一種の「社会改革者」的宣伝を含めて.
 すなわち,戦時経済の特質は,消費財の生産したがって私的消費を一定に抑えた上での,できる限りの生産上昇なかんずく軍需生産の増大である.ところが,いま,仮に賃金率が不変でも,増産のため時間延長,完全雇用にともなって総賃金額は増大せざるをえず,したがってこの増大した総賃金額をそのまま消費支出に向ける限り,物価騰貴とインフレ過程の展開をもたらす.しかも物価騰貴は資本家階級を富ますだけであって,もしその資本家階級が国債を購入するなら,戦争が終わったとき彼らはインフレ利得によって購入しえた国債の増加額だけ富裕になる.あきらかに「これでは労働者に報いることはできない.」そこで彼は,「さもなければ資本家に帰属してしまうことになるであろう将来についての請求権の分け前を労働者に与えることによって彼に報いることができる」と考える.「かくして戦争が終わったとき,新しく創造された国債の(繰り延べ支払い請求権の形における)主たる所有者は,利潤獲得者ではなく,賃金所得者であるということになるだろう.このようにして,戦争経済の円滑な進行にも最も資し得る道筋によって,社会改革者達が夢見てきた財産の一層広汎な散布が保障され得ることになる.これはケインズ的な性質をもった発明であって,我々は彼がその唱導に彼の熱情のすべてを捧げたことを不思議に思う必要はない」というハロッドの言葉はこの間の事情を適切に述べている.
 我々は,第三部において,一般にケインズの「労働者の友」的態度について詳細な考察を加える.しかし,ここでは少なくとも,次の点だけは述べておこう.すなわち,ケインズ自身も述べているように,当時英国人口の 88 パーセントは週給 5 ポンドまたはそれ以下の賃金労働者であり,彼らの総所得は,全英国所得の 60 パーセントを占めるものであった以上,ケインズ的方法を成功させるためには,労働者階級の協力を求めることが必須の条件であったこと,この「社会改革案」はそのような協力にうってつけの政治的論理であったこと,またケインズのこの社会改革を手放しに宣伝しているハロッド自身も述べているように,このように高利子率によるインフレ抑圧ではなく,市場に流動債券を氾濫させ政府利子率を低水準に維持することによって,政府の国債利子負担はきわめて小額ですんだこと,等々がこれである.
 ともあれ,第二次世界大戦は,イギリス資本主義に決定的な作用をあたえつつあった.根本的な作用は,彼が「戦費調達論」でとりあげた戦争経済の負担であった.アメリカからの武器貸与法と一部軍事費の殖民日への転嫁にもかかわらず,(ちなみに,イギリスが戦時中の他の国からうけた債務は 37 億 5000 万ポンドにのぼり,(そのうち大部分は自治領,植民地からであったといわれる)軍事上の消費はイギリス経済には過重な負担であった.ケインズの最後の努力および大戦後の世界経済の動向を把握するためにも,次にこの点についてもう少し詳細に考察することが必要であろう.

プレトン・ウッズ前後

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 イギリスの戦費調達が単なる社会改革でなかったことは,1940 年代の秋には「対外金融上ほんとにぞっとするような問題に直面した」ことにも現れている.イギリスは前節でみたような巨大な債務を背負い,おまけに国内にあるすべてのアメリカおよびカナダの有価証券を国庫に集め,それの大部分をアメリカに売り渡し,アメリカの軍需品供給に対する支払いにあてる以外には軍事力を維持することができなくなっていた.ケインズは忙しくアメリカと交渉し,武器貸与協定の準備にこぎつけた.1941 年の秋には,ケインズは戦争が終わったときのイギリスの国際収支の困難を意識していた.一般に人々は,クレディットによって物資を得ると同時に,あらゆる方面で厳格な統制を適当に修正することによって維持することが必要だと考えていた.ケインズは明らかにそれに反対であった.彼の中には「貨幣改革論」から「繁栄の道」に至る一貫した精神が流れていた.貨幣問題の国際的処理こそ事態解決の唯一の正当な処方箋というのがそれである.ハロッドによると,彼は 1941 年秋に,アメリカとの協調,世界銀行の設立等々の爆弾的覚書をケインズに提出したといわれるが,ケインズはそれに先立って国際「清算同盟」の草案を書いた.ハロッドの覚書はそれを推進させるのに役立ったようである.ケインズのそれ以後彼の死に至るまでの数年間は,イギリス資本主義を経済戦争の傷跡,とりわけ,対米借款問題の解決とこの国際収支問題の解決とに集中した.しかし, 1944 年 7 月に締結された,ブレトン・ウッズ協定自身が端的に示しているように,困難はイギリス資本主義の衰退の中にあった.ケインズが最後の力を出して勝利しようとした清算同盟案が,いわゆるホワイト案によって事実上否定されたことは,その意味できわれて印象的である.
 すなわち,ケインズ案は一国における国際収支の不均衡が起こった場合,それが為替切り下げその他によって他の近隣諸国に及ぼす不均衡を阻止するために,非善隣的な制限を緩和するのに十分な信頼を各国政府に与えうるほどの基金(約 250 億ドル)をもち,しかもいかなる額の創業拠金も不必要であって,出資割り当て額と投票権とは外国貿易額に関連させ,それによって,合衆国に匹敵する地位を確保しようとするものであった.ところが,これに対して連合国ならびに提携国為替安定基金案(Proposals for Assosiated Nations Stabilization Fund) としてのホワイト案は,基金はただ 50 億ドル,創業のためには金の拠出と担保の預託を必要とし,出資割り当て額と投票権は,貿易額のみならず金保有額ならびに国民所得に依存するということになり,完全に両国の経済力の差,戦後資本主義の支配権を繁栄していた.
 イギリスの衰退をもた5らしたものは,単に戦争経済的負担による弱体化だけではない.戦中,戦後における自治領諸国における工業の発展,植民地における革命,解放運動の高まり,それにこのブレトン・ウッズ協定にあらわれていたようなアメリカの政策でもあった.とりわけ,中国・東欧人民民主主義諸国が資本主義から離脱し,世界市場が完全に二つの市場に分裂したことも忘れてはならない.
 こうして,第二次世界大戦後,世界資本主義の指導権は完全に雨リアに移った.それとともに,本来国際的性格を必要としていたケインズ的貨幣・財政政策が世界資本主義の名実ともに指導者となったアメリカにおいて急速に整備され,それを通じて今日ほとんどすべての資本主義の経済的指導原理として展開されつつあることは,きわれて興味深いものがある.ケインズは大英帝国をかつての地位に帰すことは成功できなかったけれども,アメリカを通じて資本主義の世界的な維持と安定の武器として利用されることとなったのである.そのようなものとしてのケインズ経済学の構造,その骨子とその展開についてみるためには,第二部に進まなければならないし,その性格については第三部を詳読していただくことが必要である.

ケインズ経済学の構造

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ケインズ経済学の骨子

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 我々がケインズ経済学と呼ぶ場合,ケインズの「一般理論」および,それに基礎を置いて展開された 1936 年以降現在に至るまでの,いわゆるポスト・ケインジアン(Post Keynesian) の諸理論をも含む.しかし,この章においてはケインズの「一般理論」の骨子を述べることにする.その部分の充分な理解は,ポスト・ケインジアンの諸理論,ケインズ的諸政策の性格を知り,これを批判していく上に必須である.ポスト・ケインジアンの諸理論は第二章で,それらを含めた批判は第三部で述べる.

従来の理論に対するケインズの批判―セイの法則批判―

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 総雇用量がいかにして決定されるかについてのケインズ以前の支配的な理論は次のように要約される.企業は実質賃金率の高さが与えられれば,利潤を極大ならしめるように,これに対応して労働需要量を決定する.その場合,労働需要量は実質賃金率の高さと逆の動きをする.これを図示すれば,実質賃金率と労働需要量の関係は第一図 A 線のようになる.一方,労働者は実質賃金率が与えられれば,主観的剰余を極大ならしめるように,これに対応して労働供給量を決定する.その場合,労働供給量は実質賃金率と同方向の動きをする.これを図示すれば,実質賃金率と労働供給量の関係は第一図 B 線のようになる.今第一図で実質賃金率が   であったとすれば,この実質賃金率で労働者が供給しようとする労働量は  ,企業が需要しようとする量はそれより小さな   であるから,現実の雇用量は   となり,   との差額だけは,現行の実質賃金率のもとで労働しようとしているにもかかわらず失業しなくてはならぬという意味で「非自発的失業」となる.ところが,労働市場で競争がなんら制限されていなければ,失業者は実質賃金の切り下げを甘受し,実質賃金率は   から   まで下落する.そこでは実質賃金率   で供給しようとする労働量と需要量が一致し,「非自発的失業」は存在しない.このようにして,労働市場で競争が制限されてさえいなければ,市場の駆け引きにより実質賃金率は「完全雇用」を実現する水準におちつき,総雇用量は完全雇用水準で決まる.
 だから,従来の理論によれば,完全雇用の実現が阻まれ,非自発的失業が存在するのは労働市場において,失業者がいるにも拘わらず実質賃金の高水準を固執しようとする労働者の結束があるからだということになる.したがって,失業をなくする主要な政策はこのような労働者の結束を消滅させることである.このような理論に対してケインズは次のように反駁する.仮に労働者の結束を解消させ労働市場の競争を完全にしたとしても,完全雇用は実現するとは限らない.また,労働者の結束によって高水準に維持できるのは貨幣賃金率だけであって,実質賃金率は物価の動きにも影響されるものであるから,一定水準の実質賃金率を維持することはできない.だから,結束を解消したとしても,必ずしも完全雇用は実現せず,また労働者の結束が存在したとしても完全雇用が不可能なわけではない.完全雇用の成否を決めるのは,労働市場の競争の程度にあるのではなく,他の諸要因である.このように,ケインズは失業の原因を労働者の態度に求める従来の理論に対して,一見,「労働者の友」として,反論する.ケインズが果たして真に「労働者の友」であるかどうかは第三部であきらかになるであろう.
 労働者が失業が存在する場合に高い実質賃金率を固執せず,その切り下げに応じたとしても,完全雇用が実現するとは限りらないとケインズが主張する根拠はこうである.完全雇用に応じる労働量を企業が需要するのは,第一図でいえば,実質賃金率が   という低い水準である場合に限られる.ところが,実質賃金率というのは,
実質賃金率 = 貨幣賃金率/価格
という関係にあるから,実質賃金率が低いということは,生産物の価格が貨幣賃金率に比して高いということでる.だから,企業が完全雇用に応じる労働量を需要するのは,それによって生産された生産物が,貨幣賃金率に比して相当高い価格で販売しきれる場合である.そころで,このような価格で完全雇用に応じる労働量によって生産される生産物をことごとく購買できるような需要が存在する保証はどこにあるか.このような需要が存在しない場合には,労働者がいかに低い実質賃金率を受け入れるという態度であっても,生産物価格は貨幣賃金率に比して低くなり,したがって実質賃金率は高水準に止まり,企業の労働需要量は供給量を下回ることになる.このようにして,ケインズは完全雇用の成否は労働市場の競争条件に如何ではなく,生産物に対する需要の如何であると考える.
 このような観点からみるとき,従来の理論は,労働者さえ低い実質賃金率を受け入れる態度でありさえすれば,完全雇用は実現され,そこで生産される生産物を企業が満足しうる貨幣賃金率に比しての高価格で販売し切るだけの需要は「つねに」存在するという主張である.このような主張が成立するためには,セイの法則を前提にしなければならないとして,ケインズはセイの法則を批判することによって,従来の理論を攻撃する.セイの法則というのは,生産水準,したがって雇用量がどのように大きくなろうとも,全生産物を企業が満足しうる価格で購買する需要が「必ず」生じてくるという命題である.もし,この命題が真であれば,需要不足からくる失業はありえない.しかし,この命題は誤りである.この命題が正しいためには,社会の人々の一部が貯蓄しようとする額と,他の一部が新投資しようとする額が「常に」等しくなくてはならない.しかし,このことは成り立たない.一般には貯蓄する人々と新投資を行う人々とは別々であり,全く違った行動である.貯蓄は新投資を行うためになされるとは限らず,現金を保有するために行われるかもしれない.新投資も社会の貯蓄総計を考えて,それに等しくなるように行われるものではない.このようにして,セイの法則は成立せず,従って,生産物に対する需要の有無を不問に付した従来の雇用論は誤りであることになる.
 以上のように、ケインズは従来の理論の大前提としてのセイの法則を取り出し、これを批判することによって、総雇用量の決定には生産物に対する需要の大きさが主要因であるという見解を対置した。

生産物に対する需要量が総雇用量,実質賃金を決定する―総供給函数―

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 前節で述べたように、ケインズは一定の雇用量が企業にとって需要されるためには、それによって生産される生産物が企業の満足しうる価格で販売されるだけの需要がなくてはならぬと考えた。
 逆にいえば、生産物に対する総需要量と、これに対応して企業が需要する総雇用量との関連を確定しておくことは絶対に必要となる。この役割を果たすのが「一般理論」での「総供給関数」である。
 いままでのケインズ解説書では「総供給関数」に殆どふれないものが多く、ケインズ自身も多くを語っていない。しかし本稿ケインズ経済学の批判で分かるように、ケインズ理論の性格を批判的にみるためには、「総供給関数」は重要な意味を持つ.
 各種生産物に対する需要総計を考える場合、例えば鉄   トン、肥料   トン、米   石を合計するということは意味をなさない。だから、社会の総需要量と言う場合、各種生産物に対する需要価額の合計を考える.ところでいま社会の総需要価額が 10 兆円であるとき、各企業の需要する雇用総計はいくばくであるかという問題を考える.この問題は次の三つの理由で不確実であるとケインズは考える。(1) 総需要価額が 10 兆円であってもこれが各種生産物にいかに分布するかによって、総雇用量は変わる。(2)総需要価額が 10 兆円で変わらなくても貨幣賃金率が変化すれば総雇用量は変わる。(3)総需要価額が 10 兆円であるといっても各企業内での自家消費の程度が変われば、総需要量は変化する。これらの三つの事情を考慮に入れることによって、ケインズは確定的な「総供給関数」を導こうとする.
 ケインズは総需要価額が各種生産物に分布する仕方は、ほぼ一定していると仮定することによって、第一の事情を処置する.即ち総需要価額 10 兆円から 20 兆円になれば、各生産物に対する需要はいずれもほぼ 2 倍になると仮定する。この仮定の社会的性格はケインズ経済学の批判で明らかになる.
 ケインズは、従来の理論と同様に、企業は実質賃金率の高さに応じて雇用量を決定すると考えている.だから、企業は生産物が単に何円の価格で販売されるかが問題ではなく、貨幣賃金率に比していくらの価格で売られるかが関心事である。即ち、貨幣賃金率が時間当たり 50 円のとき、その生産物が 100 円の価格で売れるよりも、賃金率が 5 円のときに、20 円で売れる方が望ましい.そこで同様に考えると、企業にとって総需要 10 兆円の方が 2 兆円よりつねに望ましく従って雇用増大を誘発する、とは限らない.もし貨幣賃金率が前者では 50 円、後者では 5 円であれば、2 兆円の場合の方が賃金率に比して価格はより高く、実質賃金率は低い.これらの事情を考慮しようとすれば、総需要価額を貨幣賃金率で除した大きさを考えればよい.この大きさをケインズは「労働単価」で測った総需要価額と呼ぶ.このようにケインズは総需要価額を労働単価で測ることによって第二の事情を処理する。
第三にあげた事情はこうである.今 A, B 二種の生産物があり、A を一単位生産するには B が   単位必要で,B を一単位生産するには A が   単位必要だとする.



生産物に対する需要量を決定する諸要因―総需要函数―

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総雇用量を決定する五つの要因

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ケインズ経済学の展開

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ケインズ経済学の諸適用

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ケインズ経済学への内在的批判とその補修

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ケインズ経済学の批判

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