ゲームプログラミング/バランス調整
現在の版の著者達は、ゲーム戦闘の調整の経験はないので、現状では本ページの内容は調べ物としては役立ちません。経験があり、かつ人間性も良好な人の協力をお待ちしています。
本ページの目的
編集本科目『ゲームプログラミング』は、科目名に「プログラミング」とあるとおり、ゲームクリエイターのための教材ではなくプログラマーのための教材です。
従って、話題がプログラミング的な技術的な話題に片寄っています。一般のゲームクリエイターを目指す人には、本書のバランス調整の記述は到底、役立ちません。
プログラマーが、とりあえず何か趣味でゲームを作る際、バランス調整についての調べ物の手間を少なくするためだけの目的の教科書です。
……と、前編集者Suj. は書いたんだけど、その割にはこの人物の私欲を満たすためだけの駄文が結構くどくど書かれてる気がするんだけど…
気のせいか?まあまだちゃんと読んでないしね、熱でもあるのカナ? コロナか^^?
バランス調整
編集ゲームには難易度というものがあるが、そのゲームの面白さのため、あるいは商品としての購買力アップのため、調整し、最適値を見出す必要があるだろう。敵の強さや主人公の強さ、それらを調整し、最適値を見出すための調査、テストプレイなどが必要だ。
より普遍的に、バグ修正、操作性の改善、仕様実装の更新、そして今書いたバランス調整、ゲームを面白く、評価を高めるための様々な改善を、一般にチューニングと呼んでいる。
英語では、難易度の調整のことを「レベルデザイン」と言う。このレベルとは、高低差の意味で、欧米での昔の3Dゲームにおける、マップの高低差を意図しているらしい。このレベルを調整するツールをレベルエディタというが、このマップの高低差の調整で難易度が変わるので、しだいにレベルデザインが難易度の調整の意味になっていったという[1]。
難易度デザイン、という言葉も使われている[2]。
そして、難易度の調整にはマップの処理もあるので、3Dゲームのレベルデザイン担当者は、MAYAなどの3Dグラフィックツールの技能を持っているスタッフが多いという[3]。
実装の発注時に意図を伝える
編集FGOデザイナーの塩川氏の書籍によると、実務では、ゲームデザイナーは調整より前の実装の段階で、その実装の意図を伝えなければならず、また、のちにどこをゲームデザイナーが調整するかを伝えなければなりません[4]。
そうしないと、のちの調整の段階で、プログラム的にゲームデザイナーが調整できる仕組みになっていない場合があるからです。そのせいで、大幅な手戻りが発生してしまう場合があるので(※ 塩川氏の著書では「手戻り」という言い回し、P79)、絶対に避けねばなりません。
詰み、を避けたい
編集製品として販売するゲーム、そしてそうでなくとも、プレイヤーがセーブした時点でクリア不能な状況、仕様になっている、つまり、プログラムの流れとして事実上そうなっている、これを「詰み」、と呼んでいますが、それは避ける必要がある。
これはプログラムの構造の問題ですが、ゲームは進行の仕様自体かなりの複雑さを持っていますから、制作者が気付かないうちにプレイヤーがそこに追い込まれる可能性があり、これは娯楽であるゲームとしては避けたい事態です[5]。
まず、ゲーム全体のバランスとして、平均的なプレイヤーなら、妥当な労力でクリアできる調整も必要でしょう。
ゲームプレイで詰みに追い込まれるのは、プログラムの構造の悪さでもありますが、それを見つけ出すためには、具体的にテストプレイにおいて、少なくとも誰か一人のテストプレイヤーが、そのゲーム内で想定できるクリア困難な状況から、実際に挽回してクリアしたという、事実、実績が必要です。
つまりコンピュータープログラムで常にセキュリティの問題が発生するのと同様に、ゲームプログラムでは構造が複雑になりすぎて、詰みがプログラマーの想定を超えて発生する可能性があるので、実際のプレイで、実際のプレイヤーの現実の巻き返しで確認して調整したい、という事ですね[5]。
そして一方、難易度調整として、平均的プレイヤーが平均的な労力でクリアできるようにしておきたい。
ちなみに現編集者Hの昔のゲームプレイ経験ですが、初代ファミコン版のファイナルファンタジーですね、番号は幾つだったか……市販の攻略本を読みながらプレイしていたのですが、あるところまでいった時点で、攻略本を読んでも、どう考えても先に進めない状況に陥り、まあ私のプレイヤーとしての技量にも問題あったのかもしれませんが、結局にっちもさっちもいかなくなって、プレイを放棄してクリアしないまま積みゲーになってしまったことがあります。もちろんそれでそのゲームの仕様が悪かったと主張するつもりはありませんが、プレイヤーの私としてはその時点で完全に詰んでしまったわけです。
実はゲームプレイヤーだけではなく、あらゆる人間が面倒くさい、俺も、あんたもね^^
編集……しかしあんまり面倒くさがると、結局最後には偉い人に怒られてしまうのがこの社会の常です^^;;;。
一般にゲームプレイヤーがプレイ中に面倒くさがることは、覚えること、計算すること、配ること、だと言われています[6]。
ゲーム中に、Wolfram|Alpha が使えるような仕様にすると、案外よかったりしてね^^
ゲーム制作者はいろいろ考えて作っているだろうけど、プレイヤーだってそれに負けずに考えてプレイしている
編集プレーヤーも制作者も、時代の流れとともに、色々な変遷はありますよね。
時々指摘されるようですが、昔よりの最近の方が、ゲームの難しさに関する感受性が大きくて、割と簡単にこのゲームは難しいと指摘されることが多い、と、言われている。
たとえば携帯ゲームにおいて、平均的なゲームプレイヤーがクリアまでに5回ゲームオーバーになるように調整されたゲームは、今では「難しい」ゲームと判断される[7]。つまり昔のプレイヤーの方が我慢強かったってこと??
一方平均的なプレイヤーならゲームオーバーにならない難易度のゲームは、やさしいゲームと呼ばれることが多い。
だからもはやゲームの難しい易しいという言葉さえ、相対的で、結構人によって判断が違う。
2011~2013年頃のテレビ番組で、ゲーム業界を取材した番組、夜中の番組で、こういうものがあったという。
「昔の子供は、難しいゲームをプレイしたとき、「このゲームは難しい」と答えていたが、今の子供は「このゲームはつまらない」 と答える」
しかし実はテレビというのはこの社会で一番いい加減なメディアで、常に制作者に都合のいい印象操作、不当なイメージ操作が行われている。
つまり昔の子供より今の子供の方が愚かだというイメージを作りたいだけで、インチキな企業のためのいんちきな広告としての意味以外何も持たないだろう。
商業だろうとそうでなかろうとゲーム制作はプレイヤーの事を考える、難易度はどうする?
編集『ナナのリテラシー』という漫画、作者はゲーム好きで、ゲーム雑誌でも描いていたことがあるようです。ビジネス系しかもノウハウ系かな?2巻がゲーム会社回。
ゲーム会社の隅の老人経営者曰く(この漫画内の話ですよ)、「誰もが飛び越せる絶妙な難易度の壁をクリアさせる」、これがゲーム作りのコツじゃ^^!!!
この漫画、前編集者が書くにはかなり、そこそこ取材されているという。
「PS」(プレステ)のロードは、「1回のロードで2WMが限界。どんなマップも2メガに入れなくちゃいけない。会話も音楽も全部ね。」なんて描写があるらしい。
この老人の主張は作品自体の主張でも作者の主張でもないというが、しかし前編集者は重要な事だと考えているようだ。
しかし誰もが飛び越せる絶妙な壁をクリアさせて、消費者に快楽を与えて、ガッポガッポも儲けるにしても、人間には個性があり、性格や性質にもばらつきがある。
全ての人に等しく、偉そうに試練を与えて、それを乗り越えたから気持ちいい、と自己満足に等しく浸らせることは難しい。
だから、インチキにガッポがっぽ儲けるためには(←しつこい^^;;;)、ターゲット層をある程度はしぼりこむ必要がある[8]。
「遊んだプレイヤー全員が満足するものを、目指さない」との記述がある書籍もある[9]。ただこれはテストプレイヤーの意見を重視しすぎて振り回されないように、という意図がある記述だという。
ターゲット層を絞りこむには、実在の人物をイメージするのが良いと言う。「20代社会人男性が」、ではなく、自分の知人・友人・家族、あの人を面白がらせたい!!、と、いうのがいいようだ[10]。
80年代~90年代にカラオケが流行した。と、いっても今でも、盛んだけどね。俺も好き^^
カラオケの難易度は、利用者が楽しめるように易しめに作られているようですね。というか前の項目で書いた、絶妙な難易度らしいよ。そこそこ難しく、それを乗り越えると俺は偉いと自己満足にふけれるらしい。岡田斗司夫が90年代後半にその指摘をしていたというが、しかし本当に前編集者は岡田斗司夫が好きなのね^^;;;。
小室哲哉の曲が典型的にそれだという人もいるらしい。そういえば、NHKアニメーション「だぁ!だぁ!だぁ!」のエンディングは凄く良かったな^^。いや、もちろんこれは只の雑談ですが^^;;;。
エヴァンゲリオンの残酷な天使のテーゼは、監督やスポンサーのレコード会社プロデューサーが、子供でも歌いやすいように作曲してくれと作曲家に依頼している。
確かに凝った楽曲の割に、カラオケで歌いやすい^^
商業作品であるなら、最終的には売上によって作品の是非が決まる、なんて前編集者は書いてるけど、インチキ書くなよ、あくまでも金は商売としての是非、作品としての価値、意義は別の話だよ。
しかしこいつほんとにアフリマンなのね。金と物質以外何も見えないのか。
ゲームの話題としては、味の善し悪しはプレイヤーが決める、という言葉があるようですね[11]。ターゲット層が、美味い^^!!、と、いう作品を作りたい。
ジブリアニメの『となりのトトロ』は、子供たちにアニメばかり見ずに外で遊ぶように啓蒙するようなストーリーを作者・監督の宮崎駿は目指したと言われています。
ところでこれ↑前編集者の文章だけど、完全なる虚偽だよ、いいかがんにしろ。あのねー、宮崎さんという人は確かに少し偏屈な大人だから、その手の事は時々言うけど、映画を作る時は基本的に、見た人に楽しんでほしい、夢のような時間を過ごしてほしい、そしてこの社会に生まれてよかったと、子供も大人も思ってほしい、そういう思いで、常にそれが第一テーマで漫画映画を作ってるの。
すじ肉先輩さー、あんた俺や他の編集者を何度も知ったかぶりって書いたけど、結局あんたが人類史上、唯一最大の知ったかぶりだね。そもそもあんた、トトロ、観てないんじゃないの?
ほんとにあんたってなにも見えてないのね。「うちの子は、よく宮崎先生のアニメを見ています。面白いアニメを作ってくださり有難うございます」なんて感想は全く問題ないだろ。宮崎氏だってありがたく受け取ってるよ。それに対してアニメばかり観ずに外で遊べ!!なんて言うのはお前とお前の同類のキチガイだけだ。
あとガンダムやエヴァンゲリオンでも似たような逸話があるとのことだが、こっちはどうでもいい。そもそもこれを作っている連中は、宮崎氏ほど切迫した気持ちで作っているわけではなく、ただ金が欲しくて自分が偉いと思いたいだけだから、作った方がどう思おうが、そいつらに金を与えて養ってる連中がどう思おうが、大したことじゃあないだろ?
チュートリアル
編集ゲームをプレイするための、操作方法をプレイヤーが知って覚えるための入門的なイベントをチュートリアルというようですね。実は現編集者はあまり、特に最近はほとんどコンピューターゲームはしないので、ここの執筆をしつつもゲームについてはあまり知らない。
ただここの主要執筆者で、ゲーム大好き、プログラム大好き、アニメ大好き、自分自身も一応絵描き、そしてハイルオタキングの E.Suj. かなりひどい内容の文章を大量に書き散らすので、このサイトの参加者として嫌々多少書き直しをせざるを得ない。
そこでチュートリアル、これはふつうゲーム自体に組み込まれ、初盤がそれになりますが、これは別モードにすると良いという指摘がある[12]。
『不思議のダンジョン2 風来のシレン』が、このスタイルを採用している。
とはいえプレイヤーが必ずチュートリアルをプレイしなければ、ゲームを楽しめない構成なら、あまり大きな意味があるとも思えないが、しかしそうでない場合も多いだろう。
ゲーム構成の選択手として考えてもいいだろう。
技能の習得としてのゲーム
編集ドラクエ1のバランス調整において、最終的にスライム7匹ぶんの経験値でレベル2にアップする仕様になった、という開発談が知られています。漫画『ドラゴンクエストへの道』でその7匹ぶんの仕様のエピソードが語られているようです(編集者が入手していないので伝聞)。
しかし調整前はスライム20匹でした。当時プログラマー兼任だった堀井雄二(ドラクエのゲームクリエイター)がとりあえず20匹でレベル2にアップと設定したところ、千田幸信プロデューサーが、20匹は多すぎてプレイが面倒なので、もっと減らしたいと指摘し、最終的に7匹分の経験値でレベル2 にアップの仕様なりました。
あまり困難なのはプレーヤーが楽しめませんし、7匹倒したらレベルが上がることで、ユーザーも、ゲームの趣旨が理解できる、という事でしょう。
例えば逆に考えて、もしスライム255匹を倒してレベル2にようやくアップ、と言う調整だったら・・・。…まあ無理だね^^;;;、有り得ないバランス^^;。
初心者に自由はありません、というのが前編集者の言及だが、現実には初心者に限らず、熟練者にもすべての人間にも、自由なんてどこにもないのがこの社会。スライム266匹を倒してレベル2にアップ、というドラクエ風システムのRPGを初心者が作っても、相手にされないし罵倒されるよ^^;;;。もっともその会社の権力者や著名デザイナーがそうしたら通るかもね^^
ゲームをプレイしていることで、プレイヤーは何を知って、何を身につけているか?
編集まあゲームをしていることで、プレイヤーは何らかの行為、練習を繰り返して、技能様の物を身につけていく、と、考えても、いい? まあいいか、とりあえずはそう見なしましょう。
ですからそこでプレイヤーが身に着ける技能を想定しておくと、上手にバランス調整が出来るという。
すじにく大先生が愛読している文献では、「教育的難易度」という用語を使っています[13]。まあゲーム関係者で教育について分かってる奴なんて、ほとんどいないだろうけど…
ここでの教育難易度とは、むしろ大先生の意図とは逆で、ある敵を攻略するのにプレイヤーがなんらかの操作が必要な時、まず1個だけのその敵の撃破用の操作技能だけをプレイヤーが修得できれば攻略できるようにしろと、つまり、プレイヤーが技能を覚えやすいように、難易度を下げろという事でしょう。
前編集者は本質的キチガイなので、とにかく世の中で自分が偉いことが何より大事なので「教育」という言葉を使いたい。一方で割と似たようなことを語る時に、学習という言葉を使っている文献もある[14]。要するにこの本の筆者の方が、E.Suj. よりまともな人間だという事でしょう。
ただ、プレイヤーの技能の習得という視点は、バランス調整の時に一番重要になるという。確かにゲームは技能や知恵、解決のための何らかの手段、鍛錬も必要だが、一方では間違いなく娯楽で、面白いものであるはずだ。
そしてゲームをすることで、自分の思考力が磨かれて、成長したという感慨を持つプレイヤーも多いようで[15]、全くその気持ちを否定する意図はないが、でもねー、ゲームっていうのは結局遊びなんだよ?
ゲーミフィケーションなんて言葉を使っていい気になっている連中もいるようだけど、まあその概念や運動がまったく意味を持たないとは言わないが、でもやっぱりゲームは娯楽であり遊びであり、ある程度堕落した、ある程度常識的な硬い世界からは非難される要素があるもので、あまり理屈を並べて自分たちの世界が高級なものだと主張しない方がいいんじゃあない?
どうもゲーム業界の連中が、自分たちの仕事を美化して、正当化したいため、ゲーミフィケーションがどうの、なんて言いだしたようだよ[16]。
2019年にゲーミフィケーション学会設立。もっともこの運動や概念がまったく意味がないものだとは、現編集者も言わない。確かにゲーム的な行為を、もう少し遊びから離れて、現実の有用な出来事に結び付けようというのは、それほど間違っていないし、意義はある。
2013年ごろからすでに、企業の新人研修で、ゲームの要素を取り入れた研修などがされていたようだ。
岸本好弘(ファミスタの父、と呼ばれているらしい)の言では、「ゲームの本質っていうのは、人間が頭で想像することの素晴らしさ」[17]ってことらしいけど、なんか軽い言葉だね。想像には意義があるが、それってほんとに頭でするもの?
40年前(※1980頃?)、
- 「そのころアーケードゲームのデザインで言われていたのは、初めてそのゲームに挑戦したプレイヤーでも3分間程度は遊べるようにすること。「もう一度チャレンジしたら、先に進めそうだ!」と、プレイヤーの気持ちが動くように制作すること」
ってことだけど、そうすれば子供が100円玉いっぱい入れて、お前らが儲かるってだけだろ?
- 「これって、現在IT業界で言われるUX、ユーザーエクスペリエンスですよね。ゲーム業界では理論化、言語化していなかったけれど、40年前から現代に通じることをやっていたんだなと思いました。」
何かそれらしい言葉だけ踊ってかっこつけてるようにしか聞こえん^^;;;。
- 「ゲームって全部「そそのかし」なんです。ゲームをプレイしていて、Aの洞窟に行きなさいとか、Bの洞窟には行くなとは言われないですよね。プレイヤーが2つの洞窟をぱっと見たときに「こっちの洞窟に宝があるかも!」って見えるように作っているんです。これを「そそのかし」って言うんです。」
まあそれはそれでいいけど、それってそんなに大したことかね?
- (抜粋)「先生は答えを教えるのではなく、生徒が自分で「わかった!」、「僕が一人で気が付いた!」と思わせることが大切。」
思わせるっていうのがすごいし、傲慢だよな。お前は神か?
- 「ゲームをデザインするのも授業をデザインするのも同じです。楽しいと思うことやワクワクすることは脳の働きを最大限にする。だから、つらいことを我慢するのはよくない。脳が楽しいと感じることがとても大切なんです。」
お前みたいな奴って、すぐ脳がどうのって言うよな。まあ楽しいことやワクワクするのが大事なのは認めるが、人生つらいことを我慢しなければいけない時なんてしょっちゅうだよ。後ゲームと授業は別物にしろ、一緒にするな。
しかし思うんだけど、ゲーム業界の奴らって、自分たちの仕事に少しやましさがあるから、教育と結び付けて、高級なものに仕立て上げたいんじゃあないの?
まあゲーム的な教育っていうのはありだが、やはりゲームの本質は遊びで娯楽で、しかも堕落だよ。
1990年代後半に、オタキング岡田斗司夫は、著書『世紀の大怪獣!!オカダ―岡田斗司夫のお蔵出し 』(おそらく)で、マリオカートを例に、市販のゲームソフトの多くは達成感を味合わせるものだと指摘した。
岡田に言わせれば、ゲーム文化以前の人生の趣味の多くは、必ずしも努力の量と、上達とが比例しない。スポーツ、絵画、しかしこれほんと?もちろん厳密に量を考えて、グダグダ気色悪い比較をすれば、そう見えることはあるけど、少なくとも人間、何かをすれば必ず、それなりに得るものがあるはずなんだけどね。
しかしファミコン以降のコンピュータ式のゲームでは努力は無駄にならず、ほぼ必ずといっていいくらい、少なくとも初心者レベルの範囲でなら、プレイして練習すれば上達するように設計されていると、岡田の著書では述べられている。
ふーん、要するにゲームプレイヤーって、ゲーム制作者が作った達成感が欲しいから、金払うってわけね。
岡田が言うには、人生はゲームみたいに甘くないし、もしかしたらゲームは現実逃避で不健全かもしれないけど、でも大人だって親だって達成感をもっと感じたいんだぜ・・・だから今日も娘といっしょにマリオカートをプレイしている、と書いてたって言うけど、そもそも現実逃避や不健全から達成感って手に入る?
なんか頭のおかしい奴はやたら達成感って言うんだけど、それってほんとに欲しい?
いや、もちろんある程度は欲しいけど、でもそんな重要な事かね? もっと人生で必要なもの、いっぱいないかね?
ガイナックスは、コンピューターゲームも作っていたね。確か、美少女18禁ソフトもあったよね。
1991年、『プリンセスメーカー』、育成シミュレーションゲーム。確かに赤井孝美さんのグラフィックは魅力的だった。
少女を光源氏的に育成するゲームだったか、キャラクター育成ゲームのはしりだね[18]。
98年にはコナミ社『ときめきメモリアル』というのが出た。ただこれは育成というよりは、美少女との恋愛疑似体験ゲームみたいな、まあ俺はやったことないから詳細は知らないけど、まあ美少女と上手に付き合えるように、男性キャラクターを育成する要素はあったのかね。
「プリンセスメーカー」→「同級生」→「ときメモ」の流れがあるって、ある評論家は言う。
良くわからないけど、岡田斗司夫はゲーム制作会社の社長でもあるんだから、前のコラムの達成感がどうののたわごとに意義を認めろって、すじ肉は書くんだけど、なんなのこいつ。
岡田斗司夫の肩書に関する議論って意味ある?
別にアニメ評論家でも、会社社長でも、なんでも勝手に名乗って威張っていればいいけど、でもやっぱり岡田斗司夫の肩書は、オタキングだよね。
少女育成ゲーム・プリンセスメーカーは全滅時の損失が軽いのが、割と画期的だったようです。戦闘で全滅すると、拠点に戻されたうえ、1か月経過する。
全滅時の損失のことを和製英語でデス ペナルティといいます。英語では dead damage と云うらしい(DDと略すようです)。英語の death penalty は「死刑」の意味だって。
つまりどうやら、デスペナルティが軽くても、面白いはRPG は作れるらしい。
- デスルーラ
全滅しても拠点に戻るだけのシステムだと、拠点に戻りたい場合にわざと全滅する方法を使える。これを和製英語で「デスルーラ」と言う。ルーラとはドラクエの移動魔法ルーラのこと。
全滅したときに拠点に戻るゲームでは、拠点に戻れなくするイベントは不可能。
全滅したら拠点に戻れるからね。ただ、戦いが起こらなければどうかな?
どちらにしろこの議論、意味ある?
ただ例外的に全滅したとき拠点以外に戻る、っていう事は仕様で作れるよね。
現編集者は現在は基本的に、コンピューターゲームはしない生活、でもほんのちょっと前、思うところあって、MicrosoftStore,Xbox 経由で、すこしゲームをしていた時期があった。
そしてMicrosoftStore はなんだかんだでゲームを売り込んでくるよね。
その時思ったんだけど、Roblox って面白そうだよねー。プレイはしていないんだけど、広告や表示を見ると、これ絶対面白いなって直感的に思う。
だからこのゲームのユーザーやプレイヤー、あるいは関係者にこのページの執筆してほしいな^^
後、Among_Us っていうのも面白そう。何か皮肉がすごく効いてそうだね。
このコラム、前編集者が、(この話題は、後述の商学書『メイド・イン・ジャパンは負けるのか』の話題と関連するので、残す必要がある。)ってメモを張っていたんだけど、読んでみたんだけど、現編集者Hにはちょっと話が見えなくてね。おそらくRPG をやりこんでいる人は内容が良くわかるんだろうけど、現編集者にとってはかなりの部分が???????だね。だからできるだけまとめる一方で、詳細不明の部分は前編集者の記述をそのまま残しました。
- 帰り道を通せんぼするイベントは、詰みのリスクが高くなる。
サガシリーズはどこでもセーブできるが、この場合、帰り道を通せんぼするイベントは、上手に設計しないとクリア不能になる恐れがある。
ファミコン~スーファミ時代のドラクエとファイナルファンタジー、GB版サガとロマサガには帰り道を通せんぼするイベントは無いように見える。
ロマサガ1の氷結城の帰り道で通せんぼするボス敵がいる。しかし会話選択肢で戦闘を回避すると、詰みを避けられる。
古い時代のサガ系とロマサガでは、ダンジョン奥まで探検すると、最深部に一方通行のダンジョン出口がある。これは帰り道短縮の意味と、テンポ感向上(プレイヤーが既に理解していることを再度要求しないから)の効果がある。
しかしこの場合、もしダンジョンに一方通行出口がない場合、プレイヤーは帰り道にボス戦があると予測する。これはネタバレになってよくない。ドラクエは、最後の一方通行出口をあまり用意しないが、この狙いがあるのだろう。
このようにゲームのルール設定が、可能なイベントやマップを限定する。
さて、ゲームのシリーズ物は、ルールが一様になる傾向がある。
だから、シリーズ作品によって搭載されるイベントの傾向も決まってくる。
イベントの傾向が限定されると、マンネリ化につながる恐れもある。
『メイド・イン・ジャパンは負けるのか』という2010年ごろの書籍でも、 シリーズ化とマンネリ化との相互関係が語られていて、基本的に家庭用ゲーム機の作品群の多くはゲーム性の根幹が90年代以降の作品は変わっておらず、変わったのはグラフィックが細かくなっただけ、と書かれている。
しかしゲーム会社からすれば、新規の斬新な発想のゲームはむしろ売れないと見られている。
グラフィック重視は、商業ゲームでは非常に重要と考えられているらしい。
そしてゲーム評論家は偉そうな批判はするが、自分では結局ゲームを作らない。
1980年代は、家庭用ゲーム黎明期。1995年ごろ、プレステ1時代からソフト容量が飛躍的に伸びた。
昔はゲームに勢いがあったが、今となっては、新しくて画期的かつリアリティと説得力のあるルールを思いつくこと自体、そんな簡単な事ではない。
漫画産業やアニメーション産業は黎明期をとっくに過ぎたようだが、結局今でもこの産業は続いている。そもそも、ラジオ、新聞、書籍、オールドメディアと呼んでいい産業も、今、しっかり続いている。2010年代のゲーム産業だって、もしかしたらスマホゲーム黎明期、ソーシャルゲーム黎明期なのかもしれない。
オタキングによるアノマリー(片寄り)論(『東大オタク学講座』に記述あり)によると、ゲームのバランス調整は結局普遍性は持たず、作家の世界観が反映されるものになる、という。
都市運営シミュレーション『シムシティ』、アメリカ製のゲームですが、ここでは火力発電所よりも原子力発電所の方が効果的な投資になっている。これは現実の経済情勢を正しく反映しているか?
これは現実の経済分析の話だが、現編集者はYESだと思っている。巨大なお金が動いているからこそ、いまだにこの国は原発をやめられない。
そして岡田はこの設定をアメリカ的な都市政策観の反映だとしている。しかし岡田はこのゲームの感覚を片寄りだと思っているのか?
そのほか、岡田は、ドラクエシリーズに対して、「なぜ作者の堀井さんは、作中で父親と子の関係に、どの作品でも、こだわりたがるんだろう? なにかあったんじゃねえの?」的なゲスい勘繰りもしています。
↑ちなみに上の段落は前編集者、E.Suj.の記述をそのまま残したものだが、まあね、オタキングがゲスい人間なのは、オタク全員が知っているからね^^;;;。
ここで書いたシムシティに関する議論と堀井氏に関する議論はどうも別の話のように見える。
つまり前編集者の議論は当初から混乱しているのだが、結局E.Suj. は作家の個性とは異常性の裏返しだと言いたいらしい。つまり個性とは長所ではなく、欠点の別形態だと。
では現編集者はこのE.Suj. に質問したいが、結局人間、個性持っていたほうがいいの?持っていない方がいいの?
大人は欠点すらうまく自分で活用しなければいけない、なんて書いてるけど、そんなこと上手く出来ている大人なんて、この地球上に一人もいないよ。
本文
編集さて、上述までの再編集により、前編集者E.Suj, の邪念から生まれた、ゲーム-教育-成長のインチキ理論は完全に否定できたと思う。
結局前編集者もゲームにおける教育論は疑似的なものだと記述してるが、そんなら最初っからそんなこと書くな。
地獄のような長時間の再編集を終え、やっと話を本題のバランス調整にもどせることになった。
まずアクションゲームの調整。
敵が飛び道具で来るならどうする?
もちろん事実上はほぼ無限の対応策があるが、例えば、物陰に隠れながら移動して近づく、あるいはこちらも飛び道具で応戦とか、幾つか具体策は見えるでしょう。
(しかしよく考えたら、この行動って、E.Suj.のこのサイトでの行動とそっくりだよね^^;;;。)
基本的にゲームバランス調整では、例えば、物陰に隠れて攻撃を避けるなどの具体的技法、そして事実上それはそのゲームでの有効策なのですが、プレイヤーがこの対応策を覚えるように導く、そしてそれを可能なものにするため難易度を下げる、これが必要だと言います[19]。
一つの方針としては、必要だと思われる技能をプレイヤーが行っていると判断したら、しかも一度には基本的に一つ、その敵を簡単に倒せるようなプログラムにする。
とにかく特定の方向にプレーヤーを導く意図を持つ、つまり導きたい方向にプレイヤーが行為すれば、難易度が下がる。だから、飛び道具を避ける物陰には、罠も無ければ敵もいない[20]。
あれっ、今気づいたんだけど、新約聖書には、狭き門から入れ、って言葉があったよね…。
基本的には前編集をわかり易く書き直してるだけなんだけど…
とにかくこの場合、推奨されるパラメーター設定は、目的の敵を妥当な経過で主人公が攻撃したら、敵はすぐ倒せるようにしておけって書いてるんだけど、これって広き門じゃあない?
とにかくこの前編集は、あらゆるプログラムを駆使して、プレイヤーが特定の行動をするよう導けって書いてある…。
まあしかしまとめ編集を続けるかね…
大抵のゲームは先に進むと難易度が上がっていくようだが、いや、これ自体事実かどうか怪しいが、仮にそうするとした場合、その難易度の上がった敵のギミックや行動は、制作者が導く行動を複数、と言ってもごく少数の複合だろうが、プレイヤーがなしたら、敵を倒せるようにしたら良いという。複合技をプレイヤーが繰り出すことで、成長した感や、興奮を、ユーザーは感じるだろう[21]。
前編集者は、ゲームの後半難易度を上げるのは、プレイヤーに創意工夫を呼び起こすためと書いている。
確かに難易度が上がれば、創意工夫して解決を目指すのはゲームだけではない。しかし現編集者が問題を感じるのは、常にプログラムの手妻を駆使して、特定行動にユーザを導けと主張している点だ。
これは実はアメリカの過去の宇宙開発で宇宙に送る実験動物を調教、教育した方法と全く同じだ。
とにかくゲーム制作者の中に、このような馬鹿げた教育論を持っている愚か者はそこそこいそうだが。
このインチキな前編集者の愛読書には、ボス戦などの難しいイベントの目的は、プレイヤーが自分自身の技量を試す、自分がこのゲームにおける熟練プレイヤーか試す、そこにあるという。歯ごたえのある敵と戦って、自分がこのゲームにはまっているかどうか知る事が出来る、そういうことだろう[22]。
- やはり何事も制限はあるか?
例えば主人公が不死身なら、まあゲームになりませんよね。何らかの弱いところは必ずあるでしょう。
所持金が無限とか、無いですよね。お前はドラえもんのポケットか?^^;;;
敵もそこそこ強いよね、あんまり弱いのはちょっと。
(たとえばアクションゲームで一時停止ボタン(ポーズボタン)を押さずにトイレに行ってウンコを数分してきても、ウンコから戻ってきてもキャラが負けてないのは明らかに駄目)。
↑ちなみにこれは前編集者の記述だけど、ん~、まあ、残しておくか^^;;;。
だから前編集者としては、プレイヤーに創意工夫を求める。まあもっともプレイヤーが創意工夫しないゲームなんて、この世にないけど。
だからゲームオーバーはやっぱり必要だということか[23]。
だから前編集者はゲームには敗北とそれを回避するための努力が必要だと主張する。
まあでもこのサイトの別の場所でも書いたけど、E.Suj.は努力なんて全くしてないけどね。ただ毎日欲望のまま手を動かしてるだけ。
- 真実は一つ^^!!!本当?とりあえず解法は複数^^!!!!
スーパーマリオのステージ1-1の最初のクリボーをどうする? (解1)踏んずけてやる^^!!!(解2)そのクリボーを飛び越えてこっちに来い!!!^^(解3)ブロックに乗って、絶景哉^^。
ゲームと漫画、アニメーション
編集非常におおざっぱに語ると、漫画やアニメーションは完成して世に出た時点で、その版では、定められた運命が記述されている、ヤーンの書のようなものでしょう。
ゲームはインタラクティブだから、運命は決まっていないし、あいまいで、事実上選択肢がある世界。
そしてゲーム=戦闘ではないが、戦闘を描いたゲーム、漫画、アニメーション、 というのは明らかにある、そしてその話なんですが…
1982年『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』という書籍では、マンガやアニメや特撮(ウルトラマン)などの敵の強さは、主人公がなんとか苦戦しながら倒せるギリギリの強さだと指摘されている。ただしこの出典関係の記述にはWiki著書の記憶違いがあるかもしれない。
しかしゲームでの敵は、もうちょっと弱めにしておくといいらしい。
まあそりゃあそうだよね。毎回毎回ギリギリの敵と戦うなら、ゲームなんて誰もしなくなるよ。これに関して前編集者はプレイヤーの創意工夫がどうのなんて書いてるけど、完全なる欺瞞だろう。
具体作品を上げると、ゲーム『激神フリーザ』。要するにドラゴンボール原作のゲームですね。クリリンでもちょっと鍛えて頑張ればザーボン(ナメック星編の中ボス敵)を倒せるようになっている(原作マンガだとクリリンはザーボンを倒せない)。
漫画やアニメーションでは、一回の戦闘での強敵の倒しかたが一通りしかなく、いちばん読者に魅力的に見える奇想天外・破天荒な倒しかたで、敵を倒します。なのでここでは、ギリギリ倒せる強さのほうが良い。
しかしゲームの強敵では、多くのプレイヤーの、それぞれ異なる色々なアイデアに対応した倒し方を何通りも準備する必要があるので、ゲームでの強敵の強さは、ギリギリ倒せる状態よりも少し弱めにする必要がある。しかしやはりそれ以前に、あまり敵が強すぎたら、プレイヤーがしんどすぎるだろ、単に難易度が高いゲームになっちゃうよ。
「廃人」
編集基本的にコンピューターゲーム界隈は、いちびった下品な人間が多いので、そこで飛び交う言葉も汚い言葉が多い。
例えば、廃人、なんてよく言うらしいよ。つまりいろいろな理由で暇な人間、まあ、E,Suj. もそうだけど、普通に忙しい人間より、ネットゲームとかでは有利だよね。そういう人間を貶めたくて言うんだね。
後色々な理由でゲームに過度にお金を費やせる人に悪口言いたい時とかね。
まあはっきり言って、E.Suj. も間違いなくこの廃人の一人だけど、彼の愛読書では、「廃課金ユーザー」という記述にしているらしい[24]。「廃Wikiユーザー」とか?
だけど世の中色々でね。人にはそれぞれ事情がある。望まなくても廃人になってしまう人はいっぱいいるよ。
ゲーム作者が自作をプレイしたら、やはり他者プレイヤーよりそのゲームは簡単だと見なすだろう。
編集あらゆる分野で作者は自作は面白いし、難易度やネガティブな要素は低いと見るだろう。作り手は妥当なバランスをどう見出したら良いだろうか?
作者が客観的に自作を見る事さえ難しい、しかしいいバランスは見つけ出したい
編集やはり常識的な判断としても、経験則としても、作者がやや簡単だと思うくらいがちょうどいい、という事だろう[25]。
プレイヤーにとっては易しいほうの案Aと難しいほうの案Bとがあったら、ゲーム本編には、やさしいほうの案Aを採用するのが良い[26]。
難しい方の案Bは、付加的なサブステージ(クリアには不要な)に流用するといいですかね[26]。
RPGにおいてはクリアに絶対に必要なイベントと、エクストラのクリア条件ではないイベントがありますね。それぞれ「強制イベント」、「任意イベント」と、呼ぶこともあります[27]。
サブステージや任意イベントの難易度は、割と自由に扱う事が出来そう。むしろ様々な難易度があった方が、多様なユーザーの要求に対応しているとも言えるし、しかしそもそもサブステージなどなくてもいいとも言えますが、あるとしたら、遊びは多くなりますよね[28]。
そして基本的に作り手は「簡単」だと思っていても、初めてプレイするプレイヤーには難しい、それはよくあることですよね[29]。
レベル上げを楽しむ?
編集一般的なゲームは、例えばRPGでは、ストーリーや戦術性の面白さが普遍的な主流の興味ですよね。作り手も、RPGというジャンルが今現在、どういう一般的な魅力があるか、それを考えて、それを重視して作る。
一方プレイヤーとしては、正道を外れたややマニアックな楽しみ方もある。RPGのレベル上げ(だけ)を楽しむ、なんて遊び方もできますよね。
つまりプレイヤーはプレイヤーで、本来の制作者が意図した別のところで楽しみを見出すこともある。ある意味コンピュータープログラムのインタラクティブな性質が、そういう遊び方を見出す余地を持っていると言える。
しかし制作者はやはり、RPGの持つ本道の面白さを目指してゲームを作るでしょう。
前編集者はこのことを、少年漫画を例に語っていますね。
漫画家スポコン漫画(そう?^^;;)「バクマン」では、こんなエピソードがあったようです。
「たとえ少女の読者がいても、その少女は、「男の子が読んでいるマンガを自分も読んでみたい」、と思うような女の子。少年ジャンプの取るべき編集姿勢としては、あくまで、男の子向けを貫かないといけない」
少年漫画誌は、ターゲットは、少年、割と年少の男の子ですからね。それ以外のファンがいても、その読者層におもねる漫画は載せないでしょう。それはカテゴリ崩壊だよね。
しかし実は少年にもいろいろな個性を持つ子がいる。少女にも、大人にも、老人にもいろいろな個性がある。ターゲットがどうのと言ったところで、実は結構あいまいでいい加減な物なんだよね。
少年ジャンプは自らの分析として、売れる漫画の方向性として、「友情・努力・勝利」の3原則を提唱した。この3原則を外すことは今現在は許されてはいないのでしょう。
No title.
編集ある意味当然のことだが、ゲームの作者は、ほかのプレイヤーより、自身のゲームの難易度を低いと見るだろう。「作者バイアス」という言葉が使われることもある。
- 雑誌「ゲーム批評」による指摘
1990年代に「ゲーム批評」という雑誌が、ゲームの内容を考えるときは、ゲーム制作に熟練していない人は、既存ゲームを難しくアレンジした提案をしがちだと指摘しています。
例えば、スーパーファミコン版のマリオ、こういうゲームを自分たちが作る時、どういうゲームにしようか?
マリオが空を飛んだ時、簡単にクリアできるけど、ここで空中に敵キャラクターを多く配置したらどうだろうか? そして『超音速攻撃ヘリ エアーウルフ』、、云々の記述が前編集にあったが、これはいつものこの前編集者の一般的な他者に対する愚弄目的の文章なので、再掲載する必要はないだろう。
そしてこのアイディアに対する、一般的な批判としては、マリオの地上ステージの空中に敵が少ないのは、ゲームが苦手なプレイヤーのための救済措置だったり、あるいは体験済みステージ前半を無視するための工夫、であるので、その部分を難しく、複雑にするのは不適切だと思われる、と、いうことになる。
ところでやや話題が脱線するが、過去少年マガジンに掲載されていた、漫画作品、w:1・2の三四郎にも、似たような話があった。
高校生の主人公、東 三四郎と、本当はレスリング部にしたい西上 馬之助と三四郎の友人南小路 虎吉の三人で柔道部の活動をしていたのだが、ある日三四郎が馬之助にこう言う。
「スタンハンセンのウエスタンラリアット(プロレスの技)の改良技を考えたのだが」
「ほう」
「ハンセンは、ラリアットを打撃技にしているが、ここで打撃しないで、首に引っかけるようにして倒して後頭部をマットに打ち付けるのはどうだろう?」
「あほ!!それはジャイアント馬場の、ランニング・ネックブリーカー・ドロップや。ハンセンはそれをもとにウエスタンラリアットを考えたの。なんでお前がわざわざそれをもとに戻してんのや」
ただ、今ではこのジャイアント馬場云々は俗説と言われているようですね。
少しマリオの話とは違うかもしれませんが、脱線の雑談として書いてみました^^
さて、今仮に、「ゲーム作者はネットの批評はあまり参考にしない。基本的にゲームを作ったことのない人の意見はあまり意味がないと考えている。」と、いう主張があったところで、あなたはこの意見をどう思いますか?
まず全くの素の状態でこの言及を聴いたところで、その通りだと思います?あるいはいや、違うと思います?。
そしてもし素の状態ではなく、仮に出典とやらがあった場合、出典と言ってもいろいろありますよね。ネットの言及の場合もあるし、あるいは何らかの偉そうな市販の書籍にそう書いてあるかもしれない。
この辺の出典とかの情報、事実で意見変わります?
だからあなたが素の状態でどう思おうと、偉そうな人の言及があったら、じゃあそれは正しいんだと思いますか?。
しかしまあこの言及の場合は、ゲーム作家とやらが、ああ、俺はそう思っていると言えば、一つの証言となりますよね。
しかしゲーム作家だって複数いる。しかもゲーム作家と呼んでいい人とは具体的にだれか?
ですから現編集者はこの議論は全く無意味だと考える。しかし実は前編集者もやりたいことは、ただただ商業の創作者を持ち上げて、ネット上や同人の創作者を貶めたいだけなんですよね。
とにかく前編集者は私欲を見たすために、この言及の出典とやらを探しましたが、辛うじて、「一次情報以外、個性には役立たない:インターネットやSNS:そうした情報は知識として役に立つことはありますが、ゲームデザイナーが個性を発揮するうえではあまり役に立ちません[30]」という記述を見つけただけだったという。
マリオメーカーは任天堂が2015に発売した、Wii U用の(3DS用も有)ゲームソフトウェアですね。マリオのゲームの素材を使って、自分でもアクションマリオゲームが作れる。
このソフトウェアでは、自作のマリオゲームを任天堂のWebサイトに投稿、公開する事が出来ます。しかし条件があって、一度そのゲームをクリアしないと、公開はできません。
そして一方、実は、マリオメーカーが発売される前、インターネット上には「改造マリオ」といって、マリオのROMを違法改造して、自作ステージをつくって無料公開する行為が行われていました。
実際には改造マリオのデータを、ゲームとして利用するのはなかなか手間がかかり、むしろそのプレイ映像を動画化し、それが動画サイトで人気になったようです。しかし改造マリオを作るという行為自体が、著作権の問題を持っていました。
そして多くの場合、そのステージの難易度は異常に高くなり、そしてその難易度の高いマリオを実際にクリアする動画が非常に人気を持ったようです。
さて、そこでこのことに関して、前編集者は例え話を始めたのですが、まず一つ目が、「犬が人をかんでもニュースにならないが、人が犬をかむとニュースになる」、だそうです。
つまり…改造マリオの方が人が犬を噛んでいる? すると任天堂本家のマリオメーカーが、犬が人を噛んでいるか?
辛うじてこの例え話の意味は分かるけど、もう一つの例え話がこれ↓なんだけど…
また、アンケート調査などの心理学的ノウハウとして、「あなたは○○を買いますか?」と「あなたは○○を好きですか?」と聞いたときでは、アンケート結果の傾向がかなり異なり、多くの人が、「○○を好きですか?」と質問されても決して実際に好きなものを答えるのではなく、世間から賞賛されそうな趣味趣向の場合にだけ回答で「はい、好きです」と答えるようであるという、分析結果があります。
これはさらによくわからん(?_?)?????
マリオメーカーは買うで、改造マリオは好き?
要するにいつものこの編集者の議論で、商業のマリオメーカーを褒め称えて、Web文化の改造マリオは貶めたいんだろうね。
まあ改造マリオは違法性があるから、別にそれはそれでいいけど…
確かにWeb上には無料コンテンツも多々あるが、商売人たちが仕掛けているのは、有料コンテンツのための撒き餌のようなものだ。一方で同人、アマチュア活動として、無料で作品を公開している人もたくさんいるし、これらのコンテンツまで貶めようと試みる E.Suj. は本当に性根の腐った嫌な人間だね。勿論違法性のある無料コンテンツもあるから、これらは当然非難されてしかるものだろう。
まずゲームに関しては、前編集者の報告では、実際にプレイすることなく、無料動画を見ただけとか、あるいはさらに悪い例はWeb上の言論だけをもとに、特定のゲームを批判する人物がいるようで、これは確かに良くないことだ。
漫画界でも、似たような問題があるようだ。マンガ『ラーメン発見伝』(小学館ビッグコミックスペリオール )では、作中のライバル役のラーメン屋経営者(いわゆる「ラーメンハゲ」)が、ネットの情報をもとにラーメンの実際の食べたときの味を無視してラーメン評論をするラーメンマニアに陰口で悪態をついています。確かに漫画だろうが、ラーメンだろうが、映画だろうが、小説だろうが、実物に触れないのにあれこれ言うのは、基本的には悪いことだろう。
とはいえ現編集者は、v:Topic:読まないのに書評なんてやっちゃったけどね。まあ気にすんなよ^^;;;。
そこで前編集者は、Webを徹底的に否定して、市販本だけに価値を置いているけど、それも極論じゃあない?
ゲームを実際にプレイしないで、各種情報で知った気になるのは確かに良くないこと[31]だけど、我々だってすべてのゲームはプレイできないよ。
それに各種情報から、何となくいけ好かない存在って誰にでもあるものだし、まあ基本悪口はよくないけど、Webは新しい混沌メディアだからね。市販の書籍やゲームが圧倒的に価値高いわけではないね。
新聞の第一面によく載っている、有り得なく馬鹿馬鹿しい書籍の広告、あんなの絶対に買わないし、読まなくたって無条件で悪口言いたくなるよ。
とにかく E.Suj.はゲームに関して、メジャー作品、人気作をプレイせよ[32]、なんて書くけど大きなお世話。自分のプレイするゲームは自分で選ぶね。
YouTube動画に、「アニメ私塾」というチャンネルがあるらしくて、そこで勧める絵の練習法は、プロのアニメ作品の模写らしいけど、これだって単に一つの意見。絵の勉強法なんて無数にあるよ。
まあ確かに漫画に関する違法サイト読書は問題だろうし、検挙もされているけど、同人誌やエロ関係の無断掲載は検挙もしていないように見える。
ただそこで漫画を読むことは倫理的に非難はされるけど、読んだ以上は、作品を読んでいないという評価は違うだろう。勿論不正な方法で読んだという非難は正当だけどね。
結局、E.Suj.の目的は、いい加減な言論を駆使して、既成の商業コンテンツの権威と金を守りたいんだろう。
アナログゲーム(カードゲームやボードゲーム)の設計者は、ネット上の意見はもとより、実際のテストプレイヤーの意見さえあまりあてにならないという考えがあるらしい。テストプレーヤーも様々な理由で本音を語らなかったり、何らかのバイアスであまり有用な意見が出てこないという見方もある。一番重視するのは、実際のプレイの様子を観察することだいう[33]。
イナズマイレブン、2008発売のサッカーRPG。アニメ化や映画化もされている。中学校サッカー部が舞台だから、中学生がメインターゲットだろう。
この公式サイトが、登場キャラクターの人気投票を行ったという。
作品中に、五条というマイナーキャラクターがいた。中学生で、おじさんぽい顔、眼鏡で目が隠れ、何を考えているかわからない不気味な悪役的キャラクター。
ある匿名掲示板で、おそらくw:2ちゃんねるだと思いますが、このキャラクターへの組織票投票の呼びかけが行われました。
はたして2(5)ちゃんねるに中学生のユーザーがいるのか? 少しはいるかもしれないが、やはりこの組織票祭りの参加者の多くはもっと年長、しかしそれほど年寄りのメンバーもいないように思われる。
まあ結局オタクどもの遊び、祭りということだろうが、しかしその影響か、その公式サイトでの人気投票結果は、五条が一位になった。
まあ不合理な結果と言えば結果だが、ネット上ではその手の馬鹿げたことはしょっちゅう起こる。少しこだわりのある変わり者たちが、自然な状態をかき乱したくて、色々なことを仕掛けてくる。
公式サイトの運営者としては、面白くない展開だが、そもそもイナズマイレブンのゲームユーザーの何割が中学生か?
購買層の中に明らかにこの手のオタク、大きなお友達が、かなりの数占めているだろう。
しかしこういう人たちが、企画内容に大きな影響を及ぼすなら、やはり運営としては面白くない話だ。
AKB48の人気投票は、CDに投票券をつけている形式だが、やはりここでも不規則状況を狙って、投票券目当てでおなじCDを何枚も購入するファンがいるらしい。
勿論この手の、奇矯な手妻は、人気投票の企画者にとっては、面白くないことだが、しかし世の中こういう変わり者は必ずある程度いるものでね、それはそれぞれの企画者が上手に運営方法考えればいいのであって、こんな話をこのページにわざわざコラムとか言って書く意味ある?
- 美人投票
経済学者ケインズは、投資家の行動を美人投票にたとえた。「100枚の写真の中から最も美人だと思う人に投票してもらい、最も投票が多かった人に投票した人達に賞品を与える」、投資家は、この手の美人投票に参加しているようなものだと。普通の美人投票では、自分自身が美人だと思う女性に投票する。しかしこの投資家の美人投票では、賞品目当てなので、自分自身がどう思うかより、票が集まる写真はどれかを予想して投票するだろう。
前述のイナズマイレブンの投票祭りも、自分が好きな登場人物に投票しているわけではない。地味で目立たないキャラクターが一位になれば面白かろうと、示し合わせて、不美人投票をしているのだ。
- ノイジー・マイノリティ
ノイジー・マイノリティとは、少数派であるのにその声は大きい、目立つ、目立つにかかわらず、そのような考え方、主張をする人は少数である、だから基本的にはその人たちの大きい声は聞き入れない方が良い、多数派の意見を反映していない、ということでしょう。
基本的にはネガティブな意味を持つ言葉であり、大騒ぎするクレーマーに近いイメージだろう。
なるほどね、確かに現編集者の主張はいつでも希少な少数派の意見に近いだろう。
そしてすじ肉しちゅ~なる人物はいつも多数派の味方で、多数派の安易で愚かな意見が絶対的に正しいと振りかざし、他者を愚弄し常に暴力をふるっている。
そういう多数派の暴力に対抗するために、マイノリティとして常に俺は大騒ぎしているのだが、物は言いよう、言い方を少し変えれば、集団、多数派の暴力が正しいと、言い張る事が出来るんだね。
衆愚の暴力とは、どこまでも防ぐのが困難なのね。
さて、我々は学業でも、スポーツでも、趣味でも、そしてもちろん仕事でも、必ず技能というのがあって、それを日々身に着けている、身に着けようと試みていると考えていいと思いますが、果たして今の自分はどんな技能を持っているのか?そもそも何らかの技能持っているのか?そういうことで悩んだり考え込んでしまうことはありますよね。
E.Suj.のように集団におもねる以外の生き方を一切知らず、大した技能なんかないのに、スキルスキルと威張り倒して他人を貶めること以外何もしない人間がいる一方で、かなりの技能を持っているのに自信が持てず、鬱々と生活している人間もいます。
勿論技能自体はかなり客観的な物でしょうが、他者の技能評価は結構いいかげんで、技能が大したない人間が威張り散らして、ある程度技能がある人間をこき下ろして貶めている事なんて、世の中でしょっちゅう起こっていますよ。
そこで大した話ではないんですが、ある技能からある技能に転向する場合がありますよね。つまり生活自体が変わるのでしょう。特定の技能をふるう生活から別の技能中心の生活に変わること。
具体的にゲーム業務に関する話題では、デザイナーからプランナーに役務が変わるとか…
その時にはやはり、デザイナーとしての自分は封印したほうがいい[34]。
やはりプランナーとしての仕事を優先し、デザインに関してあまり大上段に口を出さない方がいいでしょう。
基本的に商業漫画、商業アニメーション、そしてほとんど多くの商業メディアはその根源的な創作部分でさえ、多人数の協業で作られています。一応全体を統括する指揮者はいますが、個々の秀逸な表現はその監督だけの手柄ではない。
これはこの手の物事についてある程度知っている人間にとっては、もちろんたまには例外もありますが、ほぼ当たり前のことで、得意げに語ることでも何でもない。
「と学会」の人が2010年ごろにニコニコ生放送の番組に出演したときに、この人物は、ある漫画原作者にネタ提供したと語ったという。しかしネタ提供といっても様々な形態があり、ピンからキリまであり、実際にその作品に貢献していない場合もあるし、単にこいつ、自慢話したかっただけだろ?
漫画家にしろ脚本家にしろ、色々な事柄にアイディアの元を頼っているだろう。有償無償に関わらず、アドバイザーも多いと思う。
ゴルゴ13なんかは明らかに協業で作られていたし、各種映画やテレビドラマも、様々な人間がその作品の質の向上に寄与している。
歴史ものや軍事物、その分野の専門家が強力に考証を加えているし、当然設定の信頼度も高くなる。
だから創作作品は協業関係が上手に機能して、それを統一した理念でまとめ上げれば、当然質はかなり高いものを作る事が出来る。
経理には「可処分所得」という用語があります。労働者の給料のうち、税金や社会保険料など支払いが義務付けられているものを差し引いた、残りの自由に使えるぶんの金額です。勿論その中から自分の生活費は支出しなければいけませんがね。
そこから類推して「可処分時間」。
前編集者の言葉では、「1日のうちの自分の起きている時間のうち、労働時間などを差し引いた、残りの自由に使える時間」。
だから、もし無職で何らかの理由で生活できるなら、100%が可処分時間でしょう。
で、E.Suj. はこのサイトで、こういう人間をひたすら愚弄するような文章を書き続けて来たのですが、 E.Suj. 自身の可処分時間は何%?
仮にこのサイトでインチキ書いてお金が入っても、それは可処分時間に入れろよ?
そして…「商売の競争とは、消費者の可処分所得の奪い合い」ということらしいけど…希少な可処分時間を奪われたうえ、そいつらに金払うの? 可処分時間って必ず金払って埋めなければいけないの?
ドラゴンクエストは、ゲームを進めるため、ゲーム操作の技能を得ることを求めていない?
編集ドラゴンクエストでは、ゲームのプレイを続け、キャラクターのレベルが上がっていくごとに、キャラクターも戦闘力が上がり、より強い敵も倒せるようになる。これはそれ以前のアーケードゲームのように、プレイヤーがゲーム操作の上手な技能を身に着けることによってクリアするのではなく、レベルが上がることで事実上、プレイヤーが上手な操作する必要なく強くなっている。これを、「クリア保障」と呼んでいるWebコンテンツもある[35]。
ドラクエでダンジョンに入った場合でも、様々な試行錯誤は繰り返すであろうが、プレイし続けて時間経過とともに経験値が上がると、最後にはダンジョンのボスも倒す事が出来て、クリアする事が出来る。
つまりドラゴンクエストでは、プレイヤーがそのゲームの操作の技能を覚えることで、難易度の高いステージをクリアしているのではなく、ゲームを続け、経験値が上がりレベルが上がることによって、ある意味自動的に強くなっている。
序盤のダンジョンで未探検のものがある場合、その時点ではかなり探索は困難を極めるが、レベルが上がった時点では、割と簡単に、クリアできる。つまり難易度が自動的に下がっているともいえる。
つまりドラゴンクエストのクリアシステムは、ゲームを続けてプレイを重ねていくうちに自動的にキャラクターは強くなり、最後にはゲームクリア、コンプリートに至る、ということだろう。
ドラゴンクエストのようなインターフェイスでも、古いゲームやフリーゲームではこの特徴を満たしてはいないものがあると、前編集者は書いていたが、どういう事だろう? 何度も書くが現編集者はそれ程沢山ゲームをやりこんでいるわけではない。
アクションゲームでは当然難易度の高いステージはそれなりの技能やテクニックが必要だろう。しかしRPGではそれほど技能の必要や出る幕もないから、多かれ少なかれドラゴンクエストのような形態にはなるのではないだろうか?
全体を通してレベルがそれほど上がらないゲームというのはあるし、あったのだろう。この場合は何らかのゲーム上の困難の打開策や有効な戦術を見出さない限り、クリア困難の事態に陥るだろう。
RPGに限らず一般に、ゲームの後半に行くに従って、次ステージ攻略などのための事前準備の増加や、試行錯誤の時間の増加に時間のかかるようになっていく事が多い。そして、ステージクリアに必要な時間の増加が、ゲームを苦手とするプレイヤーに、そのゲームのクリアを諦めさせる[36]。つまり娯楽であるはずのゲームが、難易度が上がりすぎてその機能を果たさなくなるのだろう。
自由度
編集一本道で難題を乗り越えるゲームもありますが、いっぽうでマルチエンディングとか、攻略ルートや展開が複数あるゲームもありますよね。こういう自由度の高いゲームは、その展開の場合の数に応じて、調整の際に考慮する事項も増えていきます[5]。
Non-title
編集※バランス調整に限った話題ではないが、他に適した単元が見つからないし、メインページに書くほどでもないので(←なら書かないで削除せよ。by E.H.)、間借り(まがり)的にバランス調整のページで書くことにする。ただし、この節の内容を他のぺージに移動することは、 E.H.が禁止する。
ゲーム業界に就職したい?
編集……ならば、今現在の業界を構成している人達のアドバイスに従うのが無難だろう。
まず彼らが望むのは、ゲーム人気作の知識。特にデザイナーならなおさららしい。まず過去の名作は手本になるという。それから共通言語としての、コンセプトや知識を知っておくべきだと[37]。
とにかくゲームについて知らないのはよくないようだ。過去現在の人気作や、自分の興味ある、そして入社出来たら実際に作っているジャンルのゲームについて、プレイし、周辺知識も知っておきたい。
この節のタイトルは、失敗とは何かを知りたければ、以下を読むよりリンク先を見た方がいいだろう、という意味のリンク付きタイトルです。
基本的に前編集者は手本がなくては生きていけないようで、創意工夫という言葉もあまり知らない。そして権威ある手本のパワーに依存しまくって、他者を愚弄しまくる。
しかしまあとりあえず、その論旨に乗っかって記述するが、人気作や人気シリーズをとりあえず崇めて手本にせよと。そして人気でない作も良く調べて、崇める手本と比べてどこが良くないか見いだせ[38]、と。
そしてなぜか前編集者はゲームの事だけで完結せず、アニメの事も語りたがるんだけど、まあ好きだからなんだろうけど、ガンダムについて語りたければ、それ以前のロボットアニメについても調べろ、と、岡田斗司夫や氷川竜介が書いていたんだって。
結局、性格の汚い有名人の権威に頼りっぱなし。
そしてまたまた岡田斗司夫の著作によると、演劇作家・演出家の鴻上尚史氏はゲーム進出に失敗したらしい。失敗してたの^^;;;??? 現編集者はそれは知らなかった。ゲームに手を出したことは知っていたけど…そもそも鴻上さん、映画制作も失敗していなかった^^;;;?。特別に好きでファンだという訳ではないけど、一時期この人のラジオかなり聴いていたんだけど…
とにかく岡田氏の結論は、鴻上氏とどういう関連があるかはわからないが、「成功例から学びたがる人は多いが、しかし成功例だけから学ぶのは素人。プロは失敗例にこそ学ぶ。」、らしい。もっともこれはあくまでも前編集者の要約だけど…
うーん、プロだの素人だのはどうでもいいけど、失敗と成功の両方から学ぶのは、ごくごく当たり前で妥当なことじゃないの?
あと失敗に関しては、畑村洋太郎氏の失敗学という概念もある。[39]
まあ現実問題として、失敗のない人生なんてないよね。
かと言ってねー、そう簡単に人間成功しないし、物事上手くいかないものだよ。
とにかくどん欲に成功を求めすぎるのも、逆説的に失敗の元になるだろう
あとあまり点数とか量について考えない方がいいと思う。
マーフィーの法則ではないけど、この世界と我々の人生は明らかに失敗方向にバイアスがかかっている。
失点しても試合に勝てばいいという意見もあるけど[40]、結局ぼろ負けして泣いて帰ることもしょっちゅうだよ^^;;;。
しかしまあ、誰もがそこそこ成功したいよね。
だけどさー、なんだかんだであんたらの人生、物事上手くいって楽しいときは確実にあるでしょ?
異業種? いやいや、それどころか、異人、異世界の事も想像しろ><!!!
編集ゲームとは文化でもあるでしょうか。様々な文化の一分野? そうなると文芸とかイラストとか、短歌とか映画とか、小説とか漫画とか、様々な文化のジャンルがありますよね。
特定のジャンルが衰退するとか発展するとか、具体的にはどういうことですか? もちろん商業文化としての、流通の規模というのはありますよね。しかし文化というのはだれ一人手掛けなくても、自分自身がその創作活動を続け、何らかの形で発表し、そしてそれを享受する人がある程度いる以上、仮にお金は一切発生しなくても、完全にこの世から消え去ることはない。
2012年に新日本プロレスリングを買収したゲーム会社のブシロードは、こう述べた。「すべてのジャンルはマニアが潰す」[41]。マニアねー。そもそもオタクとマニアはどう違うの? オタキングを崇拝している人たちは、マニアは悪く言えるけど、オタクは悪く言えないよね? どっちにしろ大した言及じゃあないよ、馬鹿げた話だね。
そしてゲーム業界は、1990~2000年の一時期、ジャンルによってはゲームが高難易度化した作品が多くなって、新規参入者が苦手と感じてプレイヤーが減って衰退縮小していったことがあったという。
まずゲームのジャンルが明確に固定化されているとは思えない。ある程度はそれ様の物はあると思うけど、結局これって、ゲーム商売の話であって、もっと一般にゲームが好きな人たちの事を考えると、特定のジャンルが好きならば絶対自分たち自身でその分野を盛り上げようとするだろうし、そういう人たちが少なければ当然ジャンルの規模は小さくなり、小さくなったり消えてしまったところで、それはそれ、歴史の流れなんじゃあない?
ゲームセンターの対戦格闘ゲームでは、初心者が筐体をプレイすると、熟練者が参入して、初心者を打ち負かす「初心者狩り」が起こり、初心者が楽しめない、参入者が減ってそのジャンル自体が衰退、ということもあったようです。
スポーツ競技でも似たようなことが起きると言うが、まあ結局この社会、やさしいいい人なんてほとんどいないし、本当の意味で賢い人間もほとんどいない。
とにかくどんな分野でも、事実上楽しくなければ、人は去っていくだろう。
ハドソン『新桃太郎伝説』(スーファミ版)の攻略本『新桃太郎伝説 究極本』(KKベストセラーズ 刊)で、作者の さくま あきら が、読者インタビューにこう答えています。
読者「ゲーム中、もっとも印象に残ったシーンはどこですか?」
さくま氏「作者はシナリオの答えを知ってるので、もっとも印象に残るとかそういうのはありません」
これは明らかに質問の仕方がおかしいし、不適切だろう。最も印象に残ったシーンって、…これはゲームと物語を受け取った側が感じる事じゃない? 。
- ティッシュテスター
作者バイアスでバランスが分からなくなるのは作者だけではなく、テストプレイヤーやデバッガーも、そのゲームに慣れてゆくと、次第に感覚が一般プレイヤーとずれていき、適切なバランス側が分からなくなっていく。
このことに関して「ティッシュ テスター」(tissue tester)という言葉があるらしい。つまりティッシュは一度きりの使い捨て、新鮮にゲームを見てバランスを判断できるテスターも、最初の一回きりということ。最もテスターも仕事としてそれをやっているのだから、使い捨てにされたらたまったもんじゃあないけどね。
「フレッシュミート」(新鮮な肉、fresh meat)とも言うようですね。
どちらにしろゲーム業界の連中が、他人を雇うということをどう見て考えているか、よくわかる言い草だね。
要素の相互関係
編集概要
編集調整は、関連あるものを、まとめて同時期に、ただし1個ずつ、行う[42]。
だから、関連ある要素を実装しきっていない段階では、調整はない。だから開発の最初の方では調整しないだろう。
しかし、場合によっては、要素の実装をそろうのを待つと調整開始の時期が遅くなりすぎてしまい、計画に支障が出る場合があります。そういう場合、ある程度のまとまりのある実装ができた段階で、調整をするようです。
具体的な調整の判断基準については、参考文献『ゲームデザイン プロフェッショナル』を買ってお読みください。
しかしここで釘を刺しておくが、 Wikiは決して読書ガイドではない。システムとして多人数の協業の手段を提供しているだけで、あくまでもWeb上のコンテンツ、文書に過ぎない。ウィキペディアが出典主義なのは、協業上の文章作成として、信頼度を保つための方法として、その姿勢を採用しているだけで、この場合も読書ガイドではない。
原則としてWikiは、文書として独立、完結しているもので、市販本と等位の存在、しかも基本無料、だからと言って市販本より質が悪いとは限らない。
ゲームデザインなんちゃらという本が最初から素晴らしいと思っているのなら、アマゾンで検索してその本を購入すればいいのであって、Wiki を読む必要も、関わる必要も、書く必要もない。
さて、バランス調整を実際にどうするのか、そしてそれ以外でのゲーム創作の総合的な知見、感覚は、例えば『RPGツクール』で実際にゲーム制作に手を染めれば、おのずと理解が深まっていくだろう[34]。
マップと敵
編集ゲームのバランスには、様々なパラメータがかかわる。敵の強さ、マップの構成、各種アイテムや装備品の強さ、要素とその関係が上手に整理された時、ゲーム全体がバランスの取れた、プレーヤーにとって楽しい、続けていたくなるゲームになるのだろう。
宝箱もマップの要素。敵の強さだけではなく、宝箱の中のアイテムも、ゲームバランスに影響を及ぼす。そこでマップが実装された後でバランス調整するのが好ましい。
しかし実際には、マップ実装は時間も手間もかかる。マップはステージと物語の世界観も反映しているので、そう簡単にトントンと決まらない。
マップに敵を組み込む方式で調整する場合は、マップ実装が済まないとバランス調整はできない。
- マップを作ってからそのマップに敵を組み込んでみてプレイしてみて、敵の強さを決める?
- 敵の強さを決めてから、マップを決める?
- マップと敵を別々に決めてから、最後に組み合わせて微調整?
色々な方法があるが、とにかく物事、自分たちに都合のいいようにしつらえられていることはほとんどないので、迷いながら現実に打つ手を見出すしかないだろう。
始めよければすべてよし? 或いは終わりよければすべてよし? いやいや、どっちにしろ全然駄目なこともあるよ^^
編集とはいえ、まずは始め。バランス調整もまず序盤を多めにプレイして、面白いバランスを見出すのがいいようだ。
やはり始めと終わりが重要で、中盤は多少いい加減でもなんとかなるらしい[43]。
アニメーション業界でも、とりあえず始めと終わりに力を入れろという考えはあるらしい。テレビシリーズでもとりあえず一話と最終話に力と予算を費やしている場合は多い。
結局最初は気合が入っているが、最後に向かってドタバタして、事実上最初に力がやけに入っていた、ということは起こるだろう。
あと現実問題として、RPGのバランス調整は、主に敵の強さを調整している。味方の調整や装備品の調整はあまり行われない。慣習的にそうなのか、あるいは何らかの合理的な理由があるのか、は、不明。とはいえ味方の値は、プレイヤーやプレー状況によって変わる経験値を持った全体を通じた可変値だから、こちらで調整するほうが事実上難しいだろう。
スーパーファミコンRPG『新桃太郎伝説』では、最終ボスのパラメータのほうを調整していることが、攻略本、『新桃太郎伝説究極本』に書かれている。(調整前はボスはもっとHPが多かった。)
しかし味方キャラクターや装備品の数値を全く調整しない、と、いうわけではない。敵の能力値は大きく変更して調整するが、味方関係は小さな変更になるのだろう。
そして結局常識的には、序盤から順番にバランス調整していくしか道はない。
そのため、過去のゲームでは、ゲーム後半の調整がうまく機能せず、極端に難しかったり或いは簡単すぎたり、そんな場合も多かったようだ。ドラゴンクエスト2の後半ダンジョンであるロンダルキア洞窟とその次ステージがその典型例という指摘もある。
- 手戻りを防ぐ
調整の際、「せっかく調整したのに、その後前提データが変わってしまったので、再調整、前に戻ってやり直しが必要になる」という手戻りが発生しないようにしたいですね。序盤のパラメータを一度調整したら、中盤以降の調整では原則、もうそのパラメータを大きく弄らない。同様、中盤の調整が終わったら、終盤からの調整ではもう中盤のパラメータを変更しない。
そこでパラメータは原則定数であり、数式で決めずに、その定数での状況を実際にプレイして確認する。
仮に一次関数や二次関数などの数式などでパラメータを決定するプログラムを内蔵すると、たとえば中盤の調整でその関数の係数を弄った際、序盤のパラメータまで変更されてしまう。
スーパーファミコン時代のRPG で、武器、装備品の強さのパラメータを調べると中盤での武器のランクアップの上昇幅は、おおむね一定、たとえば約10 ポイント間隔が多い。
しかしこのパラメータは定数にしたい。「ランクアップごとの攻撃力の上昇幅を10にする」などのプログラムは避けるべきです。
それをすると、もし中盤以降で「ランクアップごとの武器上昇幅を12にしたいな・・・」となったとき、せっかく以前に確認した序盤の装備品の強さまで変更されてしまう。そして序盤のパラメータが変更されるたびに、実プレイによる調整をやりなおしになります。
世界中のゲームには多種多様なゲームがあるので、もしかしたら装備品のランクアップごとの攻撃力の幅を1個の数式で計算するプログラムを導入しているRPG作品もあるかもしれません。
そういう作品の中にも面白い作品があるかもしれないので、出会ったら真似したくなる、とは、思います。ですがそれは調整が難しくなる。調整不可能ではないでしょうが、あらゆる人にとって調整のハードルは高くなるでしょう。
アルテリオス式(攻撃ダメージ=オフェンスの攻撃力-ディフェンスの防御力)の特徴として、ほんの些細なパラメータの違いにより、大幅に戦闘の難易度が変わることがあります。
極端な場合、防御力 80 の敵に対して、プレイヤー側の攻撃力の合計値 79 ならば攻撃ダメージがゼロになるので、絶対に敵に勝てません。
一方序盤のボス戦で、そのボス敵が防御力80,HP 5 なら、もし武器装備時の調整前のパラメータが攻撃力81なら、たった5ターンで勝てます。(81-80=1 でターンごとに1ダメージ与えるので。)
そして調整後に攻撃力が79に低下したら、ダメージ0になるので、100ターンたとうが絶対に勝てません。
このようにアルテリオス式では1~2ポイントの差で大きく戦闘バランスが変わることがあります。
このWikiの執筆者たちの推測では、手戻りが発生するような調整をしてしまった場合、実プレイによる確認が必要になる。これを避けるためには、敵の防御力を低めに設定、丈夫な敵は防御力ではなくHPを高くする、または最低ダメージ保証(たとえば「原則、攻撃力の1割以上のダメージを必ず与える。メタル系などは別途プログラムを組む。」とか)、などのシステムが必要になるでしょう(推測)。
ちなみに wikisource s:プログラマが知るべき97のこと/共有は慎重に にも似たような話題があります。
私がコードをライブラリ化してしまったことで、それを利用する部分には依存関係が生じました。まるで、一本の靴ひもを、両足の靴に通したような状態になったのです。ライブラリのコードを1行変更しただけで、その影響は複数箇所に及びます。互いに独立していた時なら、該当部分の保守コストは無視できるほど小さかったのに、ライブラリ化してから、変更のたびに大変な手間をかけてテストをする必要が生じました。
本来なら実際にプレイして確認すべき箇所で、むやみにパラメータを数式化してしまうプログラムを採用してしまうと、上記のwikisourceの例のようにテストの手間が大幅に増えてしまいます。
ちなみにこのウィキソースの書籍は、ちらりと見た感じでは、現編集者もいい本ではないかと感じた。
この本の一番最初に書いてあることは、すべての Wikimedia執筆者、全てのWeb上の発言者、すべての現実の生活者も頭の片隅に入れておくべきことだと思う。
以下引用します^^
何をするにせよ、常に分別を忘れてはならない。自分のしたことがどういう結果を生むか、よく考えるのだ。—作者不明
ゲーム理論は基本、数学上の議論で、様々な社会科学上の問題に関連する発想だと考えられています。数学者フォン・ノイマンと経済学者モルゲンシュテインの研究が契機で、現在まで様々な発展をしているようですが、典型例ではw:囚人のジレンマの議論が有名です。
宗教学者、人類学者の中沢新一氏は、ノイマンのゲーム理論では昨今のコンピューターゲームについては十分に説明できない、と語っていました。(ただし出典不明、Wiki著者の記憶も不鮮明)。最近の中沢氏は、ゲーム産業に関心を持ち、コンピューターゲームのイベントにも登壇しているようです[44]。
ゲーム理論では、複数の主体が相互関係を持った時どう行動するか、それを数学的に分析していきますが、主に人間の社会行動を議論したい時に、理論的な根拠として提示されるものです。
一方コンピューターゲームは、娯楽としてのゲームそのもの、しかし人間の行動を規定する相互作用でもある。
中沢は特に言及していないですが、数学的にモデル化するなら、政策応用なら「国際情勢」など外交的な制約によって出力にとりうる値1個あたりの幅や個数が2~3個に限定されたりのような、値の個数が十分に小さくて有限の整数個の場合でないと、なかなかゲーム理論の応用は効果を発揮しません。
↑上の段落の記述はこのサイトの一Wiki著者の言及ですが、参考までに無編集で掲載します。
人間の社会行動を議論し解明するためのゲーム理論ですが、我々がコンピューターゲームをする、というのも一つの行動、社会行動ではありますね。
ゲーム制作に関する参考書類でもゲーム理論について語られることはありますが、詳細に具体的に、ゲーム制作とゲーム理論の関係性について解説されることはあまり無いようです[45]。
キャラクターのレベル上昇とバランス調整
編集ハドソン社の慣習では、新しく訪れたダンジョンでは、「レベルが3上がると、敵を1撃で倒せるようにすべし」、としている[46]。この基準はゲーム界では有名な言葉らしく、スーパーファミコン時代の桃太郎伝説シリーズは、この調整のはずだ。
RPGのダメージ計算式
編集特化型が有利
編集ファミコン時代から現在に至るまで、特にRPG で、平均的に能力を持つキャラクターよりも、「○○だけなら自分が一番強い」という特化型のキャラクターの方が戦闘で強くなるようです。平均的なバランス型は器用貧乏に陥ってしまう。[47]
そしてゲームの戦闘のダメージ計算式は、一般的に、プログラマーではなくゲームデザイナーが考えます[48]。
では特化型が有利になるのはなぜか?
たとえば、キャラクターに能力をプレイヤーが自由に選んで振り分け配分できるシステムのゲームがあったとしましょう。(商業ゲームでも、いくつかの作品で、似たようなシステムのRPGがあります)。そう言えば comico の過去の公式掲載漫画、『マジカルゴ』でも、魔法少女たちにそうやって能力を振り分けていましたね…。もちろんこれ、雑談!!^^。
合計値を 100として…
- 作成キャラの能力例
ちから: 10 たいりょく: 30 しゅびりょく: 10 すばやさ: 40 きようさ: 10
そしてもう一人…
- 平均型キャラA
ちから: 20 たいりょく:20 しゅびりょく: 20 すばやさ: 20 きようさ: 20
- (※ 合計100)
さらに…
- 特化型キャラB
ちから: 40 たいりょく:20 しゅびりょく: 30 すばやさ: 5 きようさ: 5
- (※ 合計100)
ここでA と B をコンピュータ上でRPGの戦闘システムのアルゴリズムで対戦させると、ほとんどの20世紀のプログラムでは、B のほうが勝ち、つまり特化型のほうが強くなってしまいます。
さらに書くと、「攻撃力」のような、敵にダメージを与える意味のパラメーターに振り割ったほうが、キャラクターが強くなるゲームが多い。(ファミコン時代から、ウィザードリィ1の攻略本でそう言われていました。敵モンスター『ワイバーン』の攻略法として「攻撃は最大の防御」、と。表紙の黒かった攻略本なので、たぶんゲームアーツの本。『ウィザードリィ攻略の手引き』(MIA BOOKS)かと思われます。)
なぜこうなるかというと、もし攻撃力が上がると、敵を倒すのに要するターン数も減少するので、結果的に敵を倒すまでに自キャラの受けるダメージ量も減るからです。なお、現実の軍事学でも、似たような事が言われており、戦術論ですが、クラウゼヴィッツ(近代ドイツの軍事学者の)は防御重視の作戦よりも攻撃重視の作戦のほうが有利だと述べています。相手が攻撃をあきらめない以上は、相手を攻撃して倒す以外戦闘を終了できない。
やはり平均型は弱い。パラメータの振り分けは多くの場合完全自由ではないが、例えば、ドラゴンクエスト2(ファミコン版)では、サマルトリア王子は弱くなってしまう。ファイナルファンタジー3・5の赤魔導師も、似たような弱点を抱えています。
以下のような指摘もある。
- ・ウィザードリィやドラクエなどの古いRPGのアルゴリズムが、特化型に有利になっているという歴史的な経緯。
- ・命中率などの確率に関わるパラメータ(「器用さ」)のある場合、パラメータ割り振り前から既にある程度の底上げ補正がされている場合が多いので、わざわざ命中率を上げると割り損になる。
- ・「すばやさ」(素早さ)が攻撃の順番にしか影響しない場合、素早さが低くても1ターンに1度は攻撃できるので、素早さを上げるのはあまり意味がない。
命中率に関しては、多くのRPGで、攻撃が外れるのは、プレイヤーに不満感を与えるので、たいていのゲームでは、ゲーム序盤のレベル1のキャラであっても、数値上での「命中率」や「器用さ」などの表向きの命中率が低くても、たとえば「命中率 40」と表示されていても、実際のゲーム内部での命中率は、たとえば+20%されていて、本当の命中率が60%になる場合もあります。
例えば命中率が 80%の場合は、事実は底上げされて 100%ですから、それより大きい値に命中率を決めるのは意味がありません。
勿論プログラムの方で、100%を超える値に意味を持たせて、なんらかの有利が与えられれば、意味を持ちますが、多くの古いゲームでは、100% が天井でそれ以上何もないようです。
ダメージ計算式
編集さて、RPGの戦闘におけるダメージの計算式に、アルテリオス計算式というのがあります。これは、昔のゲーム『アルテリオス』で採用された計算式なのですが、
攻撃側の攻撃力 - 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
という式ですね。
ドラクエやファイナルファンタジーのシリーズの計算式はもっと複雑なのですが、どのRPGでもダメージ計算式の基本的な設計思想・方針はアルテリオス計算式と同じです。
アルテリオス以外のダメージ計算式でも、たとえば
- 1.3×攻撃側の攻撃力 - 0.75 × 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
と、それぞれの項に定数をかけて、少しだけ発展させたものになることが多いようです。
ダメージ式が簡単な方が、バランス調整もやりやすくなりますよね。勿論複雑にしようと思えばいろいろ考えられるでしょうが、結局出来るだけ単純にした方が、プログラム実行上のロスもないし、何かと意義があるでしょう。
さて、以下の式で、
- 攻撃側の攻撃力 - 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
もし自軍の攻撃力が0の場合、敵にダメージを与えられないので(ダメージが0)、絶対に負けてしまいますよね。また、攻撃力が敵の守備力を下回る場合も、絶対に負ける。
一方、「すばやさ」パラメータが戦闘の先攻/後攻の順番にしか影響しない場合、素早さが0であっても、勝つことは可能です。
また、守備力が0であっても、勝つことは可能です。
だからパラメータはそれぞれ意義が大きかったりあまり無かったりして、ゲーム上の強さに対する特性がありますね。
また、
- 1.3×攻撃側の攻撃力 - 0.75 × 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
のように係数を掛けた計算式の場合、
守備力を1ポイント増やしても、その効果は25%減少されます。(たとえばレベルアップの際に上昇パラメータを一種類選べるシステムの場合、守備力を選ぶと損になる場合が多い。最も守備力だけいつまでも上げなくていいのかという問題もあるけどね。)
いっぽう、攻撃力を1ポイント増やすと、効果は30%増しです。
だから当然と言えば当然だけど、各種パラメータの状態や有利不利にはむらがある。しかし一方、ゲーム上の有利不利は、ゲーム展開の全体像で判断すべきものだから、特定の数式だけで議論するのもやや不適だろう。
DPS(Damage Per Second)
編集- ※ 出典は無いが、あまりに有名な概念(らしい)。……と、いうか、多少の知性があれば、こんなこと、誰でもすぐ思いつく。
最近のRPGゲームには攻撃コマンド選択時に「二段斬り」などの技能選択ができます。
技能を設計する時に、ついついやってしまうミスで、見かけの数値に混乱させられて、実際には強くなっていない特技を作ってしまう、そんな事が時々あります。
たとえば特技、『ためる』。次回ターン時のダメージを数倍に倍増し、次回ターンの1回だけ、ダメージを倍増させる
この特技では、次回ターンのダメージが二倍を超えないとあまり意義を持ちません。
『ためる』コマンドを選択したターンは、攻撃をしてませんからね。
通常攻撃
- 1+1=2
ためる二倍攻撃
- 0+2=2
で、普通に考えると結局同じになります。
ファイナルファンタジー3の職業『空手家』の技能『ためる』、は、こういう性質を持っていたという指摘があります。ただ仮にその特質があったところで、そこに気づいた人はその不利を理解するわけですから、それ自体がゲーム性だという主張はできます。
しかしそういう事態を避けるためには、DPS (Damage Per Second)概念が便利ですね。DPS とは1秒あたりのダメージ量、という意味です。
もともと欧米のアクションゲームについての理論研究に由来する用語なので、単位が 秒(second)になっていますが、RPGに応用する場合には単位をターンに変えるといいでしょう。
つまり上述のためるコマンドではDPS(あるいはDPT?) が同じなので、有利がない、だから、後の攻撃ダメージ量を「2.5倍」や「3倍」にするといいわけですね。
さてさらに、
「『ためる』を2回続けると、さらにダメージ量がアップ」などのシステムを導入するとき、必ずDPSを増やすには?
つまり数式を使うと、
- 0 + 0 + x > 3
の xを求めているのですよね。
だから、『ためる』2回後のダメージ量は、最低でも「3.5倍」のように3を超える数値、あるいは整数に限定すれば、たとえば「4倍」とか「5倍」とかになっている必要があります。
KPI
編集Key Performance Indicator という経営的な指標があり、『レベルデザイン徹底指南書』P140 および 『ゲームプランとデザインの教科書』P70 によると、共通しているのは後述の内容です。なお、『ゲームプランとデザインの教科書』P67 によると、オンラインゲームの運営などで使われる用語ですが、特にゲーム業界限定の用語ではありません。
- DAU(Daily Active User)
- デイリー・アクティブ・ユーザー
DAUとは、その日に遊んでくれたユーザーの人数です。
- MAU(Mathly Active User)
- マンスリー・アクティブ・ユーザー
MAUとは、その月に遊んでくれたユーザーの人数です。
- WAU(Weekly Active User)
- ウィークリー・アクティブ・ユーザー
WAUとは、その週に遊んでくれたユーザーの人数です。
- PU(Paying User)
- ペイング・ユーザー
課金ユーザーの人数のことです。その日を課金ユーザー人数をDPU、その月の課金ユーザー人数をMPUと言います[49]。
- 課金率
たとえば、ある月のユーザ数のうちの課金ユーザーの割合など、一定期間中の、課金ユーザーの割合を言います[49]。あるいは単に、全ユーザーのうちの課金ユーザーの割合[50]、の場合もあります。(書籍によって、内容が微妙に違う)
- 継続率
前月と比べて今月はユーザーがどれだけ残っているか、あるいは前週と比べて今週はどのくらいけユーザーが残っているか,のことを継続率といいます。
(以上)
このほかにも、色々な指標があります。
ほか
編集ゲーム技術の応用として、資格試験対策ソフトなどのほかにも、たとえば医学診断への応用で、東北大大学院医学系研究科と仙台放送の開発した 『緑内障の早期発見に役立つゲームアプリ スコアで視野の欠損判定 東北大と仙台放送が開発』,2022年9月14日 16:00 , 2022年11月22日に確認 、と、いうのもあります。
参考文献・脚注など
編集- ^ 川上大典ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日第1版第1刷、P.57
- ^ 川上大典ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日第1版第1刷、P.58
- ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P234
- ^ 『ゲームデザインプロフェッショナル』、P79
- ^ 5.0 5.1 5.2 蛭田健司『ゲームクリエイターの仕事 イマドキのゲーム制作現場を大解剖』、翔泳社、2016年4月14日初版第1刷発行、P78
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』,P342
- ^ 『ゲームプランナーの新しい教科書』、P210
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P.97
- ^ 塩川洋介『ゲームデザイン プロフェッショナル』、技術評論社、2020年10月3日第1刷発行、P.173
- ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P205
- ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.167
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P401
- ^ 吉沢秀雄『ゲームプランナー入門講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日初版第1刷発行、225ページ
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P.61
- ^ https://www.teu.ac.jp/ap_page/koukai/2019_03_3endo.pdf 66ページ
- ^ https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/190731a
- ^ https://www.fantasy.co.jp/edutainment/article/interview16
- ^ STUDIO SHIN『ゲームプランナーの新しい教科書』、翔泳社、2018年3月10日初版第2刷発行、P182
- ^ 吉沢秀雄『ゲームプランナー入門講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日初版第1刷発行、226ページ
- ^ 吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日初版第1刷発行、226ページ
- ^ 吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、228ページ
- ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P60
- ^ 川上大典ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日第1版第1刷、P.254
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P66
- ^ STUDIO SHIN 著『ゲームプランナーの新しい教科書』、翔泳社、2018年3月10日初版第2刷発行、54ページ
- ^ 26.0 26.1 吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日初版第1刷発行、P207および235ページ
- ^ STUDIO SHIN著『ゲームプランナーの新しい教科書』、P198
- ^ 吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日初版第1刷発行、P208
- ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P56
- ^ 『ゲームデザイン プロフェショナル』、P314
- ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.282
- ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P280
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P338
- ^ 34.0 34.1 大久保磨『レベルデザイン徹底指南書』、2016年12月14日初版第1刷発行、P81
- ^ https://news.denfaminicogamer.jp/column05/170905b 2020年12月21日に閲覧して確認.
- ^ http://endohlab.org/paper/whydoplayersdrop.pdf 2020年12月21日に閲覧して確認.
- ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P278
- ^ https://news.denfaminicogamer.jp/interview/200615a/3 2020年11月27日に閲覧して確認.
- ^ https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp1960/43/2/43_2_182/_pdf
- ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.334
- ^ https://newspicks.com/news/4135958/body/ 2021年11月7日に確認→ただし有料コンテンツなので表紙を確認しただけ^^;;;
- ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.182
- ^ 『ゲームプランナー集中講座』、P236
- ^ https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/nakagawa-endo_bb/2 2022年1月18日に確認.
- ^ 『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』、P64
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P.94。
- ^ 川上大典ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日第1版第1刷、P.227
- ^ 『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』、P145
- ^ 49.0 49.1 『レベルデザイン徹底指南書』、P140
- ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P70