ゲームプログラミング/書類/集団作業の場合の書類と書き方

このページの主要執筆者は、ゲーム業界経験者ではないので(2022/1時点)、ここの記述は調べ物としては役立ちません。

2022/1時点でゲームプログラミングと直接の関係ない話題が長い、という問題があるので、より簡潔、かつ分かり易い記事への編集にご協力いただけたら幸いです。もっとも現編集者Hは、解ってるならそれを書いた奴が書き直せ、そもそも余計なことは最初から書くな、…とは思いますが…。

このページは、教科書としてゲームプログラミングの方針を説明する際に、どうしても書類についての説明が必要だから記述されています。現状では、一般IT業界や製造業などの設計図を参考に説明がなされています。

本書の目的

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本書は、ゲームデザイナーのための教科書ではありません。

メインページ、「ゲームプログラミング」の題名どおり、プログラマーのための教科書です。プログラマーがゲーム制作に興味をもって実際に作り始める際に、調べ物の手間を減らすために書かれた参考書籍です。

ゲームデザインに関する解説を望む方は、別途、他の参考資料に当たってみてください。

「仕様書」

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ここでいう「仕様書」とは、ゲームの設計図のことです[1]。しかも職業的に集団でゲームを作るときの書類です。

ではまず、「設計図」とは何か、について、考えていきましょう。これは普通科高校では学習しない事項です。 ゲーム業界では、「仕様書」を含む書類群の「発注書」には、決められたルールや書式はありません。だから作るゲーム内容や製作チームごとに、適切な発注書のありかたを毎回考える事になります[2]

職業的なゲーム開発では、一般に

発注 → 実装 → 調整

というプロセスを経て[3]、最終的にとりあえずの完成になります。

ゲーム産業での「仕様書」は、発注の段階での書類です。

集団ゲーム制作での解説文

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発売禁止になってしまった書籍(おそらく。しかし何故?)『国際おたく大学―1998年 最前線からの研究報告』(岡田斗司夫ほか、光文社)に書いてあった事例なのですが、G.O.D.と言うイマジニア社のRPGゲームに対する大学生(岡田は当時、大学講師だった)の取材があって、そのGODの開発に参加した劇作家の鴻上尚史(こうかみ しょうじ)氏と、エニックスの堀井雄二(ほりい ゆうじ)氏とが、対談した経緯が、紹介されていました。

劇作家の鴻上は、ゲームに演劇のリアリティを入れようとして、スタッフに「間(ま)を意識したシナリオを書いてほしい」と要求したが、うまく行かずに難航したと体験談を述べています。

対談相手の堀井は、鴻上のその体験談に対し「『(※ここで3秒休止)』とか書くと良いですよ」と、指示書で具体的に書くと良い、とアドバイスした、と、岡田の書籍にある大学生のレポートにあります。

おそらくドラゴンクエストのゲーム開発でも、このように具体的な指定を必要に応じて出していた・いるものと思われます。

21世紀現代の、商業ゲームの現場でも同様であり、書籍『ゲームデザイン プロフェッショナル』にもありますが(※かぎカッコ内が引用)、「もっとかっこよく調整してほしい」という問題であれば、たとえば「もっと目立たせたいので、アニメーションのシルエットを全体的に今より少しだけ大きくしてほしい」[4]という具体的な指定が妥当でしょう。

集団作業に必要な書類

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設計図

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IT業界やゲーム業界では、集団作業で制作開始をしようとする際、まず、いきなり設計図を作るのではなく、まず先に試作品(しさくひん、英語で「プロトタイプ」proto-type)のプログラムを作り、企画で考えた各種システムなどのアイデアが有効かどうかを検証します。

そのプロトタイプで、企画のアイデアが本当に有効であるかを確認してから、もし有効だったら、本格的な制作を開始します。

もしかしたら会社によっては、企画会議(もしくは企画の打ち合わせ)よりも先にプロトタイプを作るかもしれません。

さて、会社へのプロトタイプ提出で、制作続行・制作本格化の賛同が会社から得られたとしましょう。

IT業界でも製造業でも、どこの業界でも集団作業で、制作の合意を作るさい、必要な書類は、おおむね、

作業者用の具体的な「完成予想図」

です。

しかしゲーム業界の場合、いきなり完成予想図に相当する「仕様書」は書けないので、書籍『ゲームデザインプロフェッショナル』によるとまずゲーム中の大まかな実装予定事項を記述した『企画概要書』という書類を作成することもあると言われています[5]。ただしこの「企画概要書」は、名前に「企画」とはついているものの、どちらかというと仕様書の方針を大まかに打ち合わせするための書類に近いので、いわゆる「企画書」とは異なります。

なお、一般のIT企業でよく書かれる「要求事項書」は、ゲーム書籍では紹介されていないので、おそらくゲーム業界では書かないのが普通だと思われます。(たとえば『ゲームプランナー入門』(吉冨賢介、技術評論社)や『ゲームプランナーの新しい教科書』(STUDIO SHIN著、 翔泳社)などを読んでも、『企画書』と『仕様書』は触れられていても、要求事項書については全く触れられてない。)

「技術職」

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世間一般でいう「技術職」・「技術者」と、ゲーム業界でいう「技術職」とは、若干、意味が違います。

ゲーム業界では、グラフィックデザイナ-やサウンドクリエイターやプログラマーが「技術職」に分類されます[6]。ゲーム業界でいう「技術職」とは、「企画職」ではないという意味があり、プロデュ-サーやプランナーやディレクターなどの「企画職」でない製作スタッフのことです。なので、グラフィックデザイナ-やサウンドクリエイターも、ゲーム業界では技術職です[7]。プログラマーはもちろん技術職です。

企画書

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  • PREP法

文献『ゲームプランナー入門』でも、企画書に限らず仕事の書類の文章構成として、なるべく結論を先に書いてほしいと述べられています。文献では、その例としてPREP法という文章構成法を紹介しています。

PREP法とは、

Point(結論)→Reason(理由)→Example(具体例)→Point(結論)

という構成の文章法です。

文献では、そのほかにもホールパート法やSDS法などもあると伝えているものの、これらの手法の共通点として、まず結論を冒頭で伝えて、続いて詳細を伝えるという方法であると紹介しています[8]

ゲーム業界だけでなく一般の業界でもよく使われる手法なので、覚えて置きましょう[9]


  • ゲームのルール

文献『ゲームプランとデザインの教科書』によると、ゲームの企画書には、かならずそのゲームのルールが必要です。なぜならゲーム性を決める中心的な要因は、そのゲームのルールだからです。よって、ルールの説明がない書類は、たとえどんなにキャラクター設定や世界観の設定があっても、ゲームの企画書とは言えません[10]

業界志望者などの「企画書」でルールの説明が無いものも多いようですが、しかし企画書にはルールを書くべきだと文献では述べられています[11]


  • プレイ人数

文献『ゲームプランナー入門』によると、新人や志望者がゲームの企画書を書く際、sのゲームの想定プレイ人数を書き忘れる人が多いようです。きちんとプレイ人数を書きましょう[12]。ファミコン時代とは異なり、現代ゲームではRPGであっても1人プレイ用とは限りません。


その他、企画やゲームデザインなどではゴール設定の言語化が必要ですが、たとえば「新しいホラーゲーム」を目指す場合には具体的に何がどう新しいのかを明確にします。「ゲームジャンルが新しい」のか、「テーマが新しい」のか、ターゲットユーザーが新しい」のか、「デバイスが新しい」のか、「ビジネスモデルが新しい」のか、「自社にとって新しい」のか、「日本では新しい」のか、・・・などです[13]

そして、どの新しさを目指すかによって、ゲームデザイナーが調べるべきことも変わります。テーマの新しさなら、既存のホラーゲームのテーマを調べることになります[14]


※ ここから先、セクション末尾まで文章の編集者が異なります。編集者Hによる文章です。なお出典のある部分は編集者Hではなく別の編集者Sによるものです。

企画書に関しては、よくない企画の典型例というのはあるようですね。特に特定人物のネームバリューに依存した企画は良くないし、批判の対象になることも多いようです。ゲームとしては、イラストレーターや声優に超大物を起用することを強調した企画書ですね。

出典として『テリー伊藤のお笑い大蔵省極秘情報』あたり、確実に特定はできませんが、木村拓也のタレント性に頼った企画は、著者のテリー伊藤によってよくない企画の例として指摘されていたようです。

もっともテリー伊藤という人物自身が、ビートたけしの面白さ、彼を起用したことの良さによって世に出て知られるようになった人物なので、そんな事言っていいのかね、などと現編集者Hは少し思いますが…。

また今回の本題、ゲーム業界でもそういう良くない企画書が提出されることは多いようです。元ゲーム業界人でゲーム評論家の あべひろき が、90年代の著書で、過去にゲーム関連会社に勤務してたときの体験談を書いています。企画書の精査をしているときに、「人気声優の○○さん起用!」と書かれていたものがあったが、あべ氏がその声優の所属する声優事務所に確認の電話をとると、なんの商談も声優とも事務所ともされていなかったという事です。

もっとも企画書とは企画に過ぎないのではないだろうか?これらの他人のネームバリューに頼った企画が良くないのは事実だが、企画が通って実現する見込みが決定する以前は、むしろ声優本人や事務所にアクセスすることはないのが普通だろう。

もちろん企画者がその事務者や声優と懇意にしてる場合は、あらかじめ話をする可能性はあるが、しかし企画段階ではそもそも現実のビジネスになる可能性はそれほど高くない。声優や事務所にとってもその段階でもっともらしく話をされても、むしろ困惑するだけではないだろうか?

ただこういう他人任せの企画は、「プロデューサー的企画」と呼ばれるようです[15]。クリエイティブな企画とは言えないわけですが、しかし商業的な娯楽作品には、クリエイターだけではなく、プロデューサーも絶対必要でしょう。

一般に企画でも他の仕事でも、他者の力や権威、その後の作業などに頼り切った態度は、どんな場所でも嫌われて批判されますし、それは職業の場だけではないでしょう。

また、ゲームの企画に関してもう一つの話題として、アメリカでも売ることに成功したドンキーコングの、ディレクターの宮本茂(任天堂)は、「人間の生理的なところを体感できるゲームを作れば、それがユニバーサル」、だと、語っていたようです[16]

「仕様書」、「企画書」

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商業的なゲーム制作では、一般に、

発注 → 実装 → 調整

の過程を辿ります。

そして発注段階で重要な書類は、「企画書」と「仕様書」の二つです。まず『企画書』で作るゲームのコンセプトを固めてから、あとで『仕様書』で、より詳細に内容をを決める、という順序をとります[17]

企画書[18]は社内だけでなく協力会社にも見せる資料であり、開発者・協力者に対して手短かに、そのゲームの全体的なコンセプトを伝えるためのものです。

仕様書は、ゲーム制作では「設計図」であり、「完成予想図」であるといっていいでしょう。企画書よりより詳細にゲームの内容を決め、指定しています。

さて、話を進める前に、商業的に集団でゲームを作る場合の他の書類や必要事項の名称について、ここで簡単に書いておきます。

まず「発注書」とは,発注時に作られる、必要な書類群のことでしょう。「企画書」と「仕様書」も含みます。

「指示書」はむしろ、実装や調整段階でなされる、具体的なゲーム演出上の指定でしょうね。

試作品(しさくひん、英語で「プロトタイプ」proto-type)や企画会議(もしくは企画の打ち合わせ)なんて言葉も出てきますが、こういうのはあえてクドクド説明しなくても、直感的にイメージわきますよね。

『企画概要書』とは企画書とは異なるもので、仕様書に準ずる書類で、仕様書の方針を大まかに打ち合わせするためゲーム中の大まかな実装予定事項を記述している書類です。

『原案書』[18]は社内だけで企画がペイするかどうかの検討を決算書などを参考に分析・会議するための書類です。

こういう書類や用語に関する言葉の使い方は、商業的集団的なゲーム制作の場として妥当と思われるものをまとめてみましたが、もちろん職場によって、会社によって使い方や意味が微妙に変わってくる場合はあるでしょう。

さらにゲーム以外の一般IT業界や製造業でもそれぞれの慣習があり、今回の説明が成り立たない、そしてそこはより一般的な職場ですから、それぞれより一般的な言葉の使い方があると思います。

さて、コンセプトの具体例として、書籍『ゲームプランとデザインの教科書』によると、たとえば『ポケットモンスター』のメインのコンセプトは、「通信ケーブルを伝わって、ポケモンが入ったカプセルが移動して交換する」、が始まりだそうです[19]

また、書籍『ゲームプランナー入門』(吉冨賢介 著)によると、『メタルギア』シリーズのコンセプトは、「敵に見つからないように進む」、とのことですね[20]

イラストや音楽の発注は、一般的には企画が決まった後でしょう。

そもそもイラストレーションや音楽を対価を払って提供してもらったとして、それを実作品に使用しないのは、作者にとっては不本意なことだと思います。

アニメーターの故大塚康生氏は、アニメーション演出家が安易にアニメーターに大量の絵を描かせ、そこからいいもの、利用できるものだけ取捨選択する方法を批判していましたし、一般的に手仕事には作者の思い入れがありますから、安易な大量生産品と同じ取り扱いはできないと思います。

もっとも一方で、あるアメリカの日本人アニメーターが、同僚の日本人アニメーターが、自分の描いたものを日本の家族や友人たちが見ることができないことを不満に思っていた、という事を批判的に語っていたのを、現編集者は聞いたことがあります。

しかしゲームの場合、例外的にイラストや音楽が先行する場合はありますね。

RPG『クロノトリガー』は、企画の当初からイラストレーターをつとめた漫画家・鳥山明のイラストがあって、それをもとに作品を作ったと、鳥山のマンガの編集者であった元・少年ジャンプ編集の鳥嶋和彦は述べています。[21]決めシーンなどのキービジュアルを先に決め、それに合うように設定を練りこんでいくという方式で、クロノは作られたようです。

企画書の制作ツールとしては、清書としては、オフィスソフトの「PowerPoint」と、アドビの「Illustrator」、または、アドビのソフトウェアは高価なので代わりにフリーソフトの「Inkscape」および「GIMP」がよく使われます[22]。なお、Illustrator および Inkscape は、ベクトル画像を描画するソフトウェアです。

ただし、下書きなどでは、タッチペンと何らかの画像ソフト、またはタッチペン用メモソフトで下書きすることもあります。

業界で、ゲームプランナーと呼ばれる職種は、仕様書作成や進捗管理、テスト&デバッグ、スタッフとのコミュニケーション、などが仕事ですね[23]

また、ゲーム制作に関して、だれもが様々なアイディアを持っていると思いますが、メモを取って、もし忘れてもメモで思い出せるようにするといいですね[24]

アマチュアの企画なら、実際にプロトタイプ(プレイできる試作品のこと)を作って実作品で企画、仕様を説明してしまったほうが早いかもしれません。

参考文献『ゲームプランとデザインの教科書』でも、(試作品を)「ゲームプランナーを志す中で企画書や仕様書を書きながら、ぜひ自分でも作ってみましょう。プログラムや3Dモデルを簡単なものでいいので作ってゲームに仕上げてみましょう。」と述べています[25]

上記の本の図表によると、企画書では、「競合情報」、「世界観」、「ストーリー」なども記述して欲しいようです[26]。世界観とストーリーが分けられているのです。

物語とその舞台ですね。我々自身もこの世界で自分という役を演じている役者ですよね^^

ゲームの企画書とアニメーションの企画書

商業アニメーションの世界では、企画の段階でストーリーの概要が決まっているようです。ただこれは、アニメーション作品の企画として、当然に必要とされる要素であるから記述されているわけで、実制作の過程で、実際のスタッフの意向により大幅に変更されることもあります。また、これらの企画では、キャラクター設定やキャラクターイラストのデザインも当然必要であり、かなり明確な形で提出されています。

たとえば、アニメ業界の企画書ですが、1990年代のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の企画書の掲載されている『新世紀エヴァンゲリオン (ニュータイプ100%コレクション) 』(1997年2月28日初版発行、85~88ページ)を読むと、『企書画』の段階でもう、キャラクターイラストが主役だけでなくその友人や周囲の大人なども含めて、ほとんどのキャラクターでイラスト紹介されており、さらに全部の話数ぶんの粗筋と見せ場・意図を2~3行ていどで説明しています(ただし第1話と最終3話(24~26話)のみ説明が5行以上くらいと長い)。

因みに現編集者は実際にアニメーション業界で企画書を書いたことがありますが、その時に上司、制作会社の重役に指摘されたのは、1クール(3か月)か2クール分の実際のストーリーの具体内容を書いてほしい、との事でした。

一方ゲーム業界では、そういうキャラクター設定やストーリーは、企画段階では決まっていなくて、もし書かれていても邪魔だと感じられるようです[27]

業界の企画書で、強調してほしい内容とは、ゲームシステムと、そうシステムを設計した根拠のようです。なぜなら、ゲームの企画書でいう「コンセプトが重要」、と言う際の「コンセプト」の意味とは、ゲームシステムやゲームルールを設計した根拠のことだからです[28]

とはいえ、ゲーム業界の企画書でも、ゲームの世界観が「中世西洋ファンタジー風」なのか、「現代日本」か、「近未来SF風」なのか、などの設定はある様です。ネット上で公開されている商業ゲ-ム企画書からその様子が分かりますが、しかし、最初の企画書の段階で決まってる世界観はその程度まで、です。

背景としては、ビジネスモデルが根本的にアニメーション業界とゲーム業界とでは違う、という事情があるのでしょう。

キャラクター重視の物語論

アニメ―ション業界のビジネスモデルは、キャラクタービジネスだと言われています。1990年代の徳間書店のアニメーションに関する書籍(アニメージュ10周年記念)で、徳間の編集者が1980年代のアニメ業界を振り返ると、これはキャラクタービジネスだろうと、たとえば銀河鉄道999のアニメ―ションの人気も、メーテルなどのキャラクターの人気なのだという分析があり、アニメージュ創刊当時の『銀河鉄道999』特集では、ストーリー解説ではなく、キャラクターに焦点を当てた記事を組んだと、述懐(じゅっかい)しています。

また、漫画産業もキャラクター重視のようです。主人公に共感させるための様々な演出が凝らされている。そして主人公が身近に感じられることが重要だと指摘されています[21]

これは日本人が物語軽視というよりは、海外でも同様であり、むしろ物語とはキャラクターを描くという要素が非常に大きいという事でしょう。多くのミステリの中でも「シャーロック・ホームズ」や「007」の人気が非常に高いのも、キャラクター性と結びついた作品だからでしょうね[21]

1982年頃『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』では、おおむね「マンガとは人間を描くことだ」という主張がなされています。

現編集者の記憶では、漫画がキャラクターだという主張を強くしたのは、漫画原作者であり、劇画村塾の開設者である、故小池一夫氏でしょう。上述の書籍の共著者、さくまあきら氏も、劇画村塾出身ですから、さもありなんということですね。

アニメ評論家の岡田斗司夫氏は、対談集『マジメな話』で、「古代ギリシア人や古代ローマ人はとても論理的で学問も発達していたが、一方でギリシア神話やギリシア悲劇が普及していた、人間には物語が必要なのだろう、自分達の社会の仕組みを、物語になぞらえて理解する、物語が学問や科学に匹敵する」といったことを述べていました。

ギリシア神話では実に人間的な神々の物語が語られていきます。

また、政治学者小室直樹氏は、別の書籍、おそらく、『日本人のための宗教原論』あたりで、「幼少期の子供にとっての、父親の力強さと畏怖のイメージ」こそが神のイメージだろうと述べています。ギリシア神話の最高神ゼウスは、明らかに父性を示していますよね。

これはユダヤ教やキリスト教の神のイメージだと考えてもいいと思います。この辺w:父なる神あたりに面白い記述がありますし、一方でイスラム教は神に父性を見出さない、などの興味深い分析も書かれています。

また、RPGゲーム『真・女神転生』では、裏設定ですが、作中の「悪魔」とは、力の象徴であり、それは父親を暗喩しているというコンセプトがあります(たしか公式ファンブック『CLUB邪教の館』あたりに記載がある)。だからこのゲームの主人公は、父親がいない母子家庭の子供だという事になっています。

ゲームにおけるキャラクター

ゲームの世界は、ソーシャルゲームや美少女ゲーム等はありますが、一般的にはキャラクター重視のメディアではないようです。シューティングゲーム『ゼビウス』のキャラクター性とか、『平安京エイリアン』のキャラクター性など、想像力を最大限に駆使すれば見出せないことはないですが、常識的にはキャラクターの魅力は提供されてはいないでしょう。

ゲーム学という概念を推進している人達は、ナラティブ(「叙述」という意味)といって、スーパーマリオなどのように作中にストーリー説明文が無いゲームのことを説明しているようです。

今現在では、可愛いキャラクターや恰好いいキャラクターを作品に取り込めるのなら、それを除外する必要はないでしょう。しかし現実の人気ゲームでは、キャラクター性があいまい、あるいはほとんど見出せないゲームも多いですよね。

ゲームのキャラクターは、開発途上で変更される可能性もある。海外展開しているゲームは、相手国の風習、社会状況に合わせて、キャラクター設定を変える場合もある。

今現在は、ソーシャルゲームでもキャラクターゲームは人気ですが、昔はそうではありませんでした。1990年代は、多くのゲームファンの間では、「キャラクターゲームはつまらない」と言われていました。

2002年にシリーズ発売開始されたRPG『ドットハック』シリーズの企画コンセプトは、面白いキャラクターゲームを実現することであり、2003年当時の社長(松山洋)がラジオ番組『ドットハックレイディオ』に出演した時に、「キャラクターゲームがつまらない」という一般的に言われている常識を打破したい、それがコンセプトだ、と述べていました。

しかし実際には1990年時点で魅力的なキャラクターゲームもありましたし、大ヒットすることは無くても、一部の大きな人気は得られていたようです。

企画が実制作に移ること

1990年代後半に書籍を出し始めた、元ゲーム業界人・阿部広樹氏は、ゲーム会社から請け負って、そこで頓挫した、或いは難航した企画を練り直しする仕事をしていたようです。彼の著作ではその経験、経緯が語られています。

扱った一つの企画が、ガンダム風の巨大ロボット操作ゲームで、企画として完成度の高いものでした。

主要機体の巨大ロボットのグラフィック設定画は線画が完成していて、機体パイロットである主人公の顔グラフィック線画もある、ロボットの設定サイズ(「全長○○メートル」、「主要武器:○○」など)なども含む、仕様書がすでに用意されていました。

機体の名前には「メタトロン」や(たしか)「サンダルフォン」と、ネットの普及していなかった当時では調べるのにも手間のかかるユダヤ教の大天使の名前がつけられていました。

阿部氏も、このゲームは実現するだろうと、期待を込めて企画を進めていたようです。

しかし現実にはこのロボットゲーム企画は対象のゲーム会社では採用されず、実際に制作されることはありませんでした。このようにゲームの企画は、企画だけで終了してしまうものが沢山あります。

一般的に商業ゲームの製作は、本当にペイするかどうか、経営者や出資者の審査、判断の上、実制作に取り掛かるでしょう。

企画を作る方も仕事として取り組んでいるのですから、「没になるかもしれない」といって手抜きするはずもなく、内容的にも、前設定の完成度としても、どれも相当の力と手間暇をかけて企画を練りこんでゆくでしょう。

しかし結果は結果としてありますよね。採用される保証はないしされないほうが実際多い。その判断が正しかったかどうかはまた別の話ですがね。

他業種、一般的な意味での『企画書』

企画書にもいろいろな段階があります。

  1. 本当に企画の初期段階の、内部関係者しか見ない、思いつきを書きなぐったような企画提案の書類(厚さはせいぜい2~3ページくらいまで?)
  2. 企画が熟成してスポンサーや外部に見せられるようになった段階、もしくはその直前くらいの企画書(10ページを超える程度)
  3. パワーポイントなどを使ってプロジェクタ-で見せるプレゼン資料の「企画書」

多くの業界の企画書で学生や外部の人間が見るのは 2.か 3.でしょう。

1990年代後半のゲーム評論家の阿部広樹の他者との共著による書籍によると、彼はゲーム業界で企画に関するトラブルを解決する仕事をしていたようですが、ある案件で、「当時の人気アニメ声優を起用!」など書かれた企画書をトラブル解決のために扱いましたが、彼らが調査した時には相手先のアニメ声優および声優事務所には全く話が行っておらず、対応にも難航したようです。ただ、本Wikiの別の場所でも指摘しましたが、企画時点では、その手の手続きを踏む必要はないでしょう。企画は企画にすぎませんし、実現の見通しが大きくはないその時点で話を持ってこられても、声優も事務所も、対応しようがないと思う。ただ、前編集者の記述では、許可をとれそうな見込みもないと書いてあるから、よほどのビッグネーム声優、要するにその声優の知名度だけをあてにしている企画ですから、悪い企画の例として非難されても仕方ないのかもしれません。しかし現編集者がさらに邪推、想像するに、彼らに企画トラブルの解決を依頼したゲーム会社は、自分たちは零細で知名度もパワーもないので、とてもその有名声優にはアクセスできない、ですからトラブル解決を稼業にしている業者なら、上手にその声優にアクセスしてくれるのでは?という期待があったのではないでしょうか?だとしたら、この事案に対する阿部氏らの態度、そして後になってわざわざ自らの著書でその出来事、関係者を愚弄して、それで自分たちが正しいかのように言うこの人物の姿勢は、職業人、仕事人として問題があるのではないでしょうか?

さて、ある程度企画が本格化してくると、スポンサーに提示するプレゼン用の資料とは別に、詳細な設定や企画意図を説明する、「詳述企画書(ここでの仮の名称)」も作られていきます。この書類は今後の作業のためのひな型の意味もあり、具体的にどんなキャラクターが出てくるか、イラストなども描かれます。

因みに、「ゲーム 企画書」でグーグル検索してみると、企画書としては 1.~3. そして今書いた「詳述企画書」が混然と表示され、書類として種類や趣旨は明確化されていないようです。企業が求職者を採用するために、企画書を求める場合は、プレゼン資料が最適のようですね。採用担当者にとって一番読みやすい資料だからでしょう。

企画書として、説得力のある内容なら、採用され実制作に移る可能性も高くなるのでしょうね。そのために指摘される事として、冒頭部分で、この企画と既存の作品の違い、今までの状況からの改善点、そして実際の改良の実現の見通しと方針を示すといい様です。これは「企画意図」や「コンセプト」と呼ばれますね。

「改善点→(競合他社の)現状説明→改善案の詳細」を、詳細企画書で段階的に説明するといいですね。新聞記事の書き方で、起承転結ならぬ「結・起・承」(けつきしょう)というのがあるので、それを参考にするのもいいでしょう。

また、売り込み先の消費者として想定しているターゲット層の指定も必要です。年齢はいくつくらいなのか、性別は男か女か、などですね。

企画の詳細を作りこんである場合や、すでにゲームソフトを実装してある場合のシステムの説明では、単にフローチャートを図示するだけでなく、そのシステムでプレイヤーは何ができるのか、簡単な遊び方の概要説明、等を加えるといいですね。

日産自動車の社外ゲスト講演会の例

別のコラムで自動車会社の例が出たので、ついでに話します。

自動車会社の日産自動車では、過去に製造業とはまったく関係ない異業種のベテランなどをまねいて、 ニッサン社内の営業マンや企画担当などに対して講演をしてもらうことをしていたことがあります。その講演会で、アニメ会社の人を招いて日産社内で講演してもらった事例もあります。

テレビアニメ『輪廻のラグランジェ』が2012年に放映されていた前後、日産がそのアニメに取材協力などで協力していたので、CG雑誌などで日産の講演会の例が紹介されていました。

アニメ業界では、実在しない物体のイメージを、勘に頼るなく絵コンテなどで安定的に設計してイメージ共有するので、 ほかの業界でも企画などの参考になることもあります。

実際、日産の社員はそのように考え、なので、アニメ会社のお偉いさんに講演してもらったあと、「もっと話を聞かせてほしい」とアニメ業界の人に要望し、 それによって「では、この会社(のちにラグランジェ制作するアニメ制作会社)を紹介しますね」という感じで紹介してもらったアニメ会社との講演が背景となって、 のちにアニメ『輪廻のラグランジェ』が制作される際には取材にも快く(こころよく)協力させていただくことになった、という経緯があります。

さて、ゲームの『仕様書』はそのゲームの設計図なので、起こりうる全てのパターンを網羅して設計を指定する必要があります。


検品、検収

さて、一般に技術系の業界では、図面などの設計図は、検品のさいのチェックリストを兼ねています。(ただし、ゲーム業界での「仕様書」が検品チェックリストを兼ねているかどうかは、出典不足により現状2022/01月では不明です。)

ただし検品自体はゲーム業界でも当然ながら行われており、協力会社などから納品されたプログラムなどが仕様を満たしているかを検品します。

そして、納品された成果物が検査に合格したら、それを合格物として認めたうえで発注者が(協力会社などからの)納品物を受け取ります。


発注者が、協力会社などから送られてきた納品物を検査(受け入れ検査)して、合格していることを認めたうえで受け取ることを「検収」(けんしゅう)といいます。 ゲーム業界でも『検収』という用語を用います[29]。ゲーム業界の仕様書を書く場合も、こういった検収のことを考えて書くべきでしょう。


ゲーム業界の場合ですが、もし、納品される品物が仕様を満たしてない場合、けっして合格品としてはいけず(つまり「検収」してはいけず)、(発注者は)協力会社に作り直しを要求します[30]


なお余談ですが、営業マンなどが見積もりをする場合、ゲーム業界では仕様書をもとに見積もりをする[29]ようです。

ただし、外注テストなどは別でしょう。書籍『ゲームプランとデザインの教科書』によると、最近はテストを外注に出す場合も多いので、その場合、テスト用の資料を作成する必要が生じます[31]

なお書籍『ゲームプランナー入門』(吉冨賢介 著)によると、バグチェックであっても、(※カッコ内wiki補: 外注でない場合などは)「仕様書」がバグチェックのための判断基準としての資料になります[32]

原則、「仕様書」に書かれてある仕様こそが「正しい」仕様です[33]

また前提として、開発後半のデバッグ段階などのバグチェックの段階に入る前に、仕様書を最新のゲームの状態とそろえなければなりません[34]

そもそも知能労働の現場での作成工程は

編集

まず完成予想図を示す

編集

仕様書はゲームの設計図です。仕様書のとおりにプログラマーやグラフィッカーは作業をすすめます。ただしゲームの場合、いきなりは完成図を決めるのが困難な場合があります。その場合、段階的に、決められることを先に大まかに決めていくようです。実際、文献『ゲームデザイン プロフェショナル』によるとゲーム業界でも会社によっては、大まかな「企画概要書」と、より詳細な「仕様書」により、段階的に仕様を決めていったりするようです[35]

なお、書籍『ゲームデザイン プロフェッショナル』によると、ゲーム業界でも、(設計図ではなく指示・発注ですが)あいまいな指示や発注は事故のもとだと、認識されており、たとえば「とにかく、かっこいい感じでお願いします」といった指示は事故のもとだと認識されています[36]

もちろん後述のゲーム業界での「裁量」のように例外もあります(なお国語的には「原則」「の対義語は「例外」)。しかし、あくまで技術系の仕事での「設計図」というものの原則は、極力、あいまいさがない事が必要なのです。

例外的にゲームの場合、ある程度は発注では、発注相手の裁量にゆだねたほうが良い場合もあります[37]。しかしその場合も、具体的にどういう実装予定のもので、どこに裁量を与えるのかを具体的に依頼する必要があります。これについてはwikiでは短い文章では引用できず、長い文章を引用すると著作権的に問題あるので、裁量の発注について詳しく知りたい人は書籍『ゲームデザイン プロフェッショナル』を買って読んでください。


各機能の完成予想図の決定稿

編集

ゲームソフトにかぎらず、なにかのソフトウェアの完成予想図を描くとき、それぞれの画面を基準にして書くと、相手に伝わりやすいようです。

おそらく、人の目で画面は見えるので、集団内で確認を取りやすいのでしょう。


たとえば、

△△モードの××画面
    Aボタン: ダッシュ(走る)。押すとキャラが十字キーの選択方向にダッシュするようにプログラムする
    Bボタン: ジャンプ。押すとキャラが上方向にジャンプするようにプログラムする

のような、それぞれの画面・モードでの機能の満たすべき情報の一覧の書類を作業者に伝えると、良いかもしれません。

IT用語では、このように、ソフトウェアをユーザー視点でも見たときに製品がどういう条件を満たしているべきかを指定した仕様のことを(IT用語では)「外部仕様」と言います。

なので、ソフトウェア設計者は、すべてのモードについて、こういった(画面仕様などの外部仕様を中心とした)一覧を用意する必要があります。

これが、プログラマーにとっての完成予想図になります。


なお、(外部仕様でなく)「内部仕様」とは、ソースコードがどうなってるか、という仕様です。

ゲーム業界では原則的に、内部仕様については、書かないようです。

ただし、実際は程度問題であり、設計しようとしている項目がプロトタイプのどのファイルや変数に相当するかがゲーム『仕様書』に書かれるのが通例だと、ネットでは言われています。


さて、外部仕様について、「画面仕様」のほかにも「外部仕様」があります。ゲームの場合、アクションゲームのモンスターの動き方のパターンも「外部仕様」であり、あるいはRPGのダメージ計算式も「外部仕様」であり、なぜ外部仕様かというとプレイヤーから見たら確認できるので(つまり外部仕様であるので)、ゲーム仕様書では、それらの仕様(敵の動き方、ダメージ計算式など)も指定することになるでしょうか。

ゲームの仕様書はけっこうな割合が画面仕様が中心的になりますが、しかし画面仕様の他の外部仕様もゲームの仕様書では指定する必要があるので、そこは気をつけてください。

※ 例

編集

完成予想図どうしでは、説明はあまり重複しないようにする必要があります。

なぜなら、もし重複させて他の書類の参照をすると、もしその参照された側の予想図Aで設計内容の変更が起きたときに、参照する側の予想図Bにも設計変更が必要になってしまいます[38]

なので、完成予想図では、説明のための重複は不要です。これは、製造業の製図でも同様です。製造業でも、ひとつの末端部品の図面では、他の図面は参照しないようにします。

さてゲーム業界の話題に戻りますが、学生にはこのような完成予想図の考えかたは、ちょっと分かりづらいと思いますので、たとえばウディタのサンプルゲームを具体例をあげて、説明します。

仮に、このウディタのサンプルゲームを、新たに仕様書として書き起こすとしましょう(仮にですよ。すでにソフトはあるので実用的には、もうサンプルゲームに仕様書は不要です)。

たとえば、ウディタのサンプルゲームは、メニュー画面で、上から順に

相談
アイテム
特殊技能
装備
システム
セーブ

というふうに6つのコマンドがあります。

上から4つめに「装備」というのがあって、それにカーソルを合わせた状態で決定ボタンを押すとキャラクター選択に移り、十字キーで目的のキャラクターを選択して決定ボタンを押すと、装備画面に移ります。


さて、もしこれを仕様書にする場合、たとえば装備キャラクター選択の仕様での説明の文章では、あえて、


装備キャラクター選択画面遷移直後の変化
 メニュー欄に「装備」コマンド位置に決定後カーソル画像「○○○.bmp」を表示。
 キャラクター選択欄のカーソルの点滅が開始。キャラクター選択用の点滅用カーソルの画像は「△△△.bmp」。
   
ボタン押の反応
  キャラ選択欄で十字キーの方向にいる隣または次のキャラクターを選択でき、そのキャラの選択欄にて点滅カーソルが点滅表示される。
  決定キーを押すと、選択中キャラクターの『装備部位の選択画面』に移る。
  キャンセルキーを押すと『メニュー画面』に移る。

画像リソース
  ○○○.bmp :メニュー欄用の決定中カーソル画像
  △△△.bmp :キャラクター選択欄用の点滅用カーソル画像

という感じの、その画面とやりとりする相手先の画面の名前と、あとはその画面の読み込むファイル等しか、他の画面や他ファイルについては書かないほうが良い、というワケです。

※ 実際はもっと多くの変化がウディタのサンプルゲームであるだろうが、説明のため単純化している。
※ 上記の仕様書の書式の参考文献として、吉富賢介『ゲームプランナー入門 アイデア・企画書・仕様書の技術から就職まで』、技術評論社、2019年5月2日、221ページ、の例『各画面の仕様書の例』の書式を参考にした。

ついつい学生さんとかだと、 『装備部位の選択画面』に移ったあとの説明も続けて書いてしまいがちです。しかし、そういうのは別途、たとえば『装備フロー仕様書』みたいな仕様書を作成せよ、と考えるのが良いでしょうか。

なぜ別途に分かるべきかというと、もし仕様変更で、『装備』コマンドの位置が(サンプルゲームでは上から4番目だが)上から6個目に変わったりしたら、「メニューの装備コマンドは上から4番目にある」と書いた書類は全部作り直しになってしまいます。

そういう修正時の書類の作り直しの手間を省くため、あえて書類をモジュール化するのです。当然、そのままでは全体像は把握しづらくなりますが、しかし全体像の把握については、さらに別の全体像把握のための専用フローチャートなどを書類に設けるなどして補うことによって、修正の手間がなるべく波及しないようにします。


さて、「装備フロー仕様書」みたいなのを作るときは、たとえば

装備フロー仕様
  
        【       メニュー画面        】
決定ボタン ↓                    ↑ キャンセルボタン
        【   キャラクター選択画面    】
決定ボタン ↓                    ↑ キャンセルボタン
        【      装備品 選択画面      】

のようになるでしょうか。

なお、フローチャートの作図をしたい場合は、オフィスソフトのパワーポイントの図形描画の機能で作図が可能です。
またなお、フローチャートの描き方はJISで決まってるので、ソレを参考に。というか中学校の技術家庭科でも習う。


また、ウディタのサンプルゲームの装備部位の選択画面では、

右手
左手
身体
装飾1
装飾2

と5つの項目があります。

もし仮に仕様変更で、部位の名称が変更され、

武器
身体
装飾

とかに名称の仕様が変更したりすると、「装備部位の選択画面の「右手」選択にカーソルの合わさった状態で移る」とか書いた書類は、すべて作り直しです。


なので、『メニュー画面』とか『キャラクター選択画面』とかでは、そういう他画面である装備部位選択画面についての個別具体的な項目の名称(「右手」とか「左手」とか)や移り方の詳細は書かないで、キャラクター選択画面の仕様では単に「選択中キャラクターの『装備部位の選択画面』に移る。」と遷移先の画面名だけを書くべきか、あるいは「画面の変更時は原則、その画面のいちばん上のメニュー項目にカーソルの合わさった状態で画面が移る」とか、どこかの仕様書に書いておいて、あとはその説明を今回も引用するかすればいいだけです。


また、装備コマンドのフローを書くときは、

あまり、

マップ画面 → キャンセルボタン → メニュー画面 → 「装備」を選択で決定ボタン → キャラクター選択 → 決定ボタン → 装備品選択画面

と設計図の段階では、続けて書くべきではないでしょう。

こういうのは、意味のある内容ごとにいくつかにフローを分解し

メニュー選択フロー
   
        【         マップ画面        】
決定ボタン ↓                    ↑ キャンセルボタン
        【        メニュー画面       】


というメニュー画面を選択するためのフロー仕様書と、

もうひとつのフロー図面は、

装備関係フロー
   
         【       メニュー画面        】
決定ボタン ↓                    ↑ キャンセルボタン
        【   キャラクター選択画面    】
決定ボタン ↓                    ↑ キャンセルボタン
        【      装備品 選択画面      】

という装備関係のフローとに2分割するのが良いでしょうか。

このように、意味的にまとまりのある単位ごとに階層をフロー分割するのが良いでしょう。

かといって、階層を5分割とか10分割とかすると、まるでゼネコン多重下請けみたいになって、かえって見通しが悪くなりますので、なるべく2分割までにするのが良いと思います。(せいぜい3分割まで)

さて、フロー同士の関係の記述では、別途、

【メニュー画面仕様】
   
表示項目リスト
決定ボタンで下記の項目を選択できる。
 ・相談      :決定すればメニュー相談フローに移行
 ・アイテム    :決定すればメニューアイテムフローに移行
 ・特殊技能    :決定すればメニュー特殊技能フローに移行
 ・装備        :決定すればメニュー装備フローに移行
 ・システム    :決定すればメニューシステムフローに移行
 ・セーブ      :決定すればメニューセーブフローに移行

 非表示項目
    ・キャンセルボタンでマップ画面に戻る 

とでも書いておけば済むでしょうか。


なお、各画面での遷移先の画面の説明と、フロー図での遷移先の画面との説明が重複していますが、これは実務でも構いません。

参考文献の 吉富賢介『ゲームプランナー入門 アイデア・企画書・仕様書の技術から就職まで』の209ページ「状態遷移フローの例」と211ページ「各画面の仕様書の例」とでも、遷移先の画面の説明はそれぞれ重複しています。


一枚の図面の中では内容重複はオッケー

なお、一枚の仕様書の中では、内容の重複はオッケーです。

たとえば、機能の似たモノを2個つくるとき、

2個目の説明では、「○○については△△と同じ」のように、「~~~と同じ」というふうに説明できるから、です[39]


なぜなら、この場合なら、他の図面を参照する必要が無いので、一枚のその図面の中で完結するからです。


しかし、この場合でも、なるべく二回目以降の説明では「○○については△△と同じ」のように、「~~~と同じ」というふうに説明すべきです[40]

あまり、具体的な仕様の文は、二度目からは掲載しないほうが良いのです。

なぜなら、もし参照先である一度目の説明の仕様に設計変更があると、もし具体的な仕様の文を2度目以降にも掲載した場合には、修正のさいに二度目・三度目の説明も修正することになってしまいます。

で、よくミスとして、二個目以降の修正をし忘れるミスがあります。

その他

暗黙の前提ですが、画面名やファイル名などの名前を決める際には、具体的な名前をつけましょう[41]

たとえば、上述のウディタのサンプルゲームの画面をもしアナタが命名するなら

「マップ画面」、「メニュー画面」、「装備キャラクター選択画面」、「装備部位選択画面」などのように、です。


当然のことのように思えますが、しかし、おそらく新人にこういう図面を書かせる仕事を依頼すると、新人によっては、「画面1」、「画面2」、「画面3」、…のような具体的でない名前をつける場合があります。

あるいは、「メイン画面」、「メニュー画面」、「サブメニュー画面1」、「サブメニュー画面2」、…というパターンも考えられます。

しかし、そのような抽象的な命名は他人に伝わりにくいためやめましょう。


要求事項書はゲーム業界では書かない場合もある
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IT業界でいう「要求事項」とは、顧客などから、完成品の満たすべき要件を聞き取ったりしたりして、完成品の満たすべき要件をまとめた書類のことです。

しかしゲーム業界では、ゲームプランニングの書籍を読んでも要求事項書は紹介されてない状態です。(たとえば『ゲームプランナー入門』(吉冨賢介、技術評論社)や『ゲームプランナーの新しい教科書』(STUDIO SHIN著、 翔泳社)などを読んでも、『企画書』と『仕様書』は触れられていても、要求事項書については全く触れられてない。)


個人製作のゲームでは、要求事項書は、まず不要です(自分で作ればいいので)。

個人製作では要求事項は不要ですが、比較のために下記に概要を記載しておきます。

まず、要求事項書は、発注者と受注者の両方の打ち合わせによって書きます。

なおゲーム業界でも、(要求事項書ではなく)発注書ですので立場は逆の種類ですが、その発注の成果物が作中でどういう目的で使われるのかなどの意図・用途を伝えるのが良い[42]とされています。

データ暫定値

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ゲーム中の、たとえばRPG武器の「攻撃力」などのデータの数値は、あらかじめ作者が、すべての項目の想定値を具体値で設計図に記述します [43]

CSVファイルなどにエクセルで記述しておきます。


【剣データ暫定値】
銅の剣: 攻撃力 7
鉄の剣: 攻撃力 18
ハガネの剣: 攻撃力 37
ミスリルの剣: 攻撃力 70
ほのおの剣: 攻撃力 57
(※ 剣ではランク5は欠番とする)
デスブリンガー: 攻撃力 150
備前長船: 攻撃力 250
聖剣エクスカリバー: 攻撃力 450
魔剣レーヴァテイン: 攻撃力 450

みたいに、暫定値でいいので、とりあえずの具体的指示も必要です。


ただし、これはあくまで暫定的な値でありますので、今後の調整で変更する可能性があります。

データ仕様書

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データ仕様書とは、たとえばRPGなら

攻撃力: 敵の守備力との計算によってダメージを算出する

のようなパラメータ計算式の定義を行った仕様書のことです[44]


そして、この「データ仕様書」は、デバッグのための資料になります。デバッガーが、この資料と実際の動作を照合することで、仕様どおりにプログラムが動いているかを確認します[45]

どうもアイテム(「やくそう」とか「毒消し」などのアイテム)価格などの「100」(100ゴールド)とか「200」(200ゴールド)とかの具体値のあるデータ表のことをSTUDIO SHIN 氏は「仕様書」と言っている[46]。本当は「100」になるべき数値が「200」になっている場合、「仕様書」で簡単に確認できるとSTUDIO SHIN 氏は言っている。)


一般に、RPGの仕様書は、すごく分厚くなるといわれています。(アニメ評論家の岡田斗司夫が1990年代のむかし、彼の言うには、彼の伝聞によると、ある有名RPGの仕様書は、その書類の量の表現として(ページ数ではなく)キログラム単位で表現されるくらいだと言われています。岡田さんは彼の著書『オタク学講座』などの書籍で、そういった伝聞を述べています。有名作の仕様書だと、ちょっとした電話帳みたいに分厚くて重い書類が、場合によっては何冊かあるらしいです。おそらく、データ台帳に、攻撃力などのデータだけでなく、さらに設計の背景となる要求事項などもマトメて書いた上での重量でしょう。)


攻略本と『仕様書』

ゲームの攻略本にある、アイテムの効果値や、敵の能力値などといった数値の一覧などは、おそらく、そのゲームのデータ台帳から、転記されていると思われます。

よく、「仕様書をもとに攻略本が作られる」と言いますが、しかし攻略本の制作に必要なのは、プログラム部分の設計図などではなく、実際に入力された各データを記載したデータ台帳のハズです。


ただし、実際には市販の攻略本には、記載ミスなどもあります。

また、制作側が情報を隠していたりして、攻略本に記載された情報と、実際のゲームプログラム内の数値とが違っている場合もあります。


たとえば歴史シミュレーションゲームの『三国志』シリーズ(コーエーテクモ)での武将・呂布(りょふ)の武力パラメータは、攻略本では武力「100」ですが、実際のプログラム内部では武力が120になっている事が、現代ではユーザーたちの解析によって解明されています。

また、ファイナルファンタジーシリーズ(スクウェアエニックス)では、FF4~FF6あたりの攻略本で、修正前の間違った情報をそのまま攻略本の出版社に教えていて、そのため内容が微妙に違うということを制作当事者が暴露しています。「盗賊のスキル『盗む』で、このモンスターから低い確率で盗めるアイテム」のような感じの説明で紹介されているアイテムが、実は絶対に盗めない、とスタッフが何かのインタビューで暴露しています。

あと、FFスタッフの彼らはいちいち公表していませんが、スーファミ版のFF5の攻略本に「モンスターのオメガに、スキル『魔法剣』サンダガ + スキル『乱れうち』 が効くので、これで簡単に倒せるぞ」みたいな説明がありますが、これも攻略本のマチガイ情報であり、実はスーファミ版の初期ロットでは、乱れうちでは魔法剣がキャンセルされますし、仮にスキル『魔法剣』が効いていたとしても効果が弱く、敵の反撃技の攻撃回数が「乱れうち」で4倍に反撃が倍増されているのでプレイヤーが負けてしまうのが真相です。

なのに、ネットの某・匿名掲示板の自称ゲームファンたちは、こういう攻略本の編集の事情を知らずに、いろんなゲームの攻略本情報を鵜吞みにしている人たちのくせにゲーム通を気取っている情報弱者ですので、ネット掲示板なんて信用してはいけません。


他部署との連絡の仕事をするのは誰なのか

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ゲーム業界では、プランナーと言われる役職の人が、連絡網の中心になって、いろいろな部署のあいだの情報伝達をします。


ディレクター ━━━ プランナー ━━━━┳━ プログラマ
                     ┃
                     ┣━ グラフィッカー
                     ┃
                     ┣━ デバッガー

のような感じです。(ディレクターの上に、さらにプロデューサー、プロデューサーの上には社長などがいるが、省略する。)

このプランナーは、ゲーム業界の場合、中間管理職のような権限もあって、各部署(プログラマ部署やグラフィッカー部署など)とディレクター(監督みたいな役職)のあいだのやりとりもします。


※ 一般の企業での連絡網の場合については、企業ごとの差異が大きいので、説明を省略する。

「プランナー」というと、てっきりプラン「計画」を練る仕事化のように思いがちですが、しかし、どっちかというと、計画を練るというより、たとえばテレビ業界でいう「AD」アシスタントディレクターのようなイメージのほうが近いかもしれません。

実際、書籍『ゲームプランナー入門』(吉冨賢介 著)によると、プランナ-にはTV業界でいう「AD」のような側面があると述べています[47]


イラスト・音楽などの外注や打ち合わせ

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イラスト・音楽に限った話ではないですが、文献『ゲームデザイン プロフェッショナル』によると、発注フォーマットに業界共通のルールは存在しないので、だから開発する作品に適したフォーマットを考える必要があります[48]

また、発注の際には、「なんのために」その発注が必要かまで、発注相手には説明できることが望ましいとのことです。

何らかの発注をする際、事前にチェック項目リストを作る必要があります[49]


外注する場合

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自分にイラストや音楽をつくる能力が無い場合で、イラスト素材や音楽素材の調達をしたい際、イラストレーターなどの専門家に外注することになります。

打ち合わせをする際、たとえばイラストなら、発注元の画力にもよりますが、

構図、
希望のポーズ、
塗り方、
テイスト、

などの指示が必要です[50]

あと、絵を書かない人が勘違いしがちなことですが、「イラストレーター」を名乗っている人は、あくまでイラストだけが専門的であるので、一般に、イラストレーターは漫画を書けません[51]。アニメも作れません。

イラストも漫画も両方とも作れる人のほうが、希少ケースなのです[52]。(たとえばアニメ業界のジブリの宮崎監督のような、イラストもアニメも漫画もかけるような人は、かなり例外的なケースです。)

なので、イラスト、漫画、アニメ、などは、それぞれの専門家ごとに分けて注文なり依頼なりをすべきです[53]

ゲーム作家によっては、キャラクターイラストの発注をするときはモデルとなるアイドルや俳優などの情報を添えて発注するゲーム作家もいます[54]

アニメ・ゲーム業界内のさらなる分業

『芸術新潮』2022年6月号を読んでたら、上記のようにアニメ・ゲームはそれぞれ分業されているが、それらのアニメやゲームの中でもさらに分業があり、人物、建物、メカニックス、動物や怪物など、それぞれ分業されているとこのことで、それぞれ専門のデザイナー(つまり人物担当デザイナー、建物担当デザイナー、メカニックス担当デザイナーなど)がいる場合もあるとのことです[55]

ただし、作品によっては、一人のデザイナーが複数の専門を兼ねている場合もあります。『芸術新潮』2022年6月号によると、小説『十二国記』のイラストレーター・山田章博の特集をしていて、この人がそういう複数の専門を持つイラストレーターとのことです。

なお、ゲーム分野では『悪魔城ドラキュラXX』(95年)や『フロントミッション3』(99年)なども担当している人です。アニメでも、アニメ版『十二国記』(2002)キャラクター原案のほか『ラーゼフォン』(2002)にもキャラクターデザイン[56]で関わっています[57]。ほか、『ファイナルファンタジーXI 蝕世のエンブリオ』(2020年)のイメージイラストの人らしいでもあるとこのことです[58][59]


ラフ画などを用意してどんなシーンでどんなキャラのどんな構図を書いてほしいか等の大体の要望を具体的に伝える、

というのも重要ですが、もうひとつ必要になるかもしれない事として、

なぜ、その構図が作中でどういう目的で使われるのかなどの意図・用途を伝える[60]

という事が重要です。

『ゲームデザイン プロフェッショナル』によると、発注の意図・用途を伝える際も、長いと意図説明が書類の場合は書類を読んでもらえないし、口頭でも相手の頭に入らないので、だから発注者は要点を短く的確な言葉であらわさなければあらないということです[61]

個々から先は別に文献の内容ではないですが、そもそもなぜ用途を伝えるのが必要かというと、相手のほうがその分野ではプロだからですし、発注元は往々にしてイラストは素人だからです。

発注元が素人の場合、プロのイラストレーターに用途を伝えると、たとえば、当初に発注元の考えていた構図などが実は不適切である、という情報が返ってくる可能性もあります。

このようなフィードバックのある場合、発注元がデザインを再検討する必要になる可能性もあります。

そもそも発注元は、あまりイラストや音楽などの分野を知らないので、だからこそ事前の打ち合わせによる、デザイン意図の確認が必要なわけです。


つまり、たとえるなら「作業指示」と考えるよりも、どこかの営業マンとの事前の打ち合わせのようなものだと考えるのがイメージ的には適切かもしれません。

たとえば住宅をリフォームする場合なども、事前に何度もリフォーム会社の営業マンとの商談をして、イメージを共有するのが普通です。イメージ的には、これに近いのかもしれません。イメージ的には、イラストレーターとか作曲家などアーティストに対する外注・発注も、こんな感じでしょう。

その他

書籍『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』によると、アダルトゲームではシナリオも外注の場合が多くあるとのことです[62]


発注されるイラストレーター側からの視点

これはイラスト-レーター側からの視点では、発注者の要求事項に従った絵を描かなければならないわけです。

だからもし、提出しようとする絵が、まったく要求事項に従えてなければ、ダメな絵となり、発注者は納品受け取りを拒否するので、絵はリテイク(書き直し)になります。

たとえば、アニメイラスト系絵描き向けの教本『クリエイターのためのおんなのこデータベース2008 -ファッション編-』によると、

もしイラスト発注の要求事項が「セーラー服の少女を描いてください」なのに、

もしイラストレーターがブレザー服の少女を描いて提出してきたら、

どんなに可愛く上手にブレザー少女が描けてようが、リテイクです[63]

イラストレーター向けの教本などでもきちんと教育されているように、まともなイラストレーターは、こういう社会のルールがきちんと分かっています。

裏を返せば、こういう社会ルールが分かってない絵描きは、自称「イラストレーター」です。

イラストレーターにとっては当然の、社会のルールだと思いますよね。しかし世間には、イラストレーター業界に興味ない人は、この当然の社会ルールが分からない人が、少なくとも2005年より前の昔は世間に多くいました(下記コラムで説明する)。

絵の仕事は自由業ではない

根本的な問題として、さすがに最近は無くなってきたと思いますが、ほんの2005~08年ぐらいまで、 世間には絵の仕事を、「自由に絵が描ける」と勘違いしている人がいました。また、「漫画や絵の仕事は、競争を気にしなくていい」という類の、良く分からない勘違いもありました。

どうやら、勘違いの原因は、小学校の図工のお絵かきや、中学校・高校の美術の授業が、そういうなるべく自由なテーマで絵を描かせるので、どうもイラスト関係の仕事までそうかと勘違いをする人が、ほんの2008年くらいまで昔は少なからず居たのです。

さんざんマンガ評論やアニメ評論などで「漫画の打ち切り」だとか「アニメの放映打ち切り」とか言われても、あるいは評論誌など読まなくても友人どうしの雑談でそういう話をしても、しかしその「打ち切り」情報が脳内にある勘違い「小学校の図工のような自由な仕事 = プロ絵描き」という勘違いの修正に結びつかないようです。


だから漫画家の江川達也は苦言として、雑誌コラム(おそらく『SPA』)で2001~2005年ごろの意見ですが、当時のゆとり教育の賛成論者がなんだか漫画業界について「漫画家は、競争が無くて自由に漫画を描ける仕事」だと勘違いしているような言説が散見されたことに対し、江川は苦言でおおむね「漫画家はとても競争の厳しい世界だ。ふざけたことを言うな」といったような感じの批判を雑誌コラムで述べていました。

漫画家はプロデビューするまでだって競争がありますし、デビューしてからも不人気だったら打ち切りですし、競争はとても厳しいです。

漫画に限らず、どうも世間にはイラストレーターや漫画家を、なぜか競争のない業界だと勘違いしている人が好くなからずいます。昭和の時代は、漫画家を終身雇用だと勘違いしている人もいました。

昭和時代にデビューした漫画家の小林よしのりは、自身が漫画家プロデビューするまでは、勘違いで、「マンガ出版社は、漫画家が死ぬまで面倒を見てくれる、まるで公務員のような終身雇用の業界が漫画業界」だと思っていたと、著書『ゴーマニズム宣言』で自身の勘違いを白状しています。

それでも昭和の時代なら、まだ漫画業界がよく知られていなかったので、世間一般の終身雇用の常識に照らし合わせて勘違いしてしまうのも、無理ありません。ですが、平成が10年以上も過ぎた2001年以降にこの手の勘違いをしている人もおり、もう手の施しようのない人です。

絵の「クオリティ」とは

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出典は忘れたのですが、何かのゲームデザイン本に「クオリティ」という言葉がありました。イラスト発注などの言葉のようです。

その書籍では「クオリティ」の意味は説明していないのですが、ゲーム業界で言うクオリティと一般の英語のqualityは少々、意味が異なります。

ゲーム業界には、イラストや音楽などに対して「クオリティ」という言葉があります。英語ではqualityは「品質」という意味ですが、しかし日本のゲーム業界でいう「クオリティ」にもその意味はあるもののニュアンスはやや違います。

たとえばイラストの例なら、どんなに「ポーズと構図はこうしてください」とか「メインカラーはこうしてください」とかの発注要件を守ってイラストレーターが絵を描いて提出しても、しかしその絵の画風がターゲット層の消費者たちの好みの画風でなければ、ゲームが売れずにゲーム会社は商売になりません。

少なくとも2010年以降、ゲームファンの絵柄の好みは、素人では描けないような細密かつCG特有のグラデーションなどを活用した絵柄が消費者層の好みです。そういう求められた画風である細かい絵である素材を出せる能力のことも「絵のうまさ」と捉えて、ゲーム業界では「クオリティ」と呼んでいるようです。

逆に言うと、たとえばマンガ家の手塚治虫『鉄腕アトム』の原作のような簡素な絵でどんなに上手い絵をゲーム発注者に提出しても、おそらく「クオリティが高い」とは言われないでしょう。

絵の場合、昨今の消費者の好みが、細かく線を描きこまれたりグラデーションなどCG機能を多く使ったアニメ風イラストまたは細かいリアルCG風イラストといった絵柄なので、そういう絵がゲーム業界では「クオリティが高い」のように言われたりもします。


業界によって要求される画風が異なる

ゲーム業界の絵を描く能力は、マンガ業界やアニメ業界で求められる能力とは異なります。

マンガ業界の場合、まず白黒印刷で表現できる絵柄でないといけませんし、印刷の解像度の問題もあるので、カラー表現は求められない場合も多いし、またグラデーションも利用が困難です。だからマンガ業界ではグラデーションではなく、スクリーントーンを使います。そもそも製作ソフトウェアからして、イラスト製作用ソフトではなく専用のマンガ製作用ソフト(『コミックスタジオ』など)を使ってマンガが描かれています。週刊マンガと月刊マンガでも、絵柄の傾向が違っています。試しに線画部分だけでいいので漫画を模写などをしてみれば分かると思いますが、週刊漫画の絵柄は比較的に短時間で模写できるような線の少ない絵柄になっている場合が多いえす。

アニメ業界の場合、動画マンが動画を何枚も描かないといけないので、原画ではなるべく1枚あたりの線を減らす必要があります。1枚イラストでは「撮影」と言ってCG処理などで光の表現などのためにフィルタ加工などもしますが、しかしゲーム業界と比較するとアニメ業界の手書きアニメ用イラストのCG処理は簡素な処理です。


ゲーム業界とアニメ業界では、人気の絵柄におけるCG加工の傾向が逆のことも多く、だからアニメ業界のような多くの人が真似して描けるようにデザインされた絵柄は、ゲーム消費者にはウケていません。

世間では美少女キャラの瞳が大きいだけで「アニメ絵」とか言いますが、しかし実際には瞳の大きい美少女キャラでも、アニメ業界とゲーム業界とマンガ業界とでは、求められているデザインがまったく違うのです。

アニメ業界とゲーム業界とで「原画」や「仕上げ」など共通の用語が使われる場合もありますが、内実、意味は違っています。

もっとも、近年ではアニメ業界もゲーム業界やライトノベル業界(雑誌媒体なら月刊誌である場合が多い)などの影響を受けて、細かい絵が増えてきました。アニメの原作がゲームやライトノベル作品である場合も多いので、そういう作品は当然、細かい絵が求められるわけです。


なお、アニメ業界の場合、細かい絵を描くことはクオリティとは呼ばずに「カロリー」と呼ぶことが多いです。どうやら栄養の「カロリー」由来の表現らしく、作画に求められる手間や負担というような感じらしいです。「作画カロリー」などといった表現もアニメ業界にあります。

細かい絵や、細かい動き、やたらと凝った動きや構図などを描く際、「この絵はカロリーが高い」のように表現するようです。

「クオリティ」という言葉を聴いているとあたかも「業界を越えて共通の絵のうまさがある」とでも錯覚するかもしれませんが、しかし上述のように要求される絵柄や画力は、業界ごとに違います。


直接的にそのジャンルの作品を作って公開すべし

絵に関することだけではないですが、もしゲームを作るのが上手くなりたいのなら、なるべく直接的にゲームを作る経験を増やすべし、です。

上述のように、業界によって求められる能力が違うので、もし違う業界の練習をしてしまうと、せっかくの練習の多くが、活用できずになってしまいます。

クリエイター業界でよく言われるのですが、どんなに業界の歴史とか勉強したり、理論とかを勉強しても、実際に作品を作って他人に見せて反応を得ないかぎり、作家としての能力は高まらない、という事です。

要点のまとまった理論とかを勉強すれば、作品を作ったときに得られる経験値は何倍か上がるかもしれませんが、しかしそもそも作品を作ってない場合、ゼロを何倍してもゼロなので、何も成長していかない、という意味です。


今なら basic とかでも small basic とかで簡単にプログラムは作れます。べつに他の言語でも構いませんが。パソコンが使える環境なら、ゲームを作るのは、小さい作品ならば簡単なはずで、1か月程度で可能なはずです。


同様、漫画を描くのが上手くなりたいなら、なるべくマンガそのものを書いて他人に見せるべきです。

アニメを作るのが上手くなりたいなら、なるべくアニメそのものを作って他人に見せるべきです。


基本的に、上達のためには、その業界そのものの、そのジャンルの作品そのものを作って公開することで、そのジャンルの作家としての能力は高まっていきます。

どうしても、費用の問題などや秘密などの問題などで何らかの事情で制作できない場合でも、けっして脳内で考えるだけではなく、せめて企画書など他人が検証できるものを自分の作れる範囲で作って、一部だけでも公開すべきでしょう。


漫画家の場合、そもそも画力がそれほど高くなくても、ストーリーが面白くて丁寧な絵を量産できて、それを実行できる体力もあれば、作家としてデビューします。

一方、アニメーターの場合、そもそもストーリー作りは求められていませんし、漫画家など他人の作品をアニメ化するので画力も求められることも多いので画力がそこそこ要求される業界です。

このように、マンガとアニメですら、要求される能力が違います。

根拠として、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』の90年代のころの巻を読むと、少年ジャンプの過去の漫画家たちの同窓会で、小林よりも遥かに絵の上手い漫画家ですら連載がもらえずに、その絵のバツグンに上手い漫画家が編集マンに対して「連載ください」とヘコヘコと頭さげてる人も同窓会イベントで見かけた、と小林は話しています。小林がどうかという話ではなく、集英社や少年ジャンプあるいはジャンプ系の雑誌(当時ならヤングジャンプとかスーパージャンプとかビジネスジャンプとか)がそうだという話です。

ただし、なお漫画家の岸本氏(どの岸本さんだか忘れました・・・失礼)が2010年くらいに何かの雑誌インタビューで答えていたのですが、彼のマンガのような絵柄を身に着けたい場合、アニメーターの絵柄を参考にするとよいと言っています。

絵の上手さとしては、漫画家はアニメーターなどの、マンガに近い他職業も参考にはしていますが、しかしアニメーターだからと言ってマンガ雑誌に連載できるわけではない事実を考えれば、答えは分かるでしょう(読者が自分で考えてください)。


まして、美術の石膏デッサンなどやら油絵やら抽象画などを練習しても、それを中心にして現代のマンガやアニメの創作に活用するのは、プロでも難しい事です。

昭和の時代ならアニメ・マンガの練習法についての情報不足などで初歩のデッサン練習をするしかなかったのは仕方ないにしても、しかし21世紀の現代でデッサン練習などを繰り返すのは無駄に終わる可能性が高いです。

21世紀の絵描きは80年代ロリコンブームの目標を否定しなければならない

かつて1980年代、少年マンガの絵柄の種類が今よりも少なく、劇画風の絵柄と手塚風の古い絵柄と、あとはそれをアレンジした感じの絵柄しかなかった時代がありました。 そこで、漫画家たちによって少女マンガやアニメを手本にして、少年マンガの絵柄の改革が行われました。これを「(80年代)ロリコンブーム」と言います。当時と21世紀とで「ロリコン」という言葉の意味が違い、80年代当時では『ロリコン』とは「児童向けマンガの絵やアニメ絵のような、かわいらしい絵柄」と言う意味です。だから当時のアニメ雑誌『アニメージュ』の付録にあったロリコントランプでは(カードゲームのトランプに、アニメキャラの絵が描いてあった付録)、アニメ版の銀河鉄道999のメーテルのような大人の女性キャラですら当時では「ロリコン」扱いです。


さて、しかし21世紀の現代は、アニメの絵柄とマンガの絵柄とは、作品にも寄りますが、基本的にはアニメとマンガでは流行の絵柄はかなり違います。つまり、もはやロリコンブームのような時代ではありません。

80年代ロリコンブームの頃には、ゲーム業界でも、たとえばエロゲーの絵をプログラマが描いていた時代もあります(たとえばファイアンルロリータなど)。しかし21世紀の現代のゲーム制作は分業化されており、全く違います。

もし、歴史の順序どおりに絵の練習をしてしまうと、時代遅れになったロリコンブームの方式で絵の練習をしかねてしまいません。しかしロリコンブーム方式の絵の目標は、21世紀の現代には合わなくなった方式なのです。

だからオタク産業系・エンタメ産業系における絵の練習は、必ず、現代もしくは今に近い時代の流行の絵柄を先に模写・模倣などをして、あとから補足・補強などとして歴史や古典を学ぶようにしないといけません。そうしないと、クリエイター人生の時間を大幅に浪費してしまいます。

インターネットの普及した現代だと、情報不足による勘違いは、「調べる気が無いということは、やる気がない(、だからコイツは不採用だ)」と見なされかねません。だから、もし現代の流行とズレた練習ばかりをな長々としてしまうと、もはや現代では「やる気が無い」とみなされてしまうのです。(90年代あたりまではネット普及前だったので、ズレはそこそこ許されたが、しかし2020年代になり、かなりアニメ業界・ゲーム業界などはズレに厳しくなっています。よほど絵が上手くない限り、もし運よく採用されたとしても、絵柄が流行から大幅にズレている人の待遇はかなり低くなっている可能性があります)

歴史家などを目指す場合は、80年代ロリコンブームのように評価の固まった40年近く前の研究をするのも良いかもしれませんが(2023年に本文を記述)、しかし絵描きやゲーム作家などのクリエイターは歴史家ではありません。目指すべき職業を間違えないでください。また、絵描きでもゲーム作家dめお何でもない別の職業のスタイルを、決して無批判に取り入れないでください(どうしても、リスクを分かったうえで別職業のスタイルを取り入れるなら、自己責任で)。

まして、黎明期のディズニーの絵柄とか、当時の手塚絵などを練習するのは、言語道断です。初心者のうちは、せいぜい黎明期のディズニー作品は見るだけにしましょう。そもそも黎明期のディズニーの絵柄やら手塚絵などが参考にされつつも否定された結果が80年代ロリコンブームであり、さらにそのロリコンブームの絵柄すらも30年以上もの歴史的な淘汰により、流行の絵柄が変遷していったのが現代です。


現代の少年漫画のストーリーでも80年代ロリコンブームは否定される

少年ジャンプでゼロ年代(2000~2010年)に連載していた作品『バクマン』は、漫画家の青年が主人公なのですが、この作品中で、編集マンの言葉によりジャンプは少女向けではなく男子少年向けだと主張されており、

たとえ少女からファンレターがジャンプ作家に来ても、少女の感想よりも男子少年の感想をあくまでジャンプは重視する旨が作中の編集マンによって主張されています。

少女からファンレターが来ても、その少女は、男子少年が読む雑誌・マンガが気になってファンレターを送ってくる少女なので、編集マンとしてはあくまで男子少年をターゲットにすることを優先しないといけない、という理由です。

この考えからは、もはや80年代ロリコンブームを表面的には否定する流れでもあります。80年代ロリコンブームの時、エロマンガ雑誌『マンガブリッコ』というアニメ風の絵柄の男性向けエロ漫画雑誌の編集部に、少女からファンレターが来たことがあったのです。なぜなら、当時はそのエロ漫画雑誌が、絵柄の最先端だったからです。80~90年代のマンガ研究では有名なエピソードでした。

しかし、そういったことが漫画界であろうが、ジャンプはあくまで男子のための雑誌だという軸足を忘れてはいけない、という事です。


余裕があったら歴史を学ぼう

上述のように現代ではロリコンブームは否定されてしまいましたが、しかし2020年代にも残っている事もあります。マンガにおける「かわいい」の概念の確立でしょう(一応、ブーム以前からも、手塚絵などで「かわいい」キャラはいるが)。

2000年~2010年のいわゆるゼロ年代のころ、別の意味で「かわいい」が流行語になりました(コギャル用語の「カワイイ」)。知った風な不勉強な評論家が、字面だけを見て、このゼロ年代のコギャル用語の「かわいい」を元に色々とオタク産業を知ったかぶりで語るかもしれませんが、そんな評論家のニワカ知識を無視してよくて、もう80年代からマンガ業界に「かわいい」の概念は重要な要素として導入されているのが事実です。

だから、もし余裕があれば、歴史を学ぶことで、三流の評論家の知ったかぶりを見抜けます。マンガやアニメやゲームなどオタク産業は感性を扱うため、理科系の科学などとは違って明確にダメな言説にノーと言いづらく、そのため、ダメな評論家がオタク産業の評論に参入していたり、少なくとも創作の実務では役立たない言説を語ってるダメ評論家でもマスコミなどでの評判がそこそこ高かったりします。

評価軸そのものを更新する

ともかく、ゲーム業界を目指すなら、売れたゲームそのものを手本にするのが第一です。

だから、ゲームをほっぽいて、アニメや漫画を参考にしては危険です。まして抽象美術や現代アートなどを参考にしてはいけません。写実画ですら、現代のオタク産業の絵柄とは遠いです。必ず、マンガ業界を目指すなら流行の漫画家そのものの絵、アニメ業界を目指すなら流行のアニメーターそのものの絵、ゲーム業界を目指すなら流行のゲーム絵師の絵を、手本にしましょう。


なのに、どの業界でも、古い産業の手法で挑んで失敗する人が、時々チラホラと出たりします。

そのような心理メカニズムとして、小説家の村上龍(小説『愛と幻想のファシズム』の人)が1999年の対談集『最前線』で指摘しているのですが(もっともクリエイターの失敗例としてではなく評論家の失敗例としてですが)、古い産業の評価軸を、うのみにしている権威主義が原因だというのです。

たとえば、マンガは小説ではないのにかかわらず、マンガを評価するときに、小説の評価軸で評価してしまう人が多く、そして小説の観点で「マンガは未熟」と評価してしまい、その結果、時代に取り残される、・・・というパターンです。

小説・マンガ以外でも同様です。たとえば映画は演劇じゃないのに、映画を演劇の評価軸で評価してしまう、・・・など、似たようなパターンがあります。

アニメはマンガじゃないのにかかわらず、アニメをマンガの観点で評価してしまう、・・・と言うのも、1990年代まで世間ではありました(オタク系雑誌では80年代から区別されてたかもしれないが、世間では区別が普及してなかった)。90年代までのアニメ評論家などの改革によって、ようやく世間でも、アニメをマンガとは別の評価軸で評価できるようになったのです。


どのジャンルにせよ、古い産業のほうの評価軸は、比較的にマスコミなどで知れ渡っているので権威化している場合が多く、なのでその評価軸を無批判に新しい産業に適用してしまい、そして失敗するケースが多いのです。

村上龍はそこまで言ってませんが、古い評価軸の本人は権威主義のつもりでなかったりするので(反権力の自由主義のつもりだったりします)、とても やっかいです。古いほうの評価軸ですら、大学受験とかには出ないので、古いほうの評価軸の人は「自分の評価は柔軟で、最先端」とか思ってたりしがちです。こういう自己評価のミスをしないようにするためには、「古いか新しいか」といった新旧の視点ではなく、「(アニメか、それとも漫画か、それともゲームと言った)ジャンルそのものか、どうか?」という視点で自己を測るのが良いでしょう。

なお、アニメ・マンガ・ゲーム志望者で、どうしても小説を参考にする場合、せめてライトノベルなど時代とターゲット層の近いジャンルを参考にすべきです。つまり、「遠近」を視点にすべきです。「新しいか、古いか」ではなく、ターゲット層などが「近いか、遠いか」です。

いくら時代が現代に近くても、たとえば現代のプロ野球の中継を見てプロ野球に詳しくなっても、現代のアニメ絵を描くのにはほとんど役立ちません。時代の遠近よりも、ジャンルやターゲット層そのものの遠近を気にしましょう。90年代のサッカーのJリーグが初めて誕生した時代にサッカー番組を見るとかならともかく、プロ野球なんて昭和の昔から存在しているし、ルールもほぼ同じままだし、絵描きが気にするような変化は無いはずです(野球趣味なのは構いませんが、基本的に絵描きには直接は役立ちません)。


ともかく、非オタク向けの小説家を目指すならともかく、漫画家を目指すのにかかわらず古い小説家の評価軸でマンガ業界を評価してはいけません。クリエイター志望の場合、もうその古い評価軸で物事を見ている時点で、漫画家志望としては敗北・失敗などがほぼ必至でしょう。

なお、村上龍の小説『愛と幻想のファシズム』は、エヴァンゲリオンの登場人物の鈴原トウジや相田ケンスケの元ネタで、小説中に同名のキャラが出てきます。村上氏自体、エヴァンゲリオンの監督と共同して映画版『ラブ・アンド・ポップ』を作成しています。


哲学者とかの就活ノウハウを真に受けないでください

決して、哲学者とか思想家とか、ぜんぜんゲームやアニメと関係のない異業種の紹介するような就職法とかで、ゲーム産業とかアニメ産業に就職活動をしないでください。

たとえば哲学研究者の東浩紀は、著書『弱いつながり』で、知人などの紹介によって、あまりよく知らない未知の就職先に就職することを、自身の適正の判断や、人生の変革のきっかけのノイズとして進めているらしいです。[64]

※ 高校国語でも紹介されているので、高校生などが真に受ける可能性がある。


ですが、少なくともアニメ産業・ゲーム産業では、決してよく知らない業界にその状態で就職しないでください。今の時代、制作ノウハウなど知識不足すぎると「調べる気も無いということは、コイツはやる気が無い」と判断されます。アニメ会社もゲーム会社も学校じゃないので、いちいち基本的なことまで教える義理がありません。今時、ネット検索で調べられることを、いちいち長々とアニメ・ゲーム会社では教えてくれません(仮に研修などで念のために新人に教えたとしても、ごく短時間でしょう)。


また、アニメ・マンガ・ゲームの適正の判断は、就活よりもずっと前の段階で、実際に短編などの作品を自分で作ってみて、それで「練習や制作が楽しいかどうか。これからも楽しく続けられそうか」などを基準に判断してください。今時、パソコンを使えば低コストで、マンガもアニメも2Dゲーム絵も作れます。その際にいちいち就活をしないでください。おそらく、仮にいちいち就活しようとしても、マンガ出版社もアニメ会社もゲーム会社も、相手をしないでしょう。

世の中には、たとえば運送業界とか介護職とか食品産業とか自動車産業とか道路工事とか、決してパソコン1台では組み立てできない職業もありますので、そういう職業の適正どうこうの話ならともかく、しかしアニメもマンガもゲームもそういう業界じゃありません。(なので、これ以上は運送業界とか(以下略)には深入りしません。)


そもそも、東さんは思想家であり、決してイラストレーターでもなければ漫画家でもないしアニメーターでもないしゲーム作家でもないのです。

もし読者がイラストレーターになりたいなら、プロのイラストレーターの進めるや彼が実際に実行した方法を試してください。

あるいは、アニメーターになりたいなら、プロのアニメーターの進める方法や実行した方法を試してください。

今時、ネットでプロのイラストレーターさんやアニメーターさんなどが色々と自身の就活経験などを無料または低価格で話してくれたり、あるいは有料ですがネットで講座をしているイラストレーターさんやアニメーターさんなどもいるのですから、そういうイラスト業界・アニメ業界そのものの人の話を聞いてください。

2010年以降、そういうイラスト系業界人の講座とかあるのにかかわらず、それを差し置いて、東浩紀とか岡田斗司夫(アニメ評論家)とか、決して異業種・別職種の人の話を優先しないでください。

異業種の人の話ばかり優先して聞いて、肝心のアニメ業界やゲーム業界の現場(絵描きやプログラマーなど)の人の話を聞いていないと、「コイツは権威主義で肩書き主義で、俺らの業界(アニメ業界やゲーム業界など)を見下してるなあ。口先だけでは『尊敬してます』と言ってるけどさあ」みたいに現場人からは嫌われるだけでしょう。

つまり、あまりにも業界の制作ノウハウなどの知識が無いということは、「敬意が無い」と業界人からは見なされる、という意味です。

なお、別に人付き合いまでを否定する必要は無いでしょう。人付き合いやマナーやホウレンソウ(報告・連絡・相談)なども、それなりに必要だろうとは思います。

なお、松尾芭蕉も、「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」と言っています[65]。まあ、これは「先入観を捨てて観察しろ」という意味なので[66]、ニュアンスは多少は違いますが。


バカでも出来ることは、自分でしない

手を動かさない馬鹿でも読める本は、世間のバカに読ませとけばいいのです。

アニメ版のドットハックSIGN(サイン)の作中のセリフでも、「他人ができることは、自分でしない」といセリフがあります。作中のソラ(楚良)という名前の男性キャラクター(嫌な奴)の言うセリフです。

なお、芭蕉の弟子の名前もソラ(曾良)です。

世間のオタクの、絵の練習などをせずにプログラミングもせずに、手を動かさないで評論ばかりしている連中でも分かることの書かれた本の読書は、そいつらに読書させればいいのです。

手を動かす側の人間である絵描きやプログラマーの人は、自分たちしか出来ないことを優先的に練習・勉強・創作するべきなのです。

だから、誰かの話を聞くなら、同じ手を動かす側である絵描きやプログラマー自身の話を優先して聞かなければなりません。


クリエイターにとっては、「良い理論」とは、試しに理論どおりに創作を実行してみて何度も上手く行くのが良い理論です。しかし世間一般の人は、必ずしも、そうとは限りません。 なぜなら、世間一般の人の多くは創作をしないので、だからもし、あるオタク文化の理論に実用面などで問題があっても、なんかその理論が適当にオタク消費者などを褒めていれば鵜呑みにする人も多くいます。

たとえば、なんか文学用語やら哲学用語やら社会学用語やら経済学用語やら(以下略)の用語で、とりあえずオタク産業を褒めて権威づけしていれば、たとえ創作の実践の役に立たない空理空論の理論でも、世間にはその理論を支持する人もいるのです。

だから、そういう創作の実践に役立たない「理論」でも、オタク差別などを気にする作家(漫画家・アニメーター・ゲーム作家など)が支持していたりする事もあります。だから必ずしもオタク系のクリエイターに支持される文学風の理論やら社会学風の理論が、創作の実践に役立つとは限りません。

だから、文学評論家などの言う理論ではなく、実際にイラストレーターやプログラマーなどをしている人の教える、実務的な理論のほうを優先的に勉強しましょう。

「マンガ学」とか後回しで良い

どこの漫画家が著書(漫画家への創作入門書)で言ってたか忘れてしまいましたが、2012年くらいに書籍で「大学のマンガ学科で習う理論なんて、普通の日本人の漫画家志望者には役立たない。大学とかのああいう理論は留学生とかで、マンガの読み方自体を知らない人がマンガを学ぶときくらいしか、使い道ない」みたいなことを言ってたりします。

大学のそういうマンガ研究も、日本文化の国際的地位を高めるため等には必要なのかもしれませんが、しかし少なくとも漫画家には直接的には、あまり役立たないのが実情です。なので、志望者は優先順位を間違えないようにしましょう。

日本で漫画家に憧れるなら、さっさと実際に流行で好きなマンガでも読んで、それを模写でもしましょう。やや古い入門書ですが「サルでも書けるマンガ教室」や「快描教室 きもちよ~く絵を描こう! マンガの悩みを一刀両断!!」や「ヘタッピマンガ研究所R」(平成版のほう)など漫画家自身の書いた優れた入門書も出版市場にありますが、そういうノウハウ書を余裕があれば読んだほうが良いでしょうが、しかしそれを読むために大学にわざわざ行く必要もないし、日本人ならわざわざ他の学術書を読むなどの余計な手間も必要ありません。

例としてマンガを例に挙げましたが、アニメやゲームも似たようなものでしょう。

サル漫などそういう本を読まないことの問題は、決して読まないこと自体ではなく、読まなくてもいい別の本(難解な文学理論の書かれたマンガ学研究書みたいなの)を間違えて優先的に読んでしまうことが問題なのです。

それでも80年代はマンガ入門書が乏しかったので多少は仕方ないのですが、しかし95年のエヴァブーム以降は、サル漫の復刻版や快描教室などが90年代後半に出版されましたので、それ以降の時代に大人になった人はもう、言い訳が通じません。見当違いの練習をしてしまった人が、仮にサル漫については表紙がギャグ漫画っぽいので「技法書ではない」とてっきり勘違いして読まずにいたとしても、しかし『快描教室』のほうは技法書みたいな体裁のサイズの書籍なので、『快描教室』のほうは当時のマンガ志望者が読まなかった言い訳がもはや通じません。

アニメーター志望の場合でも、2009年くらいからアニメーターの書いた今風の絵柄の教本が増えてきたので、もう2020年代の今では知識不足(作画の実務知識が不足してたり、見当違いの勉強をしてたり等)の言い訳が通じません。

こういったプロファイリングから、70年代~80年代生まれの人については、読書歴などから「漫画家やアニメーターなどを本気で目指していたかどうか?」という本気度の高低がバレてしまいます。快描教室も読まずにアニメーター教本も読まずに模写せずに、岡田斗司夫だの東だの宮台だの大塚英志ばかり読んでたら、そして画力がイマイチだったら、「いわゆるイラストレーターを本気でやる気が無いか、あるいは相当のアホ」とバレるのです。

ともかくもう、見当違いの言い訳が通じない今の時代、教本も確認せずにネットの漫画家・アニメーターの説明も確認せずに、見当違いの勉強をしてしまっている人には、もう同情がされない時代です。見当違いの勉強をしている人はもはや、専門家の目からは内心、自称「漫画家志望」または自称「アニメーター志望」などの現実逃避だと見なされてしまう、怖い時代です。

しかも、見当違いの勉強・練習をしているアホなのに、ろくに業界研究もできていないのに岡田とかの本を色々と読んでる自分を「頭いい」と思っていたりしたら、かなり危険な心理状態でしょう。サル漫では、漫画家志望者なのに芸術家を目指している人をかなり危険な心理状態だと言っているらしいですが、おそらく、肝心の実務的なマンガ家教本・アニメーター教本などを差し置いて岡田とかばかり読んでしまってる状態も(そして、その読書に時間を取られて、創作も進んでない状態だとする)、それに近い危険性および危険度でしょう。精神医学では、「自分が精神病である」という自覚のことを病識と言います。病識の自覚が無い患者は、とても精神病が治りづらい、と言われています。

週間マンガ・アニメの後日修正

なお、実は週間漫画は、雑誌掲載時の絵柄と、単行本掲載時とで、絵柄が微妙に違う場合があります。雑誌掲載時だと、週間ペースの掲載に追いつかせるために、省略できそうな背景などの書き込みを減らしている場合もあります。なので、実はそういう省略された部分を、単行本化に向けて後で、アシスタントや、専門の会社などが、細部を仕上げているわけです。

単行本の話ではないのですが、2012年ぐらいにBSあたりで放映されたマンガ業界特集番組では、実はマンガのアシスタント専門の会社が存在することを紹介しています。細かな統計は忘れましたが、その番組によると、現代(ただし放映当時の2012年頃)の漫画家の多くは、実は連載作家ではなくアシスタントとのことです。今のマンガ産業は、実は分業制なのです(なおアニメ産業は昭和後期~平成初期からとっくに分業制)。

アニメも、実はテレビ放映時とブルーレイ・DVDなどの円盤メディアとで、絵柄が少しだけ微妙に違う場合などがあります。放映後に細部を直すのです。

マンガ・アニメ業界での「芸術」・「自由」の裏の意味

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文献『ゲームプランナー集中講座』によれば、ゲーム作りに必要な資質としては、作家性[67]のほかにも「人を楽しませたいと思う気持ち」[68]が必要です。

また、同文献によれば、ゲーム会社では自己表現は求められていません[69]。もし本当に自己表現をした人は、ゲーム会社ではなく1人で芸術家を志望するべきだと文献『ゲームプランナー集中講座』では述べています[70]

作家性は必要ですが[71]、しかし自己表現は求められていないという、バランス感覚が問われます。

※ 小学生むけの1980年代の演劇の指導書(学研から出てた本)を見たら、子どもの演劇行為は「自己表現」という意味の文章が書いてありました。芸術業界でいう「自己表現」という用語には、こういう意味もあります。あなたは小学生ですか?  それとも、よほどの巨匠ですか?
栗原一登 監修『わたしたちの学校劇 小学1・2年生の劇』(学習研究社、1993年2月14日 初版 第4刷発行、前書き『豊かな表現を』)の前書きで、「子どもの心や体を解放して、自由に豊かに自己表現させるのが学校の演劇です。」とあります。キーワード『自己表現』だけでなくキーワード『自由』もあります[72]
小学生教師や幼稚園児の保育士むけの芸術教育に指導は、こういう感じでいいと思います。幼稚園児やその保育士に「ターゲット層を考えてデザイン」とか言っても教育効果は低いでしょうし。
でも、大人がそういう勘違いをしてもらっては困ります。
こういう「自己表現」という言い回しはあまり正確ではなく、たとえば演劇の場合、表現しているのは児童の自己ではなく、演劇のストーリーです。だから稽古(ケイコ)をして何度もひとつの芝居を練習するわけです。子供の演じる演劇は「大人から見たら拙い(つたない)作品かもしれないが、小学生でも作品の意義が分かるので、小学生の情操の成長のために良い作品」くらいの意味でしかなく、現実にはその目的は自己表現ではありません。そもそも集団の演劇なら(幼稚園の学級すらも集団です)、個性の表現ですらありません。本気で児童の自己そのものを表現したいなら、日常生活を撮影してれば済みます。


ゲーム業界への就職では自分の作品があるとアピールポイントになり多くのゲームプランナー入門書でもプロトタイプなどの作品づくりを推奨していますが、しかし自己表現は求められていないことに注意する必要があります。


さて、ゲーム会社だけでなくイラスト業界やマンガ業界も、似たような見解です。

『クリエイターのためのおんなのこデータベース2008 -ファッション編-』によると依頼内容を無視して自由に絵を描こうとする人は、けっして「プロ」ではなく、それは「芸術家」だとのことです[73]

「芸術」

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「芸術」といえば、漫画『サルでも描けるまんが教室』では、漫画家志望者が芸術かぶれになることを、とても戒めています。

サル漫の芸術かぶれ回

サル漫の芸術かぶれ回では、作中の漫画家コンビのシナリオ担当の竹熊と作画担当の相原が、漫画の執筆中に、 芸術かぶれを煩った作画担当キャラの相原コージが、まず、おおむね「俺たちはこんなくだらない漫画を描いてていいのだろうか」みたいなことをつぶやきます。

それに対して竹熊が心配したか「どうした相原?」とたずねると、

相原の細かなセイルフは忘れましたが、相原は「俺たちはもっと本質的な作品を作るべきではないか?」とか

「資本主義などという下らない次元にとらわれてはいけないのではないか」とか、

「俺たちは国や大企業におどらされていてはいけない」とか、

なんかそんな感じのことを言います。


すると、竹熊はまず相原をぶん殴ったあと、

竹熊は「お前は芸術をぜんぜん分かっちゃいない!」と説教し、

相原が「そんなことない」というと、

竹熊が「じゃあ、お前のいう芸術とは何かと言ってみろ?」と問い詰めると、

相原が「それは、人間の内面の真実ってゆうか」とつぶやくと

竹熊はめっちゃあきれたような見下したような表情で、「にんげんのぉー、ないめんのしんじつぅ~」みたいにつぶやき返します。


そしてそのあと、竹熊はおおむね、 「お前は権威にとらわれてはいけないとはいうが、じゃあお前のその意見は、どこかの芸術大学の教授の権威にすがっているだけではないか!?」とか

「お前こそ、政府や商業メデイアによる宣伝のつくった権威にとらわれているだけじゃないか」とか、
「お前は芸術教授の権威にあやかって自分も地位と名誉が欲しいだけだし、結局、お前はカネが欲しいだけなのだ。」

なんかそんな感じのツッコミをします。

このあとも竹熊のツッコミは続きますが、続きを知りたい方はサル漫を購入してください(ネタバレになるので続きは省略)。

ともかく、マンガ業界やアニメ業界でいう『芸術』には、こういう隠れた意味があります。 アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の総監督の人はサル漫の大ファンですし、総監督は竹熊とも対談したことあるので、つまりアニメ業界でも自称「芸術家」はまあ似たような扱いです。

※ 中学教師むけの美術教師用の指導書を読んでたら、「美術は内面を表現する教科であり、表現したいものを探す=内面を見つめる教科です。」[74]という文言を見つけました。美術教育の是非はともかく、マンガ産業はいわゆる「美術」・「芸術」ではないので、気をつけましょう。
ゲーム業界やアニメ業界では背景の設定画のスタッフなどを「美術」と言ったりして、ゲーム業界やアニメ業界でも「美術」という言葉が使われますが[75]、しかし意味が「人間の内面の真実」とは大幅に違うので、混同しないようにしましょう。


サル漫にはコラムで「もし、あなたの友人が漫画家を目指していて、芸術にあこがれている場合、とても危険です。なぜなら芸術へのあこがれは漠然としたものが多いですが、マンガを作るとは漠然とした行為ではなく具体的なものだからです」みたいなコラムが書いてあるらしいです(※ 手元に書籍が無いので確認していません)。

同人の短編とかならともかく、商業での連載でカネを定期的に稼ぎたい場合、ターゲット層に受ける内容を毎週(あるいは毎月)、執筆を遅延なく続けなければなりません。断じて漠然としたものではありえません。

スケジュールの遅延が許されないので、絵柄もそれに合わせたものになります。


マンガだけでなくアニメやゲームも同様でしょう。


芸術雑誌ですら、甘えてる自称クリエイターには手厳しい

雑誌『芸術新潮』(新潮社)の2023年3月号で、服飾ブランド企業家のクリスチャン・ディオール特集の記事を読んでたら、

たとえば日本画家の千住博と、服飾史家の中野香織との対談で、

千住は、

千住(話者の一人) 「芸術には、その時代に足りない部分を指摘し、あるべき世界を提示するという側面があります。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチが科学の大切さを説き、普仏戦争の時代には印象派が身近な暮らしのなかに差し込む光のあたたかさを描いています。」

さらにその前に彼は、

千住「ディオールはファッションを介して、「こうであったらいいな」という世界を提示したわけですね。

と言ってます[76]


マンガでも、似たような事例があります。

『ちびまる子ちゃん』に出てくるおじいちゃんの友蔵は、マンガだと孫になつっこい好々爺ですが、実際の祖父本人は違っていました。

マンガの祖父の描写は、『ちびまる子ちゃん』作者が「こうだったらいいな」と思って描いた表現です。

マンガやアニメはこのように、「好き」とか「憧れ」とかプラスの感情を表現に置き換えるものです。

同人とかでもそうで、たとえば1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の同人なら、ラスト2話の展開に同人作家が不満があったから、だから同人作家たちが自分の想像する理想のラスト2話を「ラスト2話がこうであったらいいのにな」勝手に考えたりするわけです。


芸術家の村上隆は、動画『芸術闘争論』で、フランス革命など近代革命の前後で、絵柄の対象者がそれまでの貴族や宗教的聖人から、庶民・町民や中産貴族などに変わったと述べており、芸術家が社会を理解しようとすることの大切さを動画で述べています。

アート系の専門学校でも美大でも何でもいいんですが、それらの学校の一定割合の新入生は、なんか社会への批判ばかりでも詰まってそうな、陰気で暗い絵を描きたがったりしますが、 そういうのは、上述のような美術史などを全く理解できておらず、頭が悪いわけです。バカで頭が悪いくせに「自分は頭がいい」と思ってるタチの悪いバカなわけです。まだしも昭和の20世紀の時代にそういう勘違いをするならともかく、21世紀になってもその勘違いを続けたままなのは、クリエイターとしてお先が真っ暗です。


ほかのマンガ・アニメもそうでが「こうだったらいいな」と思ったものを書いたりするのが中心だったりします。たとえば『サザエさん』の日常の描写は、実際の戦後の混乱期などとは違います。

1990年代、エヴァンゲリオンのスポンサー企業だったキングレコードでプロデューサーをしていた大月プロデューサーは、ラジオ番組で、映画『男はつらいよ』を評して、現実の男性社会とは違うけど(映画『男はつらいよ』は)理想を描いている、とった感じの評価をしていました。

2010年前後でしたが、アニメ会社のマッドハウスだかアイジーだったか忘れましたが、ホラーアニメなどをよく作っていたアニメ会社なのですが、そういったアニメ会社でも、「視聴者は基本、明るい気分になりたいので、わが社はなるべく明るい作品を作るように心がけてる」と何かのwebインタビューで答えていました。 アニメ産業も、そういうものです。


なお、ディオールの黎明期の女性服ファッションというのは、その前の時代が世界大戦などの物資不足で、簡素な軍服みたいなファッションばかりだったので、それに対するアンチテーゼとしての女性服ファッションです。

※ ただしナチスドイツの軍服は、洗脳のために派手だったりするが、そういうのは置く。ここでいうディオールの反発した軍服みたいなファッションとは、芸術新潮の2022年12月号によると「張り出した肩と直線的なタイトスカート」というデザイン(p.37)[77]


黎明期のディオールのファッションは、くびれを強調するために腰が狭かったりして女性には少し苦しいのですが、それ以前の軍服的なファッションと比べての選択肢としての自由の表現なわけです。(なおディオールの服の腰のデザインは、のちにディオール社の若手デザイナーによって、もっと腰のゆったりしたファッションに更新されます。)

このように、後付けの理屈ですが、芸術史に残るような芸術作品ですら、発表から数十年も経てば、きちんと客観的な理屈のつくものです。だから、サル漫で批判されたような『人間の内面の真実』なんてホザいているだけで、具体的な説明のつかない曖昧で漠然とした言葉に逃げている者は、先行きが暗いでしょう。マンガだけでなく芸術業界からも否定されています。

戦時中の物資不足によるファッションへの影響という具体的な問題があるのです。曖昧で漠然としたものではありません。


社会に欠けてるものを提示しないといけないのに、自分の欲しいだけのものを芸術の権威を悪用して主張する作品も、勘弁ねがいたいものです。

たとえば「漫画家になりたい!」とか「イラストレーターになりたい!」と思ってるだけで、でもプロになれないから何か文句のありそうな絵柄の暗いイラストとかです。「日本のマンガ産業は、資本主義(あるいは男性社会など)によって歪んでいる!」とか作品で連呼したような作品です。観客からは「それ、社会の夢じゃなくって、お前個人の『ラクにカネ儲けしたい』ってだけのワガママな欲望じゃん」って思われるだけです。

今の時代、ネットで低価格でアマチュアでもマンガやイラストなどを発表できるんだから、勝手にマンガなど自作コンテンツを発表すれば済むだけです。それで儲かるかどうか知りませんが、少なくとも「マンガを発表したい」などの夢は、ネットで価格ゼロ円で発表をした瞬間にすぐに願いが叶います。

反論で「そうじゃなくって、漫画家として連載で定期的に儲けたいんだ!」という自称クリエイターの夢(自称)は単に、「私はお金がもっと欲しい!」とか「私はもっと褒められたい!」とかを言い換えたに過ぎず、社会に欠けてるものとは何の関係もないので、「芸術」でも何でもありません。

そんな幼稚な自称クリエイターがいくら、「日本のマンガ産業は、資本主義(あるいは男性社会など)によって歪んでいる!」とか作品で連呼して他責したところで、マトモな出版社などからは相手されないでしょう。

大人のクリエイターは基本、自責の思考でなければなりません。まだしも高校を卒業したばかりとか大震災とかに巻き込まれたならともかく、25歳とか超えてからは、「自分が創作で上手くいかなかったら、基本は自分の責任」だと思わないといけません。少なくとも、日本のマンガ・アニメ・ゲームイラストの業界では、それぞれの業界の有名作家によって、そう言われています。

サル漫でも有名な竹熊健太郎が後年の2005~2010年ごろに言っているのですが、たとえ美大に合格する石膏デッサンなどの画力があろうが、マンガ絵・アニメ絵は仕事レベルの品質では描けないのが実情です。竹熊のリアル有人で、美大出身の絵描きの人がいるのですが、彼(美大出身の絵描き友人)はマンガ絵が描けなかった、と竹熊はたしか2010年前後に言っています。

それでもマンガの場合なら、作者が絵柄を自由に選べますので、なんとかマンガ絵を仕事として描けるかもしれません。

しかし、アニメの場合だと、絵柄を他人の画風に合わせないといけないので、仕事にするのは絶望的です。

日本には美大出身の漫画家・アニメーター・ゲームイラストレーターなども多々いるので、あたかも美大出身が有利かと勘違いしがちですが、実はその何倍も「美大出身だけどアニメーター仕事なんて無理」な絵描きのほうが多そうな実情です。

美大出身でアニメ絵・マンガ絵などが描ける人は、美大受験の練習とは別に、アニメ絵・マンガ絵などの練習と精神力を時間をかけて行ってきた人だと、アニメ業界では言われています。

だから、アニメ絵をうまく描けるようになりたいなら、アニメ絵そのものを模写して練習するしかありません。ゲームイラストを上手くなりたいなら、目標の画風のゲームイラストを模写して練習するしかありません。

それ以外の画風をいくら練習しようが、たとえば石膏デッサンやら油絵やら日本画などをいくら練習しようが、アニメ絵・ゲームイラストは上手くならないのが実情だと、アニメ業界などでは言われています。

昨今、美術科の高校を舞台にしたマンガ・アニメや、美大を舞台にしたマンガなどがありますが、だからと言って決して「美大を出ればマンガ絵・アニメ絵が上手くなる」みたいな勘違いしないようにしましょう。


少年ジャンプに連載していたマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』がいくら作中の敵キャラ名やスタンド名などでいくら海外アート作品やら音楽作品を元ネタにしてようが、そういった海外アートの模写やら音楽を練習しただけではジャンプ系マンガ雑誌で連載できるわけは無い、という常識的な事実に気づきましょう。

アニメ業界の例を考えれば、たとえばエヴァンゲリオンの女性キャラの名前が軍艦の名前だからって(葛城ミサトは空母・葛城、綾波レイは駆逐艦・綾波)、イラストレーター志望者がいくら軍艦の名前や歴史をいくら勉強しようが、軍艦の模写をしようが、エヴァンゲリオンを作ってるアニメ会社みたいなキャラクターを描く画力は手に入らないのは、考えれば当然の結果です。

しかし、なぜかアート知識とかが元ネタの作品だと、「これを勉強すれば絵が上手くなる」みたいに勘違いしてアート知識を仕入れたり、画風がアニメ・ゲーム系とは遠いのに模写する人がなぜか一定の割合で出てきます。ヘンな勘違いをしないようにしましょう。


ファイナルファンタジーのファミコン版の設定画のデザインを描いてたイラストレーター・天野喜孝が、いくら海外ではファインアートの画家として有名だからって、だからといって昨今のファインアートを模写しようが昨今の流行の画風のゲームイラストは描けないことに気づきましょう。

絵に限らず、たとえばゲームクリエイターになりたいならゲームそのものを作ることを第一に優先しましょう。目標のジャンルそのものの作品を作ることでしか、上達しません。


芸術品は値上がりしないのが大半

1990年代の『東大オタク学講座』に書いてあるのですが、岡田の対談相手の村上隆が言うには、ほとんどの芸術の評価というのは、発表してから数年がピークという、下り坂の評価なのが現実です。

芸術家の村上隆が言うには、画商などがサッサッと商品を売りさばきたいので、画家などの作った作品に評論家などにそれっぽい理屈をつけて、画商やその手下の売り子が販売テクニックとして消費者に「十数年後には値上がりしますよ」とか言って税金対策などとして金持ちに買わせるのが業界人の販売テクニックです。

ですが、実際には、少なくない数の作品は、十数年たっても値上がりしないまま終わるのが現実との事です。

テレビ番組にあった『開運!なんでも鑑定団』とか見ると、あたかも美術品はすべて値上がりするのが当然のように思ったりしかねませんが、しかし美術業界の実態は違うようです。ごく一部の作家だけ、画商のような人たちのあいだで作品が値上がりするに過ぎないようです。

「自由」

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ゲーム業界の就職などでいう「自由」は、これは単に、就活などでの自己アピール作品のジャンルがあまり他人と片寄らないように、あまり具体的にノウハウを指定しないという教育的な事情で「自由」という建前を言ってるだけです。

例えば、もし仮に「シューティングゲームはマイナーだけど基礎的で歴史的な技術が多いので、就活ではゲーム会社にウケるよ」という噂(うわさ)がゲーム業界の志望者に広まったとしましょう。すると仮にそのウワサの広がる前では実際にシューティングゲームがゲーム会社にウケていたとしても、

しかしウワサが広まった後では、

今度は就活作品がシューティング作品ばかりになって、供給過多になり、また企業側の採用担当の人もシューティングばかりをプレイさせられる羽目になるので飽きてしまい、結果として就活では逆に不利になってます。


実際に日本のゲーム業界では、そういうウワサの事例もありました。漫画家の 鈴木みそ さんっぽい絵柄のゲーム業界のエッセイ漫画で、そういう報告の作品があります。

ある年度、ある地域の企業に、似たようなシューティング作品ばかりが別々の志望者たちから送られてきて、原因を調べたら、あるゲーム専門学校がシューティングゲームを推奨していた、と原因が明らかになった、という報告マンガです。

C言語とかでゲーム作って1年ほどの新人の作品なので、似たような作品ばかりで、飽きてしまったとのことです。プログラムの使いまわしもあったりとか、主人公の機体以外のグラフィックが使いまわしとか、そういう事例があったとの事です。

当然、ゲーム会社の人は、プレイしていて飽きるでしょう。


ゲームに限らず、マンガなどでも似たような事情があります。新人賞の応募要項などには「自由な発想の作品、お待ちしております」とか書いてあっても、実際にはマンガ出版社ごとの傾向があります。


創作文化における「自由」

さて、お調子者の言う「自由にすればいいと思うよ。あなたの人生なんだから。」について、創作における「自由」の言葉の隠喩の一例ですが、1990年代前半の江川達也のマンガ『GOLDEN BOY』では、作中の主人公に対するライバル男性の住む金持ち豪邸に勤務する女メイドが、豪邸の雇い主(ライバル男性)ではない主人公に惚れてしまったあとに、ライバル男性に女メイドは恋心を見透かされ、その後、女メイドが雇い主ライバル男性に「これから私はどうしたらよいでしょう?」と問うたあとに、

しばし無言のあとライバル男性から「お前の自由だ。お前の好きにしろ。」と女メイドが言われたあと、女メイドが泣き叫び「私を捨てないでください!」とライバル男性に考え直しを請うわけです(単行本 第3巻)。1990年代前半のマンガ業界、少なくとも掲載紙である集英社スーパージャンプ界隈とその読者の成人男性には、「自由」とはそういう意味なわけです。


文脈は違うかもしれませんが『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ版の最終話でも、自由について述べられており、精神世界にとらわれた主人公が「ぼくは何をすればいいか分からない」みたいなことを言って、重力からすらも解放されて空中にプカプカ浮かべるようになって、まるでガンダムのニュータイプみたいに重力から解放された状態の主人公に対し、仲間が主人公を戻すために「不自由になれ。」と忠告して主人公を重力に束縛をさせる代わりに地に足をつけさせるシーンもあります。

あえて重力に束縛されることで、歩くとか走るとかいった行為を始めて出来るようになるわけです。作中でもそう説明されます。

なお、アニメ業界では「自由」とは、「今月は仕事が無い」みたいな意味の比喩でもあります。小さいアニメ会社で仕事がある月に取れなかったとき、営業マンに相当する「制作進行スタッフ」がアニメーターたちに「今月は仕事が取れなかったので、自由にしてください」とか言ったりするわけです。一方、アニメ業界では仕事を取れている状態のことを「拘束」(こうそく)と言います。それでも半月~1か月程度の短期の「自由」なら、家の掃除とか出来るのであっても良いですし、若手なら2年程度の自由とかも自分の可能性を試すためには必要かもしれませんが、しかし5年とか経っても「自由」なままの自称クリエイター志望者は、単に誰からも必要とされていない自称クリエイターなだけです。


アニメ・ゲーム制作とは可能性を削る作業になる

エヴェンゲリオンの1995年のテレビアニメ晩の内容は、実は創作論・アニメ制作論がモチーフの一つらしいです。そういう話が創刊当初の雑誌『アニメスタイル』に書いてあるらしいです。なお、その創作論をアニメ化するというアイデアの元ネタはセーラームーンのアニメーター回らしいです(アニメ会社に妖魔が現れてセーラームーンたちが倒す回)。

(なお、アニメスタイル以外にも、1995年時に雑誌『ニュータイプ』でもそういう事が漫画版パトレイバー作者の連載コラム漫画によって語られている。エヴァ前半に出てくる原発ロボのジェットアローン回は、あれはエヴァ制作会社のガイナックスの競合他社への皮肉だろうと。
ほか、エヴァブーム発生後の各所のインタビューなどで、作中の組織「ネルフ」は、ガイナックス自身を表現したものだと、よく語られています。なお、作中のネルフは年齢が20台の若い人が多いですが、実際のガイナックスはもっと高齢化していると既に90年代の時点でガイナックスの人たち自身がなんかのインタビューで述べています。)

エヴァンゲリオンよりも数年ほど後のアニメで『少女革命ウテナ』という少女アニメがあります。そのウテナの監督・幾原邦彦(いくはら くにひこ)という男性アニメ監督は、おおむね「アニメづくりとは可能性を削る作業だ」という事を当時のアニメ雑誌(おそらくアニメージュ)などで言っています。

エヴァ単独・ウテナ単独だと分かりませんが、ウテナのテーマは、エヴァで提示された庵野監督による創作上の問題提起に対しての、幾原監督なりのアンサーになっているらしいです。

ウテナの監督の幾原は、アニメ版のセーラームーンRなどの監督の人です。

この段落を書いた編集者Sはそのアニメ雑誌は読んでないのですが、幾原監督のした可能性を削るということの実例として、幾原はウテナの構想初期の当初、セーラームーンの後半の女性キャラに出てくるレズビアンの2人組にならってか、ウテナの主人公キャラの2人組の少女の性的趣味をレズビアンにしようとしましたが、しかし共同原作者の女性マンガ家 さいとう ちほ 氏から「(ターゲット層の)少女はあまりレズビアンとか好きじゃないですよ」という消費者の趣向の実態を聞き、レズビアン案を撤回しました。(※ ウテナの原作者は、形式上はさいとう氏が原作者で、幾原は単にアニメ版の監督という形式になっているが、これはターゲット層の小さい少女にも分かりやすくするための演技に過ぎず、実態は幾原監督と さいとう氏の共同制作。)

幾原は男性なので、どうしても少女の感性は分からないので、それで共同原作者の女性漫画家のさいとう氏に聞いたのです。

幾原のように、コンテンツづくりでは目的に応じて、さっさと不要になった古い可能性を削るものです。もしプロを目指す場合、商業コンテンツを制作していたりして、いつまで経っても「可能性」が削られないのは、単に何も制作上のアイデアへの確認作業などが進行していないだけの怠慢です。

ゲーム作りも商業の場合、最終的には可能性を削っていく作業になるでしょう。


FGOゲームデザイナーの人の書籍『ゲームデザイン プロフェッショナル』によると、まずは仕様を決めないといけません。情報収集を十分にしてから決断しようとしても、失敗します。なぜかというと、実際に作るなどの行動をしないと高品質の情報が入らないからです。たとえばFGOの人のその本では、たとえ話として、24時間営業のお店で何かトラブルが起きた場合には、情報収集のために時間を待つよりも、とにかく、なるべく早めに対応の行動が必要だし、そうしないと、むしろ時間が経つにつれて自体が悪化していくものだと説明しています[78]

なので、まずは不十分で断片的な情報でもいいから、そこそこの品質の情報が入手できたら、さっさと仕様などを決断して決定します。そうしないと、ロクな情報が入ってきません。

このため、クイック&ダーティ(汚くてもいいので早く)の考え方で、設計という作業は進めていくことになります[79]。少なくともゲームの場合はそうです。 完璧よりも、早く動くべきだと、塩川氏は言っています。


「可能性を広げない」ではなく、いろんな可能性を想定した上で、確認作業や検証などを行って、可能性を削っていくことに注意してください。

よく、挑戦の可能性とかを世間の人は軽々しく進めますが(「夢を信じて」とか軽々しく言う連中)、しかし実際の創作では、挑戦するのと同じ程度に、自分の失敗しているアイデアを削って淘汰していく可能性というのも必要なのです。

なお、セーラームーンもエヴァも、東映の特撮ヒーロー物を踏襲しています。けっして、過去の作品を無視した新ジャンルではありません。たとえば、エヴァの登場人物の綾波レイの髪が青い理由は、セーラームーンの優等生キャラのセーラーマーキュリーの髪が青いからだし、元をたどれば特撮ヒーロー物のブルーが冷静キャラだったりする場合が多いのが元ネタです。

観客の理解力には限界があるため、一つの作品には、いくつもの新機軸が入れられません。なので、どうしても入れたい新機軸以外は、過去の名作や慣習などを踏襲することになります。

仮に、試作品などで無理やり新機軸だらけの作品を作る企画を立てても、ターゲット層がその作品を理解できないので、商業化される前の時点でその企画が葬られていくだけです。


強く願っても、願いは叶わない

「作家になりたい」とか幾ら強く願っても、願うだけでは叶いませんし、行動したとしても叶う保証は一切ありません。

例として、少女革命ウテナのアニメにあるシーンなのですが、主人公ウテナではなくその女友達の同級生とかで、恋する少女(キャラ名「高槻シオリ」)が居て、男子生徒のルカ先輩に恋する女子生徒ですが、

ある話数の冒頭で、その女子生徒・シオリは「奇跡を信じて。思いは届くと」みたいなことをモットーに、自分の恋を自分で応援します。

で、その話数の最後のほうで、決闘後にどこかで、ルカ先輩が別の誰かに「彼女の言う奇跡とは、他人の犠牲の上に成たつもの」みたいな事を言って、でシオリをそのあとフリます。シオリはガーンとします。


これだけだと、やや意味不明な急展開ですが、

しかし予備知識として、アニメ版ウテナはアニメ版エヴァンゲリオンの作中で語られた創作論に対するアンサーだという事を加味すると、意味が通ってきます。


世の中には、たとえば「作家になりたい!」と強く奇跡を願えば、あとは少しの練習で「夢が叶うはず」と無意識に考えている子も、20世紀は少なくなったのです。アニメ作家・アニメーターではなくとも、漫画家でもラノベ作家でも声優でも何でも構いません。

たとえば漫画家志望なら、ろくにマンガも書き溜めてないのに、1作品20ページの1話分すら書かずに人生で2~3ページだけの作品量で「漫画家になりたい!」みたいな志望者です。漫画も書き溜めず、大学受験で文学部とか美大とか目指すのも似たようなものでしょう。

しかし、実際には、ああいった子供が憧れるような人気職業は倍率も高く、単に「奇跡を願ったから」って就職できるわけではありません。


アニメーターの場合、実力がついてないとか仕事内容を理解してないのにアニメーター就職されても、それこそルカ先輩の言うように、先輩社員とかのほかの人間への「犠牲の上になりたつ奇跡」になってしまいます。

そんな負担になるだけの人材、アニメ会社は雇いたくないのです。

新人のうちは多少は勤務先の負担になってしまうのは仕方ないかもしれないですが、しかし「負担にならないように自己改革しよう」みたいな気も無く、「今の自分の絵柄のままでいたい」みたいな奇跡を願う人は、もはや邪魔ですので、リストラ必須です。もしくは、仕事・注文が次から来なくなります。実際に日本のアニメーターたちは、アニメーター志望者に「絵柄をプロに真似る気が無いなら、プロの現場に来られても迷惑ですので、同人とかで自主制作なさってください」と言っています。


エヴァンゲリオンは精神病理を題材にしましたが、ウテナの作品ではそこまで言及していませんが、根本的には「強く願えば、願いは叶う」みたいな感じのモットーは、ストーカーの一種の妄想みたいで自分の希望と他人の意思との区別がついてない状態で、精神的にかなり危険な心理です。「自分はあの子を強烈に好きだから、きっとあの子も私が好きなはず」みたいな心理状態です。

解決策の一つとしては、サル漫の最後のほうにチラっと書かれているのですが、そもそも進路として「プロ漫画家になる!」「プロ〇〇(作家やスポーツ選手や有名人など)になる!」というたぐいの夢を人生の自己評価の前提(いわゆるアイデンティティ)にしないのが解決策です。

サル漫ではそこまで言ってないですが、「僕はマンガを書くのが趣味だから、あわよくばプロ漫画家になれたらラッキー。なれた場合は、プロ仕事を楽しく続けられたらラッキー」くらいに考えて、もしプロ漫画家になれなくても別の進路も模索・対策しておくのが、健全でしょう。これがスポーツなら常識的なノウハウで、プロ野球選手を小学生が目指しても、将来的になれる子はごくわずかなのに、なぜ漫画家やらアニメーターだとプロ前提にするのか、作家業の志望者は少し幼稚な人も多いのが現状です。


アマチュアが練習のときに、プロを手本にするのは構いません。手本としてはプロの仕方は妥当です。実際、スポーツやマンガ・アニメなどの教本などを見てもプロが監修をしています。しかし、だからと言ってプロを目指すことだけを人生の前提にするのは、とても視野狭窄です。

日本の中学の野球部の子は、プロの野球の仕方を手本にしているでしょうが、しかし決して「自分がプロになれて当然」なんて多くの中学野球部の子は考えていません。

プロ野球やプロサッカーなどは、中学高校あたりで日本全国の部活動の大会とかで自分の実力を思い知らされますが、マンガやアニメだとそういう経験が無かったりするので、プロが無理そうな若者でも自信満々だったりします。

スポーツも創作も、プロの仕事とは競争ですので、「なりたい」とか「売れたい」という願いが叶わない場合もあります。仮に「なれた」としても、「売れる」とは限りません。

願いが叶わないことを前提に、「自分は創作とどう付き合うか?」という人生を考えましょう。


世の中の詐欺・ぼったくり商法には、作家志望者むけをカモにした悪徳商法もあります。たとえば、自費出版とかを持ち掛ける商売です。

甘言を言って、その気にさせて高額の費用を払わせて自費出版させますが、しかし印刷した本はどこの書店にも置かれないか、たった数日だけどっかの書店に何冊か置かれるとかして、あとはどこかの倉庫に大量の本が置かれたままで、期間が過ぎたら焼却して廃棄処分だけど、自費出版の注文者には知らせない・・・というボッタクリ商法もあります。

そういう詐欺的なビジネスに気づかず、自分を「そこそこの作家」だと思ってる精神障碍者もいるという話をSNSなどで聞きます。


就職と結婚の比喩

クリエイターに限らず、一般的に就職のルール・常識は、学生生活とは違います。

学校では与えられた課題を指示どおりにこなしていれば、とりあえずはカネさえあれば一般の大学までは進学・卒業できます。しかし、就職というのは、そういうものではありません。

就職は、よく結婚に例えられます。

たとえば自分がある男性と結婚したくても、相手の男性がすでに結婚していれば、どんなにその男性に惚れる独身の女性が努力しても、結婚の夢は叶わないのです。

就職もこれと似ていて、努力だけでなく、雇う会社の側(相手側)の都合もあります。

どんなに電話交換手が上手にできても、現代にはその仕事がないので、その夢は絶対に叶いません。タイプライタも、どんなに熱心に勉強しても、現代ではその仕事はないので、絶対に夢やぶれます。

需要と言うものでその業界への就職の定員が限界が決まっており、それ以上は絶対に就職できないのです。


さて、欧米の若い上流階級の学生(高校生・大学生)では、ダンスパーティの文化があって(プロムナード)、そこでは愛する異性を一人きめてダンスに誘わないといけません。

色男などは普段は多くの女性にやさしく声を掛けて口説くので、世間の女性は自分がてっきり本命のガールウレンドとして選ばれた人間だろうと勘違いしますが、しかしこのパーティで、多くの女性は、色男の本命の女性が別人であると知ることとなり、多くの女性は現実を知らされます。

大企業などの新卒採用担当や公報なども、多少は足キリをしますが多くの学生に声を掛けますが、しかし定員はある程度は決まっています。

よほどの才能を発見すれば1~2人くらいは定員オーバーをしても席を作りますが、よほどの新人です。

単純に、会社の机の敷地やロッカーの敷地などに限界があるので、雇用できる新人の数にも限度があるのです。

普通の人は、いくら副業可能な令和の時代でも、勤務先は同時には1つか2つまでしか選べません。多くの異性と恋愛しても、最後は一人の異性に決めて結婚しなければいけません。

結婚は、その異性と一緒に生活を何十年と(死ぬまで)続けたいか、です。就職や採用も、その新卒と一緒に何年も十年以上も仕事を続けたいか、です。

ゲームデザインなどの設計(デザイン)では、決断の速さが重要ですが、その際に、不安に正しく向き合うことが必要だと、FGOクリエイターの塩川氏は著書で述べています[80]

塩川氏はウテナの話なんかしてませんが、「強く願えば、長く願えば、叶う」なんてのは、不安にまったく向き合えてないので論外でしょう。会社などの仕事では、そういう少女マンガチックな態度ではいけません。

塩川氏が言うには、不安とは期待の裏返しでもあります。

漠然とした不安は、高すぎる期待によるものだったりします。


実際のお仕事では、完全に期待どおりに最初からうまく行くなんてことは無いので、「最低限、これだけは(作品の面白さのために)達成したい」みたいな核となる目標を設定することから始めます。この最低目標を塩川氏は「ボトムライン」と読んでいます[81]。ボトムラインは、最悪それ以外の部分が失敗しても、ボトムラインさえ守れていれば面白さがとりあえずは確保ができて支障がない最終防衛ラインのようなものです。塩川氏は「大事なことベスト3を選ぶ」という例で、ボトムラインを設定するための核の見つけ方を提示しています。

なお、ビジネス書などでも、目標などに順位をつけることで、優先目標を見つける方法はよく紹介されます。


人生の可能性を削る

実はイラストレーターや漫画家・アニメーターなどは、アニメや漫画をあまり読んでいません。

これの例は、アニメ業界では、アニメ会社の「AIC」という会社の看板アニメーターだった中澤一登という人が、アニメを実はあまり見ないで同社AICのアニメ作品でキャラクターデザインになった人だと、アニメ雑誌などでの彼(中澤)の同僚などへのインタビューによって2005~2010年ころに公表されています。

中澤氏と専門学校時代から同期の脚本・演出系のアニメスタッフが、当初はアニメーター志望だったのですが、しかしアニメ見るよりも絵を描くほうを専門学校に入る前の18年間から優先してきた中澤氏を見て、演出系の同期の人はアニメーターよりもストーリーとか脚本とか、そっちのほうを自分は鍛えよう、と思ったらしいです。


人生の時間には限りがあるので、このようにもしプロの中~上位を目指すなら、自分の人生の選択肢の可能性を色々と削るものなのです。

他のクリエイターの例だと、マンガ版『機動警察パトレイバー』の作者の ゆうきまさみ 氏は、連載中、ろくにゲームをしておりません。彼の連載していたパトレイバーもゲーム化されていますが、しかしゲーム趣味そのものがなくプレイしていないと、アニメ雑誌のニュータイプ連載の『ゆうきまさみの果てしない物語』で吐露しています。


マンガ「TRIGUN」(トライガン)の作者の内藤泰弘は、ゲーム趣味のある人ですが、しかしマンガ制作のストーリーなどの勉強のために洋画を見る時間に当てるため、ゲーム趣味をたびたび封印していることで有名です。大作ゲームの1本を200時間をかけてプレイするくらいなら、洋画の2時間モノを100本みたほうが漫画家にとっては視点が多く得られて役に立つから、という事です。

無限の可能性があるのは、赤ちゃんが「この子の将来には無限の可能性がある」とか言われるのと同じです。ある程度の年齢に達したら、もはや未来の「可能性」だけではなく、加えて実績や成果などが求められます。

「私小説」

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売り上げと文化は違う

文学史でいう「私小説」と、マンガ・アニメ業界でいう「私小説」とは、意味が異なります。

現代でもアニメ評論などでは、「私小説」というのを否定的な意味で、「頭でっかちのインテリが書いた、世の中に文句を言ってるだけのことを、さも深い洞察かのように装うとしてるだけの、売れない小説」のような意味で使っていたり、あるいは「世間知らずの漫画家やアニメ監督の書いた、世の中に文句を言ってるだけの(以下略)マンガやアニメ作品の脚本みたいなもの」のような意味で使われることもあります。

たとえば1998年の岡田斗司夫の対談集『マジメな話』でも、当時のエヴァンゲリオンの映画版を「私小説」だと対談相手の推理小説家・今野敏(こんの びん)が批判していたりしました。「クリエイターよ、メッセージはあるか」というタイトルの対談です。

なお、名前の漢字が似ているアニメーター・今敏(こん さとし)とは全くの別人ですので、混同しないように。そもそも今敏はエヴァンゲリオンの制作スタッフの一員です。アニメーター・今敏は、全く、岡田とは対談していないです。


さて、文学史でも、売上と、後世に語られる作品が異なることはあり、たとえば大正文学の売上のベストセラーは、

倉田百三『出家とその弟子』、
島田清次郎『地上』、
賀川豊彦『死線を越えて』、

が大正時代の三大ベストセラーですが、しかし今や彼らは文学史の教科書には、滅多にのりません。せいぜい高校日本史の教科書で、倉田が少し紹介されているくらいです。

現代の教科書でよく大正時代の小説家として紹介される芥川龍之介は、じつは当時は倉田・島田らほどには売れてない作家です。また、「私小説」といわれるジャンルは実は売れていません。(もっとも、芥川が私小説を書き出したのは晩年のこと。このコラムでは、芥川の伝記については立ち入らない。)

食い違いの原因は、芥川が小説連載していた大阪毎日新聞による芥川をブランド化するイメージ戦略の成功や、あるいは第二次大戦後になって教育界隈の左翼運動家たちが文学史を左翼イデオロギーに都合よく書き替えたことなどが考えられますが、しかし新聞社や左翼ごときに書き換えられるぐらいに戦前の文学史が研究不足であったことが、そもそもの根本原因でしょうか。

ともかく、「私小説」というジャンルは、そもそも大正時代の当時は、大して売れていません。

ローポリ関連の作画

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単元『ゲームプログラミング/3Dグラフィック#ローポリ制作手法的なこと』で説明した。

レポートは結論だけを読んでも分かるように書く

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第二次大戦時のイギリスの首相チャーチルは、「レポートを読むときは、最後のほうのページから読む」というよな感じの格言を言っています。

ゲーム『サクラ大戦』シリーズの脚本家の小説家の あかほりさとる も、小説版サクラ大戦などで、すにで1990年代後半に、チャーチルとは言ってませんが、「自分は結論から書類を読む」のようなことを言っています。

だからレポートなどは、ゲーム業界なら、途中を読み飛ばしても、内容がおおまかに分かるように書かなければなりません。

別に冒頭で結論を述べる必要はありませんが(会社による)、しかし、仮に書類のページの順序どおりに上司が読まなくても、 レポート全体の内容を把握できるように書かなければならないでしょう。

中卒でも分かるように書類を書く

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ゲームに限らないのですが、企業でレポートなど種類を新人などに書かせると、時々、教科書などを丸写しするような人がいます。しかし、そういう丸写しは、多くの企業で、一般的な企業では不要です。コードの解説というより、企業で何かの解説レポートを書く際の基本ですが。

書籍『ゲームデザイン プロフェッショナル』によると、ゲーム開発で必要なチーム内での言葉選びについては、「中学生の知識でも理解できる言葉を使うこと」とあります。そのほか、言いやすいフレーズを使うことも必要です[82]

ぶっちゃけ、このwikiのこの科目の教科書のようなのは、中学生レベルの知識で読解できないので、ダメでしょう。読者は、このwikiを反面教師にしてください。


書籍『ゲームデザイン プロフェッショナル』は特に述べてはいませんが、企業というのは、従業員の過去の学歴や経歴がバラバラなのです。普通化高校を卒業して就職する人もいれば、業界に近い専門学校に入った人もいますし、商業高校や工業高校などに進学していた人もいますし、大卒や院卒もいます。

高校もほぼ進学率が100%ですが、しかし高校は選択科目などが多いので、共通知識はどの選択科目を選んだかで差異が多いので、なかなか高校を基準に合わせるのは難しい業種も多いのです(ただし、製造業なら工業高校卒のように、一部の業界では学校の種類を絞って基準にすることがある)。

なので、一般の多くの企業では、従業員がどういった学歴でも情報伝達が上手く行くように、中学レベルでも分かるような物言いが、企業では原則、必要になります。大卒社員であっても、そういうふうに言い回しを直すトレーニングをしたりします。

なお余談ですが、アニメ業界でも、目的は違いますが、アニメ監督が中学歴史の教科書を買いなおして勉強したりしています。『アニメ業界で働く』(ぺりかん社)という本にそう書いてありました。


脚注・参考文献

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  1. ^ 川上大典ほか『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日 第1版 第1刷、P.126
  2. ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.145
  3. ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.61
  4. ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P296
  5. ^ 『ゲームデザインプロフェッショナル』、P139
  6. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P125
  7. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P125
  8. ^ 『ゲームプランナー入門』、P141
  9. ^ 『ゲームプランナー入門』、P141
  10. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P83
  11. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P83
  12. ^ 『ゲームプランナー入門』、P159
  13. ^ 『ゲームデザインプロフェッショナル』、P121、※ 出典では企画については触れていないが、まあ常識的に考えて企画にも通用する考え方だろう。
  14. ^ 『ゲームデザインプロフェッショナル』、P122
  15. ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P71
  16. ^ 川村元気『理系に学ぶ』、ダイヤモンド社、2016年4月21日第1刷発行、P89
  17. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P43およびP45
  18. ^ 18.0 18.1 蛭田健司『ゲームクリエイターの仕事』、翔泳社、2016年4月1日初版第1刷発行、72ページ
  19. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P109
  20. ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P108
  21. ^ 21.0 21.1 21.2 『鳥嶋和彦が語る「DQ」「FF」「クロノ・トリガー」誕生秘話』2016年4月4日12:00 公開
  22. ^ 川上大典ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、、2018年11月1日第1版第1刷、P.281
  23. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P.9
  24. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P.20
  25. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P.3
  26. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』、P.43
  27. ^ 吉富賢介『ゲームプランナー入門 アイデア・企画書・仕様書の技術から就職まで』、技術評論社、2019年5月2日、149ページ
  28. ^ 吉富賢介『ゲームプランナー入門 アイデア・企画書・仕様書の技術から就職まで』、技術評論社、2019年5月2日、108ページあたり
  29. ^ 29.0 29.1 蛭田健司『ゲームクリエイターの仕事』、翔泳社、2016年4月1日 初版第1刷発行、77ページ
  30. ^ 蛭田健司『ゲームクリエイターの仕事』、翔泳社、2016年4月1日 初版第1刷発行、76ページ
  31. ^ 『ゲームプランとデザインの教科書』,P9
  32. ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P20およびP199
  33. ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P199
  34. ^ 吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P238
  35. ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.141
  36. ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.60
  37. ^ 『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.134
  38. ^ 吉富賢介『ゲームプランナー入門 アイデア・企画書・仕様書の技術から就職まで』、技術評論社、2019年5月2日、228ページ、
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