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概説 編集

ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)は1922年から1991年まで存在した社会主義国家。

革命前史 編集

ロシアの近代化 編集

ナロードニキ 編集

日露戦争と血の日曜日事件 編集

日露戦争 編集

血の日曜日事件 編集

ロシア社会民主労働党の成立と分裂 編集

ロシア革命 編集

第一次世界大戦 編集

1914年6月、セルビア人がオーストリアの皇太子夫妻を暗殺するサラエボ事件が発生した。この事件によりオーストリアはセルビアに宣戦布告。戦争が始まった。 この時、セルビアをロシア・フランス・イタリアがオーストリアをドイツ・オスマン帝国(トルコ)が支援したため第一次世界大戦となった。

2月革命 編集

ロシア帝国の滅亡 編集

1917年、デモから発展した2月革命の後一旦臨時政府が発足したが、国の内外での戦線の崩壊と混乱はとどまるところを知らず、ボリシェヴィキに対する評価は高まる一方だった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起した(十月革命)。この蜂起は成功し政権を強奪した。この日、最初の「ソビエト大会」が開かれ人民委員会議が発足した。人民委員会議は事実上の政府である。この時日本で例えれば首相にあたる議長にはウラジーミル・レーニンが就任した。後にボリシェヴィキはその名を「共産党」と改める。

ドイツとの単独講和 編集

内戦 編集

連邦の成立 編集

十月革命の後、ロシア周辺の各国でソビエトの一部分を謳う革命政権が生まれた。ロシア内戦が終息に向かう頃、これらの革命政権はロシア共産党の手により統合する。

スターリンによる独裁体制 編集

トロツキーとの対立 編集

大粛清 編集

五か年計画と工業化 編集

第二次世界大戦 編集

独ソ戦 編集

独ソ戦は、ソビエト連邦ナチス・ドイツの間で行われた戦争のことである。 両軍があわせて約2500万人の損害を出し、現在でも人類史上最大の戦争である。

独ソ不可侵条約 編集

そもそもナチス・ドイツの総統ヒトラーは反共主義を掲げてドイツの指導者となっていたし、我が闘争において「東方生存圏」の獲得を掲げていたため、社会主義を標榜するソビエト連邦とは当然敵対関係にあると考えられていた。 ところが、スターリンの英仏に対する不信感、およびドイツの交渉の成功によりドイツとソビエトが独ソ不可侵条約を締結した。 これは秘密議定書によって両国間の不可侵条約だけでなく、東欧における互いの勢力圏の確定も含まれていた。 かくして第二次世界大戦の初戦、ドイツのポーランド侵攻にソビエト軍も参加、秘密議定書に従いポーランド東部を獲得した。 その後もソ連は連合国に参加せず、枢軸国に友好的な中立を保っていた。

バルバロッサ作戦 編集

 
バルバロッサ作戦

しかし1941年6月22日にドイツ軍がソ連侵攻を開始した。 大粛清の痛手から立ち直っていなかったソ連軍は国境部において大敗北を喫し、6月29日にミンスク、7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフ、10月24日にハルキウが陥落した。 また、9月8日にロシア革命発祥の地であるレニングラードが包囲下におかれ、さらに首都モスクワの前面8km手前まで枢軸国に迫られるものの、カリーニンで反撃に成功し、戦線中央部の鎮静化に成功、南方でもロストフの保持を遂行した。

レニングラード包囲戦 編集

スターリングラード攻防戦 編集

東欧諸国の解放 編集

ベルリンの戦い 編集

フィンランドとの戦争 編集

冬戦争 編集

継続戦争 編集

対日戦 編集

ノモンハン 編集

日ソ中立条約 編集

満州・千島・南樺太への侵攻 編集

大戦中の外交 編集

冷戦 編集

第二次世界大戦後の世界では、ソ連を盟主とする社会主義国(共産主義国)とアメリカを盟主とする資本主義国(自由主義国)との対立が始まり人々はこれを冷戦と呼んだ。 また、アメリカ ソ連両国は軍事同盟を作成した。 アメリカは、北大西洋条約機構(NATO)を、 ソ連はワルシャワ条約機構を作成した。

朝鮮戦争 編集

戦後、朝鮮半島は北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領した。

その後、1948年朝鮮半島は南北に別れて独立し、北部は金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、南部は李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)が成立した。

北朝鮮は1950年、武力による朝鮮半島統一を目指し韓国に侵攻。朝鮮戦争が勃発した。この時、国連安保理は北朝鮮の侵略行為としてアメリカ軍を中心とする国連軍を結成させて韓国を支援した。一方中国は北朝鮮を支援するため人民義勇軍を派遣した。

結局この戦争は、引き分けに終わり休戦協定が結ばれた。休戦協定により、朝鮮半島は再び北緯38度(一部それている部分もあるが)に分断されている。

フルシチョフ 編集

スターリン批判 編集

1953年スターリンが死去し、フルシチョフが台頭し、改革を始めた。まずは保守派のモロトフを解任し、ユーゴスラヴィアとの関係を改善した。

1956年2月第20回党大会ではスターリンの個人崇拝批判が行われ、世界中に衝撃が走った。

雪解け 編集

フルシチョフはアメリカとの平和共存路線を目指したが、中国の毛沢東政権は激怒し、中ソ対立の原因となった。

60年代に入ってからはU2型事件によってアメリカとの間に緊張が走った。さらに1961年にはベルリンの壁を建設し、西側とさらに対立した。 これらを挽回するために1961年の第21回党大会ではスターリン批判を再度試みた。

キューバ危機 編集

1961年にキューバでカストロ政権が社会主義宣言を行い、翌62年にはソ連と武器援助協定を結び、ソ連の核ミサイルの配備を受け入れした。

このことでケネディ政権は海上封鎖を行い、米ソは核戦争の危機に陥ったが、最終的にはキューバへの不侵攻をケネディが確約し、ソ連がミサイルを撤去した。

この出来事を契機にアメリカのホワイトハウス、ソ連のクレムリンの間にホットラインが設置された。

フルシチョフの失脚 編集

キューバ危機で手を引いた形になるフルシチョフは、保守派の批判をかった。 1964年クリミアの別荘で休暇を取っていた最中にクーデター的な政変が起こり、フルシチョフは解任された。

ソ連の動揺と停滞 編集

中ソ対立 編集

1956年のスターリン批判後、ソ連は平和共存路線を選んだが、中国は対米強硬路線を貫き通し、中ソは互いを批判した。(中ソ論争)その後ソ連は、中印国境紛争でインドを支持、中国への経済的・技術的援助を停止。その後も対立は続き、1969年の中ソ国境紛争で頂点を迎えた。

中国は中ソ対立の中で対米和解と国連加盟を狙っており、アメリカもベトナム戦争の打開のために大統領補佐官キッシンジャーを訪中させ、その後ニクソン大統領も訪中し、1972年米中和解が実現した。

アフガニスタン侵攻 編集

1978年にアフガニスタンでアフガニスタン民主共和国が成立したが、ムジャーヒディーン(イスラム聖戦士)が抵抗運動を続け、アフガニスタンのほぼ全域がイスラームの手に落ちたため、アフガニスタン人民民主党はソ連に助けを求めた。

翌年1979年12月にはソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。


ムジャーヒディーンはサウジアラビアやアメリカの支援を受けており、支援を受けていた兵士の中には、のちにアメリカ同時多発テロを起こす、オサマ=ビン=ラーディンも含まれていた。

影響 編集

1979年に調印された第2次戦略兵器制(SALTⅡ)は弾道ミサイルの保有数だけでなく、運搬手段の制限も盛り込まれていたが、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由として批准を拒否した。


アメリカのレーガン大統領は「強いアメリカ」の復活を掲げ軍事費を増大させ、ソ連に対抗する姿勢を明確にした。


1980年のモスクワオリンピックはアフガニスタン侵攻を理由に西側諸国がボイコットした。1984年のロサンゼルスオリンピックでは前回大会の報復として、東側諸国がボイコットした。

停滞の時代 編集

政治的腐敗 編集

ブレジネフはスターリン憲法に代わる新憲法を制定、その第6条では共産党は「社会を指導し方向づける力、政治体制、国家、社会組織の中核である」と指導的な立場であることを規定した。これによって党の独占的支配が憲法によって認められ、汚職などの政治的腐敗は頂点に達した。

経済の停滞 編集

1979年から始まったアフガニスタン侵攻の影響もあり、軍事費が経済的負担となり、農業は国防予算を上回る補助金によって財政の重荷となった。

社会の停滞 編集

70年代から80年代にかけて、凶作や戦争などの影響で出生率や平均寿命は低下していった。死亡率は増加し、離婚率も戦後最悪となった。

環境問題 編集

シベリアのバイカル湖の軍事関連工場による汚染や、自然改造計画によるアラル海の縮小、セミパラチンスク核実験場での核実験による、周辺地域の汚染などが挙げられる。

ソ連と東欧の民主化 編集

新たな書記長の登場 編集

1985年チェルネンコ書記長の死去に伴い、書記長に就任したのは54歳のゴルバチョフであった。

彼は社会主義経済の行き詰まりを改善するため改革(ペレストロイカ)を始めた。また、積極的に情報公開(グラスノスチ)も行った。

東欧の民主化 編集

ゴルバチョフは1988年3月の新ベオグラード宣言で、東欧社会主義に対する内政干渉を否定し、東欧諸国は民主化していった。

東ドイツ 編集

1989年ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの移動が自由化された。翌90年には自由選挙が行われ、西ドイツに吸収された。

ポーランド 編集

ポーランドでは80年からワレサ率いる自主管理労組「連帯」が組織され、1989年の選挙で圧勝、連帯を中心とする連立政権が発足した。

ハンガリー、チェコスロヴァキア 編集

1989年複数政党制に移行し、共産党独裁政権は崩壊した。

ルーマニア 編集

ルーマニアはチャウシェスクの独裁が続いていたが、1989年に革命が起こり、チャウシェスク夫妻は逮捕、処刑された。

冷戦終結 編集

1985年にソ連共産党の書記長となったゴルバチョフはグラスノスチとペレストロイカを提唱、アメリカとの宥和を進め、アメリカは軍縮による大規模な財政赤字の削減を期待して、1987年レーガン大統領とゴルバチョフ書記長の間で中距離核兵器全廃条約(INF)が締結。翌89年にはアフガニスタンから撤退し、同年12月ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長は地中海のマルタ島で首脳会談を開催し、(マルタ会談)冷戦の終結を宣言した。

ソ連崩壊 編集

ソ連の共和国は次々に主権宣言、独立宣言を発表していった。ゴルバチョフ大統領は連邦の緩やかな崩壊を防ぐため、国家連合方式での連邦の存続を訴えた。 新たな連邦の名前は「ソビエト主権国家連邦」として、1991年8月20日の調印を予定していた。 しかし、8月19日、新連邦条約調印の前日に共 産党の「保守派」がこの条約に不満と危機感をいだきクーデターを起こした。 当時、クリミアで休暇中だったゴルバチョフ大統領は家族とともに軟禁された。 しかし、このクーデターは、エリツィンロシア共和国大統領、ロシア共和国政府、モスクワ市民の抵抗によりわずか3日で失敗に終わった。 23日にエリツィン大統領がロシア共産党のロシア共和国内での活動を停止する大統領令に署名、24日にはゴルバチョフ大統領が共産党書記長の辞任と中央委員会の解散を発表した。

新連邦条約はもはや調印されなかったが、ゴルバチョフ大統領は最後まで連邦の維持に取り組んだ。

しかし,12月8日にエリツィン・ロシア共和国大統領,クラフチュークウクライナ共和国大統領,シュシケービッチ白ロシア共和国最高会議議長らスラヴ3共和国の首脳が白ロシア共和国のベロベーシの森で会議を開いた。この会議で,ソビエト連邦の消滅と独立国家共同体の創設を宣言した。 この日は事実上の連邦の崩壊の日である。 ゴルバチョフ大統領は,この会議や条約を批判し,ソ連憲法に違反しているとした。

しかし,21日にはカザフスタン共和国のアルマアタにおいて,8共和国がこの条約に調印し,25日にゴルバチョフ大統領が辞任,翌26日にソ連最高会議が連邦の消滅を宣言した。

ロシア革命後、成立した世界初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦は69年の歴史に幕を閉じた。

総括 編集

参考文献 編集

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