メインページ > 歴史 > ヨーロッパ史 > ビザンツ帝国
世界史

はじめに 編集

歴史上ビザンツ帝国と自称した国家は存在しません。私たちが一般にビザンツ帝国と呼んでいる国に住んでいた人々はいつも自分たちをローマ帝国であると主張していました。ビザンツ帝国というのは近代の西ヨーロッパの人たちがこの国家を指すときに便宜的に用いたものなのです。ビザンツ帝国と呼ばれている国は395年のローマ帝国の分裂のあとにできた東ローマ帝国のことです。みなさんはこの章での学習を通して、なぜこの国が東ローマ帝国ではなくてビザンツ帝国と呼ばれているのか考えてみましょう。

ローマ帝国の東西分裂 編集

テオドシウス帝の死後にローマ帝国は東西に分裂しました。このうち現在のイタリアを中心としてフランスやスペインを統治していた西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされました。一方、東ローマ帝国は今日のギリシャやトルコ、シリアやエジプトといった地域を統治し、現在一般にビザンツ帝国と呼ばれています。ビザンツという名称は帝国の首都コンスタンティノープルが古代ギリシャの時代にビザンチオンと呼ばれていたことに由来しています。当時ビザンツ帝国の地域は西ローマ帝国に比べると文化的に先進地域であり、エジプトは豊かな穀倉地帯でした。

またローマ帝国の国教であったキリスト教には重要な総主教座というものが5つありましたが、これらのうちローマ以外の4つ、コンスタンティノープル・エルサレム・アンティオキア・アレクサンドリアの総主教座はすべてビザンツ帝国の領内にありました。

ユスティニアヌス帝の統治 編集

 
聖ソフィア大聖堂(オスマン帝国時代からモスクとして利用されている)

6世紀になると、ユスティニアヌス帝によってかつての西ローマ帝国の地域を一時的に回復しました。ユスティニアヌス帝はイタリア半島にあった東ゴート王国を滅ぼし、北アフリカのヴァンダル王国も征服しました。さらにイベリア半島にあった西ゴート王国を服属させました。

またユスティニアヌス帝は古くなったローマ法を整理し『ユスティニアヌス法典』を編纂しました。その後今日まで残っている壮麗なキリスト教建築である聖ソフィア大聖堂をつくりました。しかしこのような事業や拡大した国土の防衛に要した大変な出費は財政を圧迫することになりました。そのためユスティニアヌス帝の死後すぐに北アフリカや北イタリアなどは失われました。

土地と軍事の制度 編集

ローマ帝国の時代に出現したコローヌス制度はビザンツ帝国において奴隷制度に近いものになりました。ディオクレティアヌス帝以前の時代はコローヌスは地主と農地の貸借契約を結んだ小作人でした。ところが、ユスティニアヌス法典のなかでは、コローヌスは主人の権力の下にあるのだから、奴隷と何ら変わらないということが定められています。

ビザンツ帝国の軍事力は最初、ローマ帝国以来の職業軍人や傭兵に頼っていました。7世紀中頃になると、軍隊がじょじょに一定の地域に駐屯するようになり、軍隊の長官が行政も担当するようになりました。これをテマ制度と呼んでいます。8世紀になると、従来の属州に代わってテマが地方の行政単位となりました。このテマ制度はビザンツ帝国の滅亡まで存続しました。

11世紀ころからはプロノイア制度がおこなわれました。これは軍役を課すかわりに一定程度の土地の私有を許す制度で、プロノイアは相続によって世襲することは基本的に許されませんでした。しかし14世紀になるとプロノイアの相続が広汎に認められている例が見られるようになります。

文化 編集

ビザンツ帝国ではラテン語が公用語でしたが、7世紀頃にはギリシャ語が公用語として使われるようになりました。このことによってビザンツ帝国の文化はギリシャ的になっていったと考えられています。

キリスト教は相変わらず国教として尊重されていました。イスラム教徒によってコンスタンティノープル以外の総主教座は奪われてしまったため、ビザンツ帝国ではコンスタンティノープル総主教が尊重されました。またイタリア半島に残されたローマ教皇もキリスト教で特別な地位にあることが認められていました。

しかし教皇とビザンツの皇帝やコンスタンティノープル総主教はキリスト教の教義の問題で何度か対立しました。8世紀のレオン3世はキリストや聖母を描いた木版の聖像画であるイコンを礼拝することを偶像崇拝であるとして禁止しました。イスラム教の影響で、神聖な人物を絵に描くことはいけないことだという思想がビザンツ帝国では流行していたためです。ところが西方ではゲルマン人への布教活動などでこのような聖像画を用いることが広くおこなわれていたので、ローマ教皇はイコンの禁止には反対しました。こののちじょじょにローマとコンスタンティノープルに教会の中心がわかれていくことになりました。

ビザンツ帝国の滅亡 編集

11世紀になると、南イタリアにはノルマン人が、小アジアにはセルジューク朝がやってきてビザンツ帝国の国土は次第に縮小しました。そこでビザンツ帝国は西ヨーロッパの君主やローマ教皇に救援を求めました。当時キリスト教の聖地エルサレムはセルジューク朝に支配されていたので、ローマ教皇はこの救援に応えて十字軍を組織しました。ところが第4回十字軍は商業上の利害から聖地を目指さずにコンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼしてラテン帝国をつくりました。ビザンツ帝国の有力者たちはいくつかの地方政権を作って抵抗しました。このうち小アジアのニケーア帝国が有力となってラテン帝国を滅ぼしてビザンツ帝国を再興しました。しかし復興したビザンツ帝国は以前より弱小で、小アジアにあったセルジューク朝の地方政権であるルム・セルジューク朝や移住してきた遊牧民族のトルコ人に国土を奪われていきました。そして1453年にオスマン帝国メフメト2世によって滅ぼされました。

まとめ 編集

  1. 時期 - 395年~1453年
  2. テマ制度 - 7世紀中頃からおこなわれたビザンツ帝国の行政制度

問題 編集

  1. コンスタンティノープルを建設したローマ皇帝の名前を答えよ。
  2. 東西教会の分裂について「イコン」という言葉をもちいて説明せよ。
  3. テマ制度についてそれ以前の行政制度と軍事制度と比較しながら説明せよ。
世界史