ルネ・デカルト
ルネ・デカルトは17世紀のフランスの哲学者である。 彼は「方法序説」、「哲学原理」、「省察」などの著作を通じて「我思うゆえに我あり」などで知られる懐疑論や神の存在証明などの哲学を行った。これらの哲学は近代哲学および合理主義哲学の祖と評価され、また後述する「心身問題」などから後世の哲学者たちに影響を与えた。
方法的懐疑
編集デカルトの代表的な哲学に「方法的懐疑」が挙げられる。 この哲学的手法は全てのものを疑い、疑わしいものを全て虚偽として捉える。これらは例えば「5 + 6 = 11」といった、一見して自明に思えるような数学的な命題に対しても行われ、このような数学的命題などに対しては神(悪霊)が我々を欺いて、偽を真実と思わせているかもしれない、という理由で懐疑した。これを「欺く神」(Dieu tromper)と言う。 こうした懐疑の末にデカルトは「自分たちが全てに対して懐疑を行っているとき、このように懐疑を行っている自分自身の存在について疑うことはできない。」という結論を出した。そうした経緯からデカルトはこれについて「我思うゆえに我あり」(Cogito ergo sum)という言葉で表した。
他方で、こうした「我思うゆえに我あり」に対して何故、例えば「我歩くゆえに我あり」(Ambulo, ergo sum)が成り立たないのかと、同時代の哲学者ピエール・ガッサンディから指摘があった。これについてデカルトはこの「我思うゆえに我あり」の「我」というものは身体から切り離された純粋に思惟する主観としての「我」である、とした上で「歩く」などの身体的な作用は例えば夢を見ているときのように実際には歩いていないにもかかわらず、そのように認識してしまうことがあるから疑いえるとした。また一方で精神的な作用である、「思惟」についてのみ、自分たらしめるものとし、「我歩くゆえに我あり」ではなく、「我歩くと考えるゆえに、我あり」(Puto me ambulare, ergo sum)であると反論した。
心身問題
編集こうした方法的懐疑から生じた問題として「心身問題」が挙げられる。 デカルトは上述の方法的懐疑を通じて、身体と切り離された「我」の存在について指摘した。この「我」に対して、身体を「機械的なもの」と捉え、またその解釈を世界に対して当てはめていった。デカルトは世界を「精神」と「物体」という2つの実体から成り立っているとし、精神の本質を「思惟」、物体の本質を「延長」とした。 しかしこうした二元論的な試みは最終的に、精神と物体の関係性、すなわち「悲しいことがあったら涙が出る」と言ったことや「ストレスは万病の元」などと言ったことについて十分な説明ができないことが挙げられる。デカルトは著書「情念論」において、こうした問題について、人間の身体には松果体という部位があり、それらがこの2つをつなげていると説明し、晩年に至るまでこの部位への研究を続けた。