問の対象によって異なる疑問詞を使い分ける:

体言 ma KOhA
用言 mo GOhA
数詞 xo PA
態詞 pei CAI
制詞 cu'e CUhE
諾否 xu UI

PS 上の体言の位置や要素間の論理関係を問うこともできる:

体言位置 fi'a FA
後見接続詞・体言間 ji A
後見接続詞・命題部間 gi'i GIhA
後見接続詞・文間 ije'i JA*
後見接続詞・用言(重語)間 je'i JA
先見接続詞・体言/命題部/文間 ge'i GA
先見接続詞・用言(重語)間 gu'i GUhE

問い求める語の位置(体言の場合は PS 上の位置)に置くことで相手の返答を喚起する:

do ma klama
あなたは何処に行くの?
ma ti klama
何がここに来るの?
do mo
あなたは何/どうなの?
do xo mei
あなた達は幾つ(何人)なの?
do cu'e vi sanga
あなたは〔何テンス〕ここで歌ったの?

コミュニティでは do ca mo が英語の How are you doing? に当たる表現として頻用されている。

文中で同じ疑問詞を複数回使うことができる:

ma melbi ma
ma ma klama ma ma ma

後者では klama の PS を x1 から x5 にわたって体言疑問詞が埋めつくしている。非常に無意味な例として次のようなものも可能ではある:

ma ma ma ma ma cu'e mo pei

疑問にたいする応答では、疑問詞を相応の語で“上書”する:

A: do klama ma (体言疑問)
B: la .tokion. (体言回答)
A: do ma klama ma (体言疑問)
B: la .tokion. la .osakan. (体言回答)
A: do mo (用言疑問)
B: gleki (用言回答)

文や特定の語についてそれが本当であるかどうか、肯定であるか否定であるかを問う疑問詞として xu がある。日本語の「~か?」、中国語の「吗」、フランス語の「est-ce que」、ポーランド語の「czy」などに当たる。 UI 類なので、態詞と同様の修飾原理に基づき、文頭に置かれれば文全体を、語の右側にあればもっぱらその語を、命題部の境を示す vau の右側にあればその命題部全体を対象として問う:

xu do xagji
あなたはおなかがすいています
do xu xagji
おなかをすかしているのはあなたです
do xagji xu
あなたはおなかがすいているです
do xagji vau xu
あなたはあなかがすいています

最後の例は命題部が一つのみなので結果として最初の例で文全体を問うのと同じことになる。

xu を施した疑問にたいする応答の論理関係、語法は次のとおり:

ra speni xu (彼女/彼/あれは結婚していますか?)
go'i (復)= ra speni (結婚している)
ja'a go'i (肯・復)= ra ja'a speni (結婚している)
na go'i (否・復)= ra na speni (結婚していない)
ra na speni xu (彼女/彼/あれは結婚していないのですか?)
go'i (復)= ra na speni (結婚していない)
ja'a go'i (肯・復)= ra ja'a speni (結婚している)
na go'i (否・復)= ra na speni (結婚していない)

go'i は直前の命題部を繰り返す。 ja'a や na は測定詞(scalar)で、それぞれ肯(+)・否(-)という対極を意味する。デフォルトは ja'a であり、普段は省略されている。つまり ra speni xu は ra ja'a speni xu ということである。測定詞は更新できる。すなわち、疑問文にある na にたいして ja'a を返せば元の否定の意味が肯定の意味で上書きされる( na を ja'a が中和してデフォルトに戻す、という解釈もできる)。この点では英語やフランス語の習慣と同じである。一方で測定詞を更新せずに go'i だけを返せば na の意味が応答文に継承される。この点では日本語やロシア語の習慣と同じである。たとえば「あの人は結婚していないの?」という否定疑問文にたいして「うん(然り)」とすれば、「していない」となる。この「然り」に相当するのが「go'i」である。ロジバンでは「然り」と「肯定」とが区別される。「然り go'i 」が相対的であるのにたいし、「肯定 ja'a 」は絶対的である。また、 na にたいして na を返せば、否定が否定を上書きするということで結果として否定となる。この極性関係をまとめると次のようになる:

ja'a (+) にたいする ja'a (+) → ja'a (+)
ja'a (+) にたいする na (-) → na (-)
na (-) にたいする ja'a (+) → ja'a (+)
na (-) にたいする na (-) → na (-)

相手からの返答を求めずに或る語を疑問化する、いわゆる間接疑問は、 kau と組み合わせて表現する:

間接疑問 kau UI
mi djuno lo du'u xukau ko'a se catra
彼が殺されたを私は知っている。
mi djuno lo du'u makau ko'a catra
誰が彼を殺したを私は知っている。
mi djuno lo du'u dakau ko'a catra
彼を殺した者を私は知っている。
lo ritli cu mokau seki'u lo nu mi klama gi'onai stali
パーティーがどんなものであるによって僕は行くし行かない。

dakau に含まれている疑問性が日本語の訳では表出していないが、 kau を除いた場合の違いが反映される:

mi djuno lo du'u da ko'a catra
或る者が彼を殺したのを私は知っている。

ちなみに xukau とよく似た表現として、命題の真理値を抽象化する jei によるものがある:

mi djuno lo jei ko'a se catra
彼が殺されたということの真偽性を私は知っている。

jei を xu で問うことは勿論できる:

xu do se cinri lo jei ko'a se catra
彼が殺されたということの真偽性についてあなたは興味がありますか?

疑問詞が文頭以外に置かれる場合、それまでに放たれる言葉が全体で一つの疑問文を構成しているのだということをまえもって聞き手に知らせておくことが有意義となる:

“問” pau UI
pau do ba'o te cusku lo sedu'u ko'a ca xabju ma
君は彼が今どこに住んでいるのだと聴いているの?

スペイン語で文頭に置く ¿ のような効果がある。

疑問を心情として強調することができる:

"?" ki'a UI
"?" .uanai UI
do ba'o te cusku lo sedu'u ko'a ca xabju ma ki'a/.uanai
君は彼が今どこに住んでいるのだと聴いているのかな

ki'a は命題やテクストにたいする認識の不完全性や未解決性を表す。発見の情感 .ua は nai で反転させることで未知の事物にたいする模索の気持を表す。

kau で間接疑問を盛り込むと文意が変わる:

do ba'o te cusku lo sedu'u ko'a ca xabju makau ki'a
君は彼が今どこに住んでいるの()だと聴いているのかな

kau はそれの結びつく疑問詞にたいする答が既に存在することを暗示するので、ここでは「 do が答えられるはずの件」に疑問の心情を投げかけながら相手の何らかの反応を喚起しようとする表現となっている。 kau の無い前者が ma にたいする直の回答を求めているのにたいし、後者では、知っているはずの事柄を教えてくれない do にたいする話者の当惑情況が表されている。返事を待機しているのだと強調することもできる:

do ba'o te cusku lo sedu'u ko'a ca xabju makau ki'abe'e
君は彼が今どこに住んでいるの(か)だと聴いているのだろう

やはり、 kau がある以上、 ma にたいする直接の回答が期待されているわけではなく、 do ba'o te cusku ... という事実に当惑している話者自身の心情について do が何か発言することが求められている。

疑問詞と併せずにこれらの態詞を用いることは勿論できる:

ko'a tu'a mi ru'i morji .uanai
彼はまだ私のことを憶えていてくれているかしら