概要
編集一般に言語では時間と空間は別々の文法範疇に属するが、これらがロジバンでは共にテンス(tense)の内容として扱われる。時間(時制)と空間をまとめたこのテンスのことをここでは間制と呼ぶことにする。同様に、相(aspect)を相制、法(modal) を法制と呼ぶことにする。これらに属する語詞をそれぞれ間制詞、相制詞、法制詞と呼ぶことにする。総称は制詞(tag)となる。
制詞は、用言か項に繋がる。項と繋がる場合、どこにでも移動できる付辞(term/sumtcita)を形成する。付辞から項を除く場合、項が潜在していることを示すために終止詞 ku を(制詞の右に)置く。
多くの自然言語の文では時制は不可欠の要素だが、ロジバンの文では間制・相制・法制の指示はまったく任意である。
制詞は全て、段階詞で修飾できる。例えば「(~の)以前」を表す制詞 pu に段階詞 nai を加えて punai とすると「(~の)以前ではない」、おなじく段階詞 to'e を加えて to'e pu とすると「(~の)以前の反対」すなわち「(~の)以後」を表す。
時制と相を同一視する言語(ロシア語など)がある。そこにみられる混合的なテンスをロジバンでは間制と相制の組み合わせで表す。これは相制のセクションで解説されている。
間制
編集間制詞は主に関係系、間隔系、程度系に分類できる。
空間関係・前 in-front-of | ca'u | FAhA |
空間関係・後 behind | ti'a | FAhA |
空間関係・左 on-the-left-of | zu'a | FAhA |
空間関係・右 on-the-right-of | ri'u | FAhA |
空間関係・上 above | ga'u | FAhA |
空間関係・下 below | ni'a | FAhA |
空間関係・同 coincident-with | bu'u | FAhA |
空間関係・迄 towards-point | fa'a | FAhA |
空間関係・離 away-from-point | to'o | FAhA |
空間関係・隣 next-to | ne'a | FAhA |
空間関係・内中 within | ne'i | FAhA |
空間関係・東 east-of | du'a | FAhA |
空間関係・西 west-of | vu'a | FAhA |
空間関係・南 south-of | ne'u | FAhA |
空間関係・北 north-of | be'a | FAhA |
空間関係・外向 outward | ze'o | FAhA |
空間関係・内向 inward | zo'i | FAhA |
空間関係・周 surrounding | ru'u | FAhA |
空間関係・境 bordering | te'e | FAhA |
空間関係・通 transfixing | pa'o | FAhA |
空間関係・隣接 adjacent-to | re'o | FAhA |
空間関係・近接 tangential-to | zo'a | FAhA |
時間関係・以前 before | pu | PU |
時間関係・同時 during | ca | PU |
時間関係・以後 after | ba | PU |
空間隔・短 short interval | ve'i | VEhA |
空間隔・中 medium interval | ve'a | VEhA |
空間隔・長 long interval | ve'u | VEhA |
空間隔・全 wholo interval | ve'e | VEhA |
時間隔・短 short interval | ze'i | ZEhA |
時間隔・中 medium interval | ze'a | ZEhA |
時間隔・長 long interval | ze'u | ZEhA |
時間隔・全 wholo interval | ze'e | ZEhA |
空間程度・小 small distance | vi | VA |
空間程度・中 medium distance | va | VA |
空間程度・大 big distance | vu | VA |
時間程度・小 small distance | zi | ZA |
時間程度・中 medium distance | za | ZA |
時間程度・大 big distance | zu | ZA |
距離間隔と距離程度は主観的なものであり、文脈に沿って相対的に変化する。たとえば ze'i は、一日の出来事を話題とする文脈では朝食のトーストを焼く時間隔に相当しても、地質学を話題とする文脈では人類史全体の期間隔に相当しうる。
間制詞は組み合わせることができる:
- mi ca ze'a vi gunka
私は〔時間関係・同時+時間隔・中+空間程度・小〕働く。
私はしばらくここで働いている。
- mi ca ze'a vi gunka
このまとまりは一つの間制体を築き、構成要素同士が論理的な関係を結び合う。たとえば時間隔 ze'a は、直前に示されている時間関係 ca を基準として測られる。この基準点から ze'a がどの点に向かってどのぐらい延びているのかはこの文では明示されていないが、それでも一つの間制体として機能できる。基準点にたいする末点として何が特定されるかによって意味合が変わってくる:
- mi ca ze'a ca vi gunka
私はこの頃ここで働いている。(現在を基準とする、現在向きの間隔・中)
- mi ca ze'a ca vi gunka
- mi ca ze'a ba vi gunka
私はこれからしばらくここで働く。(現在を基準とする、未来向きの間隔・中)
- mi ca ze'a ba vi gunka
- mi ca ze'a pu vi gunka
私はこれまでしばらくここで働いた。(現在を基準とする、過去向きの間隔・中)
- mi ca ze'a pu vi gunka
二・三例目にあるように、時間隔が現在を基準としているからといって出来事そのものが現在という枠に閉じ込められているわけにはならない。あくまで ze'a という間隔が現在から何らかの時点に渡るものであることが意味されている。一例目も mi gunka という事象があくまで現在から現在にかけて ze'a という間隔を有することを表現している。
基準点を不明示にすることができる:
- mi [-] ze'a ba vi gunka
ze'a という間隔がどこから ba まで測られるかによって、「以前しばらくここで働いていた」、「今からしばらくここで働いてゆく」、「いつか将来しばらくここで働くことになる」ともなりうる多義的な表現となっている。
自然な日本語に訳せない間制表現がある:
- mi pu ze'a ca vi gunka
これは日本語では「以前、その時点現在にかけてしばらくここで私は働いた」という非日常的な言い回しとなる。同じ間制体の中にあるこの pu と ca はやはり論理的関係を結び合っていて、後発の ca が先発の pu を参照する。たとえばこの pu が 昨日の午後5時 を指していればこれを ca が指している。 ze'a という間隔がまたやはり主観的なものなので、この文脈では「昨日の午後5時」という時点を揺るがさない程度の相対的な時間帯、たとえば「15分間」のようなものを指す。時間帯の明示が必要であればこの「15分」という量を次のようにして表す:
- mi pu ze'a lo mentu be li pano ca vi gunka
- mi pu ze'a la .panoment. ca vi gunka
前者は正確に「15という数の分の間」としているのにたいして後者はそれを渾名化したものである。渾名系冠詞 la を用いた後者のような言い回しは、話者達の間で常識となっている概念を手軽に疎通し合うためのいわばスラング表現である。(ちなみに panoment は pano mentu を内来系特名詞としたものである。詳細は特名詞を参照。)
ca を ba に替えて pu ze'a la .panoment. ba とすれば「以前、その時点以降15分間かけて」となる。同様に pu ze'a la .panoment. pu は「以前、その時点以前から15分間かけて」となる。
間隔系間制詞が略されるとき、空間あるいは時間の“延び具合”は漠然としたものとなる:
- mi lo zarci pu klama
私はその店に〔過去〕行く。
- mi lo zarci pu klama
ここでの pu はあくまで時間隔の基準点であり、店に行くという事象の時間帯がそこからどのように延びているのか、つまり店に行くのにどれだけの時間をかけたのかについては明示されていない。事象はひょっとすると過去の段階で終わっているのかもしれないし、現在もまだ進行しているのかもしれないし、あるいは未来にまで及んでいるのかもしれない。これは古典ギリシャ語やw:トルコ語にみられるアオリスト時制の特質でもあり、事象全体を過去のものとする日本語の過去表現とは異なる。この例を「私はその店に行った」という訳で一般化するのは不適切である。(しかし、便宜を図ってなんらかの自然な日本語に訳す場合、このあたりの機微を捨て去らなければならない。)同様に、
- lo ricfoi ba crino
その森林は〔未来〕緑である。
- lo ricfoi ba crino
の ba はあくまで基準点であり、森林が緑であるという事象がそこから同じ未来という時点にとどまらず現在あるいは過去の時点にまで及んでいるという可能性が示唆されている。かりに ba ze'u pu crino と限定すれば「将来、その時点以前から長い間に渡って緑であり続けているだろう」となる。将来の世代の観点に立っているわけである。一方で ca ze'u ba crino は今現在の自分の世代の観点に立って「これから将来長い間緑であり続けるだろう」となる。
過去から未来という単一の通り道にある時間と違って、空間は複次元的である。そのため、空間の間制ではさらに次元性を指示する言葉が用意されている:
空間隔・一次元 1-space interval | vi'i | VIhA |
空間隔・二次元 2-space interval | vi'a | VIhA |
空間隔・三次元 3-space interval | vi'u | VIhA |
空間隔・四次元 4-space interval | vi'e | VIhA |
- lo verba lo panka ve'a vi'a cazdu
その子供はその公園を〔空間隔・中+二次元〕歩く。
- lo verba lo panka ve'a vi'a cazdu
二次元的に歩くというのは即ち線状に歩くということである。「その公園のあたりをすうっと歩く」という意味に近い。二次元だからといってかならずしも直線とはかぎらず、また「まっすぐ」をもっぱら意味する語がロジバンには別に存在することに留意しておきたい。四次元を指す vi'e は、空間という三次元に加えて時間というもう一つの次元に干渉する事象を記述するw:相対性理論の文脈などで使われる。超弦理論やM理論が追究する五次元以上の概念は xi でいずれかの VIhA 系をいくらでも拡張しながら記述する( xi の使い方は代項詞を参照)。
以上の空間と時間の間制表現は静的なものである( vi'a の例も、「歩く」という事象の二次元性を設定するあくまで静的なものなのである)。動的な間制は mo'i による修飾で実現される:
時空遷移 space-time motion | mo'i | MOhI |
動的ということは、時間性と空間性が一度に連関するということである。次の二例を比較されたい:
- lo verba lo panka ri'u cadzu
- lo verba lo panka mo'i ri'u cadzu
mo'i を伴わない前者の ri'u は単に「右」を指し、「右側で歩く」という意味になり、後者の「右の方に歩いてくる」と区別される。「右側で」は静的な状態概念であり、「右の方に」は動的な動作概念である。しいて言えば、 mo'i 無しの前者は写真として捉えられ、 mo'i 有りの後者は映像として捉えられる。写真がもっぱら空間を写すのにたいし、映像は時間と空間の共遷移を映す。
いずれも、ri'u が何らかの項を参照しているという点では同じである。この隠れた項はデフォルトでは話者自身すなわち mi とみなされる。そこでそれぞれ「私の右側で子供が公園を歩く」「私の右に向かって子供が公園を歩いてくる」と解される。参照項を話者ではない別なもの例えば子供自身に替えることができる:
- lo verba lo panka ma'i vo'a mo'i ri'u cadzu
その子供はその公園を〔基準/観点・x1〕〔動・右〕歩く。
- lo verba lo panka ma'i vo'a mo'i ri'u cadzu
描写の観点を ma'i が vo'a に設定している。vo'a は命題部の一番目の体言を指すから、lo verba であり、lo verba から観た ri'u が意味される。
静的間制と動的間制は組み合わせることができる。このとき mo'i のまとまりは最後に置かれる:
- lo verba lo panka zu'avu mo'iri'uvi cadzu
その子供はその公園を〔左・遠〕〔動・右・近〕歩く。
子供が公園の左側のずっと向こうで右の方にぐっと歩く。
- lo verba lo panka zu'avu mo'iri'uvi cadzu
デフォルトの観点に従って ri'uvi は「話者から観た右の側に近く」を指す。あくまで右側にたいする子供が歩いてくる地点の近さであり、話者と子供との間の実際の距離そのものの近さではない。実際の距離は zu'avu によって遠いということが示されている。話者がメガネをかけているとすると、話者から観てまずフレーム全体が公園を大きく捉えており、左のレンズを通して見えるずっと向こうの子供が右のレンズにごく近いところまで歩いてくる、されど子供は依然としてずっと向こうにいる、ということが描写されている。
以上は文中に間制を組み入れる用法である。その一方で、文間の間制を築くこともできる:
- mi klama lo ckule .i ba bo lo mamta cu cliva lo zdani
- 私は学校に行く。その後に、お母さんが家を発つ。
bo は、 ba がもっぱら後者の文の間制として取り込まれるのを防ぐためにある。仮にこの bo を欠くと次のようになる:
- mi klama lo ckulo .i ba lo mamta [-] cu cliva lo zdani
- 私は学校に行く。お母さんの後に、家を発つ。
ba が lo mamta を参照内容として取り込み、cliva の x1 が消失する。それと同時に前文 mi klama lo ckulo との間の間制も無くなる。
babo は二つある接続部のうちの一つを先に出してから用いる後見的なものである。先見的な接続ではこうなる:
- bagi mi klama lo ckule gi lo mamta cu cliva lo zdani
日本語は「X の後に Y」というふうに後見的であり、英語は「After X, Y」と先見的であるが、言語間のそのあたりの差異を表し分けることがロジバンではできるわけである。
同じ時間帯にある幾つかの事象を語るとき、日本語では「僕は部屋に入った。彼がそこにいた。」というふうに時制を繰り返す必要があるが、これを回避する処方がロジバンにある:
間制設定詞 | ki | KI |
- mi pu ki nerkla lo kumfa .i ko'a vi zvati
ki はそれが置かれている命題部の間制をデフォルトのものとして設定する。これによって後続の文一つ一つについて同じ間制を示す手間が省ける。時間以外の間制に掛けることも勿論できる:
- mi puvi ki nerkla lo kumfa .i ko'a zvati
一度設定した間制は空の ki によって初期化できる:
- mi puki nerkla lo kumfa .i ko'a zvati .i [-] ki morji la'edi'u semu'i lo nu na'o terpa mi
私はその部屋に入っていった。彼がそこにいた。あのことを思い出すと私は(今でも)まだぞっとする。
- mi puki nerkla lo kumfa .i ko'a zvati .i [-] ki morji la'edi'u semu'i lo nu na'o terpa mi
時間点を過去から現在に移すだけなら caki でもよい。
相制
編集自然言語において一般にアスペクトと呼ばれている用法をロジバンでは相制詞によって実現する。英語の未来完了やスペイン語の線過去といったものは間制詞に相制詞を組み合わせることで表す。日本語の文語体である「~き」や「~けり」といった助動詞の微妙な意味合の違いは法制詞や態詞による色づけで実現する。これはアスペクトを時制やモダリティと同じものとして扱う言語の観点を反映する。一方でアスペクトを一つの独立したカテゴリーとみなすロシア語などのスラブ系言語の観点では相制詞の独立性は有意義となる。
英語の時制表現とロジバンの制詞表現との比較:
英語 | tense | modal | aspect | 動詞 | |
過去 | 未来 | 完了 | 進行 | ||
-ed | will | have -en | be -ing | do | |
ロジバン | pu | ba | ba'o | ca'o | broda |
以前 | 以後 | 完成 | 進行 | 用言 | |
tense | aspect |
英語では動詞語尾の形を変えるほか will のように助詞を使って四つの時制を表すのにたいし、ロジバンでは助詞(機能語)のみでその分別を図る。この表ではアスペクトすなわち相制の機能語として二つのみが挙げられているが、他に以下のものも存在する:
相・早発 subfective | xa'o | ZAhO | |
相・将前 inchoative | pu'o | ZAhO | |
相・起動 initiative | co'a | ZAhO | |
相・進行 continuative | ca'o | ZAhO | |
相・休止 pausative | de'a | ZAhO | |
相・停止 cessative | co'u | ZAhO | |
相・再開 presumptive | di'a | ZAhO | |
相・到達 achievative | co'i | ZAhO | |
相・終了 completive | mo'u | ZAhO | |
相・完成 perfective | ba'o | ZAhO | |
相・延続 superfective | za'o | ZAhO | |
相・定期 periodically | di'i | TAhE | |
相・継続 continuously | ru'i | TAhE | |
相・習慣 habitually | ta'e | TAhE | |
相・典型 typically | na'o | TAhE |
表の二欄はそれぞれ、事象について、完成度の違いを指すもの(ZAhO)と間隔的な性格を指すもの(TAhE)とを区分したものである。
黒柱で囲まれた部分が参照する事象全体であり、赤部は相を醸し出すところの観点である。
一般に混同されがちな「結果・経験を表す完了相」と「出来事を全体として捉える完結相」は ba'o と co'i に当たる。「終わった」という意味ではこの二つに加えてさらに co'u ・ mo'u ・ za'o という分別ができる。 xa'o は試験的なものであり、公式の語表には掲載されていない。
これらと間制詞を配合することで(言語学で認識される)どのようなテンスの記述にも実質的に対処できるようになっている。また相制詞(および間制詞)はやはり文中を移動できるので、総体としてのテンスの意味合に限らず、様々な言語の時制表現の文体・語順そのものを模擬することが可能である:
- I will have gone. (英語) / Аз ще съм отишъл. (ブルガリア語)
mi ba ba'o klama
- I will have gone. (英語) / Аз ще съм отишъл. (ブルガリア語)
- Beidh mé i ndiaidh dul. (アイルランド語)
baku mi ca klama ba'o
- Beidh mé i ndiaidh dul. (アイルランド語)
- sarò andato. (イタリア語)
ba klámaba'okufami (=klama.ba'oku.fa.mi)
- sarò andato. (イタリア語)
日本語の相の訳例:
- 雨が降っている(非完結・進行相)
carvi ca'oca
- 雨が降っている(非完結・進行相)
- 椅子に座っている (非完結・結果相)
stizu zutse ca'oba
- 椅子に座っている (非完結・結果相)
同じ「いる」でも相が異なる。これは、相の指示についてこの助動詞のみでは自足しておらず、「降って」と「座って」の動詞それぞれの内容もがメタ言語的に参照されているからである。このあたりの情報の察知はネイティヴの日本語話者には容易でも、非ネイティヴの者やコンピュータには困難であり、日本語からの外国語への翻訳・自動翻訳においてこれは大きな課題となる。上の例は自然言語におけるこのような意味的な“靄”がひとたびロジバンを通過することで晴れる様子を示している。以下も同様の例である:
- 雨が降り始めた (起動相・過去)
carvi puco'a
- 雨が降り始めた (起動相・過去)
- 雨が降り始めた (起動相・結果相)
carvi co'aba
- 雨が降り始めた (起動相・結果相)
日本語の方では、同じ起動相でも、事象の時点が過去にある場合と現在にある場合など、可能な解釈が複数とある。(ただしこれは東京方言の特性とみなせないこともない。たとえば中国・四国地方の方言では carvi ca'oca を「雨が降りよる」、 carvi ca'oba を「雨が降っちょる」と区別できる。)
- 雨が降り止んだ (終結相)
carvi pumo'u / carvi mo'uba
- 雨が降り止んだ (終結相)
先の例との比較からわかるように、日本語では助動詞だけでなく動詞(複合動詞の後項)そのものを替えることで相を区別することがある。英語などでも He began to talk. と He continued to talk. の間にあるような動詞の違いで起動相と継続相とを表し分けることになっている。ときとして習慣的な情報を必要とするこのあたりは非ネイティヴにとってはなかなか踏襲しにくい自然言語の領域である。ロジバンでは相を相制詞が、テンスを間制詞がつかさどるという役割分担がはっきりしているので、文の時間性について書き手・話し手がどのようなカテゴリーを意図しているのかが慣習的枠組なしに文面から直に認識できる。
TAhE 類は手話における相と共通するものがある:
ずっと歩く(継続相) ru'i cadzu |
いつも歩く(習慣相) ta'i cadzu |
歩く前にやめた(直前相) pu'oco'u cadzu |
多くの言語では相や時制の出現が必然である。たとえば「雨が降っている」や「雨が降り止んだ」などに付随する時制は述語そのものに組み込まれており、これを取り除いて「雨が降」とすれば文が壊れる。ロジバンでは相制や間制をまったく伏せながらも文は無事に機能する:
- 私は椅子に座っている。 (日本語)
私は椅子に座っ-。
- 私は椅子に座っている。 (日本語)
- I am sitting on the chair. (英語)
I - s- on the chair.
- I am sitting on the chair. (英語)
- mi estas sidanta sur la seĝo. (エスペラント)
mi est- sid- sur la seĝo.
- mi estas sidanta sur la seĝo. (エスペラント)
- mi stizu zutse ca ca'o (ロジバン)
mi stizu zutse
- mi stizu zutse ca ca'o (ロジバン)
動作状態の時点が今現在である場合に「座っていた」とか「will be sitting」と言えば間違いとなる。かといって「座っ」や「- s-」のままでは言語として機能せず、コンテクストに合致した時制に動詞形を随機変化させることが要される。つまり日本語や英語では正しい時制の表し方を知っておくことが健全な発話の条件としてごく基本的なレベルから話者に求められる。ロジバンでは、相制や間制の用法や語彙を知らなくとも、命題部のみで必要最低限の命題を織ることができる。制詞を欠いた例の mi stizu zutse は時間性について特定しておらず、実質的にいかなる時間上のコンテクストにも当てはまる。制詞用法に関する自分の知識に自信がなく、咄嗟の場面で言い詰まりそうになった初心者はこれを諦めて命題部そのものに集中することを大きく許容される。上の例では重語を用い、また日本語の「ている」の位置に合わせて制詞を最後に置いているが、 重語を用いず、 用言の直前というより一般的な位置に制詞を置いても条件は同じである:
- mi ca ca'o zutse lo stizu
mi zutse lo stizu
- mi ca ca'o zutse lo stizu
間制と同様に相制も、時間性に加えて空間性を制御できる。しかし間制と違って相制では両性の指示項目が一致するため、開発では空間専用の相制詞を一つずつ別に創出する代わりに、時間用の相制詞を空間用化するという処方が設けられた:
空間相化詞 | fe'e | FEhE |
- fe'eco'a sastu'a
ここから草原が広がっている。
- fe'eco'a sastu'a
そのままでは時間的な「今、始まったところ」を意味する co'a に fe'e を付して空間用化することで「ここ、始まったところ」としている。体言を欠いたこの例は観察法(observative)のものであり、厳密には日本語訳の「~が~」のような命題ではない。「広がっている」という形容動詞がここで指しているのは草原の広さではなくその始点の存在なので、これを用言でなく制体で表すのが適切である、ということにもとづく。このとき日本語の「草原が」という主語は sastu'a (srasu tumla) という用言で表される。直訳では「x1 はここから始まる的に草原!」となる(この /!/ は強意性ではなく観察性の記号)。草原の始点だけでなく広がりも併せて含意させると次のようになる:
- fe'eco'a sastu'a preja
直訳では「ここから始まる的な草原の広がり!」となる。「草原が」を主語(或いは題目語)とする日本語の文体を反映させることもできなくはない:
- lo sastu'a fe'eco'a preja
- lo sastu'a zo'u fe'eco'a preja
相制詞と用言のみによる場合よりも長くなるうえ、直接性・視覚性が薄れるので、状景描写よりも事実認識を重視する場合に用いられる文体である。
法制
編集法制詞は根語に由来する BAI 類機能語のことであり、実に色々とある。
- co'a tirna lo zgike ka'a la .mikin.smac.
〔始〕聞 〔冠〕音楽 〔行者〕 〔冠〕ミッキー・マウス
音楽が聞こえてきた、ミッキー・マウス(という行者)と共に
- co'a tirna lo zgike ka'a la .mikin.smac.
ka'a は klama から派生し、 klama の x1 すなわち「行く者」を指す。
間制や相制と同様、法制は原理的に何らかの項を参照していながらもこれが常に明示されている必要は無い:
- co'a tirna lo zgike ka'a [-] [ku]
- ka'a [-] [ku] co'a tirna lo zgike
- co'a tirna ka'a [-] ku lo zgike
音楽が聞こえてくるという状況に加え、行進活動をする何らかの存在が含意されている。三つ目の文の ku は、用言と体言の間に投入されている法制詞 ka'a について、潜在している不明の項 [-] の境界を示すことでその参照範囲が lo zgike に流れないようにしている。他の二つでは法制詞の直後に体言が続いていないので ku は省略できる(詳細は要素境界を参照)。
根語由来なので、元の根語の PS を SE 類( se, te, ve, xe )で転換するのと同じ要領で法制詞の指示内容を求むことができる:
- mi ca tcidu seka'a la .londyn.
私 〔今〕 読 〔目的地〕 〔冠〕ロンドン
私は読んでいる、ロンドンに向かいながら。
- mi ca tcidu seka'a la .londyn.
se が ka'a/klama の x2 すなわち「行く所」を抽出し、これを「ロンドン」に掛けて制を築いている(se と ka'a の間にはスペースがあってもなくてもよい)。どのように移動しているのか、道筋や手段については言及されていない。これらは klama の残りの体言を使うことで表せる: veka'a lo tsani (空という通行路で)、 xeka'a lo vinji (飛行機という通行手段で)。
複数の法制体を繋げることができる:
- bai do [ku] seka'a la .londyn. [ku] mi zvati lo vijtcana
あなたという拘束力によって、ロンドンを目的地として、私は空港にいる。
- bai do [ku] seka'a la .londyn. [ku] mi zvati lo vijtcana
- bai [-] [ku] seka'a [-] ku mi zvati lo vijtcana
拘束力〔-〕で、目的地〔-〕で、私は空港にいる。
- bai [-] [ku] seka'a [-] ku mi zvati lo vijtcana
一つの自然な日本語文として訳すのが困難である。 bai do は「あなたの所為で」と解することもできる。後者の文では、 ka'a の参照内容が伏せてある。それでも zvati を核とする命題部が ka'a で修飾されていることに変わりはなく、空港にいる話者( mi )が目的地を持っていること、すなわち見送られる側であることが暗示されている。
接続表現もこういった法制の原理に基づいて実現される:
- la .sokrates. ni'i lo nu remna pu mrobi'o
〔冠〕ソクラテス 〔必然〕〔冠〕〔事〕 ヒト 〔過去〕 死去
ソクラテスは、ヒトであるが故に、死んだ。
- la .sokrates. ni'i lo nu remna pu mrobi'o
- la .sokrates. seni'i lo nu mrobi'o pu remna
〔冠〕ソクラテス 〔必然〕〔冠〕〔事〕 死去 〔過去〕 ヒト
ソクラテスは、死ぬという必然的結果と共に、ヒトであった。
- la .sokrates. seni'i lo nu mrobi'o pu remna
間制体・相制体と同様、法制体は文間に介在させることができる:
- la .sokrates. pu mrobi'o .ini'ibo sy. remna =
seni'igi la .sokrates. pu mrobi'o gi sy. remna
ソクラテスは死んだ。なぜなら(ソクラテスは)ヒトであったからだ。
- la .sokrates. pu mrobi'o .ini'ibo sy. remna =
- la .sokrates. pu remna .iseni'ibo sy. mrobi'o =
ni'igi la .sokrates. pu remna gi sy. mrobi'o
ソクラテスはヒトであった。故に(ソクラテスは)死んだ。
- la .sokrates. pu remna .iseni'ibo sy. mrobi'o =