中国史
概略
編集先史時代
編集中国では、古くから文明が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて黄河文明と長江文明の2つがある。黄河文明は、畑作が中心、長江文明は稲作が中心であった。黄河文明が、歴史時代の殷(商)や周につながっていき、中国の歴史の中軸となった。長江文明は次第に、黄河文明に同化吸収されていった(黄河文明・長江文明)。 また、現在中国人口の大部分を占めるとする漢民族は、こうした過程で次第に形成されたが、歴史の始めから存在したわけではない。例えば、史上実証されているうちの最古の王朝殷は、民族的には東夷に近い人種とされ、1970年頃まではコーカソイド説さえ存在した。他に、周など中原の人達、楚人、越人、秦や中山など全て互いに、文化的にも風俗的にも性格を異にした。それらが長い時間をかけて混ざり混ざって、諸夏と言われた古代の漢人が形成され、さらに中世初頭の五胡十六国の時代には匈奴や鮮卑など幾つもの異民族が大挙して中国大陸に流入し、その都度混淆が進むうちに、現代の漢族が形成されたのである。
中国最古の王朝としては、伝説上では三皇五帝や夏が知られている。そして、二里頭遺跡など様々な遺跡が発掘されるが、それらと史料は符合せず、現在、明らかに実在が確認できるのは殷以降の王朝である。殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。また制度については奴隷制国家であるという説と、これから説明する封建制の嚆矢だとする説がある。
紀元前12~11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として、土地を与えた。これを封建制という。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には、宗周(鎬京・後の長安)から成周(雒邑・後の洛陽)へ遷都した。これ以降を春秋時代と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、諸侯達は自立傾向を強めていき、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。
春秋戦国時代は、諸侯が争う戦乱の時代であった。しかし、各諸侯国は富国強兵に努め、商工業が発達し、貨幣も使用されるようになった。また、この時代に鉄器が普及したこともあいまって、農業生産も増大した。また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを諸子百家という。諸子百家の中でも、道家や孔子・孟子に代表される儒家は、後の中国思想の中心となった。
現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王の称号を捨て、王を超える称号として三皇五帝の一部を用い、自ら始皇帝と名乗った。
始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族の匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。そのため、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は紀元前206年に滅びた。
秦が滅びた後、劉邦と項羽が覇権をめぐって争った(楚漢戦争)が、紀元前202年には、劉邦が項羽を破り、漢の皇帝となった。劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。紀元前141年に即位した武帝|は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
しかし、度重なる軍事行動は、人々の生活を苦しめた。8年には、王莽が皇帝の位を奪って、一旦漢を滅ぼした。しかし、王莽の政治はよくなかったので、各地で反乱が起きた。結局、漢の皇族の血を引く劉秀が、漢を復興させた。この劉秀が建てた漢を後漢という。王朝初期には雲南に進出し、また、西域に班超を派遣し、シルクロードをおさえた。だが、後漢は豪族の連合政権的なところがあり、政治は安定しなかった。この時代、税制は口算と呼ばれる人頭税や所有する財産に応じて課す資産税を基本とし、収穫に対して年貢を割り振る田律もあるにはあったが税率は低く、前漢の一時期にはそれさえ廃止されていた。
後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。これ以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。結局、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり、蜀を建国した。さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、呉を建国した。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代という。
三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は、官吏登用法として、九品官人法を採用した。これは、当初の目的としては各地の優れた人物を調べて推薦して官吏とするものであったが、結果として有力な貴族が官職を独占できるようになってしまい、早い時点で「上品に寒門なく、下品に勢族なし」との批判があった。結局九品官人法は、隋代まで続き、この間の貴族による政治体制を助けることとなった。
三国は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、蜀がまず263年に魏に滅ぼされ、その魏も有力な臣下であった司馬炎に265年に皇帝の位を譲るという形で滅亡した。司馬炎は皇帝となって国号を晋と命名し、さらに280年に呉を滅ぼし、中国を統一した。しかし、300年から帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした(八王の乱)。このとき、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの五胡が非常に強い力を持つようになった。316年には、五胡の1つである匈奴が晋をいったん滅ぼした。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が仏教と道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。
さて、江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進み、それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の武帝は仏教の保護に努めた。
北方では、鮮卑族の王朝である北魏が台頭し、439年には、華北を統一した。471年に即位した孝文帝は漢化政策を推し進めた。また、土地を国家が民衆に割り振る均田制を始め、律令制の基礎付けをした。しかし、このような漢化政策に反対する人がいたこともあり、北魏は、西魏と東魏に分裂した。西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に隋が北周にとって代わった。589年に隋は南方の陳を滅ぼし、中国を統一した。
魏晋南北朝表も参照。
中国を統一した隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。
隋に代わって、中国を支配した王朝が、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継いだ。626年に即位した太宗は、租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。唐時代には、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も、唐時代の文学は最高のものとされる。
712年に即位した玄宗は国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力が置かれた。これを節度使という。節度使は、後に軍権以外にも、民政権・財政権をももつようになり、力を強めていく。763年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は何とか鎮圧されたが、各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局、政府は土地の私有を認めざるを得なくなった。結果として、律令制度は崩壊した。875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜した。このような中、各地の節度使はますます権力を強めた。907年には、節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。
唐の滅亡後、各地で節度使が争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、完全に中国を宋が統一したのは趙匡胤の死後の976年である。
趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとった。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの清時代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。
唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、契丹族の遼・タングート族の西夏・女真族の金は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代の五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代の元や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。
1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路はセラミックロードと呼ばれる。
文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。
13世紀初頭にモンゴル高原で、チンギス・ハーンが、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴル人たちは、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、チベットに至る広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国と呼ばれる。中国もまた征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴルに滅ぼされた。
モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の4代目の(ハーン)だったモンケが死ぬと、その後継を巡ってアリク・ブケとクビライが争った。抗争は結果的にクビライ優位に推移したが、これを機にユーラシアに広がった各ハン国の緩やかな分立は顕在化した。クビライは正当な手続きを経ないまま5代ハーンに即位したが、当時彼が直接支配できたのはモンゴル、華北、満州、中央アジアの東半分までで、それより西には統制力は及ばなかった。もっとも、こうして分裂が始まったといっても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。
モンゴル帝国(元)は未だ征服していなかった南宋への牽制のためにも日本に対して通交を求めたが、書面に脅迫的な言辞があるとして、武家政権だった時の日本政府(鎌倉幕府)は断った。このため二度に渡り日本に侵攻したが、成功しなかった(元寇)。元は三度目の日本侵攻を計画したが、実現には至らなかった。
中国南部を支配していた南宋を1279年に元が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。
元の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。元は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上最高のものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
クビライが死ぬと、幼いハーンや短命なハーンが相次ぎ、元では皇位継承戦争が頻発した。また、14世紀の初頭から気候は寒冷化し、洪水や疫病など大規模な天災が相次いだ。華北では大掛かりな治水工事が行われたが政府の出費は嵩む一方で、塩の専売策や紙幣の濫発は強化された。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。そして、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した紅巾の乱であった。紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で明王朝を樹立して皇帝に即位した。元政府は最後まで殆ど内輪もめを繰り返すばかりで、大規模な討伐軍を反乱者に差し向ける余力を持たなかった。最後の鎮圧軍も将軍トクトを中心に組織されたが、出発直前に時のハーン、ドゴン・テムルに殺され、軍隊は解体してしまう。こうした結果、同年、朱元璋は元の都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元のことを北元といい、明と北元はしばしば争った。明王朝は1388年に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
朱元璋は即位すると、大規模な漢族回帰政策を行った。農業と儒教は重視され、商業は軽視された。また厳重な海禁政策が取られ、中世の間、比較的先進的だった中国が、ルネッサンスを迎える西欧に抜かれる幾つかの原因を作った。晩年には恐怖政治を行って、藍玉や方向儒ら創業以来の功臣を次々と粛清し、連座も含めて処刑された者達は数万人に上った。 朱元璋の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、海禁の例外として、国営貿易は行われ、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。
永楽帝の死後、こうした例外が無くなったことで海禁政策は完全化し、貿易は著しく制限された。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、1449年には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件(土木の変)まで起きた。同じ頃、中国南部沿岸には、倭寇と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
一方で、絶対的な皇帝独裁制だった為に、政治の質は皇帝の人格・能力によって左右された。そうした体制の常として、側近が力を持ち、その大多数が政体上、宦官が占めた明では、彼らが国政を壟断し、腐敗し、怨嗟の声は朝野に満ちた。
こうした全ての負担は民衆に重税となって圧し掛かかり、結果、各地で反乱が相次ぎ、その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼした。
17世紀初頭には、現在の中国東北地方でヌルハチが女真族を統一した。その子のホンタイジは中国東北地方と内モンゴルを征服し、1636年にはモンゴル人から元の玉璽を譲られ、清を建国した。李自成が明を滅ぼすと清の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。17世紀後半から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝という3人の皇帝の下で、清の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、台湾・東トルキスタン・チベットにまで及んだ。
この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『四庫全書』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。
明王朝の後期には、メキシコや日本から大量の銀が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も一条鞭法と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清代に入ると、人頭税を廃止し土地課税のみとする地丁銀制が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。
半植民地化
編集18世紀が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。しかし、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年宣戦布告した。アヘン戦争と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスをはじめとするヨーロッパの列強による中国の半植民地化が進んだ。
国内的には、太平天国の乱などの反乱もしばしば起きた。これに対し、同治帝(在位1861年 - 1875年)の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ(洋務運動)が行われた。
1894年から翌1895年にかけて清王朝と大日本帝国との間で行われた日清戦争にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、大日本帝国と清王朝と清との間で結んだ下関条約により、李氏朝鮮の独立が認められ、中国の王朝が長年続けてきた冊封体制が崩壊した。
その後、清王朝は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランス・ロシア帝国・ドイツ帝国・アメリカ合衆国・大日本帝国による半植民地化の動きは止まらなかった。結局、1911年の武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、各地の省が清からの独立を宣言した。翌1912年1月1日、革命派の首領の孫文によって南京で中華民国の樹立が宣言された。北京にいた清の皇帝溥儀(宣統帝)は、清王朝内部の実力者である袁世凱によって2月12日に引摺り下ろされ、これを以って中国の君主制は廃止された。
民国時代。1912年に20世紀初の共和制国家である中華民国は成立したものの、実際は各地の軍閥が群雄割拠する状態であり、列強による中国の半植民地化も止まらなかった。清王朝からの権益保持を狙うイギリスはロシア帝国や大日本帝国を牽制するためにモンゴル、ウイグル、満州諸族を中華民国が支配することを認めながら、チベットを保護下に収めた。そんな中、孫文の後継者である蒋介石は、1926年に広州から北伐を開始し、ほぼ中国全土を支配するに至った。蒋介石は経済近代化のための新通貨(法幣)の権益をイギリスに与えることにより、姻族の宋氏と共に民国の政治・軍事・経済を独裁的に掌握することとなった。
1921年には中国共産党が成立し、一時蒋介石率いる中国国民党とも協力していた。しかし、蒋介石は共産主義を敵視していたため両者の協力関係は終わり、中国共産党は毛沢東の指揮のもと、農村を中心としてその支配領域を広げていった。これに対し、蒋介石は断固とした攻撃を加え瑞金に包囲し、延安に追った。
ソビエト連邦が樹立したモンゴル人民共和国に対抗するため、大日本帝国は1931年に張景恵ら満州軍閥と共同して、蒋介石の満州進出に了解を与えた張学良を追い、満州国を独立させた。1937年には、日本軍が中国本土に侵入し、中華民国と全面戦争に入った(日中戦争)。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、西安事件により、二つの党が協力して大日本帝国と戦うことになった。
しかし日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本軍は汪兆銘ら国民等左派を懐柔、南京国民政府を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。加えて1941年12月、大日本帝国は中華民国に加えてアメリカやイギリスとも戦端を開いたが(太平洋戦争)、一方で中華民国で多くの軍隊を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカなどの豊富な救援を受けることとなった。
結局、戦争は1945年9月2日に大日本帝国が降伏することで終わった。国民党政府は連合軍に所属していたこともあり、勝戦国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなく、ヨーロッパ諸国も租界を返還するなど、中国の半植民地化は一応の終わりを見せた。
しかしまもなく国民党と共産党との対立が激化して、国共内戦が勃発し、結果として中国共産党が勝利した。1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。内戦に敗れた中国国民党は台湾に撤退し、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っているが、国家承認している国は30ヶ国程度である。
共産党時代。1949年に中華人民共和国が成立すると、毛沢東政権は「反革命分子」を相次いで処刑し、その数は政府発足から6年間で少なくとも1000万人以上に達すると言われる。また、1950年代にチベットを「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる。チベットの最高指導者、ダライ・ラマ(14世)はインドに亡命し、未だ帰還していない。
1953年より社会主義化が進み、人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会が成立、農業生産合作社が組織された。1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わった。その後、劉少奇国家主席が経済調整を行うがこの行いに毛沢東と支持者が猛反発し、1966年に毛沢東は文化大革命を発動させ劉少奇とその支持者らを政治の舞台から追い出した。
この文化大革命は政治だけでなく一般にも多大な影響を与え、青少年によって結成された紅衛兵が反革命派とされた人間をつるし上げたりしていた。後期になると国内の内乱状態を引き起こし、最終的に1976年の毛沢東死去で終結した。各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は2000万人とも言われている。その後は一旦華国鋒が後を継いだが失脚し、鄧小平が政権を握った。鄧小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの][w:改革開放|開放政策]]を取り、近代化を進めた。
1989年には北京で、民主化を求める学生や市民のデモ(天安門事件)が起きた。しかし、これは人民解放軍により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数十万人に上るといわれている。天安門事件後の1990年代には、江沢民政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほどに経済は急成長した。ただ、急激な経済成長に伴う貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、政治の民主化も進んでいないとする国内外からの批判も根強い。そもそも憲法で「社会主義国」と明記されているため、憲法改正などがない限り現状通りと考えられる。
香港
編集詳しくは「香港の歴史」を参照
1997年にイギリス(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)から返還された香港(とその付近)は「香港特別行政区」として2047年まで「一国二制度」のもと中国本土に比べ比較的民主的な政治が行われることになっている。
独立
編集少数民族が住む新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)やチベット自治区および前述の香港では、現在も独立を求める動きがある。
朝代の歌
編集- 歌一
- 歌三
- 歌四
- 三皇五帝夏商周,歸秦及漢三國休。
- 晉終南北隋唐繼,五代宋元明清收。
- 歌五(ホンコン高校生使用の簡單版)
- 黃虞夏商周,春秋戰國秦,
- 兩漢三國晉,晉後南北分,
- 隋唐五代宋,元明清及民。
- 歌六
- 唐堯虞舜夏商周,春秋戰國亂悠悠。
- 秦漢三國又兩晉,南朝北朝來並存。
- 隋唐五代又十國,宋元明清。
- 歌七
- 唐堯虞舜夏商周,歸秦及漢三國後。
- 魏晉南北隋唐繼,五代宋元明清民。
- 歌八 (1972,1973 年マレーシアクチン高校 劉延森 先生より)
- 三皇五帝夏商周,戰國歸秦繼漢劉,
- 三國魏晉南北繼,隋唐五代宋元明。
- 歌九
- 黃帝唐虞夏商周,
- 秦漢後分三國志,
- 晉分東西南北朝,
- 隋唐後有五代起,
- 宋元明清民國成。
- 歌十
- 三皇五帝夏商周,
- 秦皇漢祖三國鬥。
- 晉終南北隋唐帝,
- 五代宋元明滿清。
注
編集- ^ 達拉斯新聞2001年3月15日C版 中國の簡史 李嘉清 http://web.archive.org/20001210094700/home.earthlink.net/~dcntx/essay.htm