中学校社会 公民/日本における憲法と人権思想のあゆみ

大日本帝国憲法と日本国憲法の比較
大日本国憲法 日本国憲法
 天皇が決めた欽定(きんてい)憲法 性格  国民が決めた民定(みんてい)憲法
 天皇 主権者  日本国民 
 法律の範囲内で
 認める
国民の権利  生れながらにして
 永久不可侵(ふかしん)の人権がある 
 兵役、納税、(教育) 国民の義務  子女に普通教育を受けさせる、
 勤労、納税 
 天皇の協賛(きょうさん)機関 国会  国権の最高機関、唯一の立法機関
 天皇を助けて政治を行う 内閣  国会に対して責任を負う(議員内閣制)
 天皇の名において裁判を行う 裁判所  司法権(しほうけん)の独立

日本では、明治時代になってから、西洋の民主主義が、一般の人々に紹介されました。そして、自由民権運動が、盛り上がりました。

また、欧米諸国と対等な外交関係を築くためにも(※ 育鵬社の教科書の見解がこう。こう書いても教科書検定に通る。)、日本国は法体系を近代化する必要などもあって、明治時代のなかば、大日本帝国憲法(明治憲法)が制定・発布されました。

大日本帝国憲法は、日本で初めての、近代西洋的な意味での「人権」を保障した憲法でもあります。

この明治憲法では、天皇が主権者であるという点が現代の憲法とは違いますし、人権が「法律の範囲内」という制限がつくという点も、現代の憲法とは違います。

もっとも、現実の明治時代〜第二次大戦前の政治では、天皇は、普段はほとんど政治権力を行使することはなく、実際の政治は、内閣が行っていました。

なお、大日本帝国憲法で想定された人権は、現代でいえば、法律によらなければ死刑などで殺されない生命の権利や、財産を持つ権利などの、いわゆる自由権(じゆうけん)を中心としたものです。最低限度の生活を保障する社会権は、まだ1889年(大日本帝国憲法の制定年)当時の世界には浸透していませんでした(そもそも社会権が誕生したのが、1919年のドイツのワイマール憲法が世界で最初。それより前の時代の1889年の大日本帝国憲法が、社会権を保障するはずがないのは当然。)


第一次世界大戦後には、日本で、政党政治の普及を通じて民主主義が進展し(大正デモクラシー)、また、男子普通選挙が実現しました。

しかし、1930年代、満州事変が起きた前後のあたりから、しだいに軍部が権力をにぎっていくなかで、大日本帝国憲法の天皇が軍部を管轄しているという名目のため、国会や政党が、軍部の権力に歯止めをかける事が、しずらくなっていきました。

また、1925年に制定された治安維持法(ちあん いじほう)と、大日本帝国憲法の法律の範囲内で人権を制限できるという規定により、軍部に批判的な言論が、発表しづらくなっていきました。

そしてついに軍部は暴走していき、日本が第二次世界大戦へと突入していき、1945年の敗戦をむかえました。 1945年8月に、日本が、降伏(こうふく)勧告としてのポツダム宣言を受け入れたことで、公式には第二次世界大戦が終わりました。(※ 実際には、東南アジアなどでは、ヨーロッパ諸国による植民地支配から、現地住民が独立するための戦争が、続いていた。日本軍の現地部隊が、非公式に、現地住民の独立運動家などに武器を横流ししていたという説もある。)

そして、降伏した日本は、ポツダム宣言にある、戦後の民主化の方針のもと、憲法を改正する必要が生じました。

ポツダム宣言には、日本がしたがうべき方針としては、軍国主義を取り除くこと、民主主義を強化すること、基本的人権を尊重することなどが、定められています。

日本国憲法の原本の一部

改憲案については、政党や民間の運動家などからも、さまざまな改憲の草案(そうあん)が出てきました。また、当初の政府案は、GHQにとっては民主化が不十分だとして認められず(※ 政府の当初案は、GHQには、大日本帝国憲法の語句を部分的に変えただけだと思われたようだ)、憲法を全面改正することになりました。

そして、最終的に、連合国軍総司令部(GHQ)が示した憲法草案をもとにした改憲案が、戦後の1946年に開かれた国会で審議され、1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌1947年5月3日から施行(しこう)されました。