はじめに 編集

人類は二度の世界大戦を経てその悲惨さ(ひさんさ)から、欧米各国は「戦争は望ましくない」と考えるようになり、国家間の対立についてはなるべく交渉によって解決するべきだと考えるようになった。

戦後の国際社会 編集

国際連合 編集

第二次大戦のときにあった連合国(United Nations ユナイテッド・ネイションズ)は、第二次大戦の戦後には、あらたな戦争をふせぐために国際政治を話しあう国際機関である国際連合(United Nations)を1945年に作った。


復習

ここで復習をしよう。国際連合と同じ役割をしていた国際機関を「国際連盟」といった。しかし第二次世界大戦を止められなかったことや制裁手段、加盟国の関係でこの国際連盟ではなく国際連合がつくられたのである。


国際連合の設立はアメリカのルーズベルト大統領の提案による。

日本では国際連合のことを「国連(こくれん)」と略すことも多い。

国連の本部は、アメリカのニューヨークにある。

また、主要国が国際政治をはなし合う場所を国際連合にかえたことで前にあった国際連盟は、自然に消えた。

国際連盟の常任理事国は、第二次大戦の連合国の主要国である。国際連合の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5か国である。

また、戦時中の連合国が元になってるので、日本やドイツを「敵国」として認定する旧敵国条項(きゅうてきこくじょうこう)が、今(本文を2014年に記述)でも残っている。

冷戦 編集

第二次世界大戦後、世界の国々はアメリカやイギリスを中心とする「西側」の陣営と、ソビエトを中心とする「東側」の陣営にわかれた。「西側」とか「東側」とは、ヨーロッパを中心とした地図での話だからである。ソビエト連邦のあった(現在の)ロシアはヨーロッパの東側にある上、ヨーロッパ東部にはロシアに占領された地域が多かったので、このような呼び名になった。

いっぽう、アメリカはヨーロッパから見れば大西洋をはさんで西側にアメリカがある。

この米英の西側陣営と、ソビエトの東側陣営との対立を冷たい戦争あるいは冷戦(英:Cold War)という。アメリカとソ連とが直接、戦争をすることはなかった[1]

ソ連の経済の体制が共産主義という私有財産や私企業を認めない制度であったので、冷戦は米英のような資本主義の陣営とソ連を中心とした共産主義の陣営との対立であるだろう、というような見方をされることもある。

1989年にソビエト連邦が崩壊してロシアなどのいくつかの国に分かれるまで、冷戦が続いた。

ソ連が崩壊したので、冷戦ではソ連が負け、アメリカが勝ったと言えるかもしれない(あくまでもソ連は『崩壊』したにすぎない。西側に敗れたわけではない)。

 
ベルリンの壁。 東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁(1961年11月)
 
ブランデンブルク門と、建設中のベルリンの壁。
既存のブランデンブルク門の前を、建設中のベルリンの壁が通っている。
 ※ 東京書籍の教科書で、写真にブランデンブルク門がある。

ドイツは米ソの方針の違いから「米英仏」の西側と「ソ連」の東側に分断して占領された(第二次世界大戦にナチス・ドイツだったため戦争で占領された)。その後1949年には東西が別々の国として独立した。西ドイツが西側陣営の資本主義国であり、東ドイツが東側陣営の共産主義国である。ドイツの首都であるベルリンでは1961年に東西ドイツの境界にベルリンの壁が築かれた。

また、軍事同盟として西側は自由主義・資本主義のヨーロッパの国同士およびアメリカと北大西洋条約機構(きたたいせいよう じょうやく きこう、略称:NATO ナトー)を1949年に結んだ。いっぽう、西側の共産主義・社会主義陣営であるソ連と東欧諸国はワルシャワ条約機構を1950年に結んだ。そして北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構とは対立した。

米ソの両陣営は、軍拡競争(互いに相手より強い軍隊や武器をつくること)をした。両陣営とも、核兵器を開発した(第二次世界大戦中に)。


冷戦
アメリカ ソ連
主要構成国 アメリカ・イギリス・西ドイツ・日本など ソ連、東ドイツなど
政治経済の思想
(イデオロギー)
民主主義・資本主義 社会主義・共産主義
同盟 NATO(米英・西ドイツなど)、日米安保 ワルシャワ条約機構


アジアおよびアフリカ 編集

アジアとアフリカの独立 編集

欧米の植民地となっていた国々では、第二次世界大戦後に、次々と独立運動がおこり、独立していった。

とくに東南アジアや南アジアでは、独立運動が戦後もつづいており、インドネシアやベトナムやインドなどの国々が独立していった。

アフリカでは1960年に独立が相次ぎ17カ国ほどが独立し「アフリカの年」と言われた。

中国の内戦と中華人民共和国の成立 編集

第二次世界大戦が終結すると国民党とソビエトの支援を受けた中国共産党と国民党とが対立し、内戦となった。

内戦には共産党が勝利し、中国本土には1949年、 中華人民共和国が成立した。共産党の指導者であった 毛沢東(もう・たくとう) が主席に就任した。


いっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に逃れた。このため、台湾は今も中華民国のままだ。こうした経緯のために、中国は「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。

  • 朝鮮戦争(ちょうせん せんそう)

朝鮮半島では、日本敗戦後、ソ連とアメリカが占領しあってそれぞれ北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)となった。そして、1951年に北朝鮮が韓国に攻め込んで朝鮮戦争(英:Korean War) が起きた。

アメリカ軍を主力とする国連軍(こくれんぐん、United Nations Force ユナイテッド・ネイションズ・フォース)が韓国をたすけて北朝鮮軍と戦闘。中国は同じ共産主義の北朝鮮をたすけて、「義勇軍」(ぎゆうぐん)という名目で、じっさいには正規の部隊である中国軍をおくり、中国軍(同じ共産主義のソ連はアメリカと直接対決するわけにはいかないのでソ連の援軍が中国軍に混じっていた)と国連軍とが戦闘した。すなわち、中国軍(一部はソ連軍)と国連軍(大部分をアメリカ軍が占める)が対戦したことにもなるので、冷戦の章でいった「西側と東側の直接対決」は実はあったことになる。


この国連軍と中国・北朝鮮軍との戦闘は休戦協定が1953年に結ばれるまで続く(あくまで「休戦」であり「終戦」ではないので国際法上は今も戦闘状態にあるが、現在それの「終戦宣言」をしようという話がある)。

日本 編集

日本の再軍備 編集

 
警察予備隊でのバズーカの訓練

朝鮮戦争によりアメリカ軍が苦しくなると、アメリカは日本を西側の陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えた。

アメリカは日本に軍隊をつくらせようとしたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないのでかわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせた。

おそらく、「軍隊」とは呼べないので、かわりに「警察」と呼びたい、というわけなのだろう。

警察予備隊の装備はそのころの時代の軍隊の歩兵に近い(というか現在は一緒)銃火器を装備したり、警察予備隊の訓練はアメリカ軍の指導のもとにおこなわれたりなど、どう見ても軍隊としか思えない「警察予備隊」であった。

そのあと、警察予備隊は1952年に「保安隊」(ほあんたい)に発展し、さらに保安隊から1954年には自衛隊になった。

朝鮮戦争で経済的には日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたために日本は好景気になった。この朝鮮戦争のときの好景気は、「特需」(とくじゅ)と言われた。

また、これらの警察予備隊や自衛隊などの創設のさい、旧軍人の公職復帰などの規制が緩和された。

レッドパージ 編集

朝鮮戦争の前後からアメリカと共産主義陣営のソビエトとの対立という構図がしだいにアメリカの目に明らかになり、そのためGHQは1950年ごろから日本での政府・行政の公職から共産党系や共産主義者とみなした人物を追放した。これをレッドパージという。

さらに、マスコミや民間企業などにも、この動きが拡大した。

(※ 参考: )「レッド」というのは、赤色 red のことで、20世紀の半ばごろは共産主義のシンボルカラーが赤色だったことに由来する。そのため、ソビエト連邦の国旗も、また中華人民共和国の国旗も、ともに赤い色を基調としている。

サンフランシスコ平和条約 編集

朝鮮戦争などがあったためアメリカは日本を西側の陣営に加えようとした。そのため、アメリカは米軍基地の存続を条件に日本の独立を早めようとした。

 
サンフランシスコ平和条約での署名式
 
吉田茂(よしだ しげる)

そのための講和会議がひらかれることになり、1951年9月にアメリカのサンフランシスコで講和会議がひらかれた。そして日本国は西側陣営である自由主義諸国などの48カ国とのあいだに サンフランシスコ平和条約(英:Treaty of Peace with Japan) を結んだ。

こうしてアメリカ・フランス・カナダ・オランダ・ベルギー・オーストラリアなどをはじめとした48カ国と平和条約がむすばれた。

このころの日本の首相は吉田茂(よしだ しげる)である。日本国は吉田茂首相を全権にしてサンフランシスコ平和条約に調印した。

そして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。この条約によって、GHQは廃止された。

しかし、沖縄はひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。


なお、ソ連など東側諸国とはサンフランシスコ平和条約を結んでいない。ソ連は日本の北方領土の国後島などを不法に占拠しているので、講和を見送った。ソ連と日本の国交回復は、1956年の日ソ共同宣言(にっそ きょうどうせんげん)まで待たなければならない。


また、サンフランシスコ平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地にひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である 日米安全保障条約(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく、英:Security Treaty Between the United States and Japan) が日本とアメリカとのあいだで、むすばれた。略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もある。


国際連合への日本の加盟 編集

日本は、独立後もしばらくは国際連合の加盟はできなかった。なぜなら、常任理事国であるソ連が日本の加盟に反対していたからである。しかし、1956年の鳩山一郎内閣の時代に日ソ共同宣言がむすばれて日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に国際連合の加入を認められた。日本では、この1956年の国連加盟をもって「国際社会へと復帰した」という意見が多い。

アジア・アフリカ会議 編集

1955年(昭和30年)、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、参加国としてインド・中国・エジプト・インドネシアなど29ヶ国があつまり、帝国主義の植民地支配に反対することが決められた。また、平和共存をうったえた。反帝国主義・平和共存の「平和10原則」(へいわ じゅうげんそく)が宣言された。この会議にあつまったこれらの国々は、「第三世界」(Third World [2])と呼ばれた。

原水爆の開発と、禁止運動 編集

 
当時の第五福竜丸

1954年、アメリカは水素爆弾の実験を、太平洋のビキニ環礁で実験した。日本の漁船、第五福竜丸(だいご ふくりゅうまる)などが被ばくする事件があった。これをきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が広がる。

55年体制 編集

このころ、社会党などが安保条約や自衛隊に反対した。

1955年に自由民主党( じゆうみんしゅとう、略:自民党(じみんとう) )が結成され、長期政権が続いた。自民党は野党の社会党(日本社会党)などと対立した。この1955年から長く続いた自民党を与党とした長期政権の体制で、野党として主に社会党が対抗していた体制のことを55年体制(ごじゅうごねんたいせい)という。(この時代、野党第一党が社会党だった。)

  • 安保闘争(あんぽ とうそう)
 
安保闘争。国会を取り囲んだデモ隊(1960年6月18日)

1960年、日本政府は日米安保条約を改定し、与党自民党の岸信介(きし のぶすけ)内閣によって新安保条約(しん あんぽじょうやく)がアメリカと結ばれた。この条約によって、日本が他国から攻撃を受けた場合に日米共同で防衛義務があることが決まった。


そして、この安保に反対する国民が多く、反対派の野党や国民によって、新安保への大きな反対運動が起きた。安保反対派は、安保のせいで日本がアメリカの戦争に巻き込まれる、などと主張し反対運動を行った。

しかし、自民党は国会の手続きどおりに採決を行った。強行採決と批判された。

1960年5月〜6月には国会前で大きな安保反対デモが起きた。このような、新旧の安保条約に対する一連の反対運動を安保闘争(あんぽ とうそう)という。

なお、岸内閣は新安保条約が成立・発効するまでは内閣を続けて発効を見届け、条約が発効したのち、岸内閣は総辞職して退陣した。

キューバ危機とベトナム戦争 編集

キューバ危機 編集

1962年、ソ連がキューバにミサイルを配置し、アメリカとの緊張が高まる(キューバはアメリカに近いが東側陣営)。アメリカとソ連との交渉の結果、最終的にソ連はミサイルを撤去した。このできごとをキューバ危機という。

なお、この事件をきっかけに、米ソの首相間の直通電話(ホットライン)が設置された。

また、このキューバ危機の当時のアメリカの大統領はケネディ大統領で、ソ連の首相はフルシチョフ首相である。

ちなみに、この危機よりも前、キューバでは革命が1959年(昭和34年)に起きており、カストロやゲバラによって革命が行われて、それまでの親米政権が倒されて、革命後のキューバは反米政権になっていた。そのため、東側陣営であったのである。

ちなみに危機の前年の1961年は、ベルリンの壁が建設された年である。

ベトナム戦争 編集

1960年代前半のベトナムでは、ソ連・中国の支持する東側陣営の北ベトナムと、アメリカの支持する西側陣営の南ベトナムとのあいだで、ベトナムの南北の対立から発展した内戦が起きていた。アメリカは南ベトナムを支援するため、1965年にはアメリカが北ベトナムを爆撃し、さらにアメリカは地上軍をベトナムに派遣して参戦した(ベトナム戦争)。しかし、北ベトナムもソ連・中国の支援を受けていたことから、北ベトナムはもちこたえ、戦争は長引いた。そして世界的に反戦運動が起こり、アメリカ国内でも反戦運動が起こり、そのこともあって1973年にはアメリカ軍はベトナムから撤退した。そして北ベトナムが南ベトナムに侵攻し、ベトナムの南北が共産主義に統一された。こうしてアメリカが、ベトナム戦争では、敗れる結果となった。

なお、日本ではベトナム戦争中に沖縄の米軍基地がベトナム戦争のための戦闘機の拠点として活用されていたので、それに対する批判が起こった。(なお、沖縄が日本に返還された年は1972年である。)(※ 範囲外: ベトナム戦争で、沖縄からアメリカ軍の爆撃機(B-52など)が飛び立ち、北ベトナムに爆撃を行った。「B-52」とか範囲外なので、機種名は暗記しなくてよい。ただし、「爆撃機」くらいは、出来れば覚えてほしい。)

ベトナム戦争中は北ベトナムはゲリラ戦で対抗した。アメリカ軍は北ベトナム軍のひそむジャングルを枯らすため、枯葉剤(かれはざい)をベトナムのジャングルにまいた。枯葉剤は人体にも毒性が強く、そのため、ベトナムのジャングルの多くの住民に健康被害が出た。


※ 範囲外: べトちゃんとドクちゃん
(※ 国語の検定教科書『中学生の国語 二年』(三省堂)で言及を確認。)

※ 未記述


(※ 高校の範囲:)朝鮮戦争とベトナム戦争では、米ソは直接は戦争していないが、しかし両方の戦争とも背景に米ソの対立があるため、これらの戦争を「代理戦争」とも言った。(第一学習社の『現代社会』の教科書が出典)

さまざまな戦争 編集

二度の世界大戦をへて反戦の気運(きうん)が世界各国で高まったにも拘わらず、第二次大戦後の時代でも戦争は無くならなかった。朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)などの中学歴史の学校教科書で説明している戦争以外にも、ベトナム戦争(1960年)、中ソ紛争(中国とソビエトの対立した戦争、1969年)、中越戦争(中国とベトナムの対立。「ちゅうえつ せんそう」、1979年)、中印戦争(中国とインドの対立。「ちゅういん せんそう」。1962年)、インド・パキスタン戦争(インドとパキスタンの対立。1947年)、フォークランド戦争(イギリスとアルゼンチンの対立、1982年)、アフガン紛争(1978年)、イラン・イラク戦争(イランとイラクが対立。1980年)など・・・、さまざまな紛争が、第二次大戦後でも起きている。

(※ 「フォークランド戦争」「アフガン紛争」は、中学の範囲外なのでいまのところおぼえなくて良い。「朝鮮戦争」(ちょうせん せんそう)などの覚える必要のある戦争名は他の節で提示する。)

  1. ^ 互いの国が直接、軍事衝突する状態は冷戦に対して「熱い戦争」という。
  2. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.371