中学校社会 歴史/平安時代
課題
編集この時代の政治にはどのような特徴があるのだろう。
この時代の文化にはどのような特色があるのだろう。
この時代の人々の考え方はどのようなものだろう。
平安時代
編集~貴族がさかえた時代~
かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。
のちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、桓武天皇(かんむ てんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年(
奈良から平安京への寺院の移転は禁止されます。
他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。
平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を 平安時代(へいあんじだい) という。
くわしくいうと、後に1192年(
なお、平安時代より、あとの武士による政治の時代になっても、都は平安京のままです。明治時代に東京に都が移るまでは、平安京が日本の都でした。平安京のつくりは、唐の都である 長安(ちょうあん) を、参考(さんこう)にしています。
桓武天皇は、公地公民が上手くいかない理由の一つである、税負担の重さに改革の手をつけます。 税負担の重さを減らしました。雑徭(ぞうよう)の日数を60日から30日に減らします。6年ごとに見直してた区分田に支給を、12年ごとに変えました。
(※ 中学の範囲外:) また、国司に対する監督をきびしくするため、勘解由使(かげゆし)という役人を置きました。(※ 検定教科書では、単に「国司に対する監督をきびしくさせました」的なことだけが書いてあり、「勘解由使」(かげゆし)の用語は紹介してない。 ただし、自由社の教科書では、勘解由使(かげゆし)を紹介している。)
このころ、奴婢(ぬひ)の制度も、無くなっていきました。 また、農民を兵士にすることをやめ、郡司の子弟(してい)などから健児(こんでい)という兵士を選ぶようにしました。
また、桓武天皇の政権は、東北地方に支配を広げます。 東北地方の 蝦夷(えみし) とよばれる人々は朝廷の支配に反対し、たびたび反乱を起こしていました。朝廷は蝦夷の征服のため、797年(延暦16年)に 坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ) という人物を 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) という役職(やくしょく)に任命し、彼に東北地方を平定させ、朝廷は東北地方に支配を広げました。 しかし、その後もたびたび、蝦夷の反乱は起きました。
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蝦夷の族長はアテルイという人物で、アテルイの兵力と、対する田村麻呂らの朝廷軍との戦いです。 結果的に、田村麻呂の側が勝ちます。つまり朝廷の側が勝ちます。 アテルイは負け、802年(延暦21年)に降伏(こうふく)します。アテルイは平安京に連行されたのち、京にて処刑されます。 田村麻呂は、アテルイの命を助けるよう減刑をもとめましたが、貴族たちの反対により、アテルイは処刑されました。 東北での戦争のさい、胆沢城(いさわじょう、場所は岩手県、築802年)が田村麻呂らにより築かれ、また多賀城(たがじょう、宮城県、築724年)、秋田城(あきたじょう、秋田県、築733年) なども朝廷軍の拠点になり、朝廷による東北支配の拠点になります。 |
仏教界の変化
編集平安時代に入り、奈良時代の仏教とは変化した。天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)という新しい宗派(しゅうは)ができ、それが広まった。奈良時代の仏教とはちがい、新しい平安時代の宗派は、山奥(やまおく)で修行(しゅぎょう)をしたりする仏教である。
僧の最澄(さいちょう)と僧の空海(くうかい)による、新しい仏教の考え方が広まった。おそらくは朝廷が、奈良時代の政治に深く介入した従来の仏教勢力をきらい、かわりに新しい宗派を保護したのだろう。
最澄も空海も、遣唐使と共に唐にわたり留学し、唐の新しい仏教の教えを学んできた僧である。
最澄は805年(延暦24年)に日本に帰国し、比叡山(ひえいざん、滋賀県にある。)に 延暦寺(えんりゃくじ) を建て、天台宗 (てんだいしゅう)をひろめた。最澄は伝教大師(でんきょうだいし)とも言われます。
空海は806年に帰国し、高野山(こうやさん、和歌山県にある。)に 金剛峯寺(こんごうぶじ) を建て、真言宗(しんごんしゅう)を広めた。 ことわざの「弘法も筆のあやまり(こうぼうも ふでのあやまり)」の弘法大師は空海のことだ。
比叡山と言い、高野山と言い、ともに山であることに注目もしよう。朝廷が仏教の政治介入を嫌う事とも、つじつまがあう。
荘園(しょうえん)
編集奈良時代に墾田永年私財法により、開墾した土地の所有が認められるようになったので、貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。この貴族の所有する私有地が 荘園(しょうえん) である。
また、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利が出来た。 税を収めない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)といいます。 これら不輸不入の権もあり、貴族の荘園は、どんどんふえていき、朝廷の税収は減るので財政は悪化し、律令政治が上手くいかなくなります。
有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族に、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。 10世紀に入ると、班田収授は行われなくなり、公地公民は くずれていきます。
摂関政治(せっかんせいじ)
編集9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の藤原氏(ふじわらし) が、権力を強めます。
藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の妃(きさき)にしています。 すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原氏の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。
藤原氏の一族では、とくに11世紀の前半に 藤原道長(ふじわらの みちなが) と、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)らの親子が権力をにぎっていた時代が、もっとも勢力が、さかんでした。
道長が有名なので、よく、教科書などに道長が取り上げられますが、藤原氏の権力は、べつに11世紀に急に強まったわけではなく、9世紀ごろから藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政になったりなど、すでに藤原氏の勢力が強かったです。皇族以外で摂政になったのは、良房が、はじめてです。
天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政(せっしょう)になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を 摂関政治(せっかん せいじ) といいます。
道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。
- 「この世(よ)をば わが世(よ)とぞ思ふ(おもう) 望月(もちづき)の 欠けたる(かけたる)ことも なしと思へば(おもえば)」 (『小右記』(しょうゆうき)より )
意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。この歌は、いわゆる「望月の歌」(もちづきのうた)として有名です。
- 藤原実資(ふじわら さねすけ)の日記。
寛永 2年(1018年)、今日は道長さまの娘さまの威子(いし)女御(にょうご、女官の階級の一つ)が、中宮(ちゅうぐう)になられる日である。太閤(=道長)さまが私(=日記の作者。実資)を呼んで、こう申された。- 「和歌を読もうと思う。君も必ず返事を読め。」と言われた。
- 私は返事をして「きっと返事を言いましょう。」と答えた。
- つづけて、道長さまはこう言われた。「自慢の歌なのだよ。べつにあらかじめ作っておいた歌では無いがね。」と。
- そして、言われた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思わば。」と。
- 私は答えた。「とても優美な歌です。かえす歌も作れません。(道長以外の)みんなで、このお歌を唱和するのがよろしいでしょう。」と申し上げた。みんなも、私の言葉に応じ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう機嫌をよくして、返歌をしなかった私を責めなかった。
- (『小右記』(しょうゆうき)より。藤原実資(さねすけ)の日記。抜粋、要約。)
摂関政治のころ、地方の行政は、国司に まかせられるようになりました。国司の中には、自分は現地に行かずに都にとどまり、代理人を送る者も、いました。 国司には、蓄えをふやそうと、税を厳しく取り立てる者もあり、農民などの不満は大きく、朝廷に国司の不正を訴えでる者もいました。
平安時代の文化
編集時代背景
編集- 遣唐使の廃止
894年(
:語呂合わせ:白紙(はくし、894)に戻そう 遣唐使
遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的な負担が大きい、などです。
この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。
かわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を国風文化(こくふうぶんか) と言います。
なお、)
- ※ 検定教科書には無い話題ですが、授業中にかならず先生(教師・講師)が口頭で教える範囲の話題です。
- ※ なお、東京書籍や育鵬社と帝国書院など一部の検定教科書では、道真が大宰府に追いやられた経緯や結果が紹介されています。(意外と他の教科書では、紹介されていない。)
大宰府の職の地位については、道真のもとの右大臣の職とくらべたら、(大宰府の管理職は)地位が低い。
「左遷」(させん)という熟語が現代の日本にありますが、その具体例として、菅原道真が901年に大宰府の職へ追いやられたことが、「左遷」の典型例であると、現代ではよく表現されます。 なお、「左遷」の語源は古代中国の文献『史記 韓信盧綰伝』であり、日本に由来する言葉ではありません。(※ 文献名『韓信盧綰伝』は中高の範囲外なので覚えなくてよいです。)
右大臣である道真が大宰府に追いやられる前、藤原氏で左大臣だった藤原時平(ふじわらの ときひら)が、道真をこころよく思わなかったので陰謀をしかけたのです。(※ 育鵬社の検定教科書のコラム欄に、道真の「追放」と書いてあるので、追いやるなどと言ってもマチガイではない。)
- なお、帝国書院は「大宰府に流されました」と言っている。
そして時平の陰謀により菅原道真が大宰府に追放されて以降、道真は903年(
このため、当時の京都の天皇や大臣たちは祟りをしずめようとして、道真を神様として、たてまつるようになった、といわれてています。
現在、「天満宮」(てんまんぐう)と言われる神社・寺は、菅原道真をたてまつっている宗教施設です。また「天神」(てんじん)とは、神様としての菅原道真のことを言っています。「天神」とか「天満」とか「天」と言葉のつく理由は、一説には、たたりが京都の天気・天候の異常としてに災害をもたらしたからだと(いわゆる「気象災害」、たとえば台風による被害、暴風雨や激しい落雷、あるいは日照り(ひでり)などといった天気の異常による被害の発生のこと)、いわれています。
こうして現代には、菅原道真は学問の神様であるとして、いいつたえられるようになりました。
大宰府の場所にあたる現代の福岡県も天満宮(太宰府天満宮)があります。
道真が「学問の神様」であるといわれてるほどに学問が得意と言われている理由は、道真は若くして、地位の高い役人になるための試験に合格したからだと、言われています。
なお、京都には北野天満宮があります。
- 大陸中国と朝鮮半島
唐は10世紀の始めごろに滅び、小国の争いをへて、宋(そう)が統一して、宋に王朝が変わります。中国と日本の、正式な国交は途絶えますが、商人などの交流や僧侶の留学はその後も続き、中国の文物も日本に入ってきました。同じ頃、朝鮮半島では高麗(こうらい、コリョ)が出来て、高麗が新羅(しらぎ、シルラ)を滅ぼしました。
国風文化
編集- かな文字の発明
ひらがな や カタカナ などの かな文字が、平安時代に発明されます。 ひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。
この時代の当初(とうしょ)、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。
(※ 発展 : )貴族の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、名を隠し(かくし)、女を名乗り『土佐日記』(とさにっき)を書いた。日記の出だしの文章は「男もすなる日記というものを 女もしてみむとて するなり」と言った出だしです。
内容は、第三者のフリをして、国司(こくし)として、四国の土佐(とさ)に派遣されていた紀貫之のような経歴の人物のことを、書いた日記です。(※ 教育出版の教科書で『土佐日記』を紹介。)
- ※ 『土佐日記』について、くわしくは高校で習うので、中学生はムリに暗記しなくてよい。
かな文字をつかって、『古今和歌集』(こきん わかしゅう) や『竹取物語』(たけとり ものがたり) などが、この時代に書かれた。
『古今和歌集』は、紀貫之(きのつらゆき)という人物の編集による和歌集です。(醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが『古今和歌集』を編集しました。)
文学の物語では、紫式部(むらさきしきぶ)によって『源氏物語』(げんじものがたり)が書かれました。
(※ 発展: )この『源氏物語』は、主人公は貴族の「光源氏」(ひかる げんじ)という人物で、光源氏を中心とした貴族の恋愛などを書いています。
なお、名前が後の幕府の「源氏」(げんじ)と似ていますが、光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。
随筆(ずいひつ)では、清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。
紫式部も清少納言も、宮廷(きゅうてい)に仕える女官(にょかん/にょうかん)です。
絵画では、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が出てくる。寝殿造りの屋敷の屏風(びょうぶ)や ふすま などに大和絵が描かれた。絵巻物などにも大和絵は描かれた。
(※ 発展: )大和絵の作品では、鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)や源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)などが有名です。
- (※ 中学社会科の教科書には書いてないが、しかし中学美術で鳥獣戯画を習う。『源氏物語絵巻』については、検定教科書では、源氏物語といっしょに紹介している。)
鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)は、当時の社会を風刺するために、蛙や猿、うさぎなどの動物たちを擬人的に描いて表現した絵です。
大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。「源氏物語絵巻」は、紫式部の『源氏物語』の内容を、絵画を使って表したものです。
- その他の文化
平安時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わり、男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) になります。
貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になる。
浄土(じょうど)の信仰
編集平安時代の中ごろは、伝染病が流行ったり、災害が起きたりしたので、社会の不安が大きくなった。このため、宗教では、人々に安心を与える宗教が、平安時代の半ばごろから流行るようになる。
浄土教という信仰が流行るようになる。阿弥陀如来(あみだにょらい)にすがり、念仏(ねんぶつ)を唱えていれば、死後には、極楽浄土へ行ける、という信仰である。
浄土教を布教した人物では、空也(くうや)という人物が有名である。空也(生:903年~没:972年)は、10世紀中ごろ、諸国をまわり、庶民に浄土教を布教していた。「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という念仏を唱えるとよい、と空也は民衆たちに広めたという。人が集まる市(いち)で布教していたことから、空也は、市聖(いちのひじり)とも呼ばれます。
仏教の教えによると、1052年(
地方にも浄土教がひろまり、各地に阿弥陀仏をまつる寺院である 阿弥陀堂(あみだどう) がたてられた。たとえば岩手県の平泉(ひらいずみ)には 中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)という阿弥陀堂 が建てられた。大分県に富貴寺大堂(ふきじおおどう)が、たてられた。
人々の不安もあって、仏教では、念仏(ねんぶつ)を唱えて阿弥陀仏(あみだぶつ)さえ信じさえすれば救われるという内容の浄土教(じょうどきょう)が流行りました。
京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)は、この時代に建てられました。十円玉に描かれている建物は、平等院鳳凰堂の絵です。
平等院鳳凰堂のなかにも、阿弥陀像(あみだぞう)があります。平等院鳳凰堂も阿弥陀堂です。
平安時代の武士たち
編集平安時代には、地方の豪族や有力農民たちは私有地を広げていったのであった。9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。
このようにして、武士(ぶし)が、できていった。
武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに武士団(ぶしだん)を結成していった。
貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。
源氏も平氏も天皇の子孫です。
武士の中には、朝廷に対して反乱を起こす者も出てきました。
10世紀の935年( |
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- 藤原純友(ふじわらの すみとも)による反乱
939年(
朝廷の力だけでは、この2つの反乱をしずめることはできず、ほかの武士の協力をえる必要があり、これらの反乱により武士の影響力が増すことになった。
この2つの反乱のことを、起きた年の年号をとり 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう の らん) と言う。
- 東北地方での反乱
11世紀の1051年(永承6年)には東北地方で反乱が起き、安倍頼時らが反乱を起こした。この反乱の鎮圧を、源氏である源頼義(みなもとのよりよし)および源義家(みなもとの よしいえ)らの兵が鎮圧した。この反乱と鎮圧のできごとを 前九年の役(ぜんくねん の えき) と言う。
1051年から1062年(
また1083年(
また、後三年の役で勝利した源氏の側についた藤原清衡(ふじわらの きよひら)の一族の奥州藤原氏(おうしゅう ふじわらし)の勢力が広まった。中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)は、藤原清衡が建てさせた阿弥陀堂(あみだどう)である。