外国船の出没(しゅつぼつ) 編集

 
ロシアのラクスマン
 
ロシアのレザノフ

ロシアは勢力を 千島(ちしま) や 樺太(からふと) にのばしていました。 1778年に、ロシアが蝦夷地(えぞち)の厚岸(あっけし)に来て、日本の松前藩(まつまえはん)に通商をもとめましたが、ことわられました。

寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。

蘭学を学んでいた林子平(はやし しへい)は、書物の『海国兵団』(かいこくへいだん)を1791年に記し、日本は海岸をまもる必要性を人々にときましたが、幕府には世間をさわがせるものだとして林子平は処罰されてしまいます。

しかし、子平の言う通りの状況に、このあとの時代は動いていくのです。

ロシアは、1792年に日本に貿易の通商を求めるため日本に人を送り、根室(ねむろ、北海道)にロシア人の軍人の ラクスマンがきました。しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。 


1804年にはロシア人の外交官のレザノフが日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、ことわります。

幕府は、北方の海岸の警備に力をいれます。また、間宮林蔵(まみやりんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。 また、伊能忠敬(いのうただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させました。 そして、間宮林蔵は間宮海峡(タタール海峡)の発見<=樺太が島であることを証明>、伊能忠敬は大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)<=日本全国の地図>を作成しました。


レザノフの1804年よりもさかのぼって、1796年にはイギリスが日本に来ていました。

 
イギリスのフェートン号

1808年にはイギリスの軍艦のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去した。これを フェートン号事件と言います。


幕府は、1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出しました。

アヘン戦争での清の敗戦の知らせ 編集

いっぽう、アヘン戦争(ヨーロッパによるアジア侵略のページ参照)での清の敗戦の知らせが、日本に、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。 また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢に気がつく者があらわれはじめてきます。

このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていきました。


日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払いの方針のままだと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給することをゆるしました(天保の薪水給与令、しんすいきゅうよれい)。

黒船の来航 編集

 
黒船来航
 
ペリー
 
日本の浮世絵に描かれたペリー。 嘉永7年(1854年)頃

1853年にアメリカ合衆国の4隻の軍艦が日本の浦賀(うらが、神奈川県の港)にあらわれ、軍艦をひきいたアメリカ人のペリー(Perry)が開国を日本に求め、アメリカ大統領からの国書を幕府に、わたしました。

当時、日本に来た4隻のアメリカの船は、色が黒かったため、黒船(くろふね)と日本の人から言われました。 アメリカの軍艦は、蒸気船と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船の煙突からは煙がもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのロシアやオランダの船の帆船とは違い、最新式の船でした。

ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある江戸に近い関東の浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、長崎が外国との外交の窓口でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接に交渉をしようとする態度をとりました。


このようなアメリカの船とペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。とりあえずペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、一年後にもう一度、日本に来てもらうように頼みました。


幕府は、事態を重く考え、朝廷にも報告をして、諸国の大名にも相談をしました。相談のあいては、外様大名もふくみます。 これがのちに大きな意味を持つこととなります。

いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、燃料や水の補給を日本でおこなうために立ち寄りたいという理由が、主な目的でした。当時のアメリカは、中国大陸の清と貿易をおこなっていたり、太平洋で捕鯨(読み:「ほげい」・・・、意味:「クジラとり」のこと)を行っていたので、日本で補給が出来ると都合が良かったのです。

そして1年後の1854年に、ペリーがふたたび日本に来ました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をします。 日本とアメリカとの間で条約がむすばれ、日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)が結ばれました。

この日米和親条約により、下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。

(※ 参考:) 1855年に日露和親条約(にちろわしんじょうやく)が結ばれ、択捉島(えとろふとう)より南の北方領土を日本領に、得撫島(ウルップとう)より北の千島列島をロシア領としました。

 
ハリス
 
井伊直弼(いい なおすけ)

アメリカの総領事(そうりょうじ)のハリス(Harris)は、幕府に対して、日本とアメリカとの貿易を求めました。ハリスの説得は、イギリスなどの戦争をためらわない国から、不利な開国の要求をおしつけら戦争をしかけられる前に、アメリカと開国の条約を結んだほうが安全である、という説得でした。

幕府は、オランダなどからの情報で、清がイギリスでアヘン戦争に負けたという国際情勢を知っており、欧米に戦争になり日本が侵略されることを恐れたので、アメリカとの条約を1858年に幕府の大老の井伊直弼(いい なおすけ)は結びました。こうして、日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)が結ばれ、この条約によって、函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5港が貿易港として開かれました。

  • 不平等条約(ふびょうどう じょうやく)

日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。

アメリカ人の治外法権(ちがい ほうけん)
日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の法律では処罰(しょばつ)できませんでした。

この、アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを治外法権(ちがい ほうけん、英語:Extraterritoriality)と言います。領事裁判権(りょうじ さいばんけん)とも言います。

日本に関税自主権が無い。
日本への輸入品に、税をかける権利が、日本には、ありませんでした。(輸入品にかける税を関税と言い、国が関税を自由に決まる権利を関税自主権(かんぜい じしゅけん)と言います。)不平等条約により、日本には関税自主権がありませんでした。


また、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の貿易の条約を、幕府は結びました。これを、安政の五カ国条約(あんせいの ごかこくじょうやく)と言います。覚え方は、五つの国の頭文字をとって「アオイフロ」です。

幕府の伊井直弼による条約締結は、日本を欧米の侵略から守ろうとする考えのものでしたが、当時の庶民の多くは、まだ、欧米の強大な軍事力を知らず、幕府の態度は、臆病者だと思われていました。

井伊直助は幕府の許可を取らなかったこともあり、反対派も多くいました。 開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。吉田松陰(よしだ しょういん)などの人物が処刑されました。 ちなみに、このときの元号は「安政」です。だから、安政の五カ国条約、安政の大獄というのです。

 
桜田門。

のちの1860年、井伊直弼は江戸城の桜田門(さくらだもん)の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)によって、暗殺されてしまいます。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「桜田門外の変」(さくらだもんがいの へん)と言います。

(※ 範囲外: ) 吉田松蔭が死んだときの年齢は、けっこう若く、なんと29歳で吉田松陰は死んだ。なお、現代日本で高校卒業の時点での年齢が一般に18歳であり、大学の期間が4年間なので大学卒業の時点の年齢が(落第などをしなければ)一般的に22歳である。なので、教育実習でやってきた先生たちの年齢と、松蔭が死んだ時の年齢は、ほとんど差はない。

開国による経済の変化と混乱 編集

輸出品として、生糸(きいと)や茶が輸出されたので、それらの産業が発展しました。
国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し過ぎたり、買い占めなどが起こったからです。貿易をしていない米や麦の値段も上がりました。
貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。

また、金銀の交換比率が、日本と欧米でちがっており、日本では金銀の交換比率が1:5なのに対して、外国では1:15であった。外国人がこの比率の差を利用して、日本に多くの銀貨をもちこんで、日本の金を買って交換したので、日本から多くの金が流出した。

 
万延小判

その後、幕府は小判を改鋳して小さな小判をつくることで(万延小判、まんえんこばん)、交換比率を国際的な比率に近づけさせて、金の流出をふせいだが、小判の価値が低下したため物価の上昇が起きた。

このような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。

尊王攘夷 編集

庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。

世間から、外国を打ちはらおうとする考えが出てき始めます。このような、外国を打払いしようという考えを攘夷(じょうい)と言い、攘夷の主張を攘夷論(じょういろん)と言います。

攘夷論にくわわり、世間では、国学などの影響(えいきょう)もあって、朝廷や天皇を盛り上げて、敬おう(うやまおう)という、尊王論(そんのうろん)が出てきます。

尊王論と攘夷論が加わり、尊王攘夷論(そんのうじょういろん)という、組み合わせた考えが出てきました。(のちに、尊王攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判にかわり、やがて幕府を倒そうという運動へと変わっていきます。)


薩摩藩と長州藩は攘夷の実力行使に出ましたが、外国に負けました。

・薩英戦争(さつえい せんそう)

1862年に関東の生麦(なまむぎ、神奈川県にある)で、薩摩藩の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が斬り殺すという生麦事件(なまむぎ じけん)が起こりました。イギリスからの犯人の処罰要求を薩摩藩が受け入れなかったので、翌年の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これが薩英戦争です。この戦争で薩摩は負け、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになり、薩摩は攘夷論をあきらめることになりました。

戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。

・長州藩の下関戦争(しものせきせんそう)

 
欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台
1863年に、下関海峡を通る外国船にむかって、長州藩が攘夷の実行のため、いきなり砲撃を始めました。しかし、翌年、外国の連合艦隊、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国からなる連合軍により反撃を受け、下関の砲台を占拠され、長州は負けました。

長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)らは、攘夷論のマチガイに気づき、かわりに長州藩の改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。


このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊王攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。


  • 薩長同盟(さっちょう どうめい)
 
坂本龍馬(さかもと りょうま)

薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。 しかし、1866年に、土佐藩(とさはん、高知県)の浪人坂本龍馬(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同盟である薩長同盟(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。

幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。

イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。

なお、坂本竜馬は、のちの大政奉還のあと、何者かによって暗殺された。坂本竜馬が、京都の河原町(かわらまち)にある近江屋(おうみや)に、友人の中岡慎太郎(なかおか しんたろう)といるところを、何者かによって坂本・中岡の二人ともが斬殺され殺害された。

坂本は首を斬られて即死した。中岡は重傷を負って、二日後に死亡した。犯人は不明である(諸説あり)。


※ 「池田屋」(いけだや)と「近江屋」を混同しないように。池田屋(いけだや)とは、尊王攘夷派が根拠地としてたため、新撰組(しんせんぐみ)が1864年に襲撃した旅館である(池田屋事件)。新撰組(しんせんぐみ)は、幕府側として、京都の警備をしていた。当時の京都では、過激派の尊皇攘夷派・開国派による暗殺事件が多発しており、幕府の役人が暗殺されていた。警備のために幕府側は、新撰組や見廻組(みまわりぐみ)などの警察組織によって開国派を取り締まるなどの警備をさせていたのである。(※ 中学の範囲内。帝国書院の教科書に、新撰組について記述あり。そもそも常識として知っておくべき教養。なお、高校日本史では新撰組や池田屋事件についても習う。)
  • 坂本龍馬

土佐藩の下級武士の生まれで、剣術をまなぶため江戸に出たたときに海外情勢に関心をもつようになり、さまざまな知識人と会う内に、勝海舟(かつ かいしゅう)と知り合う。そして、海軍や海上貿易などの必要性をさとる。その後、龍馬は「海援隊」(かいえんたい)という貿易商社をつくる。また、龍馬は薩長同盟の仲立をした。龍馬が書いた「船中八策」(せんちゅう はっさく)は、のちの明治維新の方針の参考にされた。この船中八策は、横井湘南が書いた「国是七条」(こくぜしちじょう)を参考にしたと言われている。

船中八策の内容は(要約、現代語訳)、

一、 幕府は政権を朝廷・天皇に返し、政治の命令は朝廷から出すこと。
一、 上下ふたつの議員をつくり、政治は議員が話しあって決めること。
一、 有用な人材を全国から登用し、無用な役職をなくすこと。
一、 外国との外交においては話し合い、新しい条約をむすぶこと。
一、 憲法を新しくつくる。
一、 海軍を強くする。
一、 天皇のいる帝都を守備する軍隊を置く。
一、 金銀の交換レートを外国の平均に合わせる。

である。

  • 高杉晋作

また、高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、アヘン戦争後で薩長同盟前の1862年に藩の仕事として上海(シャンハイ)に滞在していたころ、中国人がヨーロッパ人の召使い・奴隷のような扱いを受けている様子を目撃し、危機感をもち、長州の改革の必要性を痛感した。

「世直し」と「ええじゃないか」 編集

 
「ええじゃないか」。伊勢神宮など寺社のお札が降ってきたと言って、民衆が踊り歩いた。

このころ、「世直し」をとなえた農民一揆が、全国各地で起きていた。また、大坂や江戸で、打ちこわしが起きた。また、1867年には「ええじゃないか」と民衆が熱狂する騒ぎが起きた。