中学校社会 歴史/日本固有の領土の不法占拠と戦後の日本政府の対応

日本には、国際法などに照らして固有の領土であっても、近隣諸国(きんりんしょこく)と領土をめぐって問題が発生している地域があります。

北方領土(ほっぽうりょうど)竹島(たけしま)尖閣諸島(せんかくしょとう)は、いずれも日本固有の領土ですが、北方領土はロシアが、竹島は韓国が不法に占拠しており、また、尖閣諸島は大日本帝国政府が領有権を確立してから戦後の日本政府が実行支配し、日本の立場としては領土問題は存在しないものの、中国などが領有権を主張し、挑発を繰り返している領土問題とは異なる別の「問題」があります。

ここでは、北方領土、竹島、尖閣諸島が日本固有の領土になった経緯を見ていきましょう。

課題

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北方領土、尖閣諸島、竹島はどのような経緯を()て日本固有の領土になったのでしょう。

北方領土、尖閣諸島、竹島の現状はどのようなものなのでしょう。

北方領土

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17世紀前半には、蝦夷地(えぞち)(北海道)の南部を支配していた松前藩が北方領土(ほっぽうりょうど)歯舞群島(はぼまいぐんとう)色丹島(しこたんとう)国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう))や樺太(からふと)について調査を行っていたこともあって、江戸幕府が作成した地図には、国後島択捉島得撫島(ウルップとう)などの島名が書かれていました。

こうした島々では、18世紀の半ばから、ロシア人が進出し、日本人の住民との間で対立が起こっていました。そこで幕府は、これらの島々を直接統治すると決め、国後島(くなしりとう)から択捉島(えとろふとう)までの調査を行い、択捉島(えとろふとう)に「大日本恵登呂府(えとろふ)」と書いた標柱を立てました。1801年(享和(きょうわ)元年)には、約100人の南部藩と津島藩の兵隊を常駐させて、これらの島々を守備しました。

1855年(安政(あんせい)元年)には、幕府はロシアとの間で日露和親条約(にちろわしんじょうやく)を締結し、択捉島(えとろふとう)得撫島(ウルップとう)の間に国境が定められ、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は名実ともに日本固有の領土になりました。樺太(からふと)については、国境を定めず、両国民の混住(こんじゅう)の地としました。

明治に入った1875年(明治8年)には、樺太(からふと)千島(ちしま)交換条約を締結し、日本が樺太(からふと)を譲ることと引き換えに、得撫島(ウルップとう)より北の千島列島(ちしまれっとう)の島々を日本の領土とすることになりました。

その頃、日本人が開拓を進めていた北方領土では、多くの日本人が移住し、海産物の加工畜産(ちくさん)などが行われるようになりました。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結時には、約1万7000人の日本人が暮らしていました。

第二次世界大戦後の占領から独立するために、サンフランシスコ講話条約が締結されると、千島列島(ちしまれっとう)を放棄することになりましたが、北方領土は放棄に含まれなかったため、これまで通り、日本の領有権が維持されました。

しかし、1945年(昭和20年)にソ連が日ソ中立条約に違反して日本を侵略し、ソ連は北方領土を不法占拠しました。

このとき、ソ連軍によって、多くの日本人が虐殺され、あるいは捕虜として劣悪な現場へ強制連行(きょうせいれんこう)させられて強制労働を強いられました。これは国際法違反でした。

戦後の日本政府は、日本固有の領土である北方領土を不法に占拠したソ連に抗議しましたが、返されませんでいた。大日本帝国政府に属する領土か、戦後の日本政府に属する領土かをめぐっては議論がありますが、少なくともソ連(現在のロシア)の領土ではないでしょう。

その後にソ連が崩壊し、ロシアになった後も北方領土に対する不法占拠は続きました。戦後の日本政府は、ロシアに抗議し、北方領土を返還するよう求めていますが、未だに返還されていません(2022年現在)。

1980年(昭和55年)には、日露和親条約が締結された2月7日を「北方領土の日」とすることが国会で決まりました。

ところで、日本共産党(戦前の日本共産党とは中身は実質的に連続していますが、組織としては一応違います。)は北方領土問題について、サンフランシスコ講和条約の千島列島放棄条項のもとになったヤルタ協定に、大日本帝国政府の関与がなかった事実を提示し、歯舞群島と色丹島と国後島と択捉島のほかに千島列島の返還も求めています。

なお、「大日本帝国政府」は、戦後の日本政府とは大きく違いますが、戦後の日本政府は大日本帝国政府と連続していると主張しています。

八月革命説によれば、大日本帝国憲法を最高法規とし、天皇大権・所有権・信教の自由などを認める大日本帝国政府は法的な革命によって消滅し、日本国憲法を最高法規とし、婚姻について「両性」と規定して男性同士や女性同士の婚姻を実質的に弾圧した日本政府(日本国)に移行したとされ、これを根拠として両者に連続性はない、という説もあります。

さまざまな見方がありますから、ここでは、戦後の日本政府と、大日本帝国政府を明確に分けて記述します。分かりやすいように大日本帝国政府の方は太字化しています。

また、日本共産党は続けて、「歯舞群島と色丹島は北海道であっても、国後島と択捉島は歴史的に見て千島列島の一部であり、国後島と択捉島を千島列島でないとする戦後の自民党及び戦後の自民党政権(戦後の日本政府)の主張には無理がある」と主張しています。

さらに、戦後の日本政府が以前に「国後島と択捉島が千島列島の一部である」という答弁を行っていることも指摘し、サンフランシスコ講和条約の「千島列島放棄条項に従う義務はない」とも主張しています。

最近のことですが、戦後の日本政府は、歯舞群島と色丹島の二島のみを返還するよう求めたり、戦後の国会の答弁で北方領土を「我が国固有の領土」と表現せずに「主権を有する島々」とするなど、露骨な外交的配慮を行うなど、日本側に立って表現すると後退させています。

かなりマイナーな政党ですが、大日本愛国党という政党も、千島列島の返還を訴えています。

日本共産党や大日本愛国党の主張は最も原則的であり、ロシアによるウクライナへの侵攻などで戦後の日本政府の立場は「我が国固有の領土」に戻るなどますます複雑化していますから、原則的立場への回帰が重要なのかも知れません。目先の利益を求めて失敗した例といえるでしょう。

原理原則を重んずる態度が重要なのは、大日本愛国党などの戦後の日本社会で極右や右翼とされる人や日本共産党などの戦後の日本社会で左翼や極左とされる人々が共有しているものですが、これらの人々は戦後の日本社会にこれが浸透していないことを嘆く発言をしているケースもあり、ある意味戦後の日本人の歴史的弱点なのかも知れません。

こういう歴史的弱点を見つけて解消し、国家や民族・人類の発展に資することが歴史教育の使命とされますから、領土問題は歴史教育において重要なテーマなのかも知れません。

竹島

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島根県の隠岐島(おきのしま)の北西にある竹島(たけしま)は、古くは「松島(まつしま)」と呼ばれていました。

17世紀初期から江戸幕府が鎖国政策(さこくせいさく)の中で、竹島への渡航(とこう)を認め、あしか(りょう)が行われるようになりました。また、竹島の西にある鬱陵島(うつりょうとう)(当時はこの島を「竹島」と呼んでいた。)にあわび漁あしか猟に行く(さい)航海(こうかい)の目印停泊地(ていはくち)としても活用され、遅くとも17世紀半ば頃には、大日本帝国政府まで連続する歴史的な意味での「日本」は竹島に対する領有権(りょうゆうけん)[1]を確立しました。

竹島(松島)でのあしか猟は、明治時代の終わり頃から本格化し、多くの漁民が猟を行うようになり、民間の竹島利用がさかんになりました。

こうした中、隠岐島民が、安定した猟のために竹島を島根県に編入することを政府に願い出ました。これを受けて大日本帝国政府は、1905年(明治38年)1月に竹島の編入を閣議決定して、正式に「竹島」と命名し、名実ともに日本固有の領土となりました。

こうして大日本帝国政府は、竹島の領有の意思を再確認しました。

竹島でのあしか猟は、戦争がはじまる1941年(昭和16年)まで続きました。

第2次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約においても、韓国は竹島の領有権を主張しましたが、日本固有の領土であることが認められ、日本の領有権は維持されました。

大日本帝国政府に属する領土か、戦後の日本政府に属する領土かをめぐっては議論がありますが、少なくとも韓国の領土ではないでしょう。

しかし、竹島の領有権を主張する韓国は、1952年(昭和27年)、国際法に違反して日本海上に一方的に李承晩ラインを引き、ラインを超えたとする日本漁船を銃撃(じゅうげき)拿捕(だほ)しました。1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を侵略して、不法に占拠しました。

李承晩(りしょうばん)ラインが廃止されるまでの間に、数千人以上の日本人が韓国本土に強制連行(きょうせいれんこう)されました。韓国によって殺害された日本人も多くいます。強制連行された日本人の多くが、実際は李承晩ラインを超えていませんでした。

強制連行された人の生活状況は過酷でした。わずか8畳に21人が強制収容されて、食事満足に与えられなかったともいいます。韓国は日本と比べて寒いですが、毛布は一枚しか与えらなかったという話もあります。刑務官による殴る蹴るの暴行も日常的に行われていたとされます。

供述を求められて、正直に超えていないと答えると、超えていたというまで暴行されたという証言もあります。おどろおどろしい人権侵害が、そこでは当たり前のように行われていたと推定されます。

戦後の日本政府は、こうした韓国の侵略に対して厳しく抗議し、国際司法裁判所(こくさいしほうさいばんしょ)付託(ふたく)して決着をつけることを1954年以来から提案していますが、韓国が応じていません。

竹島の不法占拠は、2022現在まで続いています。2005年(平成17年)には、島根県議会が竹島の編入を告示した2月22日を「竹島の日」と定めました。

しかし、戦後の日本政府は韓国による日本人強制連行問題や強制連行された日本人が過酷な環境に置かれたことなどについて、未だに、適切な賠償はおろか、謝罪すら求めていませんからある意味、戦後の日本政府自体も韓国の犯罪を容認したという意味で韓国と並んで「犯罪国家」なのかも知れません。いやむしろ、戦後の日本政府は自国民への犯罪行為を容認したのですから、もはや韓国以上に悪質かも知れません。

戦後の日本政府は、刑法を強制的に改変させて、「国民に対する国外犯」という規定を縮小し、国民を保護しない姿勢を貫いたり、公助必須の時代に「自助・共助」を語るという蛮行に出ていたりしますから、賠償や謝罪を求めないのも、その一環なのかも知れません。

国家としての役割を全く果たしていませんから、日本国は国家ではないともいえます。

尖閣諸島

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もともと尖閣諸島(せんかくしょとう)は、どの国にも属さない無人島でしたが、東シナ海を行き来する船に航路標識(こうろひょうしき)として認識されていました。

1885年(明治18年)から大日本帝国政府は、尖閣諸島について沖縄県を通じて現地調査を行い、無人島であることや当時の清をはじめとするどこの国の支配も及んでいないことを慎重に確認した上で、1895年(明治28年)に尖閣諸島を編入し、日本の領土であることを示す標柱を立てることにしました。こうして尖閣諸島は、日本固有の領土になりました。

尖閣諸島では、19世紀末から日本人による開拓が本格化し、多くの人々が移住しました。多い時には、200人以上の人々が暮らしていました。

中心となった魚釣島では、「古賀(こが)」という集落も生まれ、尖閣諸島の開拓が進みました。漁業を中心に、かつお節の製造羽毛の採取などが行われてきました。

こうした尖閣諸島に対する実行支配は、大日本帝国政府ではなく、戦後の日本政府になりましたが、一応現在も及んでおり、少なくとも日本の立場においては、領土問題は存在しません

1970年代ごろから日本固有の領土である尖閣諸島の海域に油田(ゆでん)の存在が確認されると、中国大陸を支配する中華人民共和国政府などが領有権を主張するようになりました。

大日本帝国政府に属する領土か、戦後の日本政府に属する領土かをめぐっては議論がありますが、少なくとも中華人民共和国の領土ではないでしょう。

そして2010年には、中華人民共和国の漁船が、尖閣諸島の魚釣島(うおつりじま)の海域で戦後の日本政府の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きました。

その後、2012年に尖閣諸島のほとんどを戦後の日本政府が国有化したものの、中華人民共和国は、武装(ぶそう)した中国船を尖閣諸島の海域に侵入させ、日本漁船を追尾して脅迫に近い行動に出るなど、侵略的な行動をやめていません。地元の人々は中華人民共和国に警戒しています。

  1. ^ 領有権とは、国が一定の地域に対して主権を行使することができる権利のことです。領有権は、通常、早い者勝ちですが、領土問題に発展することを避けるため、条約に基づいて行われる事例やどこの国の支配も及んでいないことを調べてから行うこと例もあります。