中学校社会 歴史/明治時代の社会と文化

明治期の産業と経済

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産業の変化

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八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)。日清戦争で清から獲得した賠償金をもとに建てられた。

日本での産業革命は、明治時代に起きた。 明治の始めごろ~中ごろは、繊維産業を中心に、軽工業から、工業が成長していった。明治の後半は、重工業の発展が日本でも起きた。

繊維工業は、欧米向けの生糸などの輸出であった。日本の安い賃金で、欧米向けに安い価格の生糸などを輸出していた。 明治の始めごろは、工場設備などの機械や、軍艦・大砲などの兵器は、日本では国産化できず、欧米から輸入していた。

生糸などを輸出して獲得した外貨をもとに、機械類や兵器などを欧米から購入していた。

  • 官営工場と払い下げ

明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。 なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。

この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などの大会社であった。これらの大会社は、経済で支配的な地位をもつ財閥(ざいばつ)になった。

  • 繊維工業

イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)をもとに、生糸を生産し、おもにアメリカむけに輸出していた。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機だった。日本でも、紡績機を改良していった。

日清戦争後は、清や韓国にも、日本産の綿糸が輸出された。

原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けた。

このように生糸(きいと)や綿(めん)製品は、日本の主要な輸出品になっていった。そして繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。また、農村では、生糸の生産のため、養蚕(ようさん)が、さかんになった。

日露戦争後には、日本が世界一の生糸輸出国になった。

  • 重工業

日清戦争で得た賠償金をもとに八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)が1901年に建設された。この八幡製鉄所が、日本での重工業の発展の、きっかけになった。

  • 交通の発達

鉄道の建設がすすみ、1889年(明治22年)には東海道線が開通した。1906年に軍事上の理由により、主要な民間の鉄道が国有化された。


農村など

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農民には、不景気などで土地を手放してしまい、地主などの下で農作業を働かされる小作人(こさくにん)が増えた。

理由はいくつかあるが、よくある説は・・・

1:税が地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民が借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
2:1880年代ごろ、農作物の値段が急落して、土地を手放さざるをえない農民が増えた。
3:朝鮮や清国との貿易で、安い農産物が日本に入ってきて、日本の農家は競争にさらされ経営が苦しくなった。

など。

いっぽうで、手放された土地を、地主(じぬし)などが買いしめていった。

農村で収入が少ない農民は、都市に出稼ぎにいったりした。 貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。

女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。

日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。

1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。

労働運動や解放思想

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平塚らいてう(らいちょう)

日本の労働者の賃金は安く、重労働で過酷だった。このため、労働運動が盛り上がっていた。労働組合も、明治の半ばごろから作られ始めた。

しかし、政府は、労働運動が革命運動などにつながると考え、労働運動を取り締まる方針であった。

1900年には、治安警察法(ちあん けいさつほう)が制定され、社会運動が取締りを受けた。 いっぽうでは、工場法が制定され、労働条件の改善も はかられた。

1901年には社会民主党が、片山潜(かたやません)などにより、結成されたが、取締りを受け、解散させられた。

1910年(明治43年)には、天皇(明治天皇)の暗殺計画のうたがいにより、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら12名が死刑にされた。これを大逆事件(たいぎゃく じけん)という。その後、政府による取り締まりや弾圧が強まったので、社会主義運動は日本では衰え、これを(社会主義運動が冬のようなので)「冬の時代」という。


平塚らいてう(らいちょう)が青鞜社(せいとうしゃ)を作り、女性解放を唱えた。

 青鞜社の宣言(抜粋)

元始(げんし)、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に寄って生き、他の光によって輝く病人のような(あお)白い顔の月である。

足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件

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1895年頃の足尾鉱山

栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。 ここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。

ほかにも、工場の排煙から排出される亜硫酸ガスによって、周辺の山の木や草は枯れていき、はげ山(はげやま)になった。はげ山 になると、洪水がおきやすくなるので、鉱毒でよごれた川の水が広がっていき、ますます被害は拡大した。 作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。

 
田中 正造(たなか しょうぞう)

衆議院議員の田中 正造(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえた。だが、政府は対策をとられなかった。

田中正造は、世論にうったえるため、天皇に直訴しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴しにいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられた。

だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。

鉱石は、ほりだしたままでは、さまざまな不純物をふくんでいるので、使えないのである。なので、不純物をとりのぞくため、さまざまな薬品の液体を鉱石にくわえていく。 このため、排水が出てくる。 この排水の安全化の処理が不十分なままであった。

なお、1892年の古在 由直(こざい よしなお)らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸である。

なお、昭和時代や平成時代の調査では、周辺からカドミウムや鉛(なまり)などの毒性の高い物質も、検出(けんしゅつ)されているので、これらの物質も鉱毒にふくまれていた可能性がある。

公衆衛生

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幕末のころから、コレラなどの伝染病が日本に入ってきた。

明治時代には、伝染病の防止のため、上下水道の整備や、消毒などの公衆衛生が発達した。

明治の学問や文化の変化

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理科などの自然科学

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  • 医学
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)・・・ ペスト菌(きん)の発見。破傷風(はしょうふう)の血清(けっせい)療法(りょうほう)の発見。
志賀 潔(しが きよし) ・・・ 赤痢菌(せきり きん)の発見。
秦 佐八郎(はた さはちろう) ・・・ 梅毒(ばいどく)の治療薬であるサルバルサンの発見。
野口 英世(のぐち ひでよ) ・・・ 蛇毒(じゃどく)の研究、アフリカでの医療活動および感染病の感染経路の研究。しかし、黄熱病(おうねつびょう)の治療法研究では、成果なし。研究中に本人が黄熱病にかかり死去。
  • 生理学
高峰 譲吉(たかみね じょうきち) ・・・ アドレナリンの発見。
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう) ・・・ ビタミンB1(ビーワン)の発見。


  • 化学
櫻井 錠二(さくらい じょうじ) ・・・ 理論化学の研究および教育。(当時の日本の理科教育では、理論の教育が軽視されていた。) 原子論(げんしろん)の主張と、それにもとづく種々の研究。水溶液(すいようえき)の沸点上昇(ふってんじょうしょう)に関する研究など。
下瀬 雅充(しもせ まさちか) ・・・ 火薬の開発し、下瀬火薬(しもせかやく)を発明。


  • 地球科学
大森 房吉(おおもり ふさきち) ・・・ 地震計の開発。
木村 栄(きむら ひさし) ・・・ 緯度と重力との関係に関する計算式の研究。
  • 物理学
田中館 愛橘(たなかだて あいきつ) ・・・ 全国の地磁気の測定。気球や航空機の研究。メートル法の日本への普及(ふきゅう)に貢献(こうけん)した。
長岡 半太郎(ながおか はんたろう) ・・・ 物理学での原子構造(げんし こうぞう)の研究。
  • 植物学
牧野 富太郎(まきの とみたろう) ・・・ 日本植物に、日本で学名を初めて与える。

文学や芸術

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江戸時代の小説は、正義が悪をこらしめるという、儒教的な発想にもとづいた、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の小説が多かった。

しかし、明治になり、欧米の文学や思想が紹介されたりしたことから、このような勧善懲悪な筋書きをうたがう作家が出始め、新しい傾向がでてきた。

文芸では、つぎのような作家が出てきて、つぎのような変化をおこした。

・坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)

 
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)
江戸時代の勧善懲悪(かんぜんちょうあく・・・意味:「正義が悪を、こらしめる」という意味・)的な物語を否定し、より現実的な心情を描いた物語で小説を書いた。芸術などでの、このような現実的な心情などの表現を目指す方針を写実主義(しゃじつ しゅぎ)という。このため、坪内は写実主義の作家と言われている。
当時の学生や書生など若者の生活や文化を、面白おかしく描いた作品『当世書生気質』 (とうせい しょせいかたぎ)が有名。
彼の作品は、のちの作家に大きな影響を与えたようだ。

・二葉亭 四迷(ふたばてい しめい)

 
二葉亭 四迷(ふたばてい しめい)
小説を、漢文調ではなく、口語の調子で書く、言文一致体(げんぶん いっちたい)で小説を書いた。『浮雲』(うきぐも)という作品を書いた。

それ以前は、小説は漢文調だったのだ。

坪内逍遥の小説も、漢文調である。

小説で写実主義が強調されると、それの影響を受け、ほかの分野にも写実主義を導入しようとする者も、出てくる。

・正岡 子規(まさおか しき) 

 
正岡 子規(まさおか しき)
俳句の革新をした。視覚的・映像的に想像しやすい情景的な句を多く作り、写実主義を俳句に導入した。

「柿(かき)くへば 鐘(かね)が鳴る(なる)なり 法隆寺(ほうりゅうじ)」などの視覚的・映像的な情景的な句を、多く、のこす。

弟子は高浜虚子(たかはま きょし)や河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)など。

正岡の努力もあり、俳句の地位は高まり、小説家など、ほかの分野の作家も俳句を作り始めた。夏目漱石や坪内逍遥なども俳句を作っている。

正岡は、祖父に江戸時代の高名な儒学者の大原観山(おおはら かんざん)を持つ。正岡の作風は、漢詩の影響を受けていたのだろう。

・夏目漱石(なつめ そうせき)

 
夏目漱石(なつめ そうせき)。漱石と子規は親友どうし。
夏目 漱石は、作家として有名だが、もともとは教員の仕事についていて、主に英語を教えていた。なので、彼の作品も、教員としての経験や英文学の知識をもとにした手法の作品が多い。漱石の作品としては、『吾輩は猫である』(わがはいは ねこで ある)、『坊っちゃん』(ぼっちゃん)などの作品が有名。

『坊っちゃん』の主人公は、東京の物理学校(現代の東京理科大学の前身)を卒業したばかりの新任教師である。漱石の英語の教員の体験をもとに書いている。

・与謝野 晶子(よさの あきこ)や樋口 一葉(ひぐち いちよう)など、女の作家も、この明治時代に出てきた。 与謝野 晶子の代表作は、『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』など。 樋口 一葉の代表作は、『たけくらべ』、『にごりえ』など。

  • 美術・音楽
 
横山大観、「無我」(むが)

美術や音楽などの分野では、つぎのような変化があった。

・美術
西洋画では、黒田 清輝(くろだ せいき)が活躍した。

日本画は、一時、おとろえたが、フェノロサ や 岡倉天心(おかくら てんしん)が、復興させた。

また、横山大観(よこやま たいかん)が活躍した。西洋式の手法を取り入れた、新しい日本画が流行った。

彫刻では、高村光雲(たかむら こううん)が活躍した。

・音楽

 
滝 廉太郎

小学校の唱歌(しょうか)や、軍隊での軍歌などとして、洋楽(ようがく)が広まっていった。 音楽では、滝 廉太郎(たき れんたろう)が『荒城の月』などの曲を作曲した。