中学校社会 歴史/江戸時代の文化と学問
江戸時代の学問
編集教育
編集百姓や町民などの庶民は、「読み」(日本語の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを寺子屋(てらこや)で学んだ。
当時の外国では読み書きの出来る庶民は少なく、世界各国の中でも日本は文字を読める人が多い国であった。
伝統的な学問
編集- 儒学(じゅがく)
徳川家康(とくがわいえやす)をはじめとして幕府は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)などの道徳的な学問が必要だと考え武士に儒学を学ばせた。
儒学では、平和に必要なのは忠義の大切さや子の親への忠孝の大切さなど、上下関係にもとづく忠孝や礼儀が社会の平和に必要だと考えられていた。
このように上下関係にもとづき平和を求めるという儒学の内容が幕府の身分差別の制度にも都合が良かったので、儒学が武士に学ぶべきとされる学問になった。
儒学の中でも、朱子学(しゅしがく)と言われる学問は、とくに上下関係による礼節を重んじていたので幕府は朱子学こそ儒学の中でも学ぶべき学問と定めていき、朱子学が武士の学ぶべき学問とされた。
5代将軍の綱吉のころ、幕府は武士に儒学を学ばせる学校を江戸に開き、 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ) を開いた。ほかの藩も武士の教育のため、藩校(はんこう)を開いた。
- 儒学以外の学問
いっぽう、ヨーロッパの政治や道徳や宗教などに関する学問は日本の社会をまどわし日本を混乱におとしいれる危険な学問であるだろう、ということが江戸幕府に考えられており、西洋の政治に関する学問の多くは禁止をされ、西洋道徳を学ぶことも禁止された。
日本の古典や歴史を学ぶことは幕府は認めていたので、たとえば万葉集(まんようしゅう)などの古典や、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)などの歴史を学んだり研究する者もあらわれた。
蘭学(らんがく)
編集ヨーロッパの医学や農学、科学技術など、キリスト教や政治道徳に関係の無い学問を学ぶことは江戸時代のなかばの18世紀はじめごろ、8代将軍・徳川吉宗の改革などにより、西洋の科学技術などの研究が認められていった。 当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを蘭学(らんがく)と言った。 *蘭(らん)とはオランダのこと
- 医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)
18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、医者の杉田玄白(すぎたげんぱく)と医者の前野良沢(まえのりょうたく)の二人がかりである。 杉田と前野の協力により、オランダ語で書かれた医学書の『ターヘル・アナトミア』(オランダ語:Ontleedkundige tafelen「オントレートクンディヘ・ターフェレン」)が日本語に訳され、翻訳版(ほんやくばん)が『解体新書』(かいたいしんしょ)として出されたのである。
これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書になった。
翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書が無くたいへんな時間がかかった。わずか一行ほどの文章を翻訳するのにも数日かかることもあり、翻訳本の出来上がるまでには4年ほどの年月がかかった。
まだオランダ語に対応する日本語が無い言葉もあって、「神経」(しんけい)・「軟骨」(なんこつ)・「動脈」(どうみゃく)・「盲腸」(もうちょう)・「十二指腸」(じゅうにしちょう)などの言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉である。
ついでに杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本を記した。
ちなみにオランダの医学書のターヘル・アナトミアそのものが、実はドイツの医学書の翻訳本である。
19世紀には、オランダ商館の医師として長崎に来日したシーボルトが、鳴滝塾(なるたきじゅく)をひらき医学をおしえるかたわら、いろいろな蘭学を教え、多くの弟子を育てた。
シーボルトは帰国のときに、国外持ち出しの禁じられていた地図を持ち出そうとしたため追放された。
いっぽう江戸では、18世紀のなかごろ、植物や絵画や蘭学など色々なことに詳しい平賀源内(ひらがげんない)が発電機(はつでんき)のエレキテルを作った。エレキテルでの発電の仕組みは、摩擦(まさつ)によって発電する仕組みである。平賀源内はほかにも、寒暖計(かんだんけい)を日本で初めて作っている。
その他の科学技術
編集- 測量(そくりょう)
伊能忠敬(いのう ただたか)は、日本全国の地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかい よちぜんず)を作った。
国学
編集江戸時代のなかばごろから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれた。このような学問を 国学(こくがく) という。
賀茂真淵(かものまぶち)の弟子の本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の研究を行い、本居宣長(もとおり のりなが)は『古事記伝』(こじきでん)を記し、国学を高めた。 宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。
国学のそもそものきっかけは、もっと前の時代にさかのぼる。 4代将軍の徳川家綱(いえつな)の時代の1650年代のころに水戸藩の藩主であった徳川光圀(とくがわ みつくに)は、日本史の研究を人々に勧め(すすめ)させた。その歴史研究にともなって、万葉集などの古典も研究された。
光圀の命令により、僧の契沖(けいちゅう)が万葉集を研究し、次のようなことに気づいていった。
学者たちの古典研究の結果、学者たちから儒教や仏教の考えにとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、のちに国学(こくがく) へと発展していく。
つまり、国学の発展にともない、儒学にもとづいた古典研究への疑い(うたがい)が増えてきた。
「 『万葉集』や『古事記』などの日本の古典の内容を研究するときに、外国の国の文化である儒教や仏教だけの道徳にもとづいて研究するのはおかしくないか? 」
「そもそも儒学は中国という外国の学問じゃないか? 仏教だって、中国から伝わったインドの宗教だ。日本古来の宗教ではない。」
「中国の古典を研究するときに、中国の儒教の立場から考えてみるのならまだ分かる。」
「しかし、なぜ日本の研究で、しかも平民にまだ儒教や仏教が伝わってない時代の『万葉集』や『古事記』の研究で、儒教や仏教の考えにもとづいてばかりの研究しか儒学者は研究しないのか? おかしくないか?」
「日本古来の伝統とは、儒学にもとづいてではなく、その古代の道徳を解き明かして研究するべきだろう? 日本の古典文化を研究するときは、儒教にとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をするべきだろうと思う。」
以上のような考えが、国学の考え方である。
徳川光圀(とくがわ みつくに)から万葉集の研究を命じられた契沖(けいちゅう)は万葉集を研究し、『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)を記して1690年に出来あがった。研究を命じた光圀は、のちに日本史の歴史書の『大日本史』(だいにほんし)を記した。
もっとも、国学のきっかけである徳川光圀は儒学も信望していた。また、『万葉代匠記』を表した契沖も、仏教の僧侶である。
この契沖の研究をさらに発展させたのが、後の時代(吉宗のころ)の荷田春満(かだの あずままろ)であり、さらに荷田春満の弟子の賀茂真淵(かものまぶち)が研究を受け継いだ。
さらに、のちの時代(10代将軍家治(いえはる)のころ)に、本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の解読(かいどく)と研究を行い、以上に述べたように国学をより発展させた。本居宣長は賀茂真淵(かものまぶち)の弟子である。
- 発展: 儒教の古学(こがく)と、寛政異学の禁(かんせい いがく の きん)
- (※ 中学の範囲外?)
じつは儒教の研究者のほうも、国学より少し前のころ、日本国内で日本人の儒学者から改革者が出てきて、彼ら改革者が言うには、
- 「孔子の真意を知るには、現代(当時)の朱子学ではなく、『論語』などの古代中国の文献(ぶんけん)を直接研究するべきではないか? 」
- 「朱子学の内容は、論語の内容とは違うのではないのか?」
- 「朱子学なんて、『論語』のいくつもある解釈のうちの、たったひとつではないか?」
- 「単なる解釈のひとつにすぎない朱子学ではなく、直接『論語』などの古代の文献を研究しないとおかしい」
などの主張があった。
そこで、だったら『論語』を直接研究しよう、という運動が起こった。これを古学(こがく)という。
この「古学」は儒教の研究だが、『論語』など古代中国の古典の原典にあたろうとする、伊藤仁斎(いとう じんさい)などの客観的な研究により、すぐれた研究成果をあげ、のちの「国学」にも影響を与えた。
しかし幕府は、古学が体制の学問である朱子学を批判しているので、寛政2年(1790年)に寛政異学の禁(かんせい いがく の きん)で、朱子学以外の儒学を規制し、陽明学(ようめいがく)などの規制とともに古学も規制して、陽明学や古学を公式な場所で授業することなどを禁止した。
江戸時代の文化
編集江戸時代の初期
編集(※ 範囲外?:) 火薬は、戦国時代には鉄砲の弾薬として利用されていた。しかし、江戸時代に入ってから火薬の技術は、花火(はなび)などの娯楽に活用された。(※ 帝国書院の検定教科書で紹介されている。)
元禄文化
編集江戸時代の文化は、まず、17世紀末ごろから18世紀はじめごろにかけて、大阪や京都を中心に、新しい文化(「元禄文化」(げんろくぶんか)という)が生まれ、発展した。江戸の半ば頃から文化の中心が江戸に移っていった。元禄とは、この時代の元号が元禄(げんろく)だからだ。元禄文化は、町人を中心とした、生き生きとした活気のある文化である。
化政文化
編集江戸時代の後半になると、文化は江戸の町人が中心になった。これを、 化政文化(かせいぶんか) という。
その他
編集- 食事など
正月 と 雑煮(ぞうに)や、節分、ひな祭り と ひな人形、端午の節句 と こいのぼり、などの年中行事が庶民にも広まったのは、江戸時代のころです。それ以前は、武家など一部の人の行事でした。(なお、年中行事(ねんじゅうぎょうじ)とは、毎年 特定の日に行う行事のことです。)
なお、江戸時代の暦(こよみ)は旧暦であり、中国の暦を手本にしており、現在とは違う暦(こよみ)なので、約1か月ほどのズレがあります。
また、歌舞伎などの芝居で提供されていた幕の内弁当(まくのうち べんとう)が好評で、しだいに芝居以外の場所でも弁当として普及した。(※ 日本文教出版が傍注で紹介。)
- 宗教など
新興宗教が登場し、天理教(てんりきょう)や黒住教(くろずみきょう)や金光教(こんこうきょう)などの新興宗教が登場した。
- 科学技術・産業技術など
菜種油を使った照明が庶民のあいだにも普及し、比較的に多くの人々が夜にも働いたり遊んだりどをできるようになった。(※ 帝国書院の教科書デジタルパンフレットに記載あり)