中学校社会 歴史/満州事変
満州事変
編集中華民国の状況
編集中華民国では、孫文の亡くなったあと、
蒋介石の率いる国民政府軍が共産党をおさえて各地の軍閥を倒して統一を進めていた、1927年、国民政府軍が南京で外国の領事館などを襲撃すると、イギリスとアメリカは武力で報復したが、協調外交を進める日本は参加しなかった。これにより、政府の外交政策は軟弱であると批判されることになる。
1928年には国民党軍は北京にせまった。このとき、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は殺害され、満州占領のきっかけとなる(張作霖爆殺事件)。
満州事変
編集満州現地に駐留していた関東軍は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。
関東軍は、満州を占領する口実をつくるため、
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。
満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。
このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを「
このとき日本政府は、中国とは戦争をしない方針だった。しかし、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった
この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を
当時の中華民国は満州国の建国をみとめず、日本と対立した。
- ※ 満州事変の意図を、「不況解決策として植民地拡大のために満州事変が行われた。」と見なす解釈について。
- 日本軍の満州事変の意図の別の解釈として、世界恐慌にともなう日本の経済危機の解決策として、「日本の軍部が大陸への経済ブロックを確立しようと、中国への権益の支配および拡大を目指して、満州事変を起こした。」というような観点での解釈もある。たとえば高校教科書の「詳説 世界史B」(山川出版社、2012年検定版)では、だいたい、そのような感じの解釈が取られている。
- 現在でも、この山川出版のような、不況解決策として日本軍が満州事変を起こしたと解釈を取る学者や評論家も多い。このような「満州事変は、日本の不況解決策」という解釈も通説・定説の一つであり、読者の中学生は頭の片隅に入れておく必要があるだろう。
五・一五事件
編集
1932年、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の
犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強く、犯人の軍人への刑罰を軽くした。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件がふえていくことになる。
次の首相は
その後も軍人や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わったと言われる。
リットン調査団と日本の国際連盟脱退
編集中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになり、イギリス人のリットンを委員長とする調査団(リットン調査団、英:Lytton Commission) が満州におくられた。
調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。
- 調査の結果、満州族の住民による自発的な独立運動ではない。
- よって、満州の独立はみとめられない。
- 日本は、事変以後の占領地からは、兵を引きあげるべきである。(リットン調査団らは、満州事変における日本の軍事行動を、決して自衛行動とは認めていないことを意味する)
- しかし、日本の鉄道権益などの事変前からの権益は正当なものであり、保護されるべきである。
- 日中の両国とも、国際連盟の加盟国であり、したがって両国の権利は公平に尊重されるべきである。
リットン報告書(英:Lytton Report)は満州国建国は否定したものの(なので満州地域の名目上の主権者は中国[3])、日本の権益も認めたものであった。しかし、日本の世論および政府は報告書の提案に反発した。
日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。
しかし、この間にも満州では陸軍が占領地を拡大していったこと(熱河作戦)から、日本は国際的な信用を失った。ついに日本は1933年3月に国際連盟から脱退した。
- ※ 「熱河作戦」の名称は中学の範囲外なので覚えなくていい(おそらく高校でも範囲外)。
なお、ドイツも翌1934年に国際連盟を脱退する。このように主要国である日本とドイツが脱退してしまったので、国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまう。
さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって工業化が進んだ。満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では、国策による満洲関連の投資や軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興の
しかし農村では、ひきつづき不景気が続いていた。また、満州を開拓する人々を満蒙開拓団として募集したので、日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。日本政府は満州を「
二・二六事件
編集1936年、陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などの政府の主要機関や大臣らを襲った。首相の岡田啓介は一命をとりとめたものの、前首相の斉藤実と蔵相の
反乱軍は、日本の不況や国難の原因を政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の政治を行うことをめざした。
結局、この反乱は4日で鎮圧され、首謀者たちは処刑された。
しかし、不況を解決できない政党政治への不信や国際協調路線に対する不満などから国民や新聞の多くは、青年将校たちの反乱を賞賛した。このため、以降の政治では、軍部の発言力が強まっていく。
一部の政党政治家も、政争を自分たちの党に有利に進めるために、国民による軍部の支持を利用して、軍部に理解をしめしたので、議会が軍部につけこまれる原因をつくってしまった。また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。
そして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。
大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。
ワシントン体制の崩壊
編集日本は、ワシントン軍縮条約・ロンドン軍縮条約を、アメリカやイギリスと結んでいたが、1936年に軍縮条約が期限をむかえるのに合わせ、軍縮条約を破棄し、日本は軍備を増強していく。
こうして、第一次大戦後の国際体制の「ワシントン体制」は崩壊していった。
当時の日本経済
編集1930年代の当時の日本経済は、世界恐慌の影響で世界的な不況下だったが、ドルに比べて円安だった時期があって、綿製品や雑貨などが一時的に輸出がふえた。しかし、その後、欧米諸国が日本製品の関税を引き上げた。
いっぽう、日本では政府が軍需産業に投資を行ったので、重化学工業が発達した。
脚注
編集- ^ 傀儡とは、操り人形のこと。転じてある国に言いなりの政権や国家のことを指す。
- ^ 宣戦布告のない武力衝突のことを「事変」という。
- ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P170
- ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P170
- ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P170
- ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P170
- ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P170
- ^ このとき反乱軍の中心になったのが、天皇による直接政治(親政)を求める皇道派とよばれるグループである。