中学校社会 歴史/第一次世界大戦
第一次世界大戦
編集1914年から起きた第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営とが戦争をしていました。
ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は三国同盟(さんごくどうめい、Triple Alliance )を結び、同盟国(どうめいこく)と言われます。対してロシア・フランス・イギリスは三国協商(さんごくきょうしょう、Triple Entente)を結び、連合国(れんごうこく)と言われています。つまり同盟国と連合国(三国同盟と三国協商)が、争った戦争ということです。(ただし、イタリアはオーストリアとの領土問題があったため、連合国側で参戦しました。)
戦争は長期化した。また、毒ガス(どくガス)が新兵器として登場し、被害が大きくなった。潜水艦(せんすいかん)も、新兵器として、つかわれた。
なお、戦車(せんしゃ)や飛行機、飛行船も新兵器として使われたが、この時代の戦車や飛行機は、まだ性能がひくかった。
この第一次世界大戦からヨーロッパでは戦争のしかたが大きく変わり、それまでの男の兵士だけが戦争に従事する方式から、民間人や女子も工場動員などで戦争に協力させて、国力を出し切って戦う総力戦(Total War [1])になった。
(ただしヨーロッパ以外の日本やアメリカでは国土が戦場にならなかったこともあり、日本やアメリカでの総力戦への変換は、のちの第二次世界大戦のころになる。)
- (※ 範囲外: )「総力戦」はもともと20世紀の軍事用語で、たしかに国家の動員の能力や経済力・工業力なども必要だが、それだけでなく長期戦を戦うことも、世界大戦では特に必要になり、国家のさまざまな持久力も必要になった。第一次世界大戦じたい、長期化して、当初は「クリスマスまでには帰れるさ」などとヨーロッパ諸国の兵士たちの間で言われてたと伝えられるが、実際の第一次大戦は何年も続いた。
日本では、国土が大した被害にあわなかったことから、日本の民衆や評論家などの多くは、戦争のしかたが総力戦に変わったことに気づかず、のちに、欧米の戦力をあなどることになる。
このころの日本は、大正時代であった。明治天皇は、すでに亡くなっており、大正天皇が日本の天皇だった。
日本も第一次世界大戦に参戦し、日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことを理由として、日本はイギリス側である連合国(れんごうこく)の側に立って参戦した。
ドイツの基地が、中国大陸の青島(チンタオ)にあったので、日本は、青島のドイツ基地を占領した。
また、大戦中の1915年(大正4年)に中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。
なぜ第一次世界大戦が起きたのか
編集ヨーロッパ南東部の、ルーマニアやギリシャなどのあるバルカン半島(Balkan)の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立をしていた。
第一次大戦の前からバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」(Powder keg of Europe)と言われていた。バルカン半島にはルーマニアやブルガリアやセルビアやアルバニアやギリシアなどの多くの国がある。また、歴史的背景から宗教や民族も複雑にからみあっていた。
サラエボ事件
編集1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻が、ボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、暗殺される事件が起きた。この暗殺事件を サラエボ事件 という。この事件の犯人がスラブ系セルビア人の青年であった。
この事件に対する報復で、同年1914年にオーストリアがセルビアに宣戦布告したのが、のちの第一次世界大戦のきっかけであった。そしてオーストリアの同盟国のドイツがオーストリアを支持した。いっぽう、セルビアには同じスラブ系民族であるロシアが支持した。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持した。
オーストリアの支持の側であるドイツは、セルビアを支持しているロシア・フランス・イギリスに対して宣戦布告した。
背景(高校世界史を含む発展的内容)
編集13世紀以降、バルカン半島はオスマン帝国(オスマン・トルコ)の支配下に置かれていた。しかし、オスマン帝国がおとろえていくとバルカン半島でもギリシャ人やスラブ系民族による独立運動が盛んになっていった。さらに、ヨーロッパ諸国が勢力拡大を目指してバルカン半島に介入していった。特に、南下政策を続けるロシアとパン=ゲルマン主義[2]をかかげるオーストリアとが厳しく対立した。
そうした中で、1908年にオスマン帝国で立憲政治の回復をめざす青年トルコ革命がおきる。この革命でオスマン帝国が混乱していることに乗じて、オーストリアは同じ年にボスニアとヘルツェゴビナをオーストリアに併合した。しかし、既にトルコから独立していたセルビアも、セルビア人を中心とするスラブ人の統一国家をつくろうとする大セルビア主義に基づいて、同じスラブ系民族の多いボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようとしていた。このため、このボスニア・ヘルツェゴビナをめぐってオーストリアとセルビアと対立していたのである。
大まかに言えば、青年トルコ革命 → オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合→ オーストリアとセルビアの対立 → サラエボ事件 という流れといえる。
ロシア革命
編集世界大戦のさなか、ロシアでは革命が1917年に起きる。ロシアでの、これらの革命をロシア革命 (英:Russian Revolution)という。
ロシアでは、日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政(あっせい)に反対する運動があったが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていた。
そして1917年3月に、労働者の抗議(こうぎ)などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調した。軍隊が、皇帝を裏切った以上、もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世(ロシア語: Николай II、英:Nicholas II)は退位するはめになった。(三月革命)
そして、退位後、ニコライ2世とその一族は革命政府により殺害された。こうしてロシアの帝政(ていせい)は終わり、ロマノフ王朝(ロマノフおうちょう、英表記:House of Romanov)は終わった。
帝政にかわる、革命運動による臨時の政府が出来て、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(英語表記:Soviet)と呼ばれた。日本語での呼び方では、短く略して「ソ連」「ソビエト連邦」などと呼ぶ場合もある。
こうしてロシア政府にかわり、ソビエト政府が、ロシアの領土を支配することになった。
1917年3月直後のころの臨時政府は、当初、第一次世界大戦の戦争継続の方針だった。だが、即時の停戦をかかげるレーニン( ロシア語:Ле́нин ,英:Lenin)が1917年11月に革命を起こして成功し(十一月革命)、こうしてロシアの革命運動ではレーニンの思想が、中心的な思想になった。
ソビエト政府も、第一次世界大戦を、ロシア・フランス・イギリスの三国協商のまま、イギリスやフランスと協力したが、革命によるソビエト国内の混乱もあり、ソビエトは戦争から引いていった。
ソビエトは各国に、無併合・無賠償・民族自決の即時講和を呼びかけた。
1918年に、ソビエトはドイツ側と講和して、ソビエトは連合国では無くなった。
ソビエトは、地主の土地を没収して、農民に使わせるために政府が管理するなど、社会主義的だと考えてた政策を行った。
ソビエトの政治の仕組みは社会主義(しゃかい しゅぎ)や共産主義(きょうさん しゅぎ)と言われる方式であり、当時としては新しい方式の政治の仕組みだった。
- ※ 東京書籍や清水書院や自由社や育鵬社の検定教科書がソビエトなどに対して「共産主義」という言葉を使っている。そのほかの教科書出版社は、おおむね、「社会主義」という用語を使っている。
- ※ 東京書籍以外の出版社でも、ワークシートなど副教材では、共産党の理念の説明として「共産主義」という言葉を用いている。(※ 証拠がコロナ自粛危の教科書会社による期間限定中の副教材の公表サイトのため、リンク先は非記載とする。)
- 共産主義(きょうさん しゅぎ、英: Communism) ・・・ 日本語で「共産主義」といった場合の意味は、工場などの生産手段を国などの公共機関が管理することで、地主や工場主などの資本家(しほんか)による労働者への不利なあつかいをふせごうとする経済に関する主義。生産手段を共有するので、「共産主義」という日本語訳なわけである。(※ 参考文献: 山川出版社、全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集』、2013年11月30日 第1版第6刷、297ページ) したがって工場主や社長などは、会社や設備を私有(しゆう)できなくなるので、共産主義は私有財産(しゆうざいさん)の否定の思想でもある。
- だが、ロシア革命などの歴史的な経緯から、社会主義と共産主義とが混同されることがある。社会主義と同様に、天皇制を打倒しようとする思想と混同された。
- 当時は革命思想と混同されたていたので、警察などから共産主義が強く取り締まられることになった。
日本の中学校教育では、社会主義と共産主義とは、区別しない事例が多い(ただし、いくつかの教科書では例外)[要出典]。実際、欧米でも、歴史的にも、似たような意味で「社会主義」と「共産主義」の語句が使われていた事もある。ややこしい事として、現代(21世紀)の中国共産党は、名前は共産党だが、しかし経済の政策では、中国政府は私企業を認めているので、中国共産党の政策は厳密な意味での「共産主義」とはいいがたい。
本書でも、とくに断りが無い限り、社会主義と共産主義を区別しないこととする。
ロシア革命後、ソビエト連邦が社会主義運動や共産主義運動の中心地になったので、ソビエトに従おうとする政治思想と共産主義・社会主義とが混同されることになった。
ソビエトの政府は、共産主義を目指していた。そのため、土地や産業を国有化した。
共産主義はロシア以外には広まらなかった。(のちに中国(ちゅうかじんみんきょうわこく)が共産主義になる時期は、第二次世界大戦のあとである。)
※(中学の範囲外: )なお、「共産主義」という言葉は、少なくとも日本ではすでに1920年代から存在しており、たとえばロシア革命よりも約10年後だが1925年4月に公布された治安維持法に関して、交付前の衆議院の法案成立をめぐる審議では,若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内務大臣が「俗(ぞく)の言葉で申し上げれば,この法律は無政府主義,共産主義を取りしまる法律であるといってもよろしいのであります」と述べている。(清水書院の高校「歴史総合」教科書より。)いくつかの中学歴史のような、「共産主義」という言葉を使わずに「社会主義」という言葉だけで説明するスタンスは、少なくとも日本史学的には、いろいろと苦しい。
シベリア出兵
編集連合国は、ロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。これらの出来事をシベリア出兵(シベリアしゅっぺい、英: Siberian Intervention)という。
レーニンの死後
編集1924年にレーニンが死んでからは、ソ連では、しだいにスターリン (ロシア語:Сталин、英: Stalin)が権力をにぎっていった。
スターリンは統制を強め、しだいにスターリンの独裁政治へとなっていった。そして、スターリンに反対する人物を次々と追放したり処刑したりしていった(大粛清)。
産業政策は、重工業を中心にした工業化を進めていった。1928年からは「五ヵ年計画」を実行し、重工業化と農業の集団化をおしすすめた。
アメリカの参戦
編集アメリカは、はじめは中立を保っていたが、ドイツが中立国の船を攻撃しはじめた事を理由に、1917年に、アメリカはイギリスの側として参戦する。アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になった。 連合国の側にアメリカと日本という、当時の強国が2つも加わったこともあり、戦争は連合国に有利に進んだ。
そして1918年、ドイツが負けを認めて降伏(こうふく)し、よってアメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、第一次世界大戦は終わった。ドイツとオーストリアは負けた。
イタリアは、戦争の途中で、連合国の側の支持へと変わった。
二十一か条の要求
編集第一次世界大戦中の1915年(大正4年)に、日本は中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。
戦後処理
編集ベルサイユ条約
編集フランスの首都のパリで講和会議(こうわかいぎ)であるパリ講和会議(英:Paris Peace Conference)が1919年に開かれ、ドイツとの間で戦後の処理のための条約として、ベルサイユ条約(フランス語:Traité de Versailles) が1919年に結ばれた。「ベルサイユ」とは、フランスにあるベルサイユ宮殿(きゅうでん)のことで、この場所で講和会議が行われたことによる。
条約の結果、ドイツは多くの賠償金を払うことになった。ドイツは、フランスとの領土問題のあったアルザス=ロレーヌ地方(英表記:Alsace-Lorraine)を失い、アルザス・ロレーヌはフランスに渡された。(アルザス=ロレーヌ地方は、炭鉱や石炭などの資源が豊富であり、そのためフランスとドイツとの間で、しばしば領土争いになる事の多い土地である。)
そしてドイツが世界各地に持っていた植民地は、放棄させられた。特に、大戦前にドイツが持っていた中国の山東省の権益や、ドイツ領だった南洋諸島の委任統治権などは、日本が受け継ぐことになった。
アメリカのウィルソン大統領は、民族自決(みんぞく じけつ、self-determination)の原則などの理想を掲げた。民族自決の原則などの要求をふくんだ「14か条の平和原則」をウィルソンは掲げた。しかし、英仏などの戦勝国が、自国の植民地の権益を主張したため、ドイツが植民地を失った以外には、たいした成果はなかった。
なお、「14か条の平和原則」の主な内容は、秘密外交の廃止、民族自決、軍備の縮小、国際機関の設立である。
パリ講和会議のさい、日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案した。人種差別撤廃に向けた世界初の試みだった。
当時は、欧米諸国を中心に人種差別が横行しており、日系移民排斥問題など日本人に対する人種差別問題の解決が急務であった。この提案は、人種差別を受けていた多くの人々を勇気付けるとともに、イギリスのアーサー・バルフォア外相は説得に訪れたハウスに対し、「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べるなど波紋を呼んだ。
そして、植民地保有国である欧米列強の反対により、賛成多数にも関わらず、全会一致でないとして却下された。アメリカでは、差別を受けていた黒人が日本の提案に期待していたが、賛成多数にも関わらず、全会一致でないという理由で却下した自国政府の決定に反発する声が上がった。
ちなみにウィルソン自身は人種差別の撤廃に賛同したようだが、アメリカ議会が反対したようである。
国際連盟の設立
編集アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした国際連盟(こくさい れんめい、英:League of Nations)の設立が決まった。そして1920年に、国際連盟が設立した。国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれた。
スイスは、永世中立国(えいせい ちゅうりつこく、英: permanently neutralized country)である。中立国とは、戦争の時に、どの外国にも協力しない、ということである。
(※ べつに、中立は、「戦争をしない」という意味ではないし、「軍隊を持たない」という意味でもない。スイスは軍隊を持っているし、もしスイスが攻め込まれたらスイス国民は自国を守るための戦争を行う。)
スイスは中立国なので、国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのである。
この国際連盟と、のちに作られる国際機関の国際連合(こくさい れんごう、英:United Nations、略称:UN ユー・エヌ )とは、べつの組織である。
国際連合が作られるのは第二次世界大戦のあとであり、第一次世界大戦のあとの時代には国際連合(UN)はまだない。
国際連盟を提案したアメリカは、国際連盟には加盟していない。アメリカ議会の反対により、アメリカは国際連盟には加盟していない。
日本人の新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)が、国際連盟の事務局の次長(じちょう)として選ばれた。「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職のことである。
今日(2014年に記述。)の一般の会社でも「次長」(じちょう)という役職があり、社長や部長などの次にえらい役職が次長である。
なお、国際連盟の常任理事国に、日本が入っている。
国際連盟は、ヨーロッパ人など白人の国家および列強国を中心とした国際機関であった。当時はアフリカやアジアの多くは列強の植民地であったので、今の国際連合とは違って、国際連盟ではアフリカなどの主権をうったえることが出来なかった。
第二次大戦後の国際連盟ですらも、国際連合の設立直後は、戦勝国とヨーロッパ諸国など白人の国を中心とした連合であり、当初はアフリカやアジアの多くは植民地のままであり、代表者を国際連合に送ることは出来なかった。
とはいっても、べつに国際連盟の当時の国際協調の方針は、なにも植民地支配の正当化を目的としたものではないだろう。国際連盟の設立者たちは、もっと単純に、世界平和や有効を願ったのだろう。しかし、当時の現状の前提となる列強の身勝手な植民地支配もあり、やがて国際連盟の加盟国から、たいして植民地を持たないドイツや日本国などが国際連盟に反発していき、列強が二つの陣営に分かれ(植民地を「持つ国」「持たざる国」)、そして国際連盟は機能をしなくなっていく運命にある。
かといって、当時の帝国主義時代の、植民地をあらそう時代の、欧米の人たちに、もはや植民地を独立させることは国防上からも無理であろう。もう国際連盟の理念と現実との矛盾は、いわば「時代の限界」とでも言うしか無いのだろう。
もちろん、たとえ「時代の現代」だろうが、列強が植民地支配という「悪」(民族自決の観点から見れば)を行ったことには変わりない。そして日本国すらも、欧米と同様にして朝鮮半島や中国へと植民地支配を広げていった「悪」の国となる。
この、植民地支配という悪行のために、やがて列強の各国は、「第二次世界大戦」という、とても手痛い犠牲を払うことになる。
ワシントン会議
編集各国が、おたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮(ぐんしゅく、英:Disarmament)のための会議が、1921年、1922年にアメリカのワシントンで開かれた。この会議を ワシントン会議(Washington Naval Conference) という。
このワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力を軍縮することが決まった。
イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦(しゅりょくかん、英:Capital ship)の保有トン数の比が、
- イギリス:アメリカ:日本:フランス:イタリア = 5 : 5 : 3 : 1.67 : 1.67
と、決まった。
主力艦以外の、補助艦については、まだ決まっていない。
また、日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約(よんかこくじょうやく)が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止(はいし)された。
交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返すことになったので、中国に山東省を返還した。
軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かった。だが、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満も多かった。
このようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制(ワシントンたいせい、Washington system [3]) と言う。
ロンドン会議
編集ワシントン会議では、補助艦の保有トン数の制限については、決まっていなかった。1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が決まった。
- イギリス:アメリカ:日本 = 10 : 10 : 7
の比率である。
ロンドンはイギリスの首都で、ロンドンでロンドン会議が開かれた。
- ※ 受験研究社の脚注にある話題。
第一次世界大戦中、青島(チンタオ)を占領したときのドイツ兵捕虜は、日本各地の収容所に送られた。
そこでドイツ兵らは、現地の日本人たちとの交流の機会も与えられ、当時のドイツ文化を日本に伝えたという。お菓子のバウムクーヘンや、ベートベンの『第九』は、この時に伝えられたという。
当時の日本の収容所でのドイツ兵のあつかいは、礼儀正しく人道的なものであったという。
- ※ ここまで受験研究社の説明。
当初、日本軍によるドイツ捕虜の扱い方は、捕虜を厚遇するのか、軽く扱うのか、意見が割れていた。次第に、国際法にもとづき人道的に扱うべきだとする意見が高まった。
実際に人道的に扱ってみて、時には現地の日本の住民と交流も許すなどしてみると、彼らドイツ兵捕虜が日本に西洋文化を伝えるのに役立つ事に、次第に日本のしかるべき行政当局も気づいていった。
第一次世界大戦の以前からも、ドイツをはじめヨーロッパの科学や法学などの学問は日本に輸入されていたが、しかしスポーツや食文化や芸術などの細かな海外文化の情報については本格的でない質のひくい情報も日本には多かった。都合の良い事に、第一次世界大戦で大量のドイツ人が日本に送られてきたので、日本への文化の輸入を兼ねてドイツ兵を待遇する方針が固まっていった。
日本側からすれば、留学生やお雇い外国人の費用を大幅に浮かせられ好都合。ドイツ兵士は、日本でヨーロッパ風の食事や芸術あふれる暮らしができるのでストレス発散にもなり好都合。両陣営に好都合。日本の学校教員などが収容所などに派遣され、専門知識をもったドイツ捕虜から技術指導を受ける事もあったという。
ドイツ人の食品技術者の中には、戦後もそのまま日本に残って店を開く者たちもいた。
民族独立への運動
編集第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」(みんぞく じけつ)の理念にもとづき(「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想)、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立した。
しかし、この民族自決の理念は、ヨーロッパの民族の自決にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、欧米の植民地のままであった。
東欧諸国の独立は、ドイツの封じ込めや、ソ連の封じ込めなどに都合がよい。
民主主義の成長
編集第一次世界大戦の戦中や戦後に、ヨーロッパやアメリカでは、労働者や女性も総力戦に貢献したことから、選挙権を労働者や女性にも拡大するべきと言う要求が強くなっていき、実際に多くの欧米の国で選挙権が拡大された。
女性の選挙権は、イギリスでは1918年には女性に選挙権が与えられた。アメリカでは1920年に男女の普通選挙が与えられた。
また、ドイツでは第一次世界大戦の終了のころに皇帝が退位して共和国となっており、ドイツでは1919年にワイマール憲法が制定され、満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、国民主権となり、労働者が労働組合を作る権利(団結権)が認められた。
また、すでに説明したが、ロシアではロシア革命により社会主義・共産主義が成長した。ロシア以外の国でも、社会主義を掲げる運動が活発になった。
アメリカの発展
編集戦中や戦後、ヨーロッパが戦場になって疲弊したこともあり、国際社会での中心的な国が、イギリスからアメリカに、しだいに移っていった。
アメリカの工業や商業も発展し、ラジオや自動車などが大量生産され普及した。映画やジャズ音楽なども普及した。
アジアでの独立運動
編集欧米の列強は、アジアの植民地の運動を認めなかった。しかし、ウィルソンの平和原則や、ロシア革命など、民族自決を重視する国際的な風潮に刺激され、インドや中国などのようなアジア各地の植民地では、独立運動がさかんになった。
日本も植民地として朝鮮半島を支配しており、また中国の満州などに権益を持っており、中国の一部植民地のように支配していたので、それら朝鮮半島や中国では、日本へ反発する運動がさかんになった。
朝鮮の独立運動
編集- 三・一独立運動(さん・いち どくりつうんどう、March 1st Movement)
朝鮮半島では、1919年3月1日に京城(けいじょう、今のソウル)で、民衆が、日本からの独立を求めて「独立万歳」(どくりつばんざい、独立マンセー)と言って行進する運動が起きた。これを三・一独立運動(さん・いち どくりつうんどう)と言う。
これをキッカケに朝鮮各地でも、日本からの独立を求める運動が起きた。
しかし朝鮮総督府は、これらの運動を取り締まり、武力で鎮圧した。 その一方で、総督府は強圧的な方針の一部をあらため、朝鮮人の権利の一部を拡大し、朝鮮での言論や出版や結社などを、部分的に認めた。
日本人の思想家である柳宗悦(やなぎ むねよし)は、三・一独立運動に関して、日本の朝鮮支配を批判した。「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。
- 柳宗悦「われわれ日本人が、今朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。おそらく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。わがことならぬゆえに、ただそれを暴動といってあなどるのである。反抗するかれらよりもいっそうおろかなのは、圧迫するわれわれである。」
中国の運動
編集- 五・四運動(ご・し うんどう、May Fourth Movement)
中国に権益を持っていた国は日本だけではなくヨーロッパ諸国も同様だが、しかし日本は「二十一か条の要求」で中国に高圧的な要求したばかりという理由もあり、中国での反・帝国主義の運動では、日本が主に敵視された。
1919年5月4日には、二十一か条の要求の取り消しを求めて、北京(ペキン)で学生による行進があった。これを五・四運動(ご・し うんどう)と言う。これをキッカケに、中国の各地でも、日本への抗議運動が起きた。 日本の商品などへのボイコットも起きた。 (「ボイコット」とは不買運動のこと。)
中華民国は独立国である。なので、「独立運動」とは言わない。たとえ列強に権益を持たれているといっても、いちおう中華民国は独立国である。
このような情勢のもと、孫文(そんぶん、スンウェン)は中国国民党(ちゅうごく こくみんとう)を結成した。
また、孫文とは別の勢力が、中国共産党(ちゅうごく きょうさんとう)を1921年に結成した。
なお、孫文は1925年に病死する。孫文の持っていた権力は、孫文の死後は、国民党の軍を掌握していた蒋介石(しょう かいせき、チャンチエシー)が権力をにぎることになる。
インドの独立運動
編集イギリスなど欧米は、インドなど植民地のアジア諸国に対しては、第一次世界大戦中には、戦後の自治の拡大を約束して、協力を呼びかけた。しかし、その約束は守られなかった。
インドではガンディー (Gandhi)などの主導により、自治やイギリスからの独立を求める運動が起きた。 ガンディーは「非暴力・不服従」( 非暴力 = Non Violence 不服従 = Civil disobedience)の方針を掲げて、独立運動を指導した。
だがしかしイギリスは、弾圧をつづけた。