課題

編集

モンゴル帝国はどのように勢力を広げていったのだろう。

モンゴル帝国はどのように日本に侵攻し、日本はどのように対処したのだろう。

なぜ鎌倉幕府は衰えたのだろう。

外国の情勢

編集

モンゴルの帝国、元(げん)

編集
 
モンゴル帝国の拡大のようす。モンゴルの領土が、とても大きくなっています。

13世紀、中国大陸と、中国をふくむユーラシア大陸の広い地域では、遊牧民(ゆうぼくみん)であるモンゴル民族がモンゴル帝国を築いていた。まずモンゴル民族じたいの統一はテムジンによって統一された。そしてテムジンは1206年にチンギス=ハンという称号を名乗ります。つまり、テムジンとチンギス=ハンは同一人物です。チンギス=ハンと、その一族は、西アジアや東ヨーロッパまで攻め込み、領土を拡大しました。

 
フビライ=ハン

チンギスの孫の フビライ=ハン もモンゴル帝国を支配しており、フビライは国号を(げん)に変えました。また、都を大都(だいと、現在の北京(ペキン) )に変えました。モンゴル帝国は戦争によって支配を中国にも広め、それまで中国南部を支配していた王朝であった南宋(なんそう)をほろぼしました。また、ベトナムにも、元は出兵しましたが、ベトナムは強く抵抗(ていこう)して戦いました。

元(げん)は、モンゴル人のつくった国であり、中国人や漢民族の作った国ではありません。チンギス=ハンもフビライ=ハンも、モンゴル人であり、漢民族ではありません。(現在でも、モンゴル地方には、モンゴル国という独立国があります。)

モンゴルとヨーロッパとの関わり

編集
モンゴル帝国は、一時期はヨーロッパの近くにまで領土を広げた。また、モンゴル帝国の拡大によってヨーロッパとユーラシア大陸の東アジア地方との貿易が活発になります。
ヨーロッパの貿易(ぼうえき)商人にとってみれば、モンゴル帝国の法律さえ守れば、アジアの広い地域との貿易が出来るようになったので、多くの商人がモンゴルとの貿易を始めました。
 
イタリア。みどり色の濃い、たてに細長い国がイタリア。
 
マルコ・ポーロ
ヨーロッパの南部の地中海の近くに イタリア という国があります。イタリア商人の マルコ・ポーロ(Marco Polo) は元(げん)をおとずれ、マルコ・ポーロは一時期、フビライに仕え(つかえ)ます。マルコはアジアに滞在中に得た伝聞により『世界の記述』(せかいのきじゅつ 、イタリア語原題:"La Description du Monde")を書きます。このマルコの本は、近現代の日本では『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)として知られています。その東方見聞録の中には日本に関する記述も出てきます。マルコは日本には来ていないので、伝聞をもとにして日本について書いています。 
おそらく日本と思われる国のことを「ジパング」(Cipangu)といい、そのジパング(つまり、日本?)は黄金の多い国だそうで、「黄金の国ジパング」として紹介しています。ジパングの宮殿は黄金づくしだそうです。 
実際には、日本は黄金づくしではありません。マルコのジパングに関する記述は、彼が聞いた伝聞なので事実ではありません。
なお、英語で日本のことを「ジャパン」(Japan)といいますが、その語源が「ジパング」です。
マルコが「ジパング」と記したのは、当時の中国語では日本国のことを「ジーベンゴオ」と言っていたことに由来すると言われています。

元寇(げんこう)

編集

フビライの率いる元(げん)は、朝鮮半島を統一していた高麗(こうらい、コリョ)も服属(ふくぞく)させました。 中国大陸には南宋(なんそう)がのこっているのでした。日本は平安時代に日宋貿易をしていたように、宋は日本との結びつきがある国です。

元は南宋を支配下におくため、宋と交流のあった国に次々と服属を求め、したがわなければ兵を送り、支配していきました。

日本にも、フビライからの服従の要求を伝える元(げん)からの使者が、たびたび来ます。執権の8代目の北条時宗(ほうじょう ときむね)は、元(げん)の要求を拒否しつづけます。

1274年(文永(ぶんえい)11年)、ついに元が日本に攻め込みます。元が約3万人の軍勢(ぐんぜい)で博多湾(はかたわん)に上陸し、元(げん) 対 日本の戦いになります。

最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。

それまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ち(いっきうち)が主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。

この1274年の元と日本の戦いを 文永の役(ぶんえい の えき) と いいます。

(※範囲外:)近年、インターネット上を中心に「鎌倉武士の奮戦が大きく関わっている」という意見が目立つ。検定教科書においては暴風雨に助けられた薄氷の勝利という記述が一般的であるが、てつはうの効果や集団戦に太刀打ち出来なかったという箇所には疑問符が付く。
 
文永の役において、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中を、モンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく御家人の 竹崎季長(たけさき すえなが) と、応戦・逃亡するモンゴル兵

画像の合戦の絵は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらい えことば)という絵巻物の一部の絵です。 蒙古(もうこ)とはモンゴルのことです。

この戦いのあと、幕府は次の元軍(げんぐん)の侵攻(しんこう)に備え、博多湾の沿岸(えんがん)に石塁(せきるい)を築かせます。

1281年(弘安(こうあん)4年)に、元(げん)の軍勢(ぐんぜい)は、再び日本に襲来(しゅうらい)してきます。今度の元(げん)軍は14万人もの大軍(たいぐん)です。 日本は、勝ちます。この1281年の戦いを 弘安の役(こうあんのえき) といいます。この弘安の役でも暴風雨により元軍は被害を受けました。

この2度の元軍の襲来をあわせて、元(げん) 対 日本の戦いのことを 元寇(げんこう) という。 つまり 文永の役 と 弘安の役 をあわせて 元寇(げんこう) と言う。

「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀(とくがわみつくに)の編纂した『大日本史』に出てくる。

(※ 参考。暗記は不要 )つまり、鎌倉時代の当時、「元寇」という言葉は無い。「元寇」は、江戸時代に作られた歴史用語。なお鎌倉時代のモンゴル襲来の当時は、「蒙古襲来」と言っていた。『蒙古襲来絵詞』(もうこ しゅうらい えことば)という言葉の通りである。21世紀の日本の小学校の歴史の授業などで「モンゴル襲来」等と言うのも、『蒙古襲来』の「蒙古」を現代語の「モンゴル」に直訳しただけである。


元は3度目は日本に襲来できなかった。フビライは企画したが中国大陸南部での反乱などがあり、日本への襲来は延期になり、さらにフビライの関心が中国大陸南部の平定やベトナムの遠征へと関心が変わり、そのうちフビライも死んだので、日本には3度目の襲来はなかった。


さて、このときの暴風雨は、のちに「神風」(かみかぜ)と言われるようになった。1276年(建治(けんじ)2年)の公文書である『官宣旨』(かんせんじ)の中に「神風」という字が出てくる。のちに、江戸時代の国学でも「神風」(かみかぜ)と言われ始めた。 「神風」という言葉は、後に昭和の戦争での「神風特攻隊」(かみかぜ とっこうたい)などの語源にもなった。

古くは日本書紀にも「神風」という語句は出てくるが、江戸以降で「神風」といったら、元寇のときの暴風雨のことである。


御家人は元寇で多くの費用を使ったが、幕府は 御恩(ごおん) としての褒美(ほうび)の土地を、じゅうぶんには用意できなかった。元寇は日本国内での防衛戦なので、新たに日本が獲得した領土は無いのである。

このため、御家人は幕府に不満を持つようになった。

 
『蒙古襲来絵詞』(もうこ しゅうらい えことば)より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)

さきほど紹介した竹崎季長(たけさき すえなが)も、恩賞(おんしょう)の少なさに不満をもった御家人(ごけにん)の一人で、そのため幕府に自分の功績(こうせき)をうったえでるために、彼の元寇での活躍を記した絵巻物(えまきもの)を手下のものにつくらせた結果、さきほどの蒙古襲来絵詞(もうこ しゅうらい えことば)が出来たと言われています。


御家人の中には、社会の変化で、生活が貧しくなり、借金をする者も出てきた。1297年(永仁(えいにん)5年)に、幕府は御家人の借金を帳消し(ちょうけし)にする 徳政令(とくせいれい) を出した。永仁の徳政令(えいにん の とくせいれい)である。 だが結果は、金貸しからすれば、貸した金が返ってこないのは困る(こまる)から、なので、金貸しが御家人には金を貸さなくなっただけであった。 金をかりれなくなった御家人は、あいかわらず貧乏なままであった。

永仁(えいにん)の徳政令
永仁5年(1297年)
一、 質入れや売買した土地について
領地の質入れや売買は、御家人の生活が苦しくなる元なので、今後は禁止する。
すでに売ってしまった土地については、御家人が御家人や地頭に打った土地は20年をすぎていたら返すことはいけない。しかし、御家人以外の一般の者や庶民が御家人から買いとった土地については、年数に関わりなく、もとの持ち主の御家人が取り返すべきである。

このような鎌倉幕府の失政がつづき、幕府の権威(けんい)や信用は落ちていった。

(※範囲外:)鎌倉幕府の滅亡について、元寇後、御恩と奉公の関係が崩壊したことに起因すると教えられるが、実際は何とか恩賞を捻出している。御恩と奉公の崩壊が幕府崩壊の主原因というわけでもなく、霜月騒動による幕政の不安定化や、弘安の役後も継続した異国警固番役に対する西国武士の不満、得宗専制への反発などが主原因だったのではないかとも言われている。

鎌倉幕府の衰え

編集
 
後醍醐天皇。

鎌倉時代のなかごろにより、朝廷では2つの派閥が皇位を争うようになった。幕府は、2つの派閥に交代で皇位につくよう命じた。いっぽうの派閥を 大覚寺統(だいかくじとう) と言い、もういっぽうの派閥を 持明院統(じみょういんとう) という。 (※ 派閥名は、おぼえなくて良い)

大覚寺統であった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府を倒す計画をたてるが、1324年(元亨(げんこう)4年)、計画がもれて失敗する。この1324年の事件を 正中の変(せいちゅうのへん) という。 (※  正中の変は、おぼえなくて良い)

1331年(元徳(げんとく)3年)に、ふたたび幕府を倒そうと計画するが、また、計画がもれて失敗する。この1331年の事件を 元弘の変(げんこうのへん) という。 (※ 元弘の変は、おぼえなくて良い)

後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐(おき)に島流しにされた。天皇は島流しになったが、幕府に不満のあった各地の武士や御家人たちは、天皇に味方して各地で兵をあげはじめた。

御家人でない武士の楠正成(くすのき まさしげ)らが、幕府軍に抵抗した。また、悪党(あくとう)という、幕府や荘園領主に従わない武装勢力が出てき始めて、幕府に逆らう勢力が増えた。

当時の「悪党」という言葉は、「強いもの」というふうな意味であり、今でいう「悪い者」という意味では無い。


やがて後醍醐天皇が隠岐(おき)から脱出する。

 
尊氏とされる「騎馬武者像」

1333年(元弘(げんこう)3年)、幕府の御家人であった 足利尊氏(あしかが たかうじ) は幕府を裏切り、後醍醐天皇と協力し、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を足利尊氏が攻め落とした。

同1333年、関東では 新田義貞(にった よしさだ) が鎌倉を攻め落とし、こうして鎌倉幕府は1333年に滅んだ。