このページでは、6~7世紀前後の中国のようすについて紹介します。学校では学習しない範囲が多く含まれているので、注意してください。

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 ※ほとんどの教科書には、隋そのものについての詳しい記述はありません。

隋のはじまり 編集

中国は、五世紀から六世紀にかけて南北に分裂していました。589年、分裂していた中国を一つにまとめたのが、ずいです。
隋を建国した楊堅ようけんは、「科挙かきょ」という官僚を選ぶ試験を作りました。この科挙は、20世紀まで1000年以上行われました。

隋の滅亡 編集

 
7世紀はじめ頃のアジアのようす

楊堅に続いて隋を支配した皇帝が、煬帝ようだいです。

煬帝は、高句麗遠征(高句麗との戦争)を三回も行い、この遠征のために大運河の建設も進めました。
しかし、遠征は失敗。このために重税を課された人々は 次々に反乱を起こし、中国は内乱状態になります。
結局、都の大興(のちの長安、西安)は、隋の武将であった李淵りえんに攻め落とされ、そのすぐ後に隋は滅亡しました。

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 ※学校では学習しない範囲が含まれています。

唐のはじまり 編集

隋を滅ぼした李淵は、618年にとうという国を建国し、皇帝になって国を治めました。その後、李淵に続いて皇帝に即位した太宗たいそうは、628年に中国の統一を達成します。

唐の拡大 編集

 
唐が拡大していくようす

太宗は、当時モンゴル草原を支配していた「東突厥ひがしとっけつ」という国を侵略し、支配下に入れました。
三代目の高宗こうそうという皇帝は、東突厥の西にあった「西突厥にしとっけつ」や朝鮮半島の「高句麗」「百済」を滅ぼし、唐を拡大させていきました。

国際都市・長安 編集

 
長安の大雁塔だいがんとう
 
現在の西安(かつての長安)のようす。

中央アジアから朝鮮半島まで領土を広げた唐。唐の都は長安ちょうあん(現在の西安)に置かれました。

当時のユーラシア大陸には、地中海から西アジア、中国までを結ぶ「シルクロード」という巨大な交易路がありました。 シルクロードでは、中国の特産品であるをはじめ、香辛料や金貨・宗教や音楽といった文化も各地に伝えられました。

シルクロードの東に位置する長安には、それらの交易品や文化・技術が集まり、人口百万人を超える国際都市として繁栄しました。

また、シルクロードを通してイスラム教の国々と貿易を行っていた唐では、長安や洛陽らくよう広州こうしゅうなどの中国の都市でムスリム商人(イスラム教を信じている商人)が活発に活動しました。

唐の律令 編集

唐では、律令りつりょうによって次のようなことが制定されました。
ちなみに、律令の律は「刑法」、令は「政治に関する法」を表します。律令の一部は、日本でも取り入れられました。

均田制きんでんせい
 国が国民に土地を貸し、そこで収穫した作物の一部を国に納めさせる制度。日本では「班田収授法」として取り入れられた。
租調庸制そちょうようせい
 国から土地を借りた国民が、租(作物)・調(絹織物・綿)・庸(都での労役)を国に対して治める制度。税制。
府兵制ふへいせい
  国から土地を借りた国民から、兵士を集める制度。今でいう「徴兵制度」のようなもの。
科挙かきょ
 隋の頃から始まった、官僚を選ぶための試験。