課題 編集

なぜ大化の改新などの改革が起こったのだろう。

この時代の文化にはどのような特色があるのだろう。

磐井の乱(いわいのらん) 編集

6世紀はじめ、九州北部で、朝鮮半島での百済をすくうための出兵の負担への反発がきっかけで、大和朝廷に対する大規模な反乱が527年に起きる。豪族の磐井(いわい)氏が反乱を指揮したためこの名がついた。磐井氏の役職は国造(くにのみやつこ)という。後の国司(こくし)と間違えやすいので、注意が必要である。古墳時代のページで説明した氏姓制度にのっとり、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこのいわい)という呼称が一般的である[古墳時代参照]。 朝鮮半島での、百済をすくうための出兵の負担への反発がきっかけである。

ヤマト王権は、反乱をおさえるのに、1年余り要した。この 磐井の乱(いわい の らん) を、豪族の物部氏(もののべし)の 物部麁鹿火(もののべの あらかみ) が しずめたので、物部氏(もののべし)の大和朝廷での影響力が強くなる。

※磐井の乱は、超中学の範囲なので、超難関校受験を希望しないのであれば、覚える必要はない。

朝鮮半島 編集

一方朝鮮半島では、かつて半島がいくつかの国に分かれていたが、5世紀中頃には新羅(しらぎ、シルラ)による統一が進み、日本が協力していた伽耶(カヤ)諸国は領土を失い、滅んだため、朝鮮半島での日本の勢力は失われた。

(なお、朝鮮半島の国々は、中国・唐に強く影響を受けるということも頭に入れておいて欲しい。新羅は、唐との結びつきが強かったため、唐とほぼ同時期に栄え、そして滅びた。)

日本のようす 編集

大和朝廷の中では、豪族どうしが、権力をめぐって争っていた。 中でも豪族の蘇我氏(そがし)が、力をのばした。蘇我氏は、渡来人と協力していた。そのため、大和(ヤマト)王権では外交の担当しており、また中国の宗教である仏教を日本に取り入れようとしていた。 蘇我氏は、自分の娘である堅塩媛や小姉君を欽明天皇の 妃 にするなどもして、勢力を強めていった。しかし、もともと力をつけていた物部氏と対立を深めていくこととなる。

用明天皇の跡継ぎをめぐって、ついに、対立は極限まで来てしまう。蘇我馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、物部守屋は穴穂部皇子を挙げたのだ。そして蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害した。これに物部守屋は怒り、挙兵をする。しかし蘇我氏には、大伴氏や平群氏、厩戸皇子が味方に付いたため、優勢になった。そして蘇我馬子(そがの うまこ)は、物部守屋(もののべの もりや)を倒す。これが丁未の乱である。

そして蘇我氏は、大王とならぶほどの、大きな権力を手に入れた。

大陸の中国のようす 編集

このころ、大陸では、南北朝に分かれていた中国を、隋(ずい)が統一して、589年には帝国になった。 しかし618年に、わずか29年で、隋は唐(とう)にほろぼされてしまう。

これから説明する古代日本の時代は、中国では、ちょうど隋が活躍していたころと同じころの時代である。

蘇我氏の支配 編集

 
聖徳太子が描かれたと思われている肖像画。真ん中の人物が聖徳太子と思われている。
 
聖徳太子の系図
四角で青く塗ったのが天皇。推古天皇は女性。丸数字は即位した順。

蘇我氏が物部氏を倒してから、しばらくして、蘇我氏は、蘇我の血を引く額田部王女(ぬかたべのおうじょ、 「推古天皇」ともいう。)を大王(おおきみ)にした。(この時代には、まだ「天皇」という呼び名がなかったといわれている。「天皇」という名称は、あとの時代の天武天皇のころから用いられるようになったという説がある。)

また、大王が女性なので(推古は女性)、政治を助けるために、推古天皇の 甥 であり、蘇我氏の血を引く厩戸皇子(うまやどのおうじ)、 のちの聖徳太子(しょうとくたいし)が摂政(せっしょう)として593年に任命された。聖徳太子は、蘇我馬子の娘の 婿 であり、また、穴穂部間人皇女の子である。また聖徳太子の祖母が蘇我氏の一族である。 この時代に、まだ「摂政」という正式な呼び名や制度は無く、したがって聖徳太子は、将来的な天皇の候補としても立てられている。

こうして、蘇我の一族の者たちが、政治の実権をにぎった。この時代を、今で言う奈良県の奈良盆地南部の飛鳥地方に政治の中心地があったので、飛鳥時代(あすか じだい)という。

聖徳太子は、蘇我氏と協力して、天皇を中心とする国家を作り上げました。聖徳太子は、そのための改革を、いくつも行いました。

603年には、冠位十二階(かんい じゅうにかい)の制により、家がらにとらわれずに、才能の有る人物を役人などに取り立てるようにしました。それまでは、氏姓(うじ・かばね)の制度のように、家がら ばかりで、仕事や地位が決まっていました。位(くらい)が12の階級に分かれているので、冠位十二階という。位により、冠(かんむり、かん)の色が違う。「冠」といっても、布製の帽子のような冠であり、べつに金属冠では無い。

また604年には、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)を定め、役人の心がまえとして、天皇の命令にしたがうべきことや、仏教をうやまうべきこと等を定めました。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。

※ 十七条の憲法は、21世紀の現代の日本の「憲法」とは違って(ちがって)、国家と国民とのあいだの約束事ではない事に気をつけよう。政府と役人との間の関係性について、役人のありかたを既定したものが、十七条の憲法です。
  • 十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)

内容を現代風に訳す(やくす)と、およそ、次のようなことが書かれています。

 十七条の憲法(抜粋)

1条 :争い(あらそい)をやめ、なかよくしなさい。
2条 :仏教を保護しなさい。
3条 :天皇の命令には、したがいなさい。
12条 :百姓(ひゃくしょう)などの民(たみ)から、かってに税(ぜい)や貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。
17条 :重要なことを決めるときには、かならず話し合いで決めなさい。


その他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法(じゅうしちじょう の けんぽう)と言います(憲法十七条ともいうが、少し古臭い)。 もともとの文は漢文で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。

原文は、とても長いので読みやすいように送り仮名をつけ、記述の一部を抜粋すると、

 十七条の憲法(抜粋)

一(いち)に曰く(いわく)、和(わ)を以て貴し(とうとし)と為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。(後略)
二に曰く、篤く(あつく)三宝(さんぽう)を敬へ(うやまえ)。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。(後略)
三に曰く、詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹め(つつしめ)、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。(略)
(中略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に斂る(おさめる)ことなかれ。国に二君(ふたりのきみ)非(な)く、民に両主(ふたりのあるじ)無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)をもって主となす。(略)
(中略)
十七に曰く、夫れ(それ)事は独り(ひとり)断む(さだむ)べからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく(よろしく)論ふ(あげつらう)べし。(後略)


といったふうに、書かれています。

十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」のような、他の法律の基本となる民主主義の理念や、日本国の国家理念がふくまれたものとはちがうので、混同しないでください。


「和をもって尊しとなす」と、「篤く三宝を敬え」は、有名な言葉なので、知っておいてください。

「詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め」も、けっこう有名です。意味は「天皇からの命令(=詔)を受けたら、かならず、したがいなさい。」という意味です。


隋との外交 編集

これらの改革は、中国の制度を参考にしたと思われています。隋でも、科挙(かきょ)という試験の成績で、成績優秀な人を、役人に取り立てていました。

日本では、国内の政治が整うと、日本は外交を活発化させ、隋との正式な国交を目指しました。そのために、日本は、隋への外交の使者として、日本から小野妹子(おのの いもこ)を随に607年に派遣させました。

隋も、隋は朝鮮半島北部の高句麗(こうくり、コグリョ)と対立していたので、日本との関係を重視しました。

小野妹子が隋に送られ時、聖徳太子らは、隋と日本を対等の立場で国交を結ばせようとしたので、妹子には、そのような内容の手紙を、隋の皇帝へと届けさせました。隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、その対等になろうとする日本の手紙の内容を無礼だとして、たいそう腹をたてたと言いますが、隋は高句麗との争いをひかえていたので、敵を増やすのは好ましくないと判断し、隋は日本との国交を重視しました。

隋の歴史書である『隋書』(ずいしょ)に、この妹子との外交に関する記述があります。

(中学生は原文を覚えなくてもいいです。)
 
隋の皇帝である煬帝(ようだい)。真ん中の人物が煬帝。

隋の皇帝へと、小野妹子が差し出した国書(こくしょ)には、

「日出ずる処(ひ いずるところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日(ひ)没する処(ぼっするところ)の天子に致す(いたす)。恙無きや(つつがなきや)」 


とあります。両国とも「天子」(てんし)という表現を用いていることに注目してください。つまり、日本の天皇と、中国大陸の皇帝を、同じ地位(ちい)と見ているわけです。

ほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。日本がこれから栄え、隋は滅びるという風に見えてしまいます。

当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、日本を無礼(ぶれい)な国と思い怒ったといいます。

煬帝を怒らせた「日出ずる処」ですが、地球上では、中国大陸の東側に日本があるので、日本のほうが、夜明けが早いです。隋から見ると、日本のある方角から太陽が登ってきます。このことを言ったのです。

それから、数回にわたって、日本から隋に使者が渡った( 遣隋使(けんずいし) )。 また隋の進んだ文化を学ぼうと、多くの日本の留学生や僧などが同行し、隋の進んだ政治制度や仏教を学んで、日本に持ちかえりました。 隋も、これら日本からの留学生や僧を受け入れました。

飛鳥文化 編集

聖徳太子が政治をおこなっていた時期でもある7世紀ごろ、今でいう奈良県である飛鳥地方に都が置かれていました。この時代のことを 飛鳥時代(あすかじだい) といい、この時代の文化を 飛鳥文化(あすかぶんか) といいます。

蘇我氏や聖徳太子らが、仏教を保護したため、この飛鳥文化は仏教を中心とした文化であった。蘇我馬子は飛鳥寺(あすかでら)を、(場所は今で言う奈良県に)建てさせます。聖徳太子は、法隆寺(ほうりゅうじ)を607年に建てさせます。法隆寺の場所は、今でいう奈良県の斑鳩(いかるが)地方(奈良盆地の西部)にあります。

  • 法隆寺
 
法隆寺。金堂と五重塔
 
法隆寺の釈迦三尊像(金堂)。国宝。

法隆寺は、現存する木造建築の中では、 世界最古の木造建築 です。法隆寺は、世界文化遺産に1993年に登録されました。法隆寺は、のちの7世紀後半に火災にあって消失してしまい再建されるが、それでも世界最古の木造建築である。

 
法隆寺の百済観音像と同じ形の模造(諸般の事情により原作のカラー画像を掲載できないため、模造の画像を掲載する。)

法隆寺には、 釈迦三尊像(しゃか さんぞんぞう) や 百済観音像(くだらかんのんぞう) 、おさめられている。釈迦三尊像を作ったのは、渡来人の子孫である 鞍作止利(くらつくりのとり) が作ったとされる。鞍作止利のことを、止利仏師(とりぶっし)とも言う。

 
玉虫厨子。国宝。

そのほか、法隆寺には絵画の玉虫厨子(たまむしのずし)など、多くの美術品が、おさめられている。

この飛鳥文化には、中国や朝鮮半島の影響が強く現れています。 さらに、間接的であるが、ギリシアや中東の美術文化が、中国や朝鮮半島を通して、日本に入って来ている。 たとえば法隆寺の柱は、円柱の中央が、ふくらんでいる。これはギリシャのパルテノン神殿などギリシャ建築に多く見られる特徴であり エンタシス という特徴である。その他、唐草文様などが美術品に見られるが、唐草文様の発祥はギリシアである。


さて、聖徳太子は、四天王寺(してんのうじ)も、建てさせます。場所は、今でいう大阪府の難波(なにわ)です。 飛鳥時代の、ほかの寺では、広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩像(みろく ぼさつぞう)も、飛鳥時代の仏像として有名である。


大化の改新 編集

7世紀の東アジア 編集

中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、(とう)という帝国になっていた。唐は、隋の制度を引き継いだ。


聖徳太子の死後 編集

 
飛鳥時代の天皇の系図
四角で青く塗ったのが天皇。赤字の人物は女性。数字は即位した順。

622年に、聖徳太子が、死去します。 聖徳太子の死後は、蘇我氏が権力が強まります。 蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。

まず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがの えみし)の権力が、強まります。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まります。

643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。

このような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。


  • 乙巳の変(いっしのへん)  

645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。

これを 乙巳の変(いっしのへん) といいます。(※ 「乙巳の変」の用語は高校の範囲なので、一般の中学生は覚えなくていい。)

大化の改新と混合しやすいので、注意しましょう。

この殺害事件が乙巳の変、それを含めた政治改革が大化の改新です。

  • 大化の改新(たいか の かいしん)

このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。言い伝えでは、645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたと言われますが、確認されていません。 もし、この年に「大化」の年号を定めたなら、この「大化」という年号により、日本では始めて年号が定められたことになります。なお、年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのだろうと思われます。

 
難波宮(なにわのみや)の復元模型(大阪歴史博物館)

645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は退位して、皇極元・天皇の弟の孝徳天皇(こうとく てんのう)が645年に天皇になります。中大兄皇子は、のちに天皇( 天智天皇(てんじ てんのう) )に即位することになるが、この大化の改新のときには、まだ中大兄皇子は天皇では無い。孝徳天皇は難波宮(なにわのみや)に都を移します。難波宮は大阪府にあります。

改新の詔 編集

(かいしん の みことのり)

中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。

さて、改革の内容はと言うと・・・

乙巳の変(いっしのへん)の翌年646年(大化(たいか)2年)に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。

改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、(そ)・(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。

次に述べる一連の制度改革は、唐の法律を参考にしています。


  • 公地公民(こうちこうみん)

これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。


国際情勢 編集

7世紀のなかばになると、朝鮮半島で戦乱が起きます。 朝鮮半島では、新羅(しらぎ、シルラ)が(とう)と連合して、百済(くだら、ペクチェ)を攻めた。 660年に百済(くだら、ペクチェ)が、 新羅(しらぎ、シルラ)に滅ぼされます。 百済は、日本と親しかった百済が滅んだことで、日本は、朝鮮半島での勢力を失います。

  • 白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい)

日本は百済を復活(ふっかつ)させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい、はくそうこう の たたかい) と言います。日本は負けます。新羅と唐の連合軍に、日本は負けました。

なお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一することになります。先ほども述べたように、唐との結びつきがとても強いです。唐が滅びるまで、新羅の時代が続きます。


日本国内の強化 編集

白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に 防人(さきもり) という防衛(ぼうえい)のための兵士たちを置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁(どるい)が築かれた防御地点をいくつも作ります。


667年に、中大兄皇子は都を 大津宮(おおつのみや) に移します。大津宮の場所は、今でいう滋賀県の近江(おうみ)です。それ以前の都は、奈良の飛鳥(あすか)地方にありました。 この都を近江の大津宮にうつしたことも、攻撃に備えてなのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。


668年に中大兄皇子は天皇として大津宮で即位し、中大兄皇子は天智天皇(てんじ てんのう)になります。

668年に、法典である 近江令(おうみりょう) が出来ます。天智天皇(=中大兄皇子)が中臣鎌足に命じ、役人たちに編纂(へんさん)させたものです。また天智は、全国的な戸籍である 庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成されます。これが、日本最初の戸籍です。よく聞かれるのは、天智天皇なのか、後に出てくる天武天皇(てんむてんのう)なのかです。注意しましょう。

壬申の乱 編集

 
富本銭(複製品)。 天武天皇のころに作られた日本で最初の銅の貨幣。
 
富本銭(ふほんせん)。(複製品)

天智天皇が亡くなる(なくなる)と、天皇の皇位をめぐり、皇族どうしの争いが起きます。天智の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、 天智の子の大友皇子(おおとものおうじ)とが、672年に争い戦争になる。これを 壬申の乱(じんしんの らん) という。大海人皇子が勝ち、大海人皇子が 天武天皇(てんむてんのう)として飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位する。

「日本」という国号や、「天皇」という称号は、天武天皇の時には、使われていただろうと考えられています。

天武天皇の死後、その皇后が持統天皇(じとうてんのう)として即位します。持統天皇は、都を奈良に移して藤原京(ふじわらきょう)を建設させます。藤原京は、道路が碁盤(ごばん)の目のように、格子(こうし)状に区画されています。この都の碁盤目のような区画は、唐の都を参考にしています。

大宝律令 編集

(たいほう りつりょう)

701年(大宝(たいほう)元年)の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。大宝律令は、唐の律令(りつりょう)という法律を参考にしています。 「律」は罪人をさばくための刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。

律令にもとづいて政治を行う国家のことを、歴史学の用語で 律令国家(りつりょう こっか) と言います。

この大宝律令を編纂(へんさん)した人物は、藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心に編纂(へんさん)した。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。


政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。二官には、神々をまつる宗教を行なう 神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう 太政官(だじょうかん)がおかれた。

太政官には、 右大臣左大臣太政大臣が置かれた。

太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。 八省は、宮内省(くないしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、治部省(じぶしょう)、式部省(しきぶしょう)、中務省(なかつかさしょう)である。

中務省(なかつかさしょう)の仕事は、詔(みことのり)や勅(ちょく)の作成。
式部省(しきぶしょう)の仕事は、役人の人事や教育。
民部省(みんぶしょう)の仕事は、戸籍や租税。
兵部省(ひょうぶしょう)の仕事は、軍事や警備。
刑部省(ぎょうぶしょう)の仕事は、刑罰や裁判。
大蔵省(おおくらしょう)の仕事は、物資の管理や財政。
宮内省(くないしょう)の仕事は、宮中の事務や庶務。
治部省(じぶしょう)の仕事は、儀式や外交。
         
           ┏━━中務省
   ┏━太政官━━━╋━━式部省
   ┃       ┣━━民部省
天皇━┫       ┣━━兵部省
   ┃       ┣━━刑部省
   ┃       ┣━━大蔵省
   ┗━神祇官   ┣━━宮内省
           ┗━━治部省

このようにして、中央の地位の高い役職についた者たちが元になって、貴族(きぞく)の階級が出来上がっていった。

班田収授や、租庸調(そようちょう)も定められた。 また、九州には、防衛のための役所として、太宰府(だざいふ)が置かれた。


政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。

国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。

郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。

      国 (国司)
      ┃
      郡 (郡司)
      ┃
      里 (里長)

中央と地方の役所を図にまとめると、次のようになる。

         
             ┏━━中務省
     ┏━太政官━━━╋━━式部省
     ┃       ┣━━民部省
(中央) ┃       ┣━━兵部省
     ┃       ┣━━刑部省
     ┃       ┣━━大蔵省
     ┗━神祇官   ┣━━宮内省
             ┗━━治部賞

(地方) 
       国司━━郡司━━里長
       太宰府