メインページ > 歴史 > 世界史 > 冷戦後の世界

ここでは、1991年末にソビエト連邦が崩壊してから、2020年代前半のウクライナ侵攻前後に至るまでの世界の動きを取り上げる。

唯一の超大国としてのアメリカ

編集

ソビエト連邦が崩壊すると、アメリカは唯一の超大国となった。1992年、共和党のブッシュ(父)大統領は、カナダ・メキシコとの北米自由貿易協定に調印した。同年の大統領選挙で経済最優先を掲げて当選した民主党のクリントンは、ハイテク産業に力を入れ、史上最長の好景気を実現させた。また、富裕層の所得税率引き上げなど、貧富の格差を減らす政策も行った。このような経済政策はレーガノミクスをもじってクリントノミクスと呼ばれた。外交面では、ベトナムとの国交を回復し、西欧諸国の協調を目指した。続いて2000年の大統領選挙では、共和党のブッシュ(子)が当選し、富裕層の所得税削減などの政策を行った。このような政策は思いやりのある保守主義と呼ばれる。

ヨーロッパの統合

編集

冷戦が終結し、全ての国が資本主義体制となったヨーロッパでは、地域統合の機運が高まり、1992年、ヨーロッパ共同体をヨーロッパ連合に発展的解消させるマーストリヒト条約が調印され、1993年に発効した。このヨーロッパ連合は、ヨーロッパ共同体に比べて、ヨーロッパの統一国家に近いものとなっている。これに対し、ヨーロッパ共同体に対抗してきたヨーロッパ自由貿易連合も、ヨーロッパ連合との統一市場形成を目指して、1994年にヨーロッパ経済領域を設立した。翌1995年には、ヨーロッパでの人の移動を自由にするためのシェンゲン協定が発効した。同年、オーストリア、フィンランド、スウェーデンがヨーロッパ連合に加盟した。一方、1994年にはヨーロッパ連合内での通貨の統合を目指し、ヨーロッパ通貨機構が設立された。ヨーロッパ通貨機構は1998年にはヨーロッパ中央銀行に発展的解消、翌1999年には共通通貨ユーロが導入され、2002年には一般流通を開始した。通貨発行権というのは国家の重要な主権の一つであるが、複数の国家がそれを平和的に放棄し、統一通貨をつくるというのは、世界史上でも初めてのことであった。ただし、ヨーロッパ連合に加盟していても、イギリスのようにユーロを使用しない国もあった。

躍進するアジア

編集

中華人民共和国では、1989年の天安門事件を機に、改革開放の機運が高まった。1992年冬に鄧小平南巡講話を行い、改革の必要性を主張した。同年10月の党大会で、江沢民党総書記は、市場経済を通じて社会主義の実現を目指す社会主義市場経済の導入を決定した。これにより中国は経済成長率年10%という急速な経済成長を実現させた。また、1997年には香港がイギリスから、1999年にはマカオがポルトガルから返還された。これらの地域は、返還後50年は一定の自治権が導入されることになった(一国二制度)。一方で、一つの中国という基本方針を認めない台湾の中華民国との関係は悪化し、1996年には中華民国により台湾海峡にミサイルが発射され、アメリカ軍が出動する事態となった。2000年には、江沢民は3つの代表、すなわち、中国共産党は、中国の「先進的社会生産力の発達の要求」、「先進的文化の前進の方向」「最も広範にわたる人民の根本的な利益」の3つを代表すべきというスローガンを発表した。

朝鮮半島では、1991年、韓国と北朝鮮が同時に国際連合に加盟するなど、一時は融和の動きを強めた。しかし、1994年6月に北朝鮮は国際原子力機関から脱退し、翌月、金日成が死亡し、金正日が朝鮮労働党総書記に就任すると、一気に緊張が高まった。北朝鮮は核開発を続け、一時はアメリカとの核戦争が始まる直前にまで至ったが、時の韓国大統領金泳三はすんでのところでこれを回避した。1998年に韓国大統領に就任した金大中は、北朝鮮との融和政策(太陽政策)を進め、2000年には初の南北首脳会談を実現させた。2002年には、韓国は、サッカーワールドカップを日本と共同で開催した。また、同年には初の日朝首脳会談(日本側の首相は小泉純一郎)が実現、北朝鮮は拉致被害者の一部を返還した。

東南アジアのタイでは、1990年代に入ると、自国とタイの金利の差に着目した欧米の投資家が大量にバーツ(タイの通貨)に投資し、急速にバーツ安が進んだ。すると対外債務が膨らみ、1996年度には791億ドルに達した。そして1997年7月、バーツは未曽有の大暴落を見せた。これをアジア通貨危機という。タイは緊急対策として、管理変動相場制への転換や公定歩合の引き上げを行い、さらにIMFからも支援を受けたが、もはや金融危機は止められず、タイだけではなく、東南アジアの各国が深刻な危機に直面した。さらに東アジアやオセアニアにまで被害は及んだ。この危機により1997年の東南アジア諸国の経済成長率はマイナスとなり、第二次世界大戦後最悪となった。それでも各国からの支援や経済立て直しの努力により、2000年ごろには力強い成長を取り戻すことができた。1995年から1999年までに、ASEANにはベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーの4か国が加盟していたが、このアジア通貨危機を機に、ASEAN加盟国に加え、日本、中国、韓国を加えたASEAN+3と呼ばれる首脳会議が1997年に始まった。一方、インドネシア領になっていた旧ポルトガル領ティモールでは、1999年の住民投票で自治拒否が多数を占め、2002年に東ティモール民主共和国として独立した。

インドでも、1991年以降、ラーオ政権の下で経済開放が進み、急速な経済成長を成し遂げた。特に、情報技術産業が急成長した。一方日本では、1991年にバブル経済が崩壊した後、低成長が続いている。

相次ぐ内戦

編集

冷戦が終結し、資本主義対共産主義の二極構造が崩れると、各地で内戦が頻発するようになった。代表的なのは1991年に始まったユーゴスラビア紛争である。1990年に民主政に移行したユーゴスラビアでは、セルビアがコソボを編入しようとし、これに反発したコソボが独立を宣言したことを機に内戦が始まった。スロベニアでは、1991年6月25日に独立宣言をしたが、ユーゴスラビア政府はこれを認めず十日間戦争が勃発した。しかしスロベニアはこれに勝利し、翌1992年に独立を承認された。スロベニアと同じ日にクロアチアも独立を宣言したが、セルビア人はこれに反対、1995年までの4年間にわたって行われたユーゴスラビアとのクロアチア紛争に勝利して、事態は収拾した。続いてマケドニアが1991年9月に独立した。ボスニアヘルツェゴビナは1992年3月に独立を宣言したが、やはりセルビア人が反対したためボスニアヘルツェゴビナ紛争が翌4月に勃発した。これは1995年にボスニアヘルツェゴビナの勝利で終結した。その後、1998年にはセルビアのコソボ自治州が独立マケドニア紛争 を求めコソボ紛争を起こし、NATOまで介入する事態となったが、翌1999年に終結した。しかし、これによりコソボから大量の難民が押し寄せた挙句、2001年2月にはマケドニア紛争が勃発した。この紛争は8月にはマケドニアの勝利で停戦し、ユーゴスラビア紛争は終結した。

黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方では、1991年に南オセチアが独立を求め南オセチア紛争を起こしたが、いまだに決着はついていない。一方、1992年にアブハジアが独立を求めて起こしたアブハジア紛争は1994年に停戦、アブハジアは同年独立を果たした。また、1992年には北オセチアとイングーシの領土をめぐってオセチア・イングーシ紛争が発生し、1週間ほどで停戦した。チェチェンでは、独立を求める勢力とそれを認めないロシアが対立、1994年に第一次チェチェン紛争が勃発し、1996年に停戦した。しかし、1999年に再び武力衝突が生じ、第二次チェチェン紛争が勃発した。結局、2009年にロシア側の勝利で終結した。

この他にも、1990年代にはイエメン、ソマリア、コンゴ、ジブチ、グラナダなど、中東やアフリカを中心に内戦が相次いだが、ここでは逐一詳細の解説は行わない。

対テロ戦争の始まり

編集

各地で内戦が相次ぐ中、イスラーム過激派が勢力を伸ばし始めた。その代表例が1998年に結成されたテロ組織アルカーイダである。アルカーイダは2001年9月11日、アメリカ合衆国で4機もの旅客機をハイジャックしてニューヨークのワールドトレードセンター、ワシントンD.Cのアメリカ国防総省本部庁舎などに激突させ、合わせて3000人近い犠牲者を出した。この自爆テロをアメリカ同時多発テロという。時のアメリカ大統領ブッシュ(子)は直ちに非常事態を宣言した。ブッシュはこれを「テロとの戦い(対テロ戦争)」と表現した。アメリカやイギリスなどは対抗処置として、アルカーイダや、別のイスラーム過激派組織ターリバーンを殲滅させるため、10月2日にアフガニスタンを攻撃、ここにアフガニスタン紛争が始まった。紛争はその後泥沼化し、現在もなお終結には至っていない。2002年、ブッシュはイラク、イラン、北朝鮮を悪の枢軸であるとして非難、イラクに武装解除を求めた。国連でも武装解除を求める決議が採択され、2003年3月18日にアメリカが行った最後通牒にも応じなかったことから、20日、イギリスなどともにイラクに侵攻を開始した。しかし、イラクが大量破壊兵器を所持している証拠は見つからず、アメリカは2011年に戦争終結を宣言した。

このような安全保障環境の悪化から、1999年に加盟していたポーランド、チェコ、ハンガリーに続き、2004年には、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、バルト三国、スロベニアもNATOに加盟した。NATOにはその後も2009年にアルバニアとクロアチア、2017年にモンテネグロ、2020年に北マケドニアが加盟している。2004年にはEUにも多くの旧共産主義諸国が加盟している。そのEUは、2007年に署名されたリスボン条約によって様々な改革が行われた。ヨーロッパ議会の権限を強化した他、ヨーロッパ理事会に常任の理事長を設けた。

リーマンショックと世界の無極化

編集

そんな中、米国では、住宅価額が急激に上昇し、住宅ローンを支払えない人が増えた。当然、金融機関は返済を催促するわけだが、これでもなかなか返済はされず、金融機関の信頼が減少した。すると、2007年以降、米国の市場から撤退する企業が相次ぎ、急激な株安を招いた。これはサブプライムローン問題と呼ばれる。サブプライムローンとは、信用力の低い個人向けの住宅ローンのことである。事態に拍車をかけたのは、2008年9月サブプライムローン問題の煽りを受けて経営が悪化したために、リーマンブラザーズが倒産したことである。これにより市場は大混乱に陥り、株価は暴落し、世界的な大不況に陥った。これがリーマン・ショックである。リーマンショックは、1929年に始まった世界恐慌以来79年ぶりの経済恐慌であり、翌2009年には世界各地でGDPがマイナス成長となった。リーマンショックにより、アメリカから撤退する企業が相次いだ。こうして、冷戦終結後続いていたアメリカ一極の時代は終わった。かくして、世界には超大国と言えるような国がなくなった。これを世界の無極化という。

無極化した世界は、世界をまとめられる国がないために、不安定なものとなった。2008年にリーマンショックを受けて始まったG20サミットなどでの努力にもかかわらず、米露や米中の対立も再び深刻となり(新冷戦)、地域紛争は激化した。このような情勢の中で、2009年1月、黒人で初めてオバマ(民主党)が米国大統領に就任した。オバマは、2009年4月に核なき世界を求めた演説をチェコの首都、プラハで行い、同年12月にノーベル平和賞を受賞した。このような気風の中、2010年12月のチュニジアでのジャスミン革命以降、中東や北アフリカの諸国で民主化を求める運動が盛んになった。これはアラブの春と呼ばれる。アラブの春は、多くの国で一定の成果を上げたものの、リビアやシリアでは民主派と体制派との間で武力による闘争が起こる事態にまで発展した。

反グローバリズムの風潮

編集

2011年2月に始まったシリア内戦が長引くにつれて、現地では数多くの難民が発生した。この難民を最も多く受け入れたのはシリアの隣国であるトルコであったが、西欧諸国にも多くの難民が押し寄せることとなった。EUでは、加盟国に対し一定数の難民受け入れを義務付けているが、西欧諸国では難民による犯罪が相次ぎ、治安が悪化した。さらに、2014年以降には、イスラーム過激派組織であるイスラム国が登場し、次々と欧州内でテロを起こした。代表的なのが2015年11月のパリ同時多発テロである。これらの事態を受け、EU加盟国の間では、本当に国境の壁を薄くすることが国民の益になるのか、懐疑する意見も強まった。そんな中で2016年6月イギリスで行われた、EUからの離脱を問う住民投票では、離脱賛成派が多数を占め、世界を驚かせることとなった。イギリスのEUからの離脱はブレクジットと呼ばれ、反グローバリズムの動きの台頭となった。2015年には、締約国内での自由貿易などを盛り込んだ環太平洋パートナーシップ協定(TPP)が締結されていたが、これにより米国内の雇用が奪われ、産業が衰退するのではないかと考えた米国の保守派は、2016年11月の大統領選挙で、自国第一を訴えた共和党のトランプに投票した。しかし、世論調査では国際協調を訴えた民主党のヒラリー・クリントンのほうが支持率は高かったため、国際社会は当然、ヒラリーが当選するものと考えた。ところが、実際にはトランプが当選するという事態になり、同年のEU離脱に続き、反グローバリズムの風潮を高める展開となった。トランプは2017年1月に大統領に就任すると、すぐにTPPから脱退し、また、中東の一部の国からの入国制限を行ったことで国際社会から批判されることとなった。同年には、イギリスに続きフランスでもEU離脱の機運が高まり、EU離脱を公約とするマクロンは同年の大統領選で決選投票まで進んだものの、5月の決選投票で敗退した。

アメリカの国力の陥落が長引く中、中国は、アメリカに代わる超大国としての地位を窺いつつ、着実に経済成長を遂げていった。2010年に中国のGDPは日本を追い越し、米国に次ぐ世界2位の経済大国となった。2012年に中国共産党総書記(最高指導者)に就任した習近平は、軍事面でも米国を追い抜こうと努力を続けた。2014年にプーチン政権下のロシアがウクライナのクリミア半島を武力併合し、G8から外された事態を機に、米露中の新冷戦は激化した。そんな中、2012年に朝鮮労働党委員長に就任した金正恩が率いる北朝鮮は、米国への対抗の為にミサイルの開発を進め、次々に核実験を行った。2017年8月には米国本土まで届く弾道ミサイルを日本の領土を飛び越えて太平洋上に落下されるなど、威嚇行為を繰り返し、米国との関係は悪化、核戦争寸前の事態となった(北朝鮮危機)。しかし、トランプは北朝鮮との対話を重ね、2018年6月に米朝首脳会談をシンガポールで開き、非核化の方針を確認したことで、事態はひとまず収束した。米朝首脳会談は2019年2月と6月にも行われた。一方中国の特別行政区である香港では、2019年6月以降、民主化運動が激化し、当局との衝突が相次いだ。これを受け、香港政府は反政府運動への取り締まりを強化した。これにて香港の一国二制度は事実上崩壊した。折しも中国政府によるチベット人やウイグル人に対する人権侵害も発覚し、国際社会では反中感情が高まり、中国は窮地に立たされることとなった。

パンデミックが変えた世界

編集

このような情勢の中で、2019年12月初旬以降、中国の湖北省武漢市内で、新型のウイルス性肺炎の確認が相次いだ。当局は当初これを隠蔽したが、12月30日に武漢市当局の関係者が内部告発し、渋々中国は肺炎についての情報発表を始めた。翌31日には中国政府が、年が明けた2020年1月1日にはWHOが武漢を調査し、同日、感染源とされた武漢の海産品市場は閉鎖された。1月6日、肺炎は新型コロナウイルスによるものであると確認され、13日にはタイ、15日には日本でも感染が確認された。この間武漢では感染が拡大し、医療資源が不足した。そこで、1月23日に当局は感染拡大武漢市全域を封鎖(ロックダウン)した。封鎖により、武漢市外との往来が禁止され、市内での外出も厳しく制限された。これを受け、折からの反中感情の高まりもあり、中国からの入国者に対し入国制限を行う国が相次いだ。しかし、感染拡大は止められず、欧米諸国でも感染者が相次いで確認され、1月30日、世界保健機関は新型コロナウイルスが国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態であると宣言した。2月11日には新型コロナウイルスがSARS-CoV-2[1]、それによる感染症がCOVID-19[2]と正式に命名された。2月中旬以降、感染拡大により中国との物流がストップするのではないかとの懸念から株価が暴落し、コロナショックと呼ばれる恐慌が始まった。2月下旬には韓国、イラン、イタリア北部で急激な感染拡大が始まり、イタリアは中国と同様、流行した都市をロックダウンし、住民の外出を規制した。それでも感染拡大は止まらず、3月11日に世界保健機関はCOVID-19がパンデミックであると宣言した。3月中旬以降、西欧や米国、さらにはアフリカや中南米など、世界中で爆発的な感染拡大が起こり、医療崩壊が相次いだ。地域によっては、COVID-19による死者の遺体の火葬が追い付かずに路上に棺が並べられたり、四六時中救急車の音が鳴り止まなかったりと、凄惨な事態となった。このような事態を食い止めるべく、世界中でロックダウンや厳しい入国制限が行われたが、これが影響して景気は悪化、コロナ・ショックはリーマンショックをもしのぐ、世界恐慌以来91年ぶりの大不況となった。特に、そこに人がいないと成り立たない飲食業や観光業、運輸業などは極めて厳しい状態に置かれた。そして、中国による情報の隠蔽がなければ感染はここまで拡大しなかったのではないかとの批判が起き、同年6月に香港で施行された反政府運動を取り締まる香港国家安全維持法とともに、反中感情がますます加速する原因ともなった。さらに、厳しい入国制限が行われたことにより、パスポート(場合によってはビザも)と航空券さえあれば誰でも自由に世界中を飛び回れることを前提としたグローバル社会の仕組みは崩壊し、反グローバリズムの動きが加速する原因ともなった。EUからは2020年1月にイギリスが離脱していたが、それ以外の国でも、EUとしてではなく、加盟国ごとに入国制限が行われ、国境の壁を取り払うというEUの根本理念も崩壊した。

2020年5月に入ると感染は次第に落ち着き、各国はロックダウンを解除した。しかし、経済はすぐには回復せず、2020年秋には再び感染拡大が発生し、再度ロックダウンに突入した国が多く出たが、経済との間で難しいかじ取りを迫られた。一方中国はその後も感染拡大を抑え込み続け、景気を回復させ、超大国としての地位を確立し始めた。そんな中の2020年11月に行われたアメリカ合衆国大統領選挙では、現職のトランプが敗北、国際協調を重視する民主党のバイデンが当選し、2021年1月に大統領に就任した。しかし、2016年以来アメリカ合衆国の分断は深刻になっており、バイデン勝利を受け入れられなかったトランプ支持者は不正選挙を主張したり、米国議会議事堂を襲撃したりするなど、混乱が続いた。2020年12月にはCOVID-19のワクチン接種が始まり、長く続いたコロナ禍に一筋の光が見えたかのように思えた。しかし、同月には感染力・毒性が強化されたアルファ株と呼ばれる変異ウイルスの感染拡大が英国から始まり、爆発的な感染拡大が起こった。さらに2021年4月以降、感染力・毒性がさらに強化され、さらにワクチンの効果も減少したデルタ株がインドから感染拡大し、ワクチンの接種が進んだ国でも感染が急拡大した。経済がすでに疲弊を極めているため、多くの国は厳しいロックダウンを行うことはもはや不可能と判断し、ワクチンの追加接種など対応に苦慮した。その後2021年11月にも、感染力強化とワクチン効果低下がさらに進んだオミクロン株が南アフリカから拡大し、2021年末から2022年初頭にかけて、ワクチンの追加接種が進んだ国でさえ災害級の感染拡大を起こした。相次ぐ変異株の拡大により、ワクチンだけによる感染収束が見込めなくなり、2022年に入ると、人類はインフルエンザのように、長くCOVID-19と付き合っていくしかないという考えが支配的になった。この考えはウィズコロナと呼ばれる。しかし、インフルエンザと比べて感染力も毒性も桁違いに大きいCOVID-19と人類との共存は困難を極め、そのためには我々の日常生活を大きく変える必要があるように思われた。COVID-19によって我々の日常生活には、歴史上何度もなかったような大きな変化が発生したのは事実である。このような「新たな日常」はニューノーマルと呼ばれた。

しかし、2022年3月頃になると多くの欧米諸国は入国制限を含めCOVID-19に関係する規制のほとんどを廃止した。同年半ばには、ドイツや南欧諸国で公共交通機関内や医療機関等でのマスク着用義務が残っていた程度で、欧米は概ねCOVID-19の流行前の生活様式を取り戻した。しかし、COVID-19自体が消滅したわけではなく、後遺症により働けなくなる人が増加するなど、引き続き問題は残った。一方、東アジア・東南アジア諸国を中心に、2022年になっても厳しい規制を取り続けた国も存在した。その筆頭は中国で、習近平政権はCOVID-19の完全な終息を目指すゼロコロナ政策を続けた。3月から5月にかけては中国最大の経済都市である上海で厳しいロックダウンが行われ、工場等の生産停止で中国だけでなく多くの国の経済に打撃を与えた。しかし、オミクロン株を制圧することは極めて難しく、その後も中国の多くの都市がロックダウンやいつロックダウンになるか分からない状態に置かれた。国内外からゼロコロナ政策の撤廃を求める意見が高まっていたが、中国は反対する言論を弾圧した。同年10月の中国共産党大会でもゼロコロナ政策継続の方針が確認され、ロックダウンは緩まるどころか厳しさを増していった。このような情勢の中11月20日にはカタールでサッカーワールドカップが開幕された。ワールドカップは満員の観客を入れて陰性証明、マスク着用も求めないなどCOVID-19の流行前と同様の形式で行われたため、中国国民は自国との違いに憤った。さらに11月24日には新疆ウイグル自治区のウルムチで火災が発生して10人が死亡し、ゼロコロナ政策が対応の遅れに影響したとして白紙革命と呼ばれる大規模なデモが発生した。「何か言ったら弾圧されるので何も書いていない紙を掲げてデモをする」という意味合いで白紙革命と呼ばれるようになったが、中国でのこのようなデモは極めて異例で天安門事件以来とも言われた。12月8日、ついに中国政府はCOVID-19関係の規制を撤廃し、ゼロコロナ政策を終了した。その後、中国では急速にCOVID-19の感染が拡大したが、2023年1月には収束した。日本、韓国、台湾など他のアジア諸国も5月までに順次規制を撤廃し、5月にはWHOが国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態を終了した。これによりCOVID-19は人々の記憶から徐々に忘れ去られるようになったが、決して終息したわけではなく、長期的な後遺症患者の増加も懸念されている。

冷戦後の文化

編集

冷戦後の文化は、インターネットの発達を抜きにしては語れない。インターネットは、コンピュータ同士を結ぶ全世界的なネットワークのことで、一般人であっても全世界に情報を発信することができる、画期的な通信手段である。インターネットは、元々大学などの研究機関で活用が試みられていたが、1988年に商用利用が解禁されると、爆発的に普及が始まった。その中でも、1991年に発明されたワールド・ワイド・ウェブは、我々の日常生活に欠かせないツールとなるまでに成長した。2000年ごろまでに、先進国の大抵の省庁や大企業は独自のウェブサイトを持つようになり、同時に、個人のウェブサイトも増加し始めた。個人のウェブサイトとして代表的なのは、日々の出来事を思ったままに綴るウェブログ(ブログ)である。その他、見ず知らずの人と匿名でやり取りができるインターネット掲示板も発達した。インターネットの商用利用の開始をビジネスチャンスと見て、多くのIT企業が誕生した。代表的なのは1993年にジェフ・ベゾスによって設立されたAmazon、1994年にジェリー・ヤンとデビッド・ファイロによって設立されたYahoo!、1998年にラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンによって設立されたGoogleなどであり、いずれも米国の西海岸に本拠地を置いた。Amazonは、ありとあらゆる種類の商品を発売することによって、オンラインショッピングを買い物の選択肢として揺るぎないものにした。Yahoo!とGoogleは、インターネット上にある無数のウェブページの中から、検索されたキーワードに合うものを表示できる検索エンジンを開発した。Googleは、2006年にチャド・ハーリー、スティーブ・チェン、ジョード・カリムが2005年に設立した動画サイトのYouTubeを吸収している。これにより、ワールド・ワイド・ウェブは書籍や新聞と並び、調べ物に使うことができる手段としての地位を確立した。それは、本格的な情報社会の到来であった。

インターネットを使うのに欠かせない、コンピューターの開発に関わった企業も多数ある。Windowsというオペレーティング・システム(OS)を開発したMicrosoftMacintoshを開発したAppleなどがそれにあたる。Appleはスティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアック、ロナルド・ウェインによって1976年に、Microsoftはビル・ゲイツとポール・アレンによって1975年に設立された。中でも、Windowsが1995年に開発したOSであるWindows 95は、インターネットが個人にも普及する端緒となったOSとして重要である。

一方で、電話を持ち運びできるように小型化した携帯電話も重要である。携帯電話は、1980年代に開発された当初は電話機能しか使えず、肩から下ろすようなものだったが、どんどん小型化し、片手で持てるほどの大きさになった。さらに半導体技術の進歩によって写真撮影やゲーム、カレンダー、インターネットなど様々な機能を付けられるようになった。主に、携帯電話を活用することによって発達したメディアがソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)である。SNSは、会員登録制のウェブサイトもしくはアプリケーションであり(閲覧だけなら登録しなくてもできる場合もある)、会員同士でコミュニケーションを取ったり、他の会員に向けて情報を発信したりすることができる。世界的に普及したSNSとしてまず挙げておきたいのはFacebookである。2004年にマーク・ザッカーバーグとエドゥアルド・サベリンが設立した。Facebookは実名登録制であり、他人を「フォロー」することで、自分の「タイムライン」と呼ばれるページに他人の投稿を表示することができる。また、他人の投稿に対しては、「返信」を返したり、「いいね」を付けたりすることで反応することができ、その後の数多くのSNSの基礎となった。Facebookは2022年現在でも、世界で最も多く使われているSNSである。この他、Twitter(2023年にXと改名)も有名である。2006年にジャック・ドーシーらによって設立された。Twitterは正確には制限字数内で投稿をするミニブログと呼ばれる種類のウェブサイトであるが、一般的にはSNSであるとされる。Twitterは、他人のツイートを自身のツイートとして投稿し直す「リツイート」が可能であるため、情報の発信に適した媒体である。一方で、その間にも携帯電話の進歩は続き、2007年にはApple社によりiPhoneと呼ばれる新しい種類の携帯電話が発売された。このような携帯電話はスマートフォンと呼ばれ、画面全体がタッチパネルになっていて指で操作できること、パソコンのようにアプリケーションをインストールすることで、機能を増やせることが特徴である。スマートフォンはカメラも高画質・高機能となっており、日常的な用途の撮影にはほとんど困らなくなった。これにより、スマートフォンで撮影した品質の高い画像をすぐさまインターネット上にアップロードする、といったことが可能となった。このような需要に応えたSNSが、写真・動画の投稿に特化したInstagramである。Instagramは、ケビン・サイストロムとマイク・クリーガーが2010年に設立した。この他にも、日本のLINE(2011年設立)、中国の新浪微博(2009年設立)など、特定の国で広く使われているSNSも多く存在する。インターネットを利用して、人類の知識の総集を提供しようという構想も現れた。その代表例が、2001年にジミー・ウェールズとラリー・サンガーによって設立されたウィキペディアである。ウィキペディアは、誰もが編纂に携わることができるオンライン百科事典として開設され、調べ物に非常によく使われるウェブサイトとなった。このウィキブックスは、ウィキペディアと同じウィキメディア財団が運営するウィキペディアの姉妹サイトである。2020年以降のCOVID-19のパンデミックを機に、2013年に設立されたビデオ通話アプリケーションのZoomも急速に普及した。

一方で、インターネットの普及により、課題も多く発生した。その一つが、セキュリティの問題である。初期のインターネットは法規制がほとんどなく、犯罪の温床となっていた。法整備がなされてからも、コンピュータに誤作動を起こさせたり、機密情報を盗み取ったりするコンピュータウイルスは多く開発されており、情報社会の安全を脅かし続けている。また、SNSやYouTube上での承認欲求を満たすため、危険な行為や犯罪行為に走る人が多くなり、問題となっている。常にインターネットに触れていないと落ち着かず、日常生活に支障を来すインターネット依存症も深刻な問題である。インターネット依存症患者の増加により、世界中で若者の学力低下、睡眠不足、運動不足、鬱病患者の増加、コミュニケーション能力の低下などが問題となっている。これらの問題を解決するために、世界中の学校で、情報機器との適切な付き合い方を教える情報教育が行われているが、解決には程遠いのが現状である。

2000年代後半から、人工知能の開発が急速に進み始めた。2010年代に入ると、人工知能を使った自動運転車の開発が進んだ。また、人工知能を使ったスマートスピーカーも普及し始めた。将棋やチェス、囲碁などのボードゲームで、人工知能が人間のトップレベルのプロに勝利したのは有名である。2010年代の後半にはディープラーニングと呼ばれる手法を使って人工知能に学習させることで、人工知能を用いた機械翻訳などの精度が飛躍的に向上した。2022年以降、OpenAI社の開発したChatGPTを初めとする生成系人工知能が急速に普及し、これまで人間の独壇場と思われてきた創作の分野までをも人工知能が侵食しつつある。ChatGPTはチャットボットの一種であり、命令や質問を自然言語で送信すると自然な返答を返すことで全世界に衝撃を与えた。人工知能の性能は急速に人間のそれに近づいており、分野によってはすでにそれを追い越している。現在の人工知能は、1つの人工知能でできることが限られているが、将来的には、人間の知能を全て代替できるほどにまで成長すると予測されている。人工知能がディープラーニングの手法を使って自らを改良することができるようになれば、もはや人間には人工知能を制御することができなくなる。このような状態を技術的特異点といい、 レイ・カーツワイルは、これが2045年ごろに発生すると予測している。このことは2045年問題と呼ばれ、人工知能を他の人工知能で制御する方法の考案、人工知能により人間の仕事が奪われる事態の回避策の考案などが喫緊の課題となっている。生成系人工知能関係では学習に必要なデータを巡る著作権侵害の問題も出て来ている。その他、コンピュータ関係ではスーパーコンピュータの発達も目覚ましい。最新のスーパーコンピューターは、1秒間に数十京回、つまり1兆回の数十万倍の計算を行うことができ、科学技術の様々な分野で、シミュレーションなどに有効活用されている。

宇宙開発の分野では、1990年代以降、太陽系の各惑星や準惑星・小惑星に探査機が盛んに送られるようになった。2003年に打ち上げられ、世界初の小惑星サンプルリターンに成功した日本のはやぶさ、2006年に打ち上げられ、世界で初めて冥王星の接近観測に成功したアメリカのニューホライズンズなどが代表的である。また、2011年には、地球の上空400kmの位置に国際宇宙ステーションが完成し、世界各国が交代で宇宙飛行士を送り込み、無重量状態を生かした各種の実験を多く行っている。一方で、2010年代中盤以降、民間による宇宙飛行も始まっている。今後は、月面への再度の有人探査、火星への有人探査などが計画されている。生理学・医化学のトピックでは、日本の山中伸弥が発明したiPS細胞、目的とする遺伝子の配列を自由自在に変えられるゲノム編集ファイザー社やモデルナ社が開発し、COVID-19ワクチンとして使われている、遺伝情報を用いたmRNAワクチンなどの開発が、冷戦後のものとして注目される。物理学の分野でも、超ひも理論など、我々の宇宙の作りの根本に迫る理論の構築が進められている。

芸術の分野でも、インターネットの発達により個人が自分の作品を手軽に発信できるようになった。それだけでなく、ストリーミングによる音楽作品の入手が一般的なものとなった。一方で、不法にアップロードされた芸術作品による著作権侵害も大きな問題となっている。

持続可能な社会のために

編集

冷戦が終結すると、国際的な協調によって世界の諸問題を解決しようという機運が高まった。その代表例が地球温暖化の問題である。1988年に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が設立され、1992年にはブラジルの地球サミットにおいて気候変動枠組条約が採択され、1994年に発効した。1997年には、気候変動枠組条約の締約国会議COP3で、温室効果ガスの排出量の削減のために京都議定書が締結された。京都議定書では、各国ごとに温室効果ガスの排出量削減の目標を提出し、これを達成することが義務付けられた。ところが、その後米国のブッシュ(子)政権はこれから脱退し、超大国が不在の中で2005年の発効を迎えることとなった。そして、2015年にはパリで開催されたCOP21パリ協定が採択された。これは、先進国だけでなく、発展途上国も含めたすべての国が温室効果ガスの排出量削減に取り組み、産業革命後の気温上昇を2℃未満に抑えることを目標とする。しかし、2017年には米国のトランプ政権が脱退を表明。2021年にバイデン政権が復帰を表明したものの、先行きは不透明な状態が続いている。しかし、地球温暖化の影響による異常気象が世界各地で相次ぐ中、科学と人類の利益を重視した政策が必要となっている。

絶対的貧困も大きな問題である。絶対的貧困とは、1日に1ドル90セント未満で暮らす人々のことであり、世界人口の約1割が絶対的貧困の状態にある。軍縮については、2017年に核兵器の使用・製造などを禁止する核兵器禁止条約が採択され、2021年に発効した。しかし、すでに核兵器を保有している国は1か国も批准していない。差別の問題も解決していない。特に2010年代以降は、同性愛者や両性愛者、性違和者などの性的少数者への差別が問題となり、世界各地で是正策が進んでいる。

こうした諸問題の解決は、我々の世代だけでなく将来の世代を見通した持続可能な社会を築くため、持続可能な開発を行う上で重要である。国際連合は2000年にミレニアム開発目標を採択し、2015年までに達成すべき「飢餓の撲滅」や「環境の持続可能性」など8つの目標を掲げた。ところが、この目標はほとんど達成できず、2015年にはミレニアム開発目標の後継となる持続可能な開発目標が採択された。これは2030年までに達成すべき17の目標を掲げたもので、ミレニアム開発目標と異なり、先進国での取り組みも重視されている。我々は持続可能な開発目標などを参考にしつつ、持続可能な社会の構築に取り組んでいかなければならない。そのヒントは、これまで学んできた歴史の中に必ず見出せるはずである。

  1. ^ サーズ・コヴ・ツーと読む。直訳すると「重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2型」となる。
  2. ^ コーヴィッド・ナインティーンと読む。直訳すると「2019年型コロナウイルス疾患」となる。