利用者:すじにくシチュー/サブページ2
シラス台地を悪者にするゴミ鹿児島県民のマインドコントロール
編集シラス台地の がけ崩れ は、火山灰(シラス)の保水性が悪いとかじゃなくって、単に鹿児島県民が山間で乱開発をしてるからだよ。
写真を見たが、あんな場所、がけ崩れが起きて当然だ。
自民党の総裁選の教育政策について、ほか
編集小泉進次郎、ほか
編集『小泉進次郎氏「大学に行くのがすべてじゃない」 奨学金返済負担めぐる質問に…ネット「論点ずれてる」の声』
奨学金についての質問に、石破茂元幹事長は「私は親ガチャって言葉が一番嫌いなんです。親の経済力に余裕がないと教育を受けられなくなれば、格差の拡大再生産になる」とし無償化に言及。高市早苗経済安保担当相は、返済が困難になった場合に返済免除に切り替えられるシステムを提案した。
バカげてる。
まず、無償化をすると、単に大学進学熱が高まるか、大学受験競争が過熱化するだけ。
昭和の戦後、高校の数を増やしたことにより、大学受験が過熱化したのと同じ。
なのでもし教育改革をやるなら、けっして大学を強化するのではなく、高校卒業までと、大学入試だ。大学は淘汰する対象だ。
文系の大学なんて、理科室もなければ美術室もない、専門バカの養成所だ。
新しい高校の校舎は、少子化で廃校になった校舎を再利用すれば済む。
基本的には、今の大学で教えている偏微分とかの数学を高校2年くらいの範囲にして、それについてけないヤツは高卒みたいな扱いで良い。
ところで、評論家の藤沢数希はこういう。[1]
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 日本のトップティアの中学の中でも進度が速いところだと中3で数2Bまで終わっちゃうのよ。そのあと大学入試の演習とかやるわけなんだけど、たぶん、そこまで進度が速かったらふつうに高2までに多変数の微積、微分方程式、線形代数まで終わらせて、高3でだいぶ戻って大学入試の勉強したほうがいいよね。 午後8:47 · 2021年2月20日
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa · 2021年2月20日 東大文系行く人、中3で数2Bまで終わってるのに、そこで数学の学習が止まって、まったく無意味なパズルの練習がそこから3年間続く。本当に日本の教育は終わってるけど、仕方ない。 さらに表示
関連して、今の高校で教えている程度の理科と数学を、中学校で教えよう。wikiのどこかで話しているが、日本は数学先行型の高校教育だ(欧米よりも数学だけ早い)。その数学先行型を徹底させる。
日本中のすべての高校を、今の理数科高校みたいすれば解決する。
もう文系の授業は、あまりイラナイ。
次のように、日本の大学の多くがゴミなので、よって大学ではなく高校や塾などで高度なことを勉強する社会に変えるほうが良い。
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa なぜ日本の大学は新しい産業構造に対応できないのか? 教授をクビにできないことが理由だが実はもっと悪い。大企業で基礎研究をやっていたが、その分野が枯れてしまったような人たちの受け皿として大学のポストがある。日本はいい大学を出て、国の方針に従ってずっとやってきたおっさんに異常に甘い。 午前1:27 · 2016年8月6日 Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa · 2016年8月6日 理系でずっと研究をしてきたけど、その分野が廃れてしまったらしょうがない。大学とか国家プロジェクトで、そういう人材を救済しては絶対にダメ。これからの若者が犠牲になる。そうやって、たまたま分野が終わってしまった、超高学歴なおっさんは、自分でなんとかすればいいだけの話。 さらに表示 Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa · 2016年8月6日 国家プロジェクトで大学と企業が基礎研究したけど、やっぱこの分野ダメだわ、となるじゃん。企業はリストラするしかなくなるんだけど、官僚も大学の教官も、リストラされる企業の研究者は可哀想に思うから、大学にポスト作ってあげるの。学生はダメな分野の研究室に配属されるという悲惨な仕組み。 さらに表示
実際に、私が法政大に通ってた時代の法政がそうだ。
オワコン分野の学者は、淘汰すべき。
別の文脈だが、評論家の藤沢数希はこういう。 [3]
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa · 2021年4月21日 塾とか進学校のほうが教育力がはるかに高いので、大学を3年にして、高校を4年にして、大学1年生で専門に行く前に勉強すべき数学、コンピュータ、英語、科学ライティングなんかを、進学校と河合塾とかで高校生に教えれば、すべて解決するけど。 さらに表示
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 大学入試を見ると、やっぱり数学が圧倒的に浮世離れしてて、負担が大きいなあ。僕は、物理の研究をしてたけど、高校の狭い範囲の中でこねくり回して作られた問題を手で解くスキルは、実際のところほとんど役に立った覚えがない。ふつうに多変量の微積や線形代数の基礎を勉強したほうがよろしい。 午後10:42 · 2016年2月27日
まず、藤沢の言う通り、高校を4年制にするのが良い。
これは、私が法政に通ってた時から同じような事を考えている。そもそも高校3年間の内容が、進学校でも終わらない。「終わった」と言ってるヤツはインチキ野郎。じゃあ、お前がwikiで高校レベルの教科書や参考書を書いてみろよ。
しかし数学だけに深入りするのは、時代に反している。
実際の工業では。非線形・複雑系の問題が多く、解析的には解けない。このため、現代の線形の解析に凝り固まった微分積分と、線形代数は、時代の進歩に反している。
よって、改革後の高校カリキュラムでは、偏微分などの触りを習うくらいで良いだろう。
やはり、プログラミングなど新しい学問を増やすのが近道だろう。あと、理科・社会科なども。
小泉は、高専の教科とか言っているが(これは麻生太郎の受売り。麻生が2015年から高専の量産化を提案している。)、
小泉いわく、
そういった手に職をつければ大学を出てからの所得と遜色なく稼げるようなキャリアが今は作れる」とし、「教育の多様化、高専の強化、こういうことも抜本改革でやっていきたい」と語った。
既存の高専を増やすよりも、普通科高校そのものを高専のような学校にしてしまうほうが早い。座学だけでいいなら普通科でも出来る。出来ないヤツは特殊学級あつかいで良い。
あと、神奈川県と埼玉県に国立高専が無い問題を解決しろや、自民党は。まあ、解決するつもりなのかもしれないけど。
でも、私立高専に不利になるから、だから東京都の私学無償化みたいに、日本全国で私学の高校・高専も無償化すべきだろうな。
w:桐蔭学園工業高等専門学校 みたいに、過去に私学が高専をつくっても学費などで人気にならないし。
中学校の「技術科」(「技術家庭」の「技術」分野)みたいなのを高校にも作るので対応するのが良いだろう。すでに「情報科」があるので、これを拡充すれば良いだろう。
ちょうど、空き教室とか増えてるし、高校に技術室の1つや2つ、増やせるだろう。どうしても無理なら、座学だけでもマシだろう。
芝浦工大とか電機大の付属校に、高専は無い。このように、旧来の高専には、あまり首都圏では需要が無いのだろう。
芝浦や電機大の付属校は、あくまで普通科である。(昔は電機大の付属校に電気科があった。)
理系に強い高校の普通科を拡充して、そこで機械工学みたいなのを教えるように改革するのが良い。
そのために、センター試験に機械工学みたいなのを出そう。そうすれば、予備校でも教えるようになる。
すでにフランス語とかドイツ度とかセンター試験に出てるんだから、機械工学とか電子工学みたいなのをセンター試験に出すのも良いだろう。
ところで、自民党の他の議員も、高専を視察している『自由民主1面コラム「幸響」鈴木 英敬 広報本部新聞出版局次長』2024年8月6日。
大学は淘汰すべき対象であり、既得権益である。いまどき「大学の校舎に通わないと勉強できない秘伝」なんかの時点で旧態依然であり、既得権益である。医学の手術とかならともかく、工学でそれでは困る。レッツ淘汰。
だから高校を改革して強化すべきなのだ。
今の日本の高専は、少し専門バカ寄りだし、機電系。土木などに片寄っているので(たとえば物理学とか数学の高専は無い)、別途、新しく高専のような教育機関を作り直すほうが良い。
だから高校を4年制にするほうが早いんだよ。そして、普通科高校の科目の中に、機械工学みたいなのを入れるの。
今の高専だと、学科が縦割りなので専門バカなので、学科は「普通科」とかせいぜい「理数科」とか「理工科」とかにして、そこで機械工学とか教えれば済むんだよ。中学なんて、技術家庭科で一つで全部を教えてるだろ。
高大一貫教育は避けるべき。なぜなら大学教員が浮世離れしたバカだから。
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa · 2018年7月14日 解決策は二つあって一つは欧米のように大学の成績で就職や大学院進学が決まる社会にすること。もう一つは実用的なことを高校のカリキュラムに落とすこと。現実的なのは後者で、例えばいまの高校数学にはビジネスマンが知っておくといいレベルの統計学が入っている。やはり後者のソリューションだろう。 さらに表示
高校入学後の国語は減らすべき。藤沢は現代文を減らせというが、古文漢文も、もう21世紀では用済みだろう。
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa · 2018年7月14日 一方で線形代数の入門的なところはカットされたが仕方ない。中途半端に線形代数を知ったところでビジネスマンの役には立たないから。あと高校まで来たら、いまの現代文の授業はいらないな。 さらに表示
余った時間で、情報数学や情報科学などの新しい事を勉強するのが良い。基本的に、あまり古い学問ばかり勉強すべきではない。
国立大学の多くを改組し、高専に変える。たとえば長崎大学みたいな田舎の国立大は高専にすべきなのだ。
それにともない、大学高専にも学区制を導入し、各県の人間(と隣の県民の子)だけが高専に通うようにする。
つまり、東京人が東北大に進学するような醜い行動を禁止する。ああいう下放みたいな高校生、人間のゴミなので、死んで。乞食は、とことん乞食である。私大に進学した麻生太郎を見習え。
麻生の高専の提案をもとに教育改革するなら、麻生の大学進学のように、田舎の国公立大には東京人は進学してはいけないのだ。
道州外部の国立大への進学は、理系のみ認める。しかも、志望理由書を書かせる。書けないヤツ、志望理由書がウソのヤツは落とす。
平成の改革で、医学部に面接を導入したじゃん。
まるで私立高校入試みたいに。ああいう方向性が正しいの。
公立高校入試みたいに、国公立大は、地域外の連中の受験を原則的に禁止すべきなの。
文系の馬鹿に発言権を与えるな。発言権を与えても決定権を減らせ。 「官僚は、自分の仕事を増やすために、どんどん事務を増やす」とか言うけれど、あれって文系の行動パターンなんだよ。
結局のところ、小学校卒業までに習う教育内容が、低レベルすぎてカスなんだよ。このせいで、中学受験とか高校受験とか大学受験が必要になってしまう。受験しないと、バカと一緒にされるから。
小学校は、もっと、進度を早くすべきなんだよ。早い進度についていけないバカは、特殊学級おくりで良いんだよ。バカが健常者ヅラをするんじゃねーよ。数学とかの一部の教科を除けば、いまの中学の参考書の内容なんて、小学6年生でも出来るだろ。
あと、小6の算数の文章題はいらない。さっさと代数を始めろや。
文系なんてのは、理系の補足にすぎない。
河野太郎
編集新共通テストの回数を増やすとか、東大・一橋大を地方移転とか言ってるのが河野。
共通テスト
編集まず、バカなのは
スポニチ『河野太郎氏「大学入試の共通テスト、一発勝負をやめませんか」年に複数回の実施を“提案”』, Yahoo ニュース ,9/11(水) 9:38
そして、「また、本当にそんなたくさんの科目のテストが必要でしょうか。試験科目から外れると勉強しなくなるという声を聞いたことがあります。試験のために勉強するものなんでしょうか。大学受験には関係ないけれど、面白いから学んでみるではいけないのでしょうか。大学入試に必要なこと、なんだと思いますか」と試験科目数にも言及した。
「本当にそんなたくさんの科目のテストが必要でしょうか。試験科目から外れると勉強しなくなるという声を聞いたことがあります」と言うが、試験科目を減らしたら、それしか勉強しなくなるだろ? それこそ、「試験のために勉強するもの」の典型じゃん。
馬鹿なの? 言ってる事が2行以内で矛盾してるじゃん。
対案を出してやる。
まずさあ、SATを真似るならさあ、英検みたいな検定試験の方式に変えろよ。試験回数じゃねえんだよ。方式がそもそも違うんだよ。
それと、数学の必修だ。SATは数学必修だぞ。
世界の多くの国でも、大学入学資格試験の多くは、少なくとも社会科学系と理系では数学が必修。数学の必修が、世界の大学入学資格試験での常識です。
どうしても数学を必修から外すなら、中学卒業レベルでも良いので、数学の検定試験をしろ。ともかく数学の必修が、世界の標準だ。
検定試験の方式に変え、問題の難度を下げ、代わりに、今の大学1年レベルの数学・理科および社会科学(ミクロ経済あたり)を出せばよい。
基本的には、高校入試の地域模試のような方式に変えれば良い。V模擬や北辰テストみたいなの。
そもそも経団連ですら「文系でも数学を学べ」とか言ってるのに、試験科目を減らして数学力を見ないとか、アホだろ河野。
経団連に従っているのは私のほうだし、世界の常識(数学が大学入学試験に必修)にしたがってのも私だし、検定試験の方式も世界の常識。
河野は、言ってることが世界の非常識。なのに自分は「世界の常識を日本に輸入している」とか思ってそうで、アタマわるいだろ。
森ヨシローかよ、お前はさあ。ラグビー脳か。
日本は、文系のカルトみたいなバカに、国を乗っ取られている。これを排除するため、数学を事実上の必修にしなければならない。その数学の出題も、けっして受験用の数学パズルではなく、工学や医学などの実学や、研究などから逆算した出題にしなければならない。
シンガポールみたいに官僚を理系にしなければいけない。中国の上海交通大学や清華大学のように理系が国をリードするように変えなければいけない。
まず、法学部の連中に、複素関数論やフーリエ変換あたりまでの数学を必修にすべきだ。物理も古典力学の微分積分が出来て当然。
理系にあらずんば、国家の指導者にあらず。なぜなら、そもそも日本の科学技術を支えているのが理系だからだ。
戦中の革新官僚が日本を高度国防国家に変えると言ったが、まさに今後の日本は理系中心の高度工業国家にならなければならない。
地方移転
編集すべきは、地方移転ではなく(それはもう筑波大でやった)、本当にすべき改革は、天野貞祐のコレ↓
一高校長時代には大学制度改革に際して「東京帝国大学(東京大学)を一般の大学と同じにしてしまった場合には、東大を頂点とした大学の格付けが生まれて受験競争が発生してしまう」として学部を置かない大学院大学にすることを提案したものの退けられ[注 2]、
東京大学を、学部を置かない大学院大学にすれば済むだけ。
そもそも最新設備を使って実験とかするんだから、高校卒業したばかりの子を集めるべきではない。
数学の偏微分や線形代数すらわからない高校卒業したばかりの子に、何をやらせてんだバカかよ文系は、ってハナシだ。
産総研とか理化学研究所とか、ああいうのと同じ感じにすればよい。
東大とかああいうのは「文明の配電盤」なので、大学院大学にすべきなのだ。
天野貞祐が、かなり昔から大学院大学にしろと言ってる。
天野さんが思いついてるのか。しゃーねーなー。教えてやるか。
私が就職したころ、産総研の下請けの中小企業だったので、実は産総研の学者から、ウチの企業の大卒が、不確かさ解析などの講義・授業を受けてるんだよ。
で、私、思ったんですよ。「こういうの、放送大学みたいにテレビ放映すれば良くね? 税金で研究してるんだし?」って。
で、誰もやんねーから、私がwikiで教科書をつくって強硬措置をしたって経緯。
ただし、東京大学さんを大学院大学にすると、東京の総合大学が無くなるので、
新たに、もう一個、国立大で学部中心の総合大学を作る必要がある。
たとえ、税金がかかっても、そうすべき。
この時代に、東京に国立大を新設しないといけない。
沖縄にOISTが作れたんだから、なんとかなるだろう。
医学部は難しいかもしれないが、東大文系は、これで良い。
医学部だって、国立の東京医科歯科大がある。これでどうにかなる。
千葉大だってあるし。
そもそも東京一極集中の原因は国会が東京にあることだ。まず、国会が栃木に移転しろ。(栃木の国会誘致運動が昭和にあった)
東京は国立の総合大学が東大しかない。なので移転は非現実。実験設備とかさあ、どう移転すんの。理系とかの大型の実験設備。もう移転は無理でしょ。
やるなら、すべての国公立大の研究費を均一にする事だ。
現状では、東京の国立大の、研究費の削減、および地方大への研究投資の増加だ。
学部ごとに、1校あたりの研究費に上限をつける。たとえ、どんなに研究成果が出ても、研究費をアップしない。たとえノーベル賞が出ても。
褒賞は、研究費以外の名誉をもって、優遇する。
そもそも既に地方国立大がある。この地方国立に東大から研究費を写すほうが合理的。
さて、学生数から言えば私大のほうが多い。
東京一極集中うんぬんを言うなら、私大の地方移転を進める必要もあるが、しかし、すでに郊外キャンパスがある。
法政や中央の多摩キャンパスとか典型。
早稲田の本庄、立教の新座。
そして、もはや国立大の学費のアップは避けられない。
学費を安くしたことで、東京の国立大が少なくなり、特に理系の大学が不足したせいで中高の教育までもが文系に片寄ったのが、色々な教育問題の原因だ。
たとえるなら、野球ドームの建設において、土建の企業が必要なのに、間違えて野球選手をあつめるような愚行。
そもそも官公庁が東京にあるのに、東大法学部だけ地方移転しても、卒業後は東京に行くので無意味。
河野はアホか
埼玉大に東大医学部を移転というのも案。
埼玉大はノーベル賞を出してるし、東大医学部はノーベル賞を出していない。
埼玉の国公立大に医学部が無い問題も解決できる。
東京の国立大学の医学部なら、医科歯科大があるしな。
いっそ埼玉大そのものを、東京大学の埼玉キャンパスにしてしまうのはどうか。
東京理科大だって、千葉と東京にキャンパスがあるんだし、あの要領で。
ならば、やはり国会と皇居ごと、北関東に移転するのが良い。
本質的には、道州制を見据えた改革が必要だ。
政治家は、筑波大とか東北大とか、東北ばかりに投資するので、首都圏のヤツが東大や横国に集まってしまう。もっと千葉大とか埼玉大とか横浜市大に投資しないとアカンのである。
基礎学力とは何か
編集用語の定義の再確認
編集まず、忘れやすい内容は基本的には、「基礎学力」ではない。
道管と篩管の位置関係とか、高校入試では頻出だが、しかしこれは「基礎学力」ではない。なぜなら、理系の人ですら、忘れるから。高校生物の教科書をつくるために分子生物学の本すら読んだが、道管と篩管の位置関係については覚えてない。
べつにそれを「高校入試で出すな」とは言わないが、しかし「基礎学力ではない」という事は、把握しなければいけない。
たとえば、建築の基礎工事が、その上物の建物を維持するように必要なので土台が建物の完成後にも残り続けるように、
「基礎学力」も、その上の実用的な技術などを維持するために必要なものでなければならず、また、基本的には年数が経っても残り続けるものが基礎学力である。
なので、たとえ義務教育の中学校や小学校で習おうが、忘れてしまいやすい内容は、もはや基礎学力ではない。歴史の年号とか、その並び替え問題とか、基礎学力ではない。
いわゆる「短期記憶」でしかない。せいぜい、数か月くらいが寿命の、短期的な記憶である。
別にそれを「教えるな」という主張ではなく、とりあえず「基礎学力ではないよね? それ」という話。
小国の首都名とか、各地の統計の暗記とか、歴史の中学以上の年号とか、そういうのは、基礎学力ではない。
歴史については、年号よりも、出来事の名称を覚えるほうが、基礎学力である。
たとえば、戦前の「シーメンス事件」について、それが何年かを覚える必要が、学問では無い。しかし、シーメンス事件の内容とか、それで山本権兵衛が失職したとか、そういうのは覚える必要がある。
なのに「大正時代は西暦何年?」みたいな年号を覚えても、こういう各事件の内容まで、まったく進んでいかないんだよね。
だから、(小学卒業以降の歴史出来事の)年号暗記は、基礎学力ではない。
高校入試の社会科の歴史は、基礎学力ではない能力を、中学生に要求している。
多くの大人は、試験対策を、学力養成と勘違いしている。工業高校卒・商業高校卒みたいな学力だと、学力養成と試験対策との区別がつかない。むしろ学校側がその場しのぎの暗記を奨励している毛すらある。その程度の暗記しかしてない大人も多い。普通科の進路多様校も、そうだろう。
日本の学問教育は、意外と劣悪だ。PISAみたいなのは良いらしいが。まあ、たぶん、塾とかが偉いのだろう。
公立高校の入試は、職業高校にしか行けないバカでも分かるように、しょうもない問題になっている。学校採用問題で、若干の難問アレンジは出してくるが、しかし土台が職業高校でも分かる低級問題なので、ウンコ問題。
改革案
編集高校入試の理科と社会科に関しては、いまの高校の「歴史総合」・「地理総合」・「公共」の内容を、中学に降ろして、高校入試にも出すほうが、もうマシだろう。
「上告」と「控訴」のどっちがどっちだっけとかの単純暗記を維持するくらいなら(現状の高校入試の公民)、高校の「公共」を中3で始めて、新しい用語を習うほうがマシである。
中学範囲の内容は、理社については、英検のような検定試験に改革しないといけない。そして、現状の高校の初級の範囲で、選抜を行うべきであろう。
「暗記の負担を減らすために用語を減らす、精選が必要」とかのタテマエで、形式的に用語の数を減らしても、その用語の、類義語との細かい差の暗記をしてしまっては、せっかく用語を減らした「精選」の意味が無い。「精選」が形骸化してしまっている。
しかも中学の範囲が狭いので、そういう形骸化した問題の比率が、比較的に大きくなってしまっている。
感想
編集歴史で、遠く離れた国の出来事の2~3年の差を覚えるのって、(同盟国どうしの歴史でもないかぎり)本当に何の意味もない。
なぜなら、そもそも国家の政策って、基本的には、そんな2~3年前の出来事では、決まらないから。
普通、もっと前からの15年くらい前からの長期計画というのがあって、そういうので政策は決まっている。今でいうグランドデザインとかマスタープランというのがあって、そういうので、国家の政策のおおよその方針は決まっている。
2~3年前の政策で、微調整がされる事はあっても、しかし政策そのものの根本はもう10年前や20年前に決まっている。日本の平成の規制緩和とかそうで、昭和の中曽根政権の頃から、大まかな方針がもう決まっていた。
中国の海洋政策とかも典型でしょ。日本の各種の政策もそうよ。
例外として、近隣国での戦争(紛争ではなく日中戦争レベルみたいなの)の勃発とかしない限り、あるいは世界大戦レベルの戦争が勃発しないかぎり、そんな2~3年前の出来事は、影響を与えない。
だから2~3年の差の歴史出来事の並び替え問題を出してくるのって、本当に、まったく出題者が歴史を理解できてない。
証拠に、高校入試の過去問の年号並び替え問題の解説を見ても、過去問の販売業者が、ろくに順序の背景の解説もできてない。そういう、愚劣な問題が出ているのが実態。
中学入試がヒドい暗記問題になりやすいのと同様に、高校入試の社会と理科も(特に社会の歴史と公民は)、なかなかひどい。
これらの歴史の年号暗記の欠陥は、けっして単に「無駄」というだけではなく、もはや「有害」なのである。特に社会科における歴史の年号の暗記は、もはや有害だ。
なぜなら、年号を覚えても、なんの理解も進んでいないのに、そして高校進学後や大学進学後の学問の内容ともズレているのに、にもかかわらず、時間を大きく暗記に割くので、ほかの分野の勉強時間がうばわれてしまい。もはや歴史の年号系の暗記問題(並び替えとか、年号系の正誤問題とか)は有害なのだ。
昭和の時代は少々の年号暗記は問題が無かったのかもしれないが、もう令和の現代では年号暗記は有害だ。
もはや学問ではなく、クイズ芸である。だから何一つとして、高校進学後や大学進学後の学問には結び付かない。そういうのは学問ではなくクイズ芸と呼ぶべきだ。そういうクイズ芸を入試で評価すべきではないし、公務員試験などからも追放すべきである。
歴史で覚えるべきは、年号ではなく、用語である。たとえばロシアの「南下政策」とか「不凍港」とか。キーワードとなる用語さえ覚えておけば、後から何時でも本を読んで勉強できる。
しかし、用語を知らないと、本を読んで勉強する事自体が困難になる。
なので、一問一答の形式の問題集は、教育的な効果はある。
しかしそれが受験に出づらかったりするので、日本の大学受験はゴミである。
ともかく、歴史の年号並び替え問題は、追放すべき悪習である。
そもそも、下らない順序とかの単純暗記をしないで済むように用語などの概念が編み出されたのであって、なのに順序を若者に覚えさせるとか、本末転倒。
大学入試の歴史(特に日本史)がゴミなので、だから地理と政経・倫理を選ぶわけだ。
よく、早慶の日本史がゴミだというが、私からすればセンター日本史とかもゴミだ。センター受験者の人数が多いので自己正当化されてるだけだ。ゴミが群れて自己正当化してんじゃねえよ。
彼らはゴミなので、結局、歴史の教科書を書けない。本当に何の社会の役にも立ってない無駄スキル。
歴史の研究でも年号暗記は不要だろう。実際に必要なのは語学力だからだ。たとえば、フランス語のできないヤツが、フランスの年号を覚えても、まったく意味が無い。本当に無駄スキル。
日本の文型教授はゴミ。たとえ業績をあげていてもゴミ。
オリンピック選手がどんなにスポーツで業績を上げていても、大学入試の新共通テストにスポーツを出してはいけない。
なのに、日本史・世界史の意味不明な年号並び替え問題が出ているので、これはオリンピック選手の暴走と同じように扱うべきだ。ヤツらを大学受験の共通テストから追放しろ。
理科もヒドい。「対照実験」という科学の基本的な用語すら中学範囲外なので教えられない。一方で、道管と篩管の位置関係は暗記させるわけだ。閃緑岩と花こう岩とかの違いとかもさ。
「理科総合」とか「総合理科」だか、科目名は忘れたが(コロコロと変わるし)、そういう理科総合みたいなのは、もう中学に降ろしたほうがマシだろう。
この方向性で改革すべし。
実際、普通科の進学校では、理科総合などは履修せず、同様の横断的な内容は独学で、となっている。
「探求学習のために、先取りしない」という可能性も考えづらい。先取りしなくても結局、暗記のための勉強に時間をとられる。ならば、むしろ集団で先取りしたほうが良い。公文式みたいな復習・暗記重視で、探究が進んだという話も聞かないし。
日本政府は教育政策が矛盾しており、弁解の余地は無い。
高校入試も大学入試も、数学・理科・社会は、問題の難度を下げて、代わりに範囲を広げないといけない。
にもかかわらず、日本政府および国公立大学は、逆の教育をしている。しかも「精選」とか思ってて、善行のつもりで、タチが悪い。
間違った試験制度を正当化するための、間違った入試出題傾向である。
本来なら、中学の数・理・社は、検定試験のようにして、一定以上の点数を取れたら上級の範囲に進むようにしないといけない。
英語と国語ばかり、どんどんと中高の範囲が広がっていく。中高の英単語はどんどんと増えていく。ろくに中学生は文法も身についてないのにさ。
英単語にそこまでの需要はない。あるのなら、今ごろ私大の神田外語大とか獨協大とかの偏差値が、河合偏差値で60を超え取るわ。
童話の『舌切り雀』の強欲ババアみたいなのが、英単語やら英検を奨励する、今の文科省と都道府県(大阪府みたいなゴミ県)ですよ。米国で一攫千金という、大きなツヅラが欲しいだけの強欲ババアのような欲深のくせに、なにを自分が「勤勉」「手本は二宮金次郎」みたいに自己陶酔して思ってるんだか。
構造化されている知識体系が必要なのである。単語は、構造化されていない。構造のための道具でしかない。
たとえるなら、筆記用具だけエンピツを100本とか集めて、なんの書き取り練習もしないヤツみたいな。
単語だけを覚えるって、見事に、なんの価値もないんですよ。だって英単語なら、しょせんは移民レベルだから。数学も理科も中卒レベルのヤツが、英語だけ出来ても、それ米英豪の底辺の移民と同じだし。
古文単語なら、それだけが出来ても、明治維新で不要になった儒学者の劣化コピーでしかないから。
なのに、官僚の無謬性みたいに、マチガイを正当化して、ウソをウソで塗り固めてるような連中が文科省とか国公立大とか。
生物学のDNAみたいな新しい学問から逃げて、いまだにホウセンカの道管と篩管とかの位置関係を覚えさえる中学理科の惨状には、腹が立つ。時代に逆行。そのくせ、「実験による思考力重視」とか思ってそうで、タチが悪い。
ソフトウェア開発と数学力とビル・ゲイツ
編集windowsをつくっているマイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツの逸話なんですが、
大学時代(ハーバード大)のビルが言うには、OS開発は、たとえば「ファイルをコピーする」「ファイルを移動する」などのような、どこのソフトウェアでも必要なプログラミング時の共通の機能をソフト化するのが本質だという事らしいです。今風に言うなら、共通の操作のモジュール化。
大学の「コンピュータのための数学」のような名前の授業に対する、ビルの反発らしいです。2010年ごろ、ラジオ番組(お笑い芸人の爆笑問題のラジオ)で日本マイクロソフトの人がゲストに呼ばれたとき、日本マイクロソフトの幹部の人がそういう昔話をしていました。
大学の教員に対して、ビルは「あなたの数学、間違っていますよ」、「なんなら、僕が教えてあげましょうか?」って。
物理ファン気取りは迷惑だなあ
編集このツイートのコメント欄で、馬鹿のゴミクズが軽々しく、知ったかぶりのデマで、
「大学では、生物は化学になる。化学は物理になる。物理は数学になる」
という好例のいつものデマを流布するが、迷惑なので勘弁してもらいたい。
まずさあ、大学初年次の量子化学で、シュレーディンガー方程式の計算なんかせんわ。「sp混成起動」みたいな結果の用語を天下り的に覚えさせるだけ。少なくとも法政大と電機大はそう。東大や東工大がどうかは知らない。
つうか、たしか、コロナ社かオーム社から出ていた量子力学の教科書で、東工大あたりの教授あたりが書いた3年向けの教科書で、ルシャンドル多項式あたりからの導出が書いてあった記憶。
3年でようやく習うレベルですわ。
考えてみれば、常微分方程式しかアヤシイ 大学1年生に、量子化学の計算なんて、無理だわ。(天下り的に公式暗記の授業は別だが、そういうのは少なくとも機電系では求められてない。)
たしか、阪大の物理学者の菊池誠がツイッターで言ってたと思うんだが、例のデマの「大学では、生物は化学になる。化学は物理になる。物理は数学になる」というのは、菊池いわく物理を理解しそこなった人の発想で、物理は数学でもなければ化学でもなく、物理はあくまで物理だと。
私もそう思う。
そりゃ、ツールとして便利なら、ちょっとした計算や化学知識くらいは使うってだけ。
現実として、世間の数学科卒に、物理を要する機械設計や回路設計なんて無理ですし。
出来るのは、物理学の中の一部の、数理物理学とか相対論あたりの分野でしょ。
私だって、シュレーディンガー方程式の性質を色々と知ってるけど、でもヒ素化合物とかの実験なんて、怖くて出来ないわ。
実際の大学の化学実験では、劇物も使うし、そういうのの対処を習うよ。だから暗記科目。
理科室レベルの安全な実験しかしてないから、分からないんだろうねえ。バカの一つ覚えで、数学を褒めれば、科学的に敬虔な態度だと思ってる宗教信者のような連中。
実務はどうでもいい。
ああ、あれだ。戦争経験のある思想家の山本七平が「父よ、あなたは強かった」という戦時歌謡曲を聞いて腹が立って、この歌詞をつくった作詞家をブン殴ってやりたいって言ってたのと同じだわ。
昔の就職先でも化学科卒の人が何人かいたけど、「暗記が得意」という自負でしたよ。あのね、化学科とか出ていても、就職後に危険物取扱者とかの資格試験を受けさせられるのよ。
機械工学は数学じゃないし物理でもないし。工作機械で事故を起こせば、ケガをするし、そういう学問だし。そうだと電機大では習ったし。
物理でも、高校時代の物理IIの授業で、大学での物理実験の事故の話を聞かされたし。
大学の物理学の研究の実験では、高電圧とか大電流とかも使うから、使い方を間違えると死んだり後遺症を負うから、公式を暗記するだけじゃなくて、きちんと考えながら理解しないとアカンぞって。
法政大の電気工学科ではそういうの習ってないわ。今はどうか知らないけど、昔はそう。なので、私はあの大学をなんも尊敬してない。
化学なら、中学(公立)で、「なんか危険な液体をあびたら、とにかく大量の水道水で洗え」って習ったなあ。バカの同級生がアンモニア(強アルカリ)を近くで匂いをかいで、それで先生に命令されて、水道で洗わされてたわ。
高校(獨協の付属)では、ドラフトチェンバーの使い方を教わったなあ。選択授業の「化学実験」で(そういう科目があった)、よくドラフトチェンバーを使った記憶。
研究ではどんな気体が発生するか分からないから、よくドラフトチェンバーを使うんだと。
化学はこういう科目。断じて数学ではない。
経済学もそうである。
サミュエルソン経済学の物理学を使った仮説は、実際の経済とは違うというのは常識である。
ほか、書籍『数学完全ガイダンス』でも、数学が好きなら経済学ではなく数学そのものをやればいいと、経済数学ばかりを勉強する一部の数学好きの経済学部生への忠告が書いてある。
その本に書いてある事ではないが、一般的に経済学で言われるのは、経済学で使う数学は、基本的には、経済学などでの数式はあくまで思考を整理する手段に過ぎず、言葉の代わりのようなものに過ぎない。
言語は国によって言い回しが違うので、いっぽうで数式なら各国の言語の慣用句などに左右されないという利点がある。なので、経済的な主張をする際、ところどころ数式の表現(平易な数式)に置き換えたほうが分かりやすい場合もある。数式といっても、経済学部のレベルの数式にすぎない。
数学人材によって物理が発展する例もあるが、史実はどちらかというと逆である。数学者の岡部恒治は、江戸時代の日本を例に、物理学の発展しなかった江戸の日本では微分積分学・解析学も十分には発展しなかったと、著書で述べている。
私の見た世界が狭いだけかもしれないが、少なくとも実務で、「物理は数学になる」以下略とか言ってる連中で、実際に設計なり発明なりで業績を上げた人を見た事ない。逆の人なら、見た事ある。
いまどき、ろくにプログラミングも出来ないのに、「数学は情報科学の基礎」とか言ってる連中、恥ずかしくないのかね?
そりゃ、中学校・高校くらいの数学なら基礎かもしれないけど。
「物理は数学になる」式のクソ野郎は、製造業でも嫌われてる。
たしか、浜松ホトニクスだったか(カミオカンデの部品のメーカー)、ノーベル賞の物理学者さんとは別の物理学者と対談したとき、
その物理学者が、上目線で物理学だから工学の事はほとんど知っているみたいな事を言って、浜松の社長を怒らせたってハナシが、書いてある。
浜松の社長さんは反論で「じゃあ、アナタ、この部品のここの技術を説明してみてくださいよ」って感じで。物理学者に、「なんも説明できないじゃないですかー」って。
このダメ物理学者みたいに、現場の技術者のアイデアとか知性とかの業績を、横取りしてるだけのクソとそのクソ支持者が、「数学は物理になる」式のクソ野郎。
高学歴なだけのクソ理系や国立文系が、「理系の大学の授業で論理的思考力が身につく」みたいなクソ発言を言ってるが、
そんなのは数学科とか、せいぜい情報工学科とか物理学科とか、一部の学科くらいだ。
ほかの学科は、最終的には暗記科目だ。工学部、化学はそう。生物はあまり知らない。
たとえば、授業などでの式の証明などの時間も、満足に与えられない。いや一応は、通り一辺倒には大学教員が説明するんだけど、十分に証明の演習をしない。その時間が無い。
たとえば法政の工学部の統計力学の授業なら、熱力学も教えてないのに統計力学の結果を教えるというクソっぷり。
そりゃ、国立文系あたりの暗記だらけの専門科目と比べたら、国立文系で履修できる数学や情報科学の授業がマシなのかもしれないけどさあ。
こういうのは、決して私だけがそう言ってるんじゃなくて、本当に理系の学科を出た評論家の藤沢数希(物理学科卒)も言っている。
藤沢数希の場合なら、ツイッターで言ってたのは、たとえばフーリエ変換とか大学で習って公式を使えるようにトレーニングしても、学部の段階では満足に理解はしてないって。
そりゃそうだ。一般大学の数学科では、かなり後回しに教える内容だもん。3年生くらいで。
数学ばかりを勉強している人たちが3年でようやく証明などを混みで理解できるのに、物理学科や工学部などで他の科目と併行してフーリエ変換を1~2年でやってれば、そりゃ公式しか理解できないって。
本当は、かなりジックリと、事前に常微分方程式と複素関数論を証明こみでジックリと読みこまないと、満足にフーリエ解析には入れないわ(これは法政の数学教員もそう愚痴ってた)。だから、フーリエ変換は本当はだいぶ面倒。
そういう証明とかの授業、工学部とか物理学科では、ハショってるんだよ。だから公式暗記の科目。
生物学科などでも、時間が無かったりでフーリエ変換は4年制に回ったりする事がある。複素関数論が、生物学科などでは3年生に回る場合がある(たしか、電機大の生命科学系が昔、そうだった。いまは知らない)。
数学ハッタリ屋に対するワクチン
編集数学の論文って難しそうに言われるけど、実は逆なんだよ。
論文の質を考えなければ、数学は論文を書きやすい分野なんだよ。
なぜなら、どの数学者が言ってたかは忘れたけど、定理を一般化するだけなら簡単で、なぜなら、「その定理の公理や前提を1つ削れば、自動的に一般化できるから」って理由。だから、もし定理を一般化した論文を書きたいなら、「意味のある一般化」をするのが難しいのだ、と言っていた。
離散数学の秋山仁も、そういう感じの説教を師匠のフランク・ハラリーから言われてたっけ。なにか仮定を置いてその論理的な帰結を提出して、師匠からダメ出しで「そんなのは自明だ。その周囲の関連事項を調べまくって要点を報告するのが数学だ」って。
数学は、「未解決問題を解くのが難しい」のであって、そうでなければ、数学の論文・研究は必ずしも難しくない場合もあるという事。まあ、実際は、どの大学も、最低限の質の担保をしたいので、そう簡単には論文を出させせないが。
こういうの分かってない知ったかぶりの馬鹿が、「大学で物理は数学になる」とか言うバカなんだろうなあ。
なお、パソコンのオペレーティング・システム開発でも、「単にOSを開発するだけなら、マシ今後などを身に着けたアマチュアでも出来る。難しいのは、OSを普及させること」って言われてる。
ソフトウェア開発でも、「プログラムを作り始めるのは簡単。難しいのは、高品質なソフトウェア製品を作りこむこと」ってのが、よく言われる。
数学科の就職先
編集まーた、バカ文系の記者が提灯記事を書いてるので、叩く。
『大学の数学科が「就職無理学科」→企業から人気&就職に困らない学科に変貌』, Business Journal , 2024.07.29 18:00
いやあのねえ、私が高校生だった2001年くらいの時に、私大のパンフレットで数学科の就職先とか調べましたけど、もうその頃からIT系とか製造業(おそらく社内SE)に就職してましたよ?
周回遅れ。
数学科の就職先が学校教師とかなんて、そんなん1970年くらいの発想じゃないのかな・・・。
多くの数学科の大学入試科目も、昔から数学+英語+理科(物理 or 化学)の3科目だし。
ネットのどっかでNECだか富士通だかの社内エンジニアの人を取材した記事を2015年~2020年くらいに読んだんだけどさあ、
昔、富士通とかNECではさあ、プログラミングをせずに抽象数学を使った研究をしてたらしいんですよ。
最近は教科書で減ったけど、昔はそういう情報数学の大学教科書も多かったんですよ。集合論とか数学基礎論とか証明論を駆使して、なんか定式化しようとしてる研究とか。東大とか京大とかに、そういう偉い研究者もいたりとか。法政にいたころ、書店でよく見たわ。
で、そういうのが、結局はあまりIT業界に役に立たなかったと淘汰されてきたのが大手日本IT企業の史実。
なのに、「数学がITに役に立つ」とか何か周回遅れ。
これはつまり、製造業やら金融にとって、必要なのは思考力ではなくエンジニアの学歴って事。株主とか客先とか末端労働者がバカなんだろうね。まあ、必要なのは「機械仕掛けの神」と、その司祭って事。
ゲーム開発会社関係者はいう。 「現在のゲーム開発では、線形代数・微分積分・行列・確率など大学で学ぶレベルの数学の知識を当たり前に使っているので、数学は実社会で使われないというのは妄想に近い。ウチの業界以外でもITに限らず数学を使う職種は今後ますます増えていくのは間違いなく、得意な学生は躊躇することなく数学科に進んでほしいと思う」
いやそういう数学を使うの、たぶん、ソニー本社とか任天堂本社とか、そういうクラスの会社ですよ・・・。
なんつうか、じゃあ例えばさ、中学校の数学の先生にゲームを作らせたら名作が出来るのかってハナシよ。
それにゲームの場合、
- 流体計算などが計算量の都合で実時限では不可能。ゲームでは実時間内での処理が問われる。なので大学数学の多くが単純には使えない
- 確率論どおりにシミュレーションして作ってもウケないので、演出的に確率をいじっている
などがある。
たとえば、RPGの魔法やらアイテムで「成功確率 50%」の魔法があっても、たとえば味方が使うときは確率70%で成功し、敵が使うときは確率30%で成功する、みたいなウソをついていたり。
本当に50%どおりに作っても、プレイヤーは「乱数がバグってる!」と錯覚して不愉快になる人が多いって、よく言われている。だから演出的に、ウソの確率を使っている。
ともかく、そんなんだから、あまり細かい数学は、アプリ側では使いようがない。
あ、OSとか作るハード会社は別だと思うよ。でもそういうのってソニーとかそういうレベル。
トンデモ英語教育学者が迷惑なので、名指しで批判する
編集見崎研志, 仲真紀子 というクズの学者が、英語の書きとり教育を、もっともらしく非効率だと批判しており、論文もある[1][2]。
コイツらが論文でデマを広げるので、大迷惑である。
実際には、教育現場の人たちから、反例が出ている。
たとえば、書籍
- みおりん 著『やる気も成績もぐんぐんアップ! 中学生のおうち勉強法入門』、2022年2月15日 初版 第1刷 発行、P153
- 國立拓治 著『くにたて式 中学勉強法』、大和出版、2023年4月28日 11刷発行、P138
で、反する報告が上がっている[3]。ただし、中学英語の単語の場合、よほど難しい単語でない限り、そう何十回と書かなくても3~4回くらいで覚えられます[4]。
基本的に勉強法は人それぞれなので、合う人・合わない人もそれぞれだし、同じ人でも習得の段階によって適した勉強法が変わるくらいです[5]。なので、(※ wiki追記: 犯罪以外で)「これは絶対にやるな!」のような「決めつけ表現」をしている情報は信じないことです[6]。
なのに、それに反する上記の見崎研志, 仲真紀子の論文は、トンデモ論文である。
算数の掛け算の順序とかと同じ類の、トンデモ活動。大迷惑。
私は名指しでコイツらを弾劾する。
英語の学習・教育に必要なのは、
なるべくバランスよく、
- スピーキング、ライティング、リーディング、グラマー、リスニングなどを行う事であり、
また、なるべくバランスよく、
- インプットとアウトプットとを行う事、
である。アウトプットは、習熟度に応じて、修正を受ける必要がある(文法ミス、スペルミスなどは高学年では直させる必要がある)。
教育の順序がどうかは人によるし、年齢などによるだろうが、さすがに「〇〇はしなくて良い」とはならない。
伝統的な練習法に対して、「〇〇はしなくて良い」方式の主張をしている学者は、おおむねインチキ学者であろう。
よって、見崎研志, 仲真紀子 は「〇〇はしなくて良い」方式の主張をしているインチキ学者なので、私は彼らを強く批判する。
また、単純に考えて、たとえば文芸好きなどで小説や作文などを読んだり書いたりするのが好きな子などは、リスニングよりも書き取りのほうが覚えやすいだろう。
書道や美術などを嗜んでいる子も、手を動かすほうが覚えやすいだろう。
別に、音楽をやっている子が、リスニング優先で耳から覚えるのは、私は否定しない。
多様な学習スタイルを、私は上記のように否定していない。
多様性を否定しているのは、見崎研志, 仲真紀子 たちのほうである、彼らは上記の文芸や書道・美術のような学習スタイルを否定しているわけだ。
理系ヅラの大前研一を叩く
編集『高校生の3人に2人が「受験がラクな文系」を選んでいる…大前研一「優秀人材を腐らせる日本の学校の大問題」 』
大前は、日本のIT産業が弱いのは理系の学生不足だと主張している。
トンデモない。
まず、理系の大学では、プログラミングの教育なんて、ろくにしない。その時間が与えられてない。
私も法政の入学当初、Visual C++ の勉強をしようとしたが、学校でロクに教えないのと、時間が無いので、あきらめた。
なお、Visual C++を勉強しようと思った理由は、ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド』のプログラミング言語が Visual C++ だという知識が、パソコン雑誌『コンプティーク』(当時はマンガ雑誌ではなく、パソコン雑誌だった)で知ってたから。
プログラミングに限らず、基本、理工系の大学では「手を動かして、なにかを作る」というのは、行わない。
少なくとも、私が大学生だった時代の、東京電機大(卒業)と法政大(中退)はそうである。
もう2005年くらいから、そういう座学偏重が問題視されているのに(たとえば、当時の子供むけ科学雑誌『子供の科学』にも報告されている)、なにも改善されていない。フォーミュラSAEという、理系学生の設計する自動車のレースがあるんだが、理工系の大学生の多くが、定期テストなどが忙しくて、そういう実務的な大会に出れないという問題が、もう2005年くらいから報告されている。
大前いわく
日本衰退の元凶は文部科学省である
とのこと。
日本経済衰退の原因は、大前のような理系知ったかぶりの評論家の戯言を真に受ける経団連だよ。
昭和の日本技術はライセンス生産だし、基礎科学とは無縁
編集ネット上で、暗記馬鹿の科学者がデマをまいて、たびたび基礎研究とか基礎技術とかに昭和の日本は莫大な投資してたとかデタラメを言うけど、
昭和の高度成長期の日本製品は、ライセンス生産だよ。ライカのカメラとかそうでしょ。
だから1980年前後の日米貿易摩擦で「日本は欧米の発明にフリーライドしている」と叩かれたんであって。
2010年前後のノーベル賞ラッシュは、アメリカの批判をかわすために投資したのが要因。
ノーベル賞と日本の製造業を安易に結びつけて、製造業がさかんだった昭和の高度成長期の時代は自然科学への投資も多かったような論調があるけど、史実に反している。
自称「文理融合」と科学哲学は文系なゴミ
編集これは書籍『分数ができない大学生』シリーズで、たしか数学者の誰かが批判してるんだが、
クーンのパラドックスへの数学者の批判を例に、実際にはこのパラドックスは成り立ってないよねって説明をしている。
たとえば、相対論では、過去の電磁気や力学の理論を導出できる(マクスウェル方程式とガリレイ変換から、特殊相対論っぽい式を導出できる)。でもクーン的な発想では、相対論とニュートン力学とを、対話不可能と区別するんだろと。クーンの理論、現実とは違うじゃん、間違いじゃんって。
また、実験によっても相対論は確認できる。(マイケルソン・モーレーの実験)
とまあ、ここまでは数学者の主張。
以下、『分数のできない大学生』は言ってない。
対話不可能なのは、旧世代の科学者ではなく、そもそも科学者ですらない世間の既得権益の素人が、対話不可能・困難な相手なだけである。特殊相対論の場合は、単に大学1年レベルの微分積分もできないくせに学者ヅラしているバカが、対話不可能な相手なだけである。
実際には科学者どうしでは、実験や式などを共通語としての対話が可能だから、学校の物理教育でも相対論を考慮した物理教育に移行したわけで。
このように、理科は割と自己改革をできるのである。
しかし世間の「科学哲学」やら「文理融合」などは、理系にばかり変革を求める。あたかも、理系の自己改革能力が低いかのように。
科学哲学はよくメタ認知みたいな事を言うが、しかしメタ認知能力が低いのは科学哲学者のほうだろう。「文理融合」論者もまた、理系に自己改革を求めるが、自己改革能力が低いのは「文理融合」論者(実態は文系)のほうである。
実際の科学の理論の決定は、経済効率的または教育効率的な都合で左右されたりもする。
たとえば、やたらと暗記する事の多い理論が提唱されても、たとえ実験結果を説明できても、暗記項目が多くて使いづらいので、普及しづらい。
これは、たしかパスカルが言っている事である。なるべく少数の原理から、多くの物事を説明する仮説を提唱するのが科学だと。
しかし、こういう基本をすっ飛ばして、やれポパーだの20世紀の科学哲学書ばかりを読んで、その主張を機械的に当てはめるだけの「科学哲学者」なり「文理融合」なりという低能が実態である。
社会学がゴミなのと同様、科学哲学もゴミである。
なお、「科学が仮説にすぎない」という主張は、べつに哲学者の専売特許ではなく、普通に数学者のヒルベルトあたりの世代が述べている。「ビールの幾何学」というのがある。
ヒルベルトの『幾何学基礎論』である。ヒルベルトの『幾何学基礎論』の発行年は、1899年である。
[https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222485902 Yahoo 知毛袋 『幾何学について教えてください。 ヒルベルトは『幾何学基礎論』の中で、』2009/01/23]
点、線、面を「テーブル、椅子、ビールコップ」と置き換えても、幾何学の論理自体は成立するという主張である。
なお、もちろん実際には、中学高校の数学では、面をビールと読んだりはしない。なぜなら、工業などで不便だからである。たとえば、もし機械加工で「面取り」をするとき、それをビール取りとか言いかえるは時間の無駄である。
なのに、バカの一つ覚えの「科学哲学者」や文理融合で、理系の変革を求める論者は、ビール取りをしている変人である。
1899年よりも知識水準の低い、科学哲学マニアの多い事。
やはり、理系科目のできないバカには、本当の意味での「文理融合」は無理である。
日本の共産主義の中高カリキュラム
編集考えたくないイヤな可能性だが、文科省や教育学者が、高校教育カリキュラムの設計で、日本の公立進学高校のカリキュラムから逆算して、安直に教育カリキュラムを制定している可能性。
米国のフェミニズム批判の書籍 The war against the boys による告発では、女子に都合がいいように教育カリキュラムが不当にゆがめられ、その結果、男子が得意な数学の内容が削られ、数学の英才教育みたいなのが公教育からどんどんと消失していった、という話がある。
日本は、これを公立高校に都合の良いカリキュラムとして、教育内容をゆがめることを行っている疑いがある。
どう考えても、私立の開成高校のような予習中心の先取り学習のほうが、自然でしょ。だって、図書館とかを使って興味あることを探究的に勉強してたら、そういう予習中心の勉強になりますよ。思い出してよ、小学生のころの勉強家の同級生の子とか、そうだったしょ。
だから本来は、早慶マーチ付属校あたりの高大連携をしやすそうな私大付属校のカリキュラムのなかの成功例を中心に、日本全体の高校教育のカリキュラムを決めなければいけない。当然、カネは掛かるが、本来なら教育はそんだけ研究にカネが掛かるのである。
よく、「東大卒は専門バカ」みたいに言われるが、けっして高校生のころは視野が広かったのではなく、高校生のころから受験だけの専門バカだったのである。それは公立高校出身でも変わらない。
なぜかその高校生のうちからバカが、共産主義の魔の手によって私学に責任がなすりつけられるが、しかし公立高校も同様だろう。
だって、公立高校の進学校の連中、受験に出ない美術とか音楽とか家庭科とか、ろくにやってないじゃん。
教育学者の中に共産主義者が入り込んでおり、共産主義にもとづき、上記のようにフェミニズム的な方法論で、共産主義的に公立有利なカリキュラム設計を行っているという、邪悪な教育学の設計が行われている可能性がある。
またそもそも、日本の美術教育自体、公立進学高校みたいなのに都合よくなるように歪められて設計されている可能性がある。フェミニズムによって米国の数学教育が歪められたのと同じように、美術や音楽などの芸術の権威そのものが、歪められている可能性がある。
さて、私立出身の私が、wikiの教科書でほぼ5教科の全科目を書いたが、公立出身者はいったい何をしてるんだ?
公立は、開成とか灘とかと違って、受験にとらわれれない幅広い教養を身に着けているはずなんじゃないのか? 公立高校は人間形成をしているはずなんじゃないのか?
しかし現実、公立出身者も私立出身者もだが、wikiにかぎらず、多くの知識人とされる人間は、受験以外の基礎学力的な教科書をロクに書いていない。
つまり、前提がウソだったことになる(背理法)。公立の教育は、けっして幅広い人間形成をしていない。
書籍でもさ、たとえばアニメの技法書を読んでて、その本の著者はなまじ勉強ができたから公立進学校に行ったんだけど、周りは全然絵を描く趣味もなかった的なことを言っている人はいるし。
出典は、
西澤晋 著『リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座 (漫画の教科書シリーズ) 単行本 – 2009/7/13 』
で、著者・西澤の高校時代、マンガ絵を練習していることが教師にバレたら、教師から勉学で期待されなくなったらしい。
出版物以外からの情報でも、似たような公立進学高校の受験中心の指導に対する、公立高校出身者からの批判の情報はある(情報源のプライバシーのため、伏せる)。
なのに、なんで公立高校の進学校が、幅広い人間形成の環境みたいに扱われてるんだ? おかしいだろ。
いちおう、自由選択科目で美術IIとか履修できるけど、べつに全員が履修しているわけじゃないだろ。
旧制一高がエリートは本当か?
編集『開成でも麻布でもない…戦前の「旧制一高」合格校ランキングで絶対王者・日比谷高校を破った私立校の名前 』
ツッコミとは違うが、保管庫と疑問。
通説では、旧制の中学について、1934年からは不況で私立中学が旧制中学のすべり止めとか言われてるが、本当か? 「麻布・開成は公立の「滑り止め」の時代に」と小タイトルである。つまり、開成・麻布が公立の日比谷のすべり止めだったというわけだ。
リンク先の統計では日比谷の430人に対し、開成は46人である。数字から明らかなのは、単に、旧制一高の出身校として公立中学出身者が多いというだけである。
そもそも旧制一高って、そんなに良いのか? 旧制一高がウンコ高校と考えることでも説明できる。たとえば、旧制一高の進学実績があまり良くない可能性。
Yahoo知恵袋『旧制第一高等学校から東京帝国大学以外の大学に進学する学生は一定数いたのでしょうか』2015/10/18 21:13
ベストアンサー 基本的に、一高=東大進学ではありません。 確かに旧制一高を卒業した人の半数強は、東京帝大に進みますが、 東京帝大の人気の学部(法学部や医学部、工学部など)は 選抜する入学試験があり、一高以外の全国の旧制高校のつわものが受験します。
ですので、たとえば昭和7年の東京帝大法学部への入学者は、 一高から98人、三高(京都)から42人、六高(岡山)から38人、 旧制浦和高から32人、五高(熊本)から32人となってます。 他の旧制高校からも入試を突破してきますので、 東京帝大法学部の学生のうち、旧制一高出身者は3分の1程度なのです。
なお、学習院中の連中が旧制一高に進学してたのって、明治の1909年くらいまで。
通説では、「学習院は一高に合格できないバカ文系」みたいな説。だが、別の可能性として、一高が学習院に嫌われてる可能性。一高が貧乏人で共産趣味の右翼のカスみたいな。
また、公立の旧制高校だからといって、理系に強いというわけでもなさそうだ。
・成績劣等生の下記3名などは、一高中退後、無試験で入れる文学部に進んでいます 菊池寛は、一高中退後、京都帝大文学部に進み、作家となり文芸春秋社を創設。 山本有三や土屋文明は、一高中退後、東京帝大文学部に進み、作家や歌人に。 ******************************** また理系クラスも、東京帝大医学部・理学部・工学部進学ばかりではなく、 成績が悪いためかクラーク博士にあこがれてかで北大医学部とか、 金属工学を学びたくて東北帝大とか、物理をやりたくて京都帝大とか、いろいろです。
ネットを調べてたら、馬鹿サイトを発見
『47都道府県の「旧制一中」の栄枯盛衰…地元トップを維持する名門22校と凋落した元名門17校の全リスト』2023年12月25日 11時15分
ノーベル賞受賞者を2人輩出した洛北高校 28人の日本人ノーベル賞受賞者(米国籍取得者を含む)を見てみると、25人が公立高校出身で、そのうち7人が旧一中の卒業生だ。旧京都一中だった洛北は日本人ノーベル賞受賞者第一号の湯川秀樹、第二号の朝永振一郎を輩出した。 あとは、山口(山口)が佐藤栄作、日比谷(東京)が利根川進、松山東(愛媛)が大江健三郎、藤島(福井)が南部陽一郎、北野(大阪)が吉野彰である。 公立高校以外では、国立の大阪教育大学附属から山中伸弥。私立は同志社の江崎玲於奈と灘の野依良治だけで、受験に特化した教育の弊害だと思う。
「私立は同志社の江崎玲於奈と灘の野依良治だけで、受験に特化した教育の弊害だと思う。」かあ。
そもそも戦前の私立大の多くは文系の学部だぞ、バーカ。よってその付属中高も、基本的には文系の学校だ。佐藤栄作とか並べるんだから(まあ彼は平和賞だが)、戦前生まれの話がメインだろう。
まず、WW2の前に富国強兵政策として、ようやく有名私大に工学部が出来た。さらに私大に理学部が出来たの、もっと後の時代。たとえば終戦時、明治大にも法政大にも理学部は無い。今でも法政大の学部は工学メイン。当時の理科大はそもそも理系教師を目指す教育大みたいな場所。工学院大とか芝浦工大とかああいうのは戦前は専門学校。
医者の学校も、戦前は多くが専門学校だし(医専)、そもそもがアカデミックな研究機関じゃないのだわ。また、森鴎外の脚気の失敗のように、アカデミックな人だからって成功するわけでもなし。
まあ、そもそもソ連なんてノーベル賞を輩出しまくったのに技術は三等国で、ノーベル賞の信ぴょう性そのものがあやしいが。大体、開催国のスウェーデンがねえ、いまや没落国家だし。
ノーベル文学賞もクソなんじゃないかねえ。夏目漱石なんて受賞してないけど、大江より日本じゃ価値あるでしょ。いやまあ、外人の価値は低いのかもしれないけど、海外の文学マニアそのものに価値が無いし。
農業への偏見の強い農学部・新設ブーム
編集山下知子『農学部、新設相次ぐ理由とは AI・ロハス…偏見なくしたら先進的でスマート 若者を魅了』2020.08.24
21世紀のいまどき日本の大学の「農学部」を出ても農家になるわけではないし、そもそも大学がそういうカリキュラムではない。言い訳ていどに多少の実習があるだけ。
農家になる人が行くのは、農業高校か、よくて農業大学校とかである。
『偏見なくしたら先進的』とか言うが、しかし農業高校や農業大学校はブームではないわけで。
私は高校カリキュラムを調べてるから分かるが、地方の公立高校の地域連携型の農業コースなんて、生徒数不足ばかりで統廃合の対象だぞ。
たとえば
- HTB北海道ニュース『【人口減少で閉校へ】養蜂場にドローン…独自のカリキュラムなどで新入生が前年比倍増の留辺蘂高校(北見)』2022/09/15
- 日テレNEWS『【地域の学校】生徒減少で迫られる決断… 高校再編に地域の人々は 愛媛 NNNセレクション』2022/10/27、2:00 あたり
など。
私、電機大の生命科学部の隣にある理工学部に通ってたけど、養蜂してる学生なんか見たことないわ。
いやもう、マジで、難関大学を褒めてる受験マニアみたいな連中どもに腹立つ。
つまり、実際の「農学部」への大学受験生の中身は、農家に「なりたくない」みたいな偏見を持っている層が、理系大学進学をしたいからという「農学部」ブーム。生命系を学ぶから、うまくすれば医療系への編入学にも使えるしって算段だろう。
つまり現実は、世間での農家への偏見が高まりすぎて、もはや「農学部」が農業を捨てて事実上の生物学科になったってのが実態である。なおこれは「工学部」も同様であり、今の工学部は実際は物理学科である。いまどきの物理学科では流体力学とか固体力学とか教えなくなったので、そういうのを工学部が引き受けているだけである。
つまり、大学の理系ブームの実態は日本社会としては悲惨なものであり、現実の大人社会の工業も農業も人気は復活していない。
「工学部」を出ても就職先は工場ではなくIT企業、農学部を出ても就職先は農場ではなくIT企業、そういう世界である。
まあ、国際経済学部とかでアフリカ経済とかを勉強しても、絶対にアフリカなんかに移住したくないのと同じ。
べつに文学部の国文科を出ても大多数は出版社に勤めるわけじゃないし、法学部を出ても多数は弁護士にも官僚にもならないし、英文科を出ても通訳になるでもないし。そういうのと同じ。
要するに、「工学部」や「農学部」も、法学部とか国際なんとか学部と同じになったってだけ。
あーやだやだ。こういうゴミ野郎が、「自分は農業に偏見が無い!」みたいに思ってるんだろうなあ。ゴミ野郎が
古賀広志 著『デザインサイエンス研究の系譜と課題』(日本情報経営学会誌)[7]
サイモンの『システムの科学』について(下記の「彼」とはサイモン)、
彼は,「工学部は物理学や数学の学部になり, 医学部は生物科学の学部となり,経営学部は有限 数学の学部となってきた」と科学至上主義の潮流 を厳しく批判する( ibid., p. 111;邦訳 153 頁).
教育ニュースへのツッコミ
編集『【独自】必修の習字授業なく「君が代」指導もなし…国立奈良教育大付属小で不適切授業 検定教科書使われず学校教育法違反も』
いま、君が代が小1から小6まで必修なんですね。
ハッキリと文句を言うぞ、馬鹿政治家。
あのさあ、小学校1年がさあ、古文を理解できるわけないじゃん? そういう常識的な感覚わかんないのかね? そんなことも分かんないくせに、「美しい国」みたいなこと言ってるの? 馬鹿なの? 小学校1年って、コトワザすら知らないくらいだよ。「一石二鳥」とか「急がば回れ」とか知らないんだよ。
俳句と和歌と古文の区別すらついてないのが小学校低学年ですよ?
やっぱ、文系のバカ政治家に教育政策は無理ですわ。シビリアンコントロールの都合で仕方なく、神輿を担いでるにすぎない。「神輿は軽いほうが担ぎやすい」って言うしな。
政治家自身が「急がば回れ」が出来ないお猿さんだから(東洋のマカーキ)、現実の子供の学力を無視して君が代の小1必修とかしてるんだからねえ。
教育学へのツッコミ
編集『よくわかる学校教育心理学』、ミネルヴァ書房、2010年420日 初版 第1刷 発行、P165
近年、英国社会は情緒的なスキルを犠牲にし、知能や学業成績を重視してきた結果、社会病理や暴力が増えてきました。
暴力多いのは移民を増やしたからだろ。
田中耕治 編著『よくわかる授業論』、2011年2月20日 初版 第5刷 発行、P.161
1989(平成元)年の改訂では、男子は技術系列、女子は家庭系列という扱いもなくなり、木材加工、電気、家庭生活、食物の4領域が男女の区別なく必修領域として設定されました。ここにおいて、男女共修の技術・家庭科が開始されることになります。
うちの公立中学では、1991年以降も技術家庭科が完全には男女共通ではありませんでした。当時ゲーム機に既にプレステとかサターンとかあった時代なので、1991年以降のはず。
当時の必修の「木材加工・電気・家庭生活・食物」は男女共通の授業でしたが、それ以外の単元が男女別でした。
男子は金工、女子は保育などがありました。なお、コンピュータは男女共通。
まあ、なんかの実験校だったのかもしれないが。
あ、思い出した。中高事代に塾で知ったんだが、いくつか離れた町の中学で、中学時代に三角関数を教えてたらしいわ。そういう話、聞いたことある。
塾講師はそういうのにも対応してどの地域の塾生にも分かるように講義するんだから大変そうだなあ。
アニメ評論家の岡田斗司夫が良く言うが、書店によくある『やさしいコンピュータ』とかの解説書が、わざわざ「やさしい」と宣言するジャンルが実際には易しくないように、わざわざ「男女共修」とか宣言するのは実際には男女共通ではない部分があるのが実態。
P.219
高校生にもなれば男女問わず肌パックや整髪グッズを利用し身だしなみを整えるということは、子どもたちにとっては当たり前のことです。
当たり前じゃねーよ。どこの底辺高校の地域だコラ。
うちの近所の割と校風のゆるい私立高校を幾つか見ても、整髪グッズ(ムース的なの? ほか整髪ジェルとか)なんか使ってないわ。
だいたい、運動部とかどうすんの? 汗でムースがベトベトになって気持ち悪いぞ(体験談)。
制汗スプレー(汗のにおい消しスプレーのヤツ)を使ってる女子高生とかは電車でチラホラ下校時刻に見るがさ。
さいきん近所の高校の吹奏楽部めぐりとか公民館に行って色々みたけど、特にムースしてる子なんか見んわ。
たぶん、化粧してるノイジーマイノリティの馬鹿ガキのカスがウルせえんだろうなあ。
べつに「ムース禁止すべき」とまでは言わないし不良だとも言わないが(私も学生時代に試しに使ったことあるんで)、部活動などでムース使用の必要性のある機会は、だいぶ限られるぞ(少なくとも運動部では不要を通り越して邪魔)。私が文化祭を見に行った範囲では、どこの文化部の女子高校生も使っとらんかったわ。
仮に一部の文化部で公演行事のさいにムースとか整髪ジェルとか使ってたとしても、けっして「身だしなみ」などという表現でいうような理由じゃないわ。もっと切実な理由だろうさ。たとえば演劇部員が髪型を維持するのに整髪料を使ったとしても、そういうのは普通の言語感覚では「身だしなみ」とはいわないでしょ。
マジで、こういった90年代のブルセラ社会学者みたいな知った風な物言い、腹立つわ。
酒井朗 ほか編著『よくわかる教育社会学』、ミネルヴァ書房、2012年4月20日 初版 第1刷 発行、P.108
特に1999年に出版された『分数ができない大学生』では、有名私立大学文系の学生の多くが分数計算のできない状況を明らかにし、大きな話題となった。
タイトルにある『分数ができない』は釣りタイトル。
実際に『分数ができない大学生』の本文を読むと、早慶マーチあたりの文系大学生が苦手とするのは中3~高校数学IAの二次関数あたりの範囲。
タイトルがもし『高校数学IAのできない早慶文系大生』だとしたら、世間の低学歴の高卒とか昭和の旧課程(『基礎解析』とかあった時代のジジババ)の人には買ってもらえないでしょ。だからジジババや低学歴の人にも分かりやすくするために、誇張した釣りタイトルをつけてるんですよ。
教育学者のくせに、匿名掲示板レベルの伝聞みたいな記述をしてんじゃねーよ。きちんと原典に当たれやオメー。
平田オリザ「演劇を生かした教育」2023年02月07日 (火) 2023年12月03日に閲覧.
演劇教育の最大の目的は、他者理解にあると思います。 教育の世界ではシンパシーからエンパシーへという言葉が最近よく使われます。私はこれを「同情から共感へ」「同一性から共有性へ」と訳してきました。 シンパシーは、可哀想な人がいたときに可哀想だなと自然に思う感情です。情操教育などを通じて、こう言った気持ちを育てることも重要です。
反論。幼稚園や小学校などの授業でお遊戯の演劇をしたことある大人は多いだろうが、現実として、大人のなかには発達障碍者もいる。
で、だいたい発達障害なんてのは、情操が幼稚なので、幼稚園児みたいな感性と思考力である。
結局、学問を抜きにしての芸術だの体育だけによる人間形成は困難である。学問を通さないと人間形成は難しい。
たとえば体育についてなら、もう明治時代から、福沢諭吉にすら体育(部活の運動部)の主導による人間形成は否定されている。
明治時代に慶應義塾の福沢諭吉が似たようなことを考えているらしい[8]。体育教育や部活動についての福沢の考えは下記のようらしい。
慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 著『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』
そして福澤諭吉は、体育は単に立身出世の一手段に過ぎないのであって、体育を人生の目 的としてしまうことは、目的と手段を混同してしまっていると言わざるを得ないと述べ、 以下のようにも述べている。
そして、実際に福沢は下記のように発言したらしい。
元来書生に腕力の不用なるは、恰も力士に学問のなきと一般なれども、唯如何にせん、 学理上肉体と精神との間に密接なる関係ありて、身体を健かにせざれば、智識を進る こと能はざるを以て、已むを得ず学校に体育の設もあることなり。然るに書生の輩が 体育を口実として漫に遊戯に耽り学業を怠り、剰さへ肉体の強壮なるに任せて有りと あらゆる不養生を行ひ不品行を働き、独り得得たるが如きに至ては、言語道断の次第 と云はざるを得ず(8)。
美大も音大やそういうクリエイター系専門学校卒とかもメンヘラの巣窟だろうな。
平田オリザの界隈にはマスコミ業界人もいるだろうから慶応大卒もいるだろうけど、口先では演劇による人間形成に賛同しているだろうけど、口先だけにすぎず、彼らの出身大学のカリキュラムはそうなってないよ。慶応に限らず、早稲田や東大やマーチの卒業生のマスコミ業界人も同じ。
慶應に演劇学科なんてないもんな。日大に芸術学部があるくらいか。
そういうウソをつくことに抵抗感のない人がマスコミ業界人。まあ、視聴者がコジキで無料コンテンツばかり見ている他責のゴミ人間だから、そういうサイコパスっぽいマスコミ業界人のほうが、ちょうどいいんだろうね。
田中耕治 編『よくわかる教育課程 第2版』、ミネルヴァ書房、2018年2月28日 第2版 第1刷 発行、P.199
節「生活科の設置とその意義」で、
また、このころ小学校に入学した子どもたちが、授業中に座っていられない、教師の話を聞かない、子ども同士のけんかやトラブルが多発するなど学校にうまく適応できない、いわゆる「小1プロブレム」も問題となっていました。このような要因から、低学年における合科的な指導の必要性が認識されるようになりました。
↑このロジックが正しいとすると、生活科の導入によって小1プロブレムは解決するか、または解決に向かわなければいけない。
しかし、現状は2010年代以降も引き続き、プレジデントオンラインでも小1プロブレムが言われている。汐見 稔幸『「小1問題」の本質は学校の古臭さにある 』 2018/04/08 11:00 (2023年に12月2日に確認)
たしかに1980年代の当時は、上記のようなり理屈が言われてたと言う歴史そのものは、正しいのだろう。結局、当時の人の言っている事が、間違っていた、というだけでしかない。
それどころか、同著『よくわかる教育課程』P114を見ると、
2000年ごろに「小1プロブレム」が注目されるようになって以来、幼少連携の実践が広がっています。
とすらある。
2008年の小学校学習指導要領では、小1プロブレムの解決に効果的であるとして、生活科を中心とした「スタートカリキュラム」の編成が推奨されました。
とすらある。
しかし、プレジデントオンラインの記事で2018年にもなって、引き続き「小1プロブレム」が言われてるのだから、要するに、少なくとも、上述の複数の学説のうち、どれかが間違っている事になる。
書籍の著者の田中耕治さんの学説が間違っているという事ではなく、田中さんの紹介している教育学界隈の学説のどれかは間違っている可能性が高い、もしくは、学説の正しさが十分には証明できていないという事。
個人的な意見としては、そもそも「小1プロブレムって、90年代の当時、そんなに現場で深刻だったか?」と思う。自分の小学1年のころの80年代の体験では、とくに教室で暴れまわるガキが多いとかの印象は無い。そりゃ私語の多いガキはいたけどさ、先生が注意したら普通に生徒は黙りますよ。
よく少年法の議論で、「少年犯罪の増加とか凶悪化とか言うけど、実際に統計を見ると戦後から一貫して少年犯罪は減少傾向だ」という学説がある。それと同じじゃないですかねえ。
騒ぐとしたら、移民のガキとか、そういう連中でしょ。
なお、1990年代後半、たしかゲームプロデューサーの広井王子が、ラジオ番組『広井王子のマルチ天国』で、文部省がすでに小1・小2の理科・社会科を廃止して生活科を導入したことについて、批判していた記憶。広井は「文部省、バッカじゃねーの」と言っていたような。「文部科学省」ではなく「文部省」と言ってディスってたんで、2001年の省庁再編よりも前の発言のはず。
生活科自体はもっと前から1992年からあったが(wiki調べ)、たしか1990年代後半(エヴァンゲリオン旧劇が流行してた頃)、なにかテレビのニュース番組では生活科の指導要領か何かが大きく変わるニュースがあったはず。
証拠に、明治図書のサイト上條晴夫 著『子ども主導型の「学びのしかけ」を考える―「インパルス」 』2012/12/15 掲載でも
1990年代後半ぐらいに、日本の教育界はある大きな曲がり角を曲がります。 教師主導型の教育ではなくて子ども主導型の教育へ授業づくりへと変えることができないかという、大きなチャレンジを開始したからです。 一番大きなキーワードは「支援」という言葉でした。それまで熱心に教師主導型の教育技術の開発・普及をしてきた先生たちの動きがピタッと止まります。代わりに子ども主導型の教育技術の開発・普及を行ってきた先生たちの動きが勢いづきました。授業で言うと「生活科」と「総合的学習」の導入です。 この大きな変化が完全に定着をしたかというと、もちろんそうではありません。その後はゆり返し、ゆり戻しの動きが起こって、今はむしろ教師主導型の教育技術の勢いの方が強いくらいです。しかし、一度、大きな曲がり角を曲がって、子ども主導型の教育技術の開発・普及を行う先生方が表舞台に出たことの意味は決して小さくありません。教師主導ではない教育技術のあることが白日の下にさらされたからです。
広井のラジオ番組の発言のように、もう1990年代後半の当時のオタク産業では生活科が馬鹿にされてたはず。
90年代当時からもう、教育学者と文部省がバカにされてて、なんか机上の空論みたいなのを教育学者が言ってるというイメージで、それを文部省が指導要領に取り入れる、みたいに馬鹿にされてた記憶。少なくともオタク産業ではそういうイメージ。
ほら、エヴァンゲリオンでも作中のマグマダイバーの回で、日本のカリキュラムがおっくれてーるーみたいにアスカラングレーから馬鹿にされてたじゃないですか。
数学者などの出した1999年の『分数が出来ない大学生』シリーズよりも前に、もっと前から教育学者がバカにされてたという証拠が広井王子のラジオ番組。
なお、「総合的な学習の時間」は小学3年生以上を対象にしており、生活科は小学1・2年生を対象にしており[9]、対象の学年が異なる。このため、「生活科と総合学習が重複している」という指摘は制度的には当たらない(※ 生活科と総合学習が、重複だと批判する意見が世の中にはある)。
谷田貝公昭・石橋哲也 監修『コンパクト版 新保育者シリーズ 新版 教育原理』(一藝社)、2018年3月30日 初版 第1刷 発行、P.12
いわゆる、オオカミ少女のアマラとカマラの話を紹介しており、
ここで思い出されるのは、幼い時にオオカミにさらわれた人の子が、後年見いだされたときは、四足で歩行し、その習性は狼と変わらなかったと言われ
この報告は、ゲゼル(Gesell, Arnord, 1880 ~ 1961)によって『狼にそだてられた子』(原題は『狼の子と人間の子』="wo;f child and human child")と題して、一冊の本にまとめられている。
ツッコミは、これは作り話だと現代では言われている。『「オオカミ少女・アマラとカマラ」は嘘だった!?』, 2014年01月25日(土)20:59
彼女らはシング牧師の庇護のもと、次第に人間社会に馴染み人間らしさを取り戻しつつあったが、数年後に病死してしまったという。
現代でも適切な保護・教育を受けられず育った子供の事例として取り上げられる『アマラとカマラ』だが、この話の信頼性については大きな疑問符がつけられる。まず、彼女たちの保護された状況に齟齬が見られること、彼女たちの身体的特徴のうち一部はシング牧師や彼の近縁者からしか報告されていないこと。また人間が狼達と共生するには生物学的な壁があるため不可能とする説もある。例えば狼は日に50キロもの距離を群れで走って移動する。これに野生動物に比べ遥かに身体能力に劣る人間の乳児ないしは幼児が同行できるとは考えられない、などだ。
更に彼女たちを納めたスチール写真に『年代や月日、場所が違う筈なのに背景や彼女たちの背格好が酷似している』ものが複数存在している事も判明している。この事から、現在では彼女たちは先天性の身体・精神的障害を患い棄てられた孤児であり、野生児の背景は教会への援助を得るためにシング牧師らが誇張したものがそのまま伝わってしまったと考えられている。(山口敏太郎事務所)
ほか、もう2008年に下記の題名の書籍が出版されている。 鈴木 光太郎 著『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』2008/10/3
上記書籍『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』の発刊の2008年 から 2018年『コンパクト版 新保育者シリーズ 新版 教育原理』発刊までの10年間、教育学はなんも進歩してきてこなかったのだなあ。
「なるほど、教育学では査読とか機能してないんだなあ」と実感した。
2008年から1年間くらいなら見落とすのも仕方ないかもしれないけど、しかし10年も期間があって見落とすのは、元から教育学の体制の問題がある。
【公式】HOME広島ニュース『【子育てと学ぶ】専門家「教育予算は十分と言えない」教員不足解消に一役?複業先生とは…(カミコとマナブ)』2023/10/29
この動画で、教育予算を増やすべきだと言っている。
以下、批判として、別サイトから引用。
『出口治明の「死ぬまで勉強」 第9回 日本の教育予算が低いわけ』2018/10/25
「給与は上がらないのに、税金や年金などの負担が増えている」と実感している人は少なくないでしょう。しかし、世界的に見ると、じつは日本の国民負担率(国民所得に対する、租税負担と社会保障負担の合計の割合)は低いほうです。 OECDの統計によると、対象34ヵ国のうち日本の国民負担率は下から7番目で42.6%。それに対して、フランス、ベルギー、デンマーク、イタリア、フィンランドなどの欧州諸国は60%を超えている国が多く、スウェーデン、ノルウェーなども同じような水準です。
税金を増やすと文句を言うくせに、教育費を増やせと文句を言うテレビ広島って乞食(こじき)だよね。視聴者の広島県民が乞食なんだろうな。
「高福祉、高負担」って習ってないのかね?
社会保険料や国民健康保険料に文句を言うようなマスコミ視聴者連中のコジキどもが、公教育のための増税に文句を言わないはずはない。
あ、思いついた。「教育国民保険」みたいなのを作って(「国民教育」だと日本史とか国語の教育みたいな別の意味になってしまうので「教育国民」の語順で)、全国民から一律に一定額を徴収すべきだわ。月5000円~1万円くらいで。そして、乞食どもに負担をさせるべきだわ。
消費税とかを財源にすんじゃなくって、保険税にすべきだわ。そして乞食に負担させろ。
『検証・学歴の効用』でも、民意を批判しており、高福祉を政府に望むくせに高負担したがらないダブルスタンダードな態度の民意は批判されている[10]。
P228から始まる章『4 教育を軽視する社会 地に足がつかない「北欧好き」』で、(※ もうこの時点で日本の北欧かぶれを批判する章タイトルである)
日本人は、学齢期の子どもがいるかどうかで、教育の公財政支出を望むかどうかが変わる事実を、アンケート結果をもとにつきとめ、
P.230
中学生以下の子どもがいれば学校教育施策への公財政支出を重要だというが、子どもが中学を卒業してしまえば、その思いは冷める。
とある。さらに
P.232
単に北欧のイメージが好きで、教育や社会保障を充実してほしいものの、税金の負担には賛成できないというレベルの結果であるようにもみえる。
とある。
ああ、思い出した。法政大に通ってたとき、私はモグリで教職課程の講義を聞いてたんだけど、
教職課程の教員が、授業で「少人数制教育とか色々と言ってる評論家が世間にいるけど、でも国はいま財政難だから、教師の人手は増えない見込みが高いですよ」ってなことをゼロ年代にもう言ってたわ。
法政大なんて革マル派の拠点のサヨク大学で有名なのに、その大学ですらもうゼロ年代に予想されてる教育費の財源の問題に2020年過ぎにもなって気づかない田舎者の地方ローカル放送局のテレビ視聴者って、本当に情報弱者すぎるよな。
清貧ヅラした田舎者。
- ミネルヴァ書房、『よくわかる教育学言論』、章節 VII-5 『隠されたカリキュラム』P.100. 批判
これは著者への批判ではなく、学会への批判なのだが、
「隠されたカリキュラム」という用語があって、学校での規律などの教育を意図的に隠していると界隈は言うのだが、
そもそも、平成以降の日本の学校は隠して無くね? って思う。(19世紀とか第二次世界大戦前とかは、どうか知らない)
規則(Rules)・規制(Regulations)・慣例(Routines)の3Rが「隠されたカリキュラム」だというのだが。(もともとは「潜在的カリキュラム」という言い回しだった。「見えないカリキュラム」ともいう流儀もある。)
少なくとも、平成以降の高校以上では隠してない。だって学校説明会とかで、校則や学風や校風といった規則・規制・慣例を明示してるじゃないですか?
その規律とかを、直接は教わらずに、雰囲気から学ぶように要求されてるなら、隠れたカリキュラムと言えるかもしれないけど、
でも、それ、実態とあってなくね? 学校説明会とかで明示されるし、入学後も生徒手帳とかに校則が明示されてたはず。
高校以前の教育でも、結構な規律が、幼稚園~小中学校で、教育者から口頭で言われたと思うが?
「授業中に私語をするな」とか、「イジメをするなとか」、「物を盗むな」とか犯罪するな系とか、「ツメは定期的に切れ」とか、「同級生を叩くな」とか、「〇〇するな~」とか、普通に言われたり他人が言われたのを見た記憶がある。
ジェンダーうんぬんを同著では言及するが、エビデンス的には普通に口で教師や親などから指導されてるよね? 男子は女子トイレに入るなとか幼稚園とかで習うだろうし、男なら髪を伸ばすなとか親に言われてるはず。
中学入学以降なら、校則とかで、頭髪検査とか明示されてるし(されてた)。
規律が明示されてるというエビデンスなら枚挙にある。「隠されたカリキュラム」は2000年以降、隠されてない。元の言い方の「潜在的カリキュラム」と言うなら反論は無い。
「見えないカリキュラム」ですなく、もはや校則ですらネットの発達で世間には見えている。私立なんか、自発的に校則や校風などを明示して宣伝しているほどだ。
どうも「隠されたカリキュラム論」、フェミニズム社会学と同レベルの、エビデンス無視の陰謀論っぽい。
結局、フェミ連中みたいな左翼連中が、自分たちの要求が世間に通らないのを、社会の洗脳のせいだと言いたくて、それを時代遅れの「隠されたカリキュラム」論を使って正当化してるだけでしょ。
だから、この本でも
男女別の名簿や男性中心的な教科書の内容、性別による教師の対応の違いなどが、性についてのステレオタイプな見方を隠されたメッセージとして伝えていると指摘しています。
とジェンダー論を記述しているんであって(P.107)。
あと、もひとつツッコミ。名簿って、隠れてないよね。
私、小中高で保健委員とかしてたから、名簿を毎日見たりしたよ。仮に保健委員をしなくっても、卒業アルバムとかで名簿と同等の卒業生一覧を見れるはず。
あと、2010年以降、もう多くの小中高で、名簿は混合になってるか、少なくとも卒業アルバムの生徒一覧は男女混合になっているし、授業中の座席の配置も混合になっている。座席については学校見学とかを見に行けば見れるはずだし、見学をいちいち見なくてもネットにある学校紹介の動画とかで見れる。
いやまあ、著者がそう言ってるんじゃなくって、教育学界隈がそう言ってるんで、著者に文句を言っても仕方ないんだが。
とりあえず批判として、教育学界隈は、論理構成が浅い、甘い。理系だったら、けちょんけちょんに批判されてるような論理構成。
卒業研究とかで教授にツッコまれまくるアレ。理系なら「素人質問で恐縮ですが」ってツッコまれるアレ。教育学部はツッコミどころが違うんだろうな。
論理構成を見てるんじゃんくって、お作法を守ってるかを見てるという。それこそ、批判されてる「隠れたカリキュラム」じゃないですか。
あ、『悪口は自己紹介』っていう格言があるね。「隠されたカリキュラム」論は、教育学部の自己紹介、教育学界隈の自己紹介って事か。納得。
エビデンス検証の論理構成の甘い、エビデンスよりも価値判断重視の姿勢こそが、悪い意味での「隠されたカリキュラム」だと批判しておく。
「男性中心的な教科書の内容」って記述も、理系批判っぽいなと、私は疑っている。もちろん実際は理系こそ、キュリー夫人の例でも分かるように実力主義なのだが(数学者ネーターとかでも良い)。
だって、社会科とか、もうかなり前から中高の教科書で、ジェンダーとかフェミニズムとかの内容を紹介してるよな。それこそ私が子供だった2001年ごろからもう、当時まだ「ジェンダー」という用語こそ中学教科書になくても、女性の権利がどうのこうのとか教科書で言われてて、大正時代の平塚らいちょう がどうのこうのとか教育されてたし。
フェミイデオロギーに従わない理系を、「男性中心的」だと批判している、論理のすり替えではないか。
いやもう、フェミ社会学を筆頭とする社会学の印象論は、文系学問のガン。
「隠されたカリキュラム」の存在は、家庭や地域の経済的不平等の視点からだけではなく
経済的不平等うんぬんは、そのカリキュラム内容が地域差がある場合に生じうるのであって、隠れていても全国統一なら、別に格差要因にならないよね。
名門私立高校の校風なんて、まさに潜在的カリキュラムだけど、隠していないし、でも全国統一化された教育じゃないから庶民階級との格差要因なわけで。
教育学界隈の主張はこのように、エビデンスに反している。
P103
公立中高一貫校について、
「高校受験がなくなり、ゆとりある学校生活が送れる」というメリットが強調され、教育課程の作り方・実行の仕方次第で、大学受験のためではない教育が可能となる、という実証データも得られました。
↑チョー詭弁。根拠は
EduA編集部『公立中高一貫校の難関国立大合格率ランキング、トップは県立千葉高校 大学通信が調査』2022.10.28
プレジデントFamily 中学受験大百科2023『「親孝行の子供よ、ありがとう」小石川中教、県千葉、西京…公立中高一貫校から難関国立大合格率トップ50校 』 2023/07/13 11:00
そもそもこいつの理屈だと、高校受験のある工業高校も商業高校も中高一貫校ではないので、工業高校も商業高校も大学受験のための教育となってしまうが。
コイツ、内心はかなり高卒就職を差別しており、読んでてすげえ腹立った。
このクソ偽善者が。
高専とか無視してるのも疑問。高専だって、大学2年あたりの内容まで一貫だが、その後は編集試験はあるぞ。
高校受験のある総合科高校とかも無視してるし。
P117
もちろん、全国の学校における「学力」の向上に、家庭の教育力が大きな意味をもつことは、文部科学省の全国学力・学習状況調査などによっても、成績上位の秋田県の秋田県での家庭学習の果たす役割の重視などで明らかにされてきましたが、それのみでなく、家庭における人格形成がその子どもの学力の向上に役立っていることも確かです。
全国学力テストは、私立の半分は参加していない。
また、科目は国語と数学(小学生は算数)だけである。
下記のYahoo知恵袋の批判が、的確だろう。
Yahoo知恵袋『全国学力テストで秋田県が1位の理由がわかりますか?』
kjh********さん
2010/1/6 20:34 簡単なことです。
首都圏をはじめ、都会になればなるほど多くの人が小学校や中学校のうちから私立に進学します。つまり優秀な人は私立などに進学し、そうでない人が公立に残ります。多くの私立では学力テストに参加しませんので必然的に受験が定着してない田舎の秋田県などが上位になります。
冷静に考えて優秀な学校がなく、学習環境が劣悪な秋田県が実力ありきで一位ということはあり得ません。学力テスト自体が今の教育現場を考慮してないものということですね。
他サイトのPDFでは、下記のような批判もある
平成 21 年度はすべての公立小中学校が参加する中で、私立学校の参 加率は低かった。東京都など、私立中学校への進学者が多い地域では、調査結果から地域 の実態がわかりにくく、調査の信頼性にも影響すると言われる。
- 高木 稚佳(東京大学教育学部)『高校生の「勉強意欲」―進路多様校の普通科と専門学科を比較して ―』 の論文PDFに対する批判。
P.51
まず、高校生の勉強意欲の低下を示す調査 を挙げたい。日本青少年研究所(2009)が行 った、高校生の国際比較調査の結果によると、 日本の高校生の 1 日の勉強時間は、10年前と 比較して1.5時間ほど減少している。また、 学校の勉強を「きつい」(「とてもきつい」+ 「まあきつい」)と感じている高校生は約 8 割 で、調査対象 4 か国(日本、アメリカ、中国、 韓国)中もっとも多かった。日本の高校生の 勉強への意欲が、際立って低いことがわかる。
↑ それ、低いのは家庭での自発的な予習復習の時間であって、「意欲」の高低じゃないよね。話題をスリかえんなよ。
「高校生は家庭学習をすべきだ」という、単なるお前のイデオロギーでしかない。
学校の勉強の「きつい」というのも、それは意欲と関係ないよね。
たとえばスポーツ選手は練習がきついけど頑張るじゃん。同様、「勉強がきついけど頑張りたい」みたいな子だっているわけで。「きつい」の回答者のパーセントの割合は、なにも意欲の証明になってない。
この人、スポーツとかしたことないの?
Benesse教育研究開発センター(2005) の調査では、「勉強しようという気持ちがわか ない」という質問への回答を学年別に示して いる。それによると、「そう」(「とてもそう」+ 「そう」)と答える生徒は、学年が上がるにつ れて増加し、高校生でピークに達する(小学生 で36.2%、中学生で56.3%、高校生で59.6%)。 また、同調査には、高校生の家庭での平均学 習時間が示されている。進学校に通う生徒が 平日85.7分、休日120.5分であるのに対し、進 路多様校に通う生徒は平日17.4分、休日23.6 分であり、高校偏差値層による大きな開きが あることがわかる。 以上の調査の結果から、高校生の勉強意欲 の低下が示された。
示されてねえよ。フザけてんのか。
示されたのは、「家庭学習をしたい」という気持ちの低さだ。
部分集合と全体集合とをスリかえんなよ。
- 有斐閣アルマ 『新しい時代の教育方法』批判
P169批判 『第7章 授業をどうデザインするか』への批判
「これは、工場の組み立てラインのようなイメージではなく、1つの芸術作品を制作するというイメージで授業をとらえるものである。」
↑ ライン設計者は設計(design)してるし、芸術家はデザイナーではなくアーティストだし、アーティストの中にはグラフィックデザインなどの分野を嫌う人すらいる(知人)。
「そこでは設計図通りに授業が進むことをあまり考えてない」
↑ 「設計」は英語でdesign だと分からない業界が教育学か。英和辞典を調べられない業界に教育を語られても。
授業が計画通りに進まないこともあるという意見自体は、まあ、特に反対はしない。
「教師用指導者や市販のワークシートや授業のマニュアルに従って、授業を進めていくとしたら、それは授業のデザインとはいわない。」
ルーティンワークは悪いのだろうか? ワーカーはデザイナーより職業差別されるべきなのだろうか?
また、医者の多くはルーティンワーカーではないだろうか? 医者が標準医療を無視したら社会悪では?
土木や電力など社会のインフラは、デザイナー(設計者)以外の多くのメンテナンス技術者によって支えられている。ほぼルーティンワーカーである。
著者の職業差別が透けて見えて、かなり腹立つ。
P171
国語について
「教材文が扱っている題材に関する知識や筆者の主張が学習内容になり、理科だか社会科だかわからない授業になることもあった」
と言ってるが、そういう歴史もあったのかもしれないが、しかし直前ページの著者のデザイン論から論理が飛躍している。
P172
「要するに、国語科の教科内容が曖昧だったのである。」
↑ それ、デザインと関係ないよね。文科省あたりに不満を言うことはデザインとは言わないよ。不満を解決できそうな具体案を提案することがデザインだよ。それは高校の情報Iの情報デザインの単元でも習う事だと思うが。
ともかく、論理構成がおかしい。個々の言ってる内容自体には、特に反論は無いが、論理構成が全体として飛躍ぎみ。
P176
「単なる詰込みやドリルでは知識・技術が身につくことはない」
↑ エビデンスに反しており、間違っている。 反例は漢字ドリルや算数ドリルなど、いくつもある。著者の願望でしかない。スポーツの素振り、美術でもデッサンやスケッチを多く描いて手で覚えるのを無視。
高校あたりからの教育なら、教育内容の抽象度が増してくるのでドリル等の有効性が下がる可能性も考えられるが、だからといって小中高ひっくるめて「身につくことはない」と断言できるものではないだろう。
身についてないのは教育学界隈の論理的思考力だろう。
P178
『古谷教諭は子どもに「知の喜び」「知的好奇心」を味わわせたいと語っていた』
↑ だったらドリルでも知的好奇心を味わえればいいんじゃないか。先ほどのドリル批判の主張の証明になってない。
漢字ドリルに知的好奇心を感じる子どもとか、ガン無視か。
ああ、ゆとり教育時代に、数学好きの学生がガン無視されてたのを思い出して、なんか腹が立ってきた。
P180
『「勉強」は往々にして入学試験や学力テストのための「ごまかし勉強」(藤澤,2002)に陥ることがある』
定期試験では丸暗記は効くけど、入試では効きづらいのが実態。
理系の大学受験の場合、中堅校以上では入学試験で丸暗記の勉強では通用しないのが普通。文章題が一切解けないので。
高校受験でも、一定レベル以上の偏差値の高校では、丸暗記みたいなのは通用しない。国語の現代文と数学で沈没するので。
定期試験だったら授業で習ったことを丸暗記できるが、入試は定期試験ではないので。
P.180
「教室という空間は、多くの子どもが集まって学ぶところであるから、当然、対話的・共同的な学びあいが前提である。」
前提ではない。お前は満員電車の中で対話しあうのか? 会社の研修だって、社員どうしで議論なんかしないが、それでも学習成果を出している。議論というか打合せとか会議とかをすることはある。
著者は論理的に飛躍している。
私が言いかえるなら、「せっかく学校には学力が同程度の多くの子どもが集まっているのだから、家庭ではできない、対話的・共同的な学びあいの機会も設けたほうがいいだろう」くらいの言い回しなら分かる。
P186
「単なる記憶や受動的理解ではなく」
と言うが、しかし語学などの学習は暗記の比率が高くないだろうか?
法学などでも、事務系の地方公務員あたりになるなら、法律の内容は暗記せざるを得ないだろう。
医学も、解剖学などは暗記せざるを得ない内容である。
単なる暗記をしなければいけない分野もある。
この人は「ワーチ」と言う学者さんを引用して述べてるが、その人がどんなに偉いか知らないが、偉い人の理論だろうが現実と合ってないなら、その理論はマチガイなんだよ。
絵の練習法と同じで、理論通りに練習してうまくならないなら、その理論は間違ってるんだよ。
P190
「生きて働く力」
「生きて働く力」を教えるために暗記はダメみたいな事を言うが、しかし実学を教えれば済むだけではないだろうか?
P190
「席に述べたように、プログラム型の系統学習(一定の科学的な知識・技術を発達段階に沿って学習させる教師主導タイプ)かプロジェクト型の問題解決学習(子どもの興味・関心をもとに学習課題を決めて追求する学習者中心タイプ)かという二元論ではなく、それぞれの長所を生かすような統合型学習システムの構築があらためて確認できる」
→ 読んだが確認できませんでした。直前の文章から、論理の飛躍がある。「確認できるものであってほしい」という著者の願望では?
それとも、先って別の場所? 先ってどこ?
P190
「実践的にいうと、」 (中略)「単調で機械的なドリル学習で技術を身につけたりするのではなく」
↑ 間違っている。反例は、少なくとも小学校レベルの国語の漢字学習など、ドリル的に訓練するしかない。英単語もほぼ同様。そういう実例を無視してる時点で、実践的でないだろう。
P202 ここから第8章
P202
『各種の実態調査によると、「学びからの逃走」と言われる事態が進行している。「国語ぎらい」や「理数離れ」を示すデータもある』
↑ そういう論文もあるんだろうけど、しかし大学入試の実態では、2001年以降、理系学部の難度はどんどん上がったのが現実では?
高校の理系コースを選択する生徒も増えたと聞くし。少なくとも私の地元がそう。
過去の論文と実態があってないなら、その過去の論文の解釈が間違ってるだけでは?
行動経済学とかでいう「その人の言ってる事とやってる事が違う場合、本音はやってる事のほうだ」っていうアレ。
理論と現実が合わないなら、理論を修正すべきでは?
なのに現実を修正するのは、危険思想では? 予言の実行部隊(オウム真理教)じゃあるまいし。
あと、大学進学率は、80年代から2010年くらいまで、たしか上昇傾向。
まあ、あまりこの章の本質ではない、単なる前書きなので、こんくらいにしとく。その後の主張内容は、まあ当分のページは、特に反対は無い。
P.214
「ただし、注意しなくてならないのは、一斉授業からグループ学習へという学習形態の転換を意味しているものではないということである。一斉授業の形態でも、全員参加の協同的な学びあいの授業は可能である。」
文科省か何かの『学びあい』プロパガンダに辻褄合わせするための論法でしかない。
どう授業運営しようが、生徒どうしがグループ学習で教えあってる時間は、教師は一斉授業の講義をできない時間である。なぜなら決して聖徳太子みたいに複数の人の話を同時に聞けないのが一般人だから。私も含めて。
もし反例があるとするなら(背理法)、生徒全員が聖徳太子みたいに7人の意見を同時に聞けるなら、生徒と教師の話を同時に聞けるかもしれないので一斉授業しながらグループ学習できるだろうが(皮肉)。
しかし、そんな聖徳太子だらけの天才エリート学校の話を聞いたことない。
なお、個人的な意見としては、別に一斉授業と生徒同士のグループ学習とを併存させることには、別に反対しない。論法がおかしい、プロパガンダのつじつま合わせだと批判してるだけ。
P216~P217
批判的な文脈で、(授業でグループ学習などの)
「話し合いが盛り上がってきても、課題の追究が佳境を迎えても、時間がくれば授業は即終了ということになる。」
とある
次のページで改革案の実例として
「モジュール学習はそうした試みの一つであり」~(中略)~「1日の英語の授業(50分)を2日に分けて25分で行うといった事例がある。」
とある
↑これは思考回路が矛盾してないか? 議論が盛り上がってもっと長く授業を続けるべきだというような文脈を話した次のページでの「モジュール学習」では、英語の1日あたりの授業時間が短くなって分散されているからである。
単に伝統的なカリキュラム運営を批判したいだけの難癖でしかない。
国会が野党が与党の粗さがしをして、自党のことを棚に上げて批判して、ブーメランになってるアレと同じ。
なお、同 P.216で「こうした形式的で堅苦しい「制度の時間」ではなく」
と著者は批判しているが、しかし制度変更をして1日の英語の時間を変更して 50 → 25 +25 に変えただけにすぎないので、あいかわらず制度は続いている。
ともかく、著者の論理構成がおかしい。
なお、私の意見としては、モジュール学習という教育法があること自体は別に批判しない。
P225
『「教育評価」(evaluation)を提唱したタイラーは、』(中略)『学習活動の改善を目指す行為であると規定した(タイラー、1978)』
『しかしながら、第二次世界大戦後に日本で採用されたのは、タイラーとは対立する立場といえる「教育測定」(measurement)運動によって生み出された相対評価であった』
↑ とりあえず、理系とか経営学に関するかぎり、測定と改善運動は排反しないんで。工場のQC運動とかトヨタ式カイゼンとかどうなる。ああ、ここでも、この本の執筆陣たちの工場労働者に対する職業差別が・・・。 つうか、情報IのPDCAサイクルの教育でも、改善と測定を両立させてるんだが・・・。
いやまあ、タイラーさんとやらは、測定を批判してたのかもしれないけどさ。
何度も言うが、理論と現実が合わないなら、その理論は修正されるべきでしかない。
理論に合わせて現実を変えるのは危険思想。
P226
「第2は、相対評価のもとでは、「4」や「5」をとろうとすると、もともと「4」や「5」をとっていた者を事実上引きずりおろさなければならないという、イス取りゲームのような排他的な競争が常態化する。」
↑ 少なくとも、引きずり下ろしは常態化してません。たとえばマラソン陸上などの多数相手のスポーツの順位も相対評価だが(絶対評価だとしたら、お手手つないでゴールインになってしまう)、(そもそも反則だが)引きずり下ろしは起きてない。
相手が複数なので、1人引きずりおろしても、他に何人も相手が無数にいるので、勝てないからである。
なお、このアイデアは、岡田斗司夫が90年代に対談集『マジメな話』で語ったような反論。90年代から20年以上、いったい文系の学者は何をしてきたのか。
格闘技のような1対1の「勝負」だったら相手を引きずりおろして勝てるけど、陸上のような「競争」では相手の一人を引きずりおろしても残り多数がいるので勝てないので、だから競争思考の人のほうが健全だと岡田は言っている。
頭の健全じゃない人は、「競争」思考ではなく「勝負」思考だと岡田は言っていた。
- ※ ただし、他文献『よくわかる教育心理学 第2版』(中澤潤 著、ミネルヴァ書房)によると,教育学の用語では、1対1など少数参加者の勝負の場合でも「競争」に含める。つまり、2名しか参加しない場合でも(1対1の競技参加者は合計2名)、「競争」という[12]。
- 競技参加者を変数 n とすると、n=2の場合が「勝負」、n≧2の場合が「競争」という事になろうか。nが多い場合だけを表す専用の用語が無いのが現状。
- 海外の論文でも、そういう教育学的な使い方で「競争」(competition)というので、日本人に文句を言っても仕方ない。海外では、協同と競争 (corporation and competition)、というダジャレになってる。
- Relationship between student attitudes about cooperation and competition and attitudes toward schooling. Citation. Johnson, D. W., & Ahlgren, A. (1976). という論文がある(有料)。
- まあ、海外の教育学者がオタキング岡田よりも馬鹿、という事だろう。
「イス取りゲーム」であるというのは、まあ同意。
そもそもイス取りゲームで引きずり下ろしはしないし。私の幼稚園時代がそうだった。
個人的には、指導要領で要求している最低限レベルの常識的内容については絶対評価をして、それ以上の発展的な内容の知識については相対評価をすれば済むのでは?と思ってる。
幼稚園のイス取りゲームとかそうでしょ。幼稚園のイス取りゲームは勝者がいるんだから相対評価ですよ。でも幼稚園全体では相対評価の通知表とか出さないでしょ。
あと、相対評価ではなく絶対評価をしても競争は別になくならないのは、大学受験や高校受験とかで英検の級とかTOEICスコアが私大とかで評価されるのを見れば分かる通り。
結局、イス取りゲームのように座れるイスの数が決まってる以上、それ以上の志望者が来たら競争になるのである。
このような反論はすでに2001年あたりに「分数が出来ない大学生」シリーズで語られていたのだが、自説に都合の悪いエビデンスは隠すんですか? 誠実じゃないねえ。
このように、教育学界隈では謬節(びゅうせつ)が淘汰されない。だから教育学の界隈そのものを批判する必要がある。
過ち(あやまち)て改めざる、是(これ)を過ちと謂う(いう)
そもそもオリンピックとか、歴史的には戦争の代わりなんだから、競争だし相対評価でしょ。この手の教育学者は、スポーツ文化とかどう思ってるんだろう。やはり不利なエビデンスを隠すのが教育学界隈か。
あと「競争がアカン」ってのは、それこそ江戸時代~明治時代の役人の発想ですよ。小室直樹の本にそう書いてある。明治時代、福沢諭吉が「競争」という言葉を著書で使ったら、役人かなんかが「争」という字が好ましくないってさ。で、官僚主義を批判する福沢は、だからこそ競争という言葉を使い続けたとさ。
官僚主義を批判してるつもりで競争を批判する者こそ、じつは江戸時代的な官僚主義だというオチ。
- ほか
もう1999年から、小説家の村上龍の対談集『最前線』で、対談相手の「プロ教師の会」の人たちは(当時、彼らが流行ってた)、教育学者を信用していない。
当時、対談集では、プロ教師の会の人たちは、教育学者を「ろくに教壇に立ったことない」みたいに批判していた。
私が言いかえるなら、正しくは、「教育学者は、自説が間違ってても責任を取る気がない」だろうな。だから不利なエビデンスを無視する教育学者だらけなわけだろう。
地理は中高生には無理
編集中高の地理は、学問としては今後も必要だとは思うが、受験として中高生に覚えさせるのは負担だと思う。
なぜなら、かなり幅広い知識が必要。
地理の教科書を書いてみた感想では、ほぼ世界中の経済を押さえる必要がある。
これ、地理の学習時間のせいで、理系の科目などの勉強時間を奪いかねないのが、問題。
昭和の時代は、インドとか中央アジアとか中南米とか、大して学習しなかっただろうけど、21世紀になって、そういう地域が経済発展をして、学習内容が飛躍的に増えてるからねえ。
社会科は、地理・歴史・公民のどれも、受験科目としては死んでる。これを学ぶと、理系の勉強時間が無くなってしまいかねない、暗黒の科目である。
社会科は、大幅に受験制度を見直す必要があり、受験問題も見直す必要がある。
地理は、日本国の全体にとっては、「社会科学の研究の基礎」となる必要な学問であるが、しかし学生にとっては断じて、地理は「学力」ではない。
特に、ここ十数年の地誌での諸外国の動向は、学力ではない。なぜなら、そもそも、そういう最近の知識を、学力とは言わない。
そんな近年の諸外国の情報、必要になったときに調べれば済むだけ。世界には百か国以上の国があるので、そんな雑学をいちいち、追ってられない。
地理は、第二外国語とかああいうのと同じような扱いをすべきだろう。
そういう雑学が、国立大学の新共通テストの入試科目になっている現状がおかしい。歴史を覚えられない理系のための救済措置かもしれないが、そもそも社会科を大学入試から外すべきか、歴史総合・地理総合・公共までにすべきだろう。
地理探究とか理系に要求している日本の国立大学はゴミ。
参考文献など
編集- ^ 見崎研志, 仲真紀子. 記憶促進における反復書記の有効性に関する検討. 日本認知心理学会発表論文集. 2005;2005(0):104-.(2022-5-14閲覧)
- ^ 見崎研志, 仲真紀子. 反復書記学習が記憶に及ぼす影響. 日本認知心理学会発表論文集. 2006;2006(0):171-.(2022-5-14閲覧)
- ^ みおりん 著『やる気も成績もぐんぐんアップ! 中学生のおうち勉強法入門』、2022年2月15日 初版 第1刷 発行、P153
- ^ 國立拓治 著『くにたて式 中学勉強法』、大和出版、2023年4月28日 11刷発行、P138
- ^ みおりん 著『やる気も成績もぐんぐんアップ! 中学生のおうち勉強法入門』、2022年2月15日 初版 第1刷 発行、P40
- ^ みおりん 著『やる気も成績もぐんぐんアップ! 中学生のおうち勉強法入門』、2022年2月15日 初版 第1刷 発行、P41
- ^ 古賀広志 著『デザインサイエンス研究の系譜と課題』 , 日本情報経営学会誌 2019 Vol. 38, No. 4 , P.41
- ^ 『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』、2016年度山本ゼミ共同研究報告書 慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 、P10
- ^ 中澤潤 著『よくわかる教育心理学 第2版』、ミネルヴァ書房、2022年3月31日 第2版 第1刷 発行、P107
- ^ 濱中淳子 著『検証・学歴の効用』、勁草出版、2013年6月25日 第1版 第1刷 発行、P228~P232
- ^ 濱中淳子 著『検証・学歴の効用』、勁草出版、2013年6月25日 第1版 第1刷 発行
- ^ 中澤潤 著『よくわかる教育心理学 第2版』、ミネルヴァ書房、2022年3月31日 第2版 第1刷 発行、P104