平家物語 鱸
原文
編集第一節
編集その子共は、皆諸衞佐に成りて、昇殿せしに、殿上の交はりを人嫌ふに及ばず。その頃忠盛、備前國より都へ上りたりけるに鳥羽院御前へ召して、
「有明の月もあかしの浦風に浪ばかりこそよるとみえしか」
と御尋ねありければ、
と申したりければ、御感ありけり。この歌は、金葉集にぞ入られける。
忠盛また仙洞に最愛の女房をもつて、通はれけるが、ある時、その女房の局に、つまに月出したる扇を忘れて出でられたりければ、かたへの女房たち、
「これは、いづくよりの月影ぞや、出所おぼつかなし」
なんど、笑ひあはれければ、かの女房
雲井より ただもりきたる 月なれば おぼろけにては いはじとぞ思ふ
と詠みたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守忠度の母これなり。似るを友とかやの風情に、忠度もすいたりければ、かの女房も優なりけり。
第二節
編集かくて忠盛、刑部卿になつて、仁平三年正月十五日、歳五十八にてうせにき。清盛嫡男たるによつて、その跡を繼ぐ。
保元元年七月に、宇治の左府、世を亂りたまひし時、安藝守として御方にて勳功ありしかば、播磨守に移つて、同三年太宰大貳になる。次に平治元年十二月、信賴卿が謀反の時、[[w:官軍御方にて賊徒を討ち平らげ、
「勳功一つにあらず、恩賞これ重かるべし」
とて、次の年正三位に敍せられ、うち續き宰相、衞府督、檢非違使別当、中納言、大納言に經あがつて、あまさへ丞相の位にいたり、左右を經ずして内大臣より太政大臣從一位に上がる。大將にあらねども、兵杖をたまはつて隨身を召し具す。牛車輦車の宣旨を蒙つて、乘りながら宮中を出入りす。偏に執政の臣のごとし。
「太政大臣は、一人に師範として、四海に儀刑せり。國を治め道を論じ、陰陽をやはらげさむ。その人にあらはずは則ち闕けよ」
といへり。卽闕の官とも名付けたり。その人ならでは涜すべき官ならねども、一天四海を掌の内に握られし上は、子細に及ばず。
第三節
編集平家かやうに繁昌せられけるも、熊野權現の御利生とぞ聞こえし。その故は、清盛いまだ安藝守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へまいられけるに、大きなる鱸の船に躍り入りたりけるを、先達申しけるは、
「これは、權現の御利生なり。いそぎ參るべし」
と申しければ、清盛宣ひけるは、
「昔周の武王の船にこそ、白魚は、躍り入りたりけるなれ。これ吉事なり。」
とて、さばかり十戒を保ち、精進潔齋の道なれども、調味して、家子侍共に食はせられけり。その故にや、吉事のみうち続いて、太政大臣まできはめたまへり。子孫の官途も、竜の雲に昇るよりは、猶すみやかなり。九代の先蹤をこえたまふこそ目出たけれ。
現代語訳
編集第一節
編集忠盛の子供は、諸衛の次官になった。昇殿を許されたが、(その他の人々は)殿上人としての交わりを嫌うことはできなかった。そのころ、忠盛は、備前国から上京することがあったが、鳥羽院から、
「明石の浦は、どうか」
とお尋ねがあり、
有明の月も明るい明石の浦では、風に吹き寄せられた波ばかりが、夜の景色として見えた事でした。
と申し上げたところ、鳥羽院は御感心なさった。この歌は、『金葉集』に入れられた。
忠盛はまた、院の御所に最愛の女房がいて、通っておられたが、ある時、その女房の部屋に、端に月が描かれてある扇を忘れて帰っていらっしゃったので、仲間の女房たちが、
「これはどこから出た月の光でしょうか。出所が不明です」
などと笑い合われたので、その女房は、
雲間からただ漏れてきた月なので、なみたいていのことでは言うまいと思います
と詠んだので、忠盛は、ますます思いを深められた。薩摩守忠度の母が、この方である。似た物夫婦とかいうように、忠盛も歌道を好んだが、その女房も歌道に優れていた。
第二節
編集こうして忠盛は、刑部卿に就任して、仁平三年正月十五日、五十八歳で亡くなった。清盛は、嫡男であるので、その跡を継いだ。
保元元年七月に、宇治の左大臣頼長が、反乱を起こされた時、清盛は安芸守として、後白河天皇方の味方について勲功があったので、播磨守に栄転し、同三年には、太宰大弐になった。次に、平治元年十二月、信頼卿の謀反の時、二条帝方につき、賊軍を討ち平らげ、
「勲功は、一つだけでない。恩賞は、これを重くするべきである」
として、翌年、正三位に叙せられ、引き続き、参議、衛府督、検非違使の別当、中納言、大納言を歴任して昇進し、その上、大臣の位に至り、右大臣、左大臣を経ずに、内大臣から太政大臣従一位に昇進する。大将ではなかったが、兵杖を賜って、護衛を召し連れ、牛車輦車の宣旨をいただいて、乗車したままで宮中に出入りした。全く摂政関白と同様である。
「太政大臣は、天子の師範として、天下の手本である。国を治め、道徳を論じ、陰陽を調和させ治める。それに相応しい人がなければ、すなわち、欠員のままにせよ」
と言われている。それゆえ即闕の官とも名づけているのである。その適任者以外には、任官させられない官職であるが、清盛が天下を掌中に握られた以上は、とやかく言うこともできない。
第三節
編集平家が、このように繁栄なさったのも、熊野権現の御利益といわれた。そのわけは、昔、清盛公が、まだ安芸守であった頃、伊勢の海から船で参詣された時に、大きな鱸が、船に躍り入ったのを、案内人の申すことには、
「これは、権現の御利益です。急ぎ召し上がるべきです」
と申したので、清盛公がおっしゃったことは、
「昔、周の武王の船に、白魚が躍り入ったそうである。これは、吉事である。」
と言って、厳しく十戒を守り、精進潔斎をせねばならない道中であるげれども、これを調理して、家の子、侍たちに食べさせた。そのためであろうか、吉事のみが続いて、太政大臣にまで極められた。子孫の官職も、竜が雲に昇るよりも、さらに速やかである。九代にわたる先祖の先例を超えられたのは、めでたいことであった。