本テキスト「教育勅語」は、教育勅語全般に関する教科書である。本wikibooksは教科書なので、教育的に重要度の高いと考えられる事を重点的に紹介する。

教育勅語とは

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教育勅語(きょういく ちょくご)とは、正式には「教育ニ関スル勅語」といい、1890年(明治23年)に発表された、第2次世界大戦前の日本の道徳教育の根幹となった勅語(ちょくご)である。(経緯について詳しくは、ウィキペディア『教育勅語』を参照)教育勅語の中身は、大まかに言うと、道徳教育の主張である。いわゆる「親孝行」などの「道徳」を尊重するような意見を、天皇が国民に語りかけるという形式である。

「勅語」(ちょくご)とは、一般的な用法での意味は、天皇が政治・行政などについての意思表示として伝える、天皇のいわゆる「お言葉」を、文書などとして正式化し公表した物である。

現代における、教育勅語への評価

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教育勅語について、現代日本では、たびたび論争になる。また教育問題を扱っている政治家や学者などが、たびたび教育勅語についての議論を行う。政治やニュースや雑誌などで、解釈や意義の有無が取り上げられることもある。

そして、それらの論争で、教育勅語への批判的な評価といっぽう肯定的な評価も出てくる。

その論争での、主な意見は、おおむね次のとおり。

現状では教育勅語を廃止していることから、本wikibooksでは、まず批判的な意見から紹介する。

批判的な評価

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  • 公開直後から組織的な命令によって過剰な神聖化がなされた経緯もあり、思想や良心の自由を否定している、という意見もある。
  • モーセの十戒・仏教の五戒と異なり、人倫を全く説いていない内容。
  • 軍人の規律を説く軍人勅諭と同列のものであり、軍事教育や軍国主義につながる、という意見もある。
連合国軍最高司令官総司令部による占領統治時代に連合国軍によって教育勅語が廃止されたのは、この理由(軍国主義につながる)から
  • 根本的理念が「主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。」
1948年に衆議院によって決議された『教育勅語等排除に関する決議』より
  • 教育の根本に天皇中心の国体思想を据えたこと自体が問題である、という意見もある。
教育学者で元国立教育研究所所員・日本大学文理学部教授の佐藤秀夫は「教育勅語の基本的趣旨は、その冒頭における、天照大神に起源する(皇祖)歴代皇統(皇宗)の徳治と臣民全体のそれへの終始変わらぬ忠誠の関係、つまり皇国史観により捉えられる君臣関係を軸とする国家構成原理、すなわち『国体』にこそ、日本の教育の淵源が存すると規定したところにある。」と述べている[1]。また、教育勅語に示されている徳目は「歴史的にこの国の民衆の間に形成されてきた通俗道徳項目に過ぎない」として、重要なのはそれらの徳目が「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に構造づけられていたこと、すなわち、「日本における道徳は、すべて天皇制の発展に寄与してこそ、はじめて意味を持つということになっていた」ことであると指摘している[2]

肯定的な評価

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  • 現代語訳での12の徳目は、日本の伝統的道徳観が込められており、一種の模範となるものがあってもいいのではないかという意見もある。
  • 多くの国や宗教で古くから普遍的にある道徳を、明治当時の日本の国情に合わせて記述したものにすぎない、という意見もある。
桐蔭横浜大学学長鵜川昇によれば「『カトリックの倫理綱領と同じ』であり、『日本人としての根本倫理』を表したものとして講義を続けた栄光学園のグスタフ・フォス校長(神父)」のような教育者も過去には存在したという。また、三重県伊勢市の皇學館高等学校は教育勅語を教材の中に取り入れており、現代の社会において欠けているものが教育勅語にあるからこそ、生徒が暗唱をしている

原文

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朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

ふりがな付き

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朕(ちん)惟フニ(おもうに)我カ(わが)皇祖皇宗(こうそ こうそう)國ヲ(くにを)肇ムルコト(はじむること)宏遠ニ(こうえんに)德ヲ樹ツルコト(たつること)深厚ナリ(しんこうなり)
我カ(わが)臣民(しんみん)克ク(よく)忠ニ(ちゅうに)克ク(よく)孝ニ(こうに)億兆(おくちょう)心ヲ一ニシテ(こころをいつにして)世世(よよ)厥ノ(その)美ヲ(びを)濟セルハ(なせるは)此レ(これ)我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ敎育ノ淵源(えんげん)亦(また)實ニ(じつに)此ニ(ここに)存ス(ぞんす)
爾(なんじ)臣民(しんみん)父母ニ孝ニ(ふぼに こうに)兄弟ニ友ニ(けいていに ゆうに)夫婦相和シ(ふうふ あいわし)朋友相信シ(ほうゆう あいしんじ)恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ博愛(はくあい)衆(しゅう)ニ及(およ)ホシ學(がく)ヲ修(おさ)メ業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ以(もっ)テ智能(ちのう)ヲ啓發(けいはつ)シ德器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ進(すすん)テ公益(こうえき)ヲ廣(ひろ)メ世務(せむ/せいむ)ヲ開(ひら)キ 常(つね)ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)シ國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ一旦緩急(いったんかんきゅう)アレハ義勇公(ぎゆうこう)ニ奉(ほう)シ以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スヘシ
是ノ如キハ(かくのごときは)獨リ(ひとり)朕(ちん)カ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラス又(また)以テ(もって)爾(なんじ)祖先(そせん)ノ遺風(いふう)ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足ラン

斯ノ(この)道(みち)ハ實ニ(じつに)我カ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ子孫臣民ノ倶ニ(ともに)遵守スヘキ(じゅんしゅすべき)所(ところ)
之ヲ古今ニ通シテ謬(あやま)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス(もとらず)朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ咸(みな)其德ヲ(そのとくを)一ニセンコトヲ庶幾フ(こいねがう)

明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめい ぎょじ)

現代語訳

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文部省訳

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(文部省図書局『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』(1940年)より。明治天皇から勅語を賜った文部大臣が管轄する文部省自身による、「正式な現代語訳」とされる文章)

朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。

汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただ朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫いて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

明治23年10月30日

明治天皇自署、御璽捺印

語釈など

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明治時代での単語の意味と、現代の意味では違うが、この節では主に現代での意味を記述する。

  • 朕(ちん) - 皇帝の自称。ここでは明治天皇の自称。
  • 皇祖(こうそ) - 皇室の先祖。または、それから派生して、天照大御神(あまてらす おおみかみ)や、神武天皇のこと。あるいは、天照大御神から神武天皇までの一連の神々・人物のこと。
  • 精華(せいか) - 真髄。優れた点。真価。
  • 恭倹(きょうけん) - つつしみ深く、控えめに振る舞うこと
  • 「徳器」(とっき) - 「徳器」の意味は「徳と器量」などと、国語辞典などでは解説されることが多い。
  • 天壌無窮(てんじょう むきゅう) - 天地が永遠に続く。「天壌」とは天と土壌のこと、つまり天地のこと。「無窮」とは、極まりない事。「窮」(きゅう)とは「究める」(きわめる)などの意味。
  • 悖る(もとる) - 現代では「もとる」とは、道理にそむく、道理に反する、などの意味。(なお、古語では「もとる」とは、「ゆがむ」「ねじまがる」の意味で、法華経や霊異記(りょういき)などに見られる表現。古語では、「戻る」も「悖る」も同じ意味で、古語での意味は「ゆがむ」「ねじまがる」の意味。)
  • 拳々服膺(けんけんふくよう) - 強く心に刻み込んで、忘れないようにする。漢文『中庸』由来の表現であり、「拳拳」とは、両手をつきだして、大事そうに、ささげ持つ様子のこと。「服膺」とは、身に付けること、胸につけること。つまり、現代風に言えば、「服膺」とは「胸中に刻む」的な意味。
  • 扶翼(ふよく) - 「扶」とは古語では「たすく」と読み、「助ける」と同じ意味であるが、古語での「たすく」の意味は「救出する」(徒然草・89段)(たすけよや、猫また、よやよや)のほか、協力的な意味としての「支える」「補佐する」(源氏物語・帚木)(上は下に助けられ、下は上になびきて)、物理的に倒れたりしないように支える(源氏物語・蓬生(よもぎう))(男ども、たすけてとかく開け騒ぐ。)の意味もある。

文章解釈

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文章解釈については、各人・各時代により異なり、定訳は存在していない。日本では、「国定教科書」の解釈が有名で、修身の第2期国定教科書が発行される1910年から、修身の第5期国定教科書がGHQの指示で墨塗りされる1945年までの間、日本の全ての小学生がこの教育勅語の解釈を学んだ。

第二次大戦後の日本では、特に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分の解釈が問題となっている。まず、「戦争になったら天皇の国のために命を捧げる」ということを意味するのか、あるいはしないのか、という点に関して解釈が分かれており、また、仮に「戦争になったら天皇の国のために命を捧げる」ということを意味するとして、これは拒絶すべきことなのか、あるいは当然の務めなのか、というのも解釈が分かれている。

このほか、教育勅語の内容は儒教道徳だという意見もある。

国定教科書

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これは文部省が編纂した修身の国定教科書に記載された、文部省による公式解釈である。

「初等科修身 4」では、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分が、「いったん國に事ある場合には、勇氣をふるひおこして、命をささげ、君國(きみくに)のためにつくさなければなりません」[3]と解釈されており、これが「私たち臣民のつとめである」としている。

12の徳目

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以下のように、教育勅語から12個の項目を抜き出して列挙したものが、第二次世界大戦後の日本において、『12の徳目』と呼ばれている。

  1. 父母ニ孝ニ
  2. 兄弟ニ友ニ
  3. 夫婦相和シ
  4. 朋友相信シ
  5. 恭儉己レヲ持シ
  6. 博愛衆ニ及ホシ
  7. 學ヲ修メ業ヲ習ヒ
  8. 以テ智能ヲ啓發シ
  9. 德器ヲ成就シ
  10. 進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ
  11. 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
  12. 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ

以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

『12の徳目』などと呼ばれているが、文部省の公式名称ではなく、命名者は不明である。

また第二次世界大戦後の日本においては、自由民主党同志会専務理事・佐々木盛雄の作った「国民道徳協会」という団体の現代語訳が比較的有名であるが、当時の世相があまり反映されていないという指摘もある。(国民道徳協会による現代語訳については、著作権の問題があるため、外部サイトを参照のこと。)

『12の徳目』への批判的意見として、教育学者で日本大学文理学部教授の佐藤秀夫は、国民道徳協会などによるこれらの現代語訳を「歪曲と誤訳の典型」と批判している[4]

教育勅語をめぐる歴史

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年表

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  • 1890年(明治23年) 10月30日に発布。
  • 1891年(明治24年) 小学校祝日大祭日儀式規定制定。学校などで式典がある場合に朗読。
  • 1900年(明治33年) 小学校令施行規則制定。
  • 1946年(昭和21年) 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が朗読と神聖的な取りあつかいを禁止。
  • 1948年(昭和23年) 6月19日に衆議院が「教育勅語等排除に関する決議」を参議院が「教育勅語等の失効確認に関する決議」を決議。

教育勅語の起案

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井上毅と元田永孚によって起案されたが、井上毅は教育勅語が思想や宗教の自由を侵さないようにすることを重視し、対して元田永孚は国家神道的な教典とすることを重視していたとされている。このような対立や帝国議会の神道に対する配慮などにより、大日本帝国憲法第55条第2項で「凡(すべ)テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と定められていたが、この国務に関する詔勅に該当しないものとしてされた。そのため御名御璽のみで、国務大臣の副署がないまま、各学校へは文部省によって一斉に下賜(上から下に与えること)された。

奉安所

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天皇皇后の真影(写真)や教育勅語を保管するために、学校に奉安庫若しくは奉安殿と呼ばれる保管庫が設けられた。学校の校舎内に設けられた保管所を奉安庫、学校の校舎とは独立して設けられたものを奉安殿という。奉安殿は、学校正門と校舎の間に設置された。

第2次世界大戦激化時には、登下校時において奉安殿への敬礼が命じられた。

奉読

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文部省令などにより学校で行われる式典においては、教育勅語が奉読(朗読)されることになっていたが、後期は神聖化の影響もあってか、式典中の校長の動きは一挙一動までが明文で規定され、読み間違いなどを行えば校長の進退にも影響したともいわれる。

排除・失効確認

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1948年6月19日に教育勅語について、衆議院では排除、参議院では失効確認がされた。決議文については、以下を参照。

決議文の内容を見ると両議院で微妙に見解が異なり、法学的な観点からは次のような議論がされることがある。

衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」を決議し、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。(第98条第1項)」という日本国憲法の本旨に従い、教育勅語等を排除することを宣言した。この決議については、教育勅語に国務大臣の副署がなく国務に関しない詔勅であったため、このようなものも排除できるのかという点で疑問とされる場合もあるが、日本国憲法が排除する詔勅を国務に関するものに限定する規定もまた存在していない。

参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」を決議し、その決議文の中で、日本国憲法の人類普遍の原理に則って教育基本法を制定して、教育の誤りを徹底的に払拭して民主主義的教育理念をおごそかに宣明した結果として、教育勅語は、既に廃止せられその効力を失っているとした。ただし、日本国憲法にも教育基本法にも教育勅語を「廃止」する旨の規定が明文で定められていないことから疑問とされる場合もある一方、実質的に教育勅語が大日本帝国憲法と一対のものであったということから新憲法の制定によって実質的に廃止されたとされる場合もある。

なお、法学的な細部の観点はともかくとして、一般的に現代の教育において教育勅語を教育理念とされることはない。

教育基本法との関係

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初期の連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の教育勅語改訂構想もあり、教育勅語の廃止は元々決定されていたものではなかったが、その後GHQは、廃止の方針を決めた。また、教育基本法の起案者の一人で後に最高裁判所長官を務める田中耕太郎も、教育基本法では教育精神的な規定を設けずに、教育勅語を初めとする文書類との棲み分けを図ろうとしていた時期もあるが、後に田中は、自己の著書の中で、教育基本法が教育勅語の代わりとなったことを記した。

なお、教育勅語は、神聖的なとりあつかいや朗読が既に止められていたが、1948年6月19日に衆議院では排除、参議院では失効確認がされた。

脚注

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  1. ^ 佐藤秀夫『教育の文化史4 現代の視座』阿吽社、2005年、65頁。ISBN 4-900590-83-5
  2. ^ 佐藤『教育の文化史4 現代の視座』阿吽社、2005年、66頁。ISBN 4-900590-83-5
  3. ^ 文部省 編『初等科修身 4』文部省、1941年、5頁
  4. ^ 佐藤秀夫『教育の文化史4 現代の視座』阿吽社、2005年、68頁。ISBN 4-900590-83-5

関連項目

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