「高等学校世界史B/ティムール朝とオスマン帝国」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
セリム1世 |
第一次ウィーン包囲網、プレヴェザの海戦、カピチュレーション |
||
15 行
しかし、ティムールが生前、イラン的文化の地域とトルコ的文化の地域をともに領有したことにより、文化ではイラン文化とトルコ文化の融合が起こったことにより'''トルコ=イスラーム文化'''が発展した。そして、首都サマルカンドやヘラードが文化の中心的な地域になった。
== オスマン帝国
=== オスマン帝国の成立と拡大 ===
1300年ごろ、トルコ人がアナトリア西北部にオスマン帝国を建設した。オスマン帝国はビザンツ帝国のアジア側の領土を奪っていき、オスマン帝国はバルカン半島に進出して、ついにアドリアノープルを占領して、オスマン帝国は1366年にアドリアノープルを首都にした。
31 ⟶ 32行目:
その後、'''セリム1世'''(Selim I)はアラブ地域に遠征軍を派遣し、サファヴィー朝やマムルーク朝を破って、シリアやエジプトなどの領土を手に入れた。
セリム1世のこの領土拡張の結果、それまでマムルーク朝が領有していた聖都メッカと聖都メディナ
44 ⟶ 45行目:
::セリム1世はサファヴィー朝をやぶり、その後、1517年にオスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼして聖都メッカ・メディナを保護下においた。
:・・・のようになる。
セリム1世の次のスレイマン1世(Suleyman I)のとき、オスマン帝国は最盛期をむかえる。
どういうことかというと、'''スレイマン1世'''の時代のオスマン帝国はハンガリーを征服し、さらに1529年の9月にはウィーンにせまった('''第一次ウィーン包囲網''')。 (なお、ヨーロッパの冬の寒さのために、最終的にオスマン帝国は1529年10月にはウィーン方面からは撤退した。)
また地中海においても、スレイマン1世の時代、1538年に'''プレヴェザの海戦'''でスペイン・ヴェネティアなどの連合艦隊をオスマン帝国は破り、オスマン帝国が地中海の制海権を手に入れた。
(より正確には、プレヴェザの海戦でのオスマン帝国の勝利により、地中海の中部から東部における海域の制海権を、オスマン帝国は手に入れたのである。つまり地中海の4分の3の海域の制海権を、オスマン帝国は手に入れたのである。)
※ このスペイン・ヴェネティアの連合艦隊は、ローマ教皇の支持する艦隊であった。つまり、ローマ教皇は、オスマン帝国とは敵対する勢力である。
さて、スレイマン1世の次のセリム2世の時代、フランス商人にも通商の自由を与えた。これを'''カピチュレーション'''(capitulation)という。
※ カピチュレーション導入当時のフランスは、(ウィーンを支配していた)ハプスブルク家と対立しており。
経済的には、このようにしてオスマン帝国は東西交易の中継地点となり、そのため首都イスタンブルは各地から訪れる商人でにぎわい、その結果、イスタンブルが東西交易の中心地となった。
こうして、オスマン帝国は軍事大国としてだけではなく経済大国にもなった。
:※ なお、このカピチュレーションが、のちの時代、イギリスやドイツなどにも与えられる。そして残念なことに、のちの帝国主義の時代に、ヨーロッパ諸国の治外法権の不平等条約としてカピチュレーションは悪用される。
しかし、プレヴェザの海戦のその後、1571年に'''レパントの海戦'''が起こり、オスマン帝国を敵として、スペイン海軍などの連合艦隊が敵対し、オスマン海軍と連合艦隊が海戦をした。レパントの海戦で、スペイン艦隊などからなる連合艦隊を敵としてオスマン海軍は敗退してしまったが、しかしオスマン帝国はすぐに艦隊を再建したこともあり、オスマン帝国の制海権には戦後ほとんど変化はなく、オスマン帝国は16世紀末までは制海権を維持した。
=== オスマン帝国の統治方法 ===
|