「高等学校日本史B/第一次世界大戦と日本」の版間の差分

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{{コラム| 軍部大臣現役武官制の欠陥 |
==== 山県有朋 ====
なお、そもそも軍部大臣現役武官制を最初に明確化したのは'''山県有朋'''(やまがた ありとも)の内閣であり、山県が軍部大臣現役武官制を制定した年は1900年のできごとである。そして、文官用令をさだめて政党人が官僚になるのを制限した人物も、山県有朋であり、1899年のできごとである。つまり、山本権兵衛は、山県の政策を修正したのである。山県有朋は、陸軍出身である。さらに、治安警察法をつくって政治運動や労働運動を制限した人物も、1900年ごろの山県有朋である。
 
==== のちの第二次世界大戦と軍部大臣現役武官制・治安維持法 ====
のちの昭和の日中戦争の前の時代ころに、治安警察法が治安維持法に発展して、日本の言論活動を統制することになる。この治安警察法・治安維持法による統制が、戦前・戦中の昭和前半の当時の日本が「ファシズム」「軍国主義」などと言われる状態になった原因の一つと考えられる。日中戦争の直接的な原因は、おそらく満州事変とそれ以降の対中強行路線であろうが、その遠因には、このようなこともある。
 
また、同じく日中戦争前の昭和前半の時代ころに、軍部大臣現役武官制のせいで、軍部の強行路線が政府に影響力を持つようになった。(広田弘毅内閣が組閣したあたりから)そして、戦前昭和の政党が軍部の意向に従わないといけなくなった結果、議会では、日中戦争と太平洋戦争へと向かう日本政府の強行路線を止める議会勢力が機能しなくなった。もちろん、議会の機能低下のより直接的な原因には、満州事変のときに政府が、軍部に同情的な世論に応じてしまい、政府が事件関係者を処罰できなかったため、そののち軍部の暴走を許すような雰囲気を政治や民意につくってしまったという、議会の不手際ももあるだろう。しかし、そのような軍部の暴走の後押しをしかねないような軍部大臣現役武官制という制度が、そもそも存在していたのである。
 
そして日中戦争が拡大していき、アメリカの貿易封鎖などの圧力に日本が反発して日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日中戦争から太平洋戦争へと拡大する。同時期の前後にヨーロッパで起きたドイツと周辺国との戦争とあわせて、第二次世界大戦へと組み込まれることになる。そして、その第二次世界大戦に日本は敗戦して、日本は憲法を改正することになり、日本国憲法が制定されることになる。そして、その日本国絹憲法の内閣の関する事項では軍部大臣現役武官制が否定され、また言論の自由や政治結社の自由、信教の自由などが制定されることになる。
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以下の考察は、仮説であり、学生は暗記する必要は無いし、鵜呑み(うのみ)にしてはならない。
 
さて、明治・大正に現役武官制や文官用令などを導入した意図は、おそらく、三権分立のように、権力を立法府だけでなく行政にも分散するのと同様に、軍部にも権力を与えようとしたのだろう。こうして行政権や軍部の権限を強めて、政党の影響力をうすめることで、政党の暴走をふせごうとしたのだろうと、一部の評論家などには考えられている。(※ 「評論家」とは、誰によって? 要出典.)
 
もっとも、明治憲法(大日本国帝国憲法)では、天皇に軍の統帥権(とうすいけん)があるので、もし議会と軍が対立したら、いざとなったら天皇に判断してもらおうとでも、もしかしたら明治時代の当時の政治家は考えたのかもしれない。(※ 要出典.)
 
だから、軍部大臣が口をだせるのは軍事だけに限定させよう、という意図で、軍部大臣だけは現役武官でなければならない、と明治大正期には限定していただけだろう。