「高等学校日本史B/弥生時代」の版間の差分

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== 中国史書からみた日本 ==
=== 『漢書』地理志 ===
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* 夫れ(それ)楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に 倭人(わじん)有り。 分れて(わかれて)百余国(ひゃくよこく)と 為る(なる)。 歳時(さいじ)を 以て(もって)来り(きたり)献見す(けんけんす)と云ふ(いう)。
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 『漢書』地理志
* :夫れ(それ)楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に 倭人(わじん)有り。 分れて(わかれて)百余国(ひゃくよこく)と 為る(なる)。 歳時(さいじ)を 以て(もって)来り(きたり)献見す(けんけんす)と云ふ(いう)。
 
::(原漢文)
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これは『'''漢書'''』'''地理志'''(かんじょ、ちりし)(著者:班固)の抜粋を、漢文から日本語に書き下した文である。(原書は漢文)
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=== 『後漢書』東夷伝 ===
[[File:King of Na gold seal.jpg|thumb|金印(きんいん)。漢委奴国王」と刻まれている 「漢の委の奴の王」(かんのわのなのこくおう)と読まれる福岡市博物館蔵綬(じゅ、※ 組みひも)は出土していない。1辺は2.3cm、重さは109g。材質は金。福岡県の志賀島(しかのしま)で1784年(江戸時代)に出土。 (国宝。福岡市博物館蔵。)]]
[[File:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|thumb|金印の印文。「漢委奴国王」と刻まれている。]]
 
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* 建武中元(けんむ ちゅうげん)二年、倭(わ)の奴国(なこく)、貢を奉じて朝賀(ちょ8が)す(=奉貢朝賀す)。使人(しじん)自ら(みずから)大夫(たいふ)と称す。倭国(わこく)の極南界(きょくなんかい)なり。光武、賜ふ(たまうに)に 印綬(いんじゅ)を以ってす。安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年、倭国王帥升(すいしょう)等(ら)、生口(せいこう)百六十人を献じ、請見(せいけん)を願ふ。桓霊(かんれい)の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し(あいこうばつし)歴年(れきねん)主なし。
 
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 『'''後漢書'''』'''東夷伝'''(ごかんじょ、とういでん)
* :建武中元(けんむ ちゅうげん)二年、倭(わ)の奴国(なこく)、貢を奉じて朝賀(ちょ8が)す(=奉貢朝賀す)。使人(しじん)自ら(みずから)大夫(たいふ)と称す。倭国(わこく)の極南界(きょくなんかい)なり。光武、賜ふ(たまうに)に 印綬(いんじゅ)を以ってす。安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年、倭国王帥升(すいしょう)等(ら)、生口(せいこう)百六十人を献じ、請見(せいけん)を願ふ。桓霊(かんれい)の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し(あいこうばつし)歴年(れきねん)主なし。
 
::(原漢文)
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これは『'''後漢書'''』'''東夷伝'''(ごかんじょ、とういでん)の抜粋である(著者:范曄、原書は漢文)。
 
:・ 建武中元二年 - 紀元(後)57年。
:①建武中元二年=紀元57年 ②奴国王(なこくおう)が光武帝(こうぶてい)に使者を派遣 ③使者は「大夫」と自称 ④光武帝が印綬(いんじゅ)を与える(福岡県志賀島(しかのしま)で'''金印'''(きんいん)が発見されている。これには「漢委奴国王」と刻まれている。
:・ 印綬 (いんじゅ)- 印は「漢倭奴国王」の金印のこと。綬は組みひも。
:⑤永初元年=107年  ⑥倭国王帥升(すいしょう)が生口(せいこう)を160人献上した。生口は奴隷。 
:・ 永初(えいしょ)元年 - 107年。
:・ 桓霊(かんれい)の間 - 後漢の桓帝・霊帝のころ。すなわち147〜189年の間。
 
内容は・・・
# 奴国王(なこくおう)が光武帝(こうぶてい)に使者を派遣。
# 使者は「大夫」と自称。
:①建武中元二年=紀元57年 ②奴国王(なこくおう)が光武帝(こうぶてい)に使者を派遣 ③使者は「大夫」と自称 ④# 光武帝が印綬(いんじゅ)を与える(福岡県志賀島(しかのしま)で'''金印'''(きんいん)が発見されている。これには「漢委奴国王」と刻まれている。 
:⑤永初元年=107年  ⑥# 倭国王帥升(すいしょう)が生口(せいこう)を160人献上した。生口は奴隷。 
# 後漢の桓帝・霊帝のころ(すなわち147〜189年の間)、倭国は大いに乱れて(小国が多数、分立していた?)、統一する王がいなかった。
という話である。
 
 
== 邪馬台国 ==
中国大陸では後漢が220年に滅び、220年ごろには'''魏<'''/span>(ぎ)・'''蜀'''(しょく)・'''呉'''(ご)の3カ国が並び立つ'''三国時代'''(さんごく じだい)になっていた。
 
中国の歴史書『'''三国志'''』(さんごくし)のうちの、魏についての歴史書の『<span style="font-size: large;">魏志</span>』(ぎし)にある倭人についての記述(<span style="font-size: large;">倭人伝</span>(わじんでん))によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、'''30'''か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、<span style="font-size: large;">邪馬台国</span>(やまたいこく)の<span style="font-size: large;">卑弥呼</span>(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。
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:其の(その)国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住まる(とどまる)こと七、八中年。'''倭国乱れ、相(あい)攻伐(こうばつ)して年を歴たり(へたり)。乃ち(すなわち)共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼(ひみこ)と曰ふ(いふ)。鬼道(きどう)を事とし、能く衆を惑はす(まどはす)。'''年已に(すでに)長大なるも、夫婿(ふせい)無し。男弟有り、佐けて(たすけて)国を治む。・・・'''景初(けいしょ)二年六月、倭の女王、大夫難升米(なしめ)等(ら)を遣し(つかわし)群に詣り(いたり)'''、天子に詣りて朝献(ちょうけん)せんことを求む。・・・その年十二月、詔書(しょうしょ)して倭の女王に報じて曰く、「・・・今汝(なんじ)を以て'''親魏倭王(しんぎわおう)と為し、金印紫綬を仮し(ゆるし)'''、装封(そうふう)して帯方(たいほう)の太守(たいしゅ)に付し仮授せしむ。・・・」と。・・・''卑弥呼以て死す。大いに冢(つか)を作る。''径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人。更に男王を立てしも、国中服せず、更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。復ま(また)卑弥呼の宗女(そうじょ)壱与(いよ)の年十三なるを立てて王と為す。国中遂に(ついに)定まる。
 
::(原漢文。『魏書』東夷伝 倭人条
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卑弥呼が死んだとき、直径100歩あまりの大きな墓がつくられ、奴隷100人がともに葬られた。
 
(※ 『魏志』倭人伝より抜粋して要約。)
 
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180 ⟶ 204行目:
:宗女(そうじょ) - 一族の女。
:壱与(いよ) - 台与(とよ)の誤りとも言われている。
 
魏志倭人伝は、正式名は『三国志』の『魏書』(ぎしょ)の東夷伝の倭人条。『三国志』は三世紀に普(しん)の陳寿(ちんじゅ)によって編纂(へんさん)された。