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日本の大学は職業訓練校である。研究者育成の機関ではない。
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仮にそうだとして、それが良いか悪いかは、ここwikibooks利用者ページでは問わないとしよう。しかし、このような大企業の採用試験の英語科目が、日本全国の中学高校での英語教育に影響を与えては困るので、ここwikibooks利用者ページにて報告しておくとする。
 
 
 
== 日本の大学は職業訓練校である。研究者育成の機関ではない。 ==
日本の大学は、実質的には、偏差値が高いだけの職業訓練校・専門学校である。研究者を育成する機関としては、大学は非効率である。大学に既にいる研究者は、おそらく大学が研究者として育てたのではなく、本人の実力で研究者になったのであろう。
 
大学には設備があるので「研究機関」かもしれないが、しかし「研究者育成の機関」ではない。
 
理系も文系も、大学は実質的に、専門学校である。専門学校のカリキュラムに、専門科目の理論の座学と、「教養科目」という名称の数学・理科・社会・英語を追加しただけである。
 
大学は、研究をするには、現行の大学制度では、無駄・邪魔・不都合な作業が多い。
 
例えば大学の定期試験においては、やたらと小難しい難問・奇門の出題をされるが、最たる例である。
 
その業界のプロでも、問題を解くのに手間が掛かったりする難問を、出題する大学が多い。
少なくとも工学部ではそうだ。おそらく、商学部や法学部などでも同様だろう。
 
 
そもそも技術や理論とは、小難しかったり手間の掛かる作業を単純化するための工夫の事である。なので、やたらと難しすぎる知識体系は、そもそもレベルが低い体系なのである。
 
医学とかで例えれば分かるだろう。たとえば仮に、外科医が外科手術でメスをふるうさいに、患者を10cm切る際に毎回、微分方程式をとく必要のある外科医がいたら、そいつは単なる無能である。
 
つまり実務において、実務で使用しない余計な技能・知識などは、排除・淘汰する必要がある。
 
しかし困った事に一般大衆の多くは、発想が小中学校のカリキュラムで止まってるので、「多くの知識があり、特技が多い人 = 優秀」「難しい知識体系 = 高度な理論」と思ってる馬鹿が多いのである。
 
しかも大学は、その「やたらと小難しい難問」を出すために、定期試験のその科目の試験範囲を狭める。
 
たとえば機械工学なら、理想的には高校の教科書とかを使って、さっさと1年間くらいで、高校みたいに簡単な内容を選んで「機械要素」も「材料力学」も「流れ学」も「機械要素」も教えればいいのに、しかし大学はそういう事をしない。
 
大学の「機械要素」の科目では、機械要素の解説だけしか書いてない教科書を使って、しかし高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。
 
同様に、大学の「材料力学」の教科書なら、材料力学の解説だけしか書いてない教科書を使って、高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。
 
このように、大学の授業は、縦割りである。おそらく大学教員たちにとっては、このように縦割りにしたほうが、業績の自己アピールをしやすいのだろう。
 
しかも、やたらと難しい問題が出るわりには、証明は不正確であったりする。そもそも数学者などは、機械工学のさまざまな「定理」を、数学的な定理だとは認めていない(電気工学も、ほど同様)。しかし、そのような「定理」が、数学的には価値の保証されてない「定理」が、大学の機械工学科の定期試験には出題されるのである。
 
要するに大学は、大学の既得権益を守るために、縦割りの世界に篭もり、世界を閉ざしているのだ。
 
 
電気工学も同様である。
 
大学の「電気回路」科目は、電気回路の事しか教えない。大学の「電磁気学」は、電磁気学の事しか教えない。また、化学のイオン傾向とかの話題は、とうぜん「電気回路」や「電磁気学」では教えない。電気回路と電磁気学と電気化学がどう結びつくかは、大学では教えられないのである。
 
工業高校ですら、「電機基礎」科目で、電気回路と電機磁気学と電気化学をまとめて教えてるのにさ。
 
しかも、それぞれの科目で、やたらと小難しい事を教える。もちろん、プロの電気技術者が仕事では使わない問題の解法の知識を、やたらと大学では教えて、それをテストで出題するのである。たとえば「テブナンの定理」とか、電磁気学のさまざまな微分方程式とか、仕事では、まず使わない。しかし、そういう仕事で使わない分野ばかり、定期試験では出題されるのであり、それらの問題を短時間で大量に解くような出題をされるのである。
 
 
教養課程の数学や物理も、似たようなもんである。
 
たとえば数学なら、線形代数なら、固有値や固有ベクトルの話題を扱う単元なら、高校みたいに2次元の範囲に限定して、さっさと固有値や固有ベクトルなどを教えればよいものの、大学はそういう事をせず、まず一般のn次元の行列における固有ベクトルを教えたりするだろう。
 
微分積分でも、大学は、めったに使わない単元を教えるために、微分方程式などを後回しにしたりするわけだ。高校の参考書ですら常微分方程式をあつかっているのにさ。(まあ、「物理数学」などの科目で、微分方程式を入学当初の早めに教える場合もあるが。)
 
文系の学部でも、専門科目は同様だろう。たとえば法学部で民事法を教え始める時は、民法総則ばかりをやたらと教えたりしてるんだろう。しかも、民法総則の細かい知識ばかりを教えてると予想。
 
商業高校の「経済活動と法」科目ですら、民法と商法と会社法と民事執行法とを1科目で教えてるというのにさ。
 
 
こういう実態こそが、大学が研究機関ではなく、職業訓練校・専門学校である事の、最たる例である。
 
「縦割り」というのは、研究ではないし、そもそも「理解」ですらない。そもそも「理解」とは一般に、知識を脳内で「横割り」にする事である。たとえば、高校の世界史を学ぶと、中学では別々に覚えていた西洋史の知識と、東洋史の知識が、結びついたりするだろう。
 
こういう、知識と知識の、横どうしの結びつきこそが、理解である。
 
そもそも縦割りの知識を覚えるだけなら、コンピューターでも出来る。情報を複製するだけなら、コピー機のほうが優秀である。
 
 
また、知識は現実と照らしあわせることで、初めて応用力を持つ。そして現実と照らしあわせるには、横割りの知識体系である必要がある。なぜなら現実は、いちいち縦割りに知識を紹介してくれない。
 
たとえば現実で詐欺などに巻きまれそうなとき、詐欺は民法と刑法で規定されてるが、現実でいちいち親切な誰かが「あなたは民法は知ってても、刑法が苦手だから、わたしがあなたのかわりに刑法部分の対策を考えてあげますよ」とかなんて、無料では誰も協力してくれない。
 
このように、現実社会では、縦割りの知識に、合わせてくれない。
 
だから、初学者はまず、全体像を、学ぶ必要がある。
 
しかし大学では、全体像をなかなか教えないのである。大学の1年生の科目で「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目が、2単位(半年の授業1コマ)で、ある場合もあるが、内容はぜんぜん、全体像を教えていない。
 
 
工学部の場合、いちおう大学に4年生(または院・修士課程まで含めて6年間)まで通えば、ひととおり、その学科(機械工学科、電気工学科など)の全体像を教わる。だが、工業高校や職業高校では、全体像を、高校卒業までの18歳までに、とっくに教えてるのである。
 
要するに、大学教育は「抱き合わせ商法」を教育産業で行ってるのである。さっさと全体像を教わりたい(マトモな)学生に対し、大学側は、一部の研究者しか使わない専門知識を抱き合わせて販売してるのだ。悪質商法である。
 
80年台のファミコン業界のドラクエ3のブームのころ、ちまたのゲームショップが、売れ残り品のゲームと、ドラクエ3を抱き合わせて販売してたっていう出来事がニュースで報道されてたのだが、大学も同様である。学者どもの売れ残りの知識を、抱き合わせて販売してるのだ。
 
 
そもそも「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目のオカシイのは、ある学問の全体像を、半年の授業1コマだけで教えようという(大学の)発想が、もう既にオカシイ。
 
ある科目の全体像を教えるとは、さきほどの高校世界史のように、年月を掛けて(中学でも世界史を教えていて、高校2年で世界史を教えて、さらに高校3年の受験科目で世界史を学んだり、浪人中に世界史を学んだり・・・)、全体像を教える必要がある。
 
また、「100点満点中、60点以上を取れ」という大学の要求が、もうオカシイ。まず、高校では進級基準は普通は「30点(または40点)以上」であるのが一般的である。
 
高校の場合、小学校とは違って、すべての科目で高得点を取るのはむずかしい。高校は、小学校とは違って専門的な話題も多いし、入試対策のために難問もいくつか出すし、学習内容も多いし、なので、「30点以上を取れれば進級オーケー」としてるわけだ。
 
もちろん、あくまで進級だけなら「30点以上でオーケー」に過ぎず、進学したい場合は、入試までに高得点を取れるようにする必要がある。しかし、それは入試までに高得点を取れるようにすれば充分なのであり、べつに授業で習った1か月後とかに高得点を取れるようにする必要はない。
 
しかし、大学では、高校よりも、より専門的な話題(大学では、そもそも科目自体が「専門科目」)、より学習内容が多い、より難問を出すにもかかわらず,「30点以上オーケー」ではなく「60点以上オーケー」である。しかも、授業で習った1か月後くらいに、高得点を取れるように、要求されるのである。
 
しかし、本来、たったの1か月では、理論なんて、理解なんて出来ないのである。高校世界史を思いだせば分かるだろう。世界史教育のように、小中高と何年も年月をかけて教えて、やっと知識と知識が結びつくのである。
 
しかし大学では、たった1か月で、いろいろと難問を解かされるわけであり、明らかに大学は学生に理解なんてさせていない。()入学後、さいしょの中間試験まで、たった1か月ていどである。)(そもそも数日で理解できる知識なら、そもそも大学で学ぶ必要がない。あるいは、高校で教えればいい。)
 
しかも高校の教科書では、他教科の内容も紹介してたりするが(高校世界史でも日本史の話題も紹介したりとか)、大学は違う。
 
大学の教科書は、タテ割りの知識体系なので、ろくに他教科の知識を紹介しない。
 
高校の教科書は、一見するとタテ割りに見えるが、違うのである。実は、高校のほうがヨコ割りなのである。
 
 
要するに、大学教授の多くが、教育力の乏しい無能である。しかし、企業も無能なので、新卒採用は入試偏差値順に採用するだけなので、大学の教育力の乏しさが見過ごされているのであろう。