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朱元璋の死後、孫の[[w:建文帝|建文帝]]が即位したが、洪武帝の四男である[[w:永楽帝|朱棣]]が反乱([[w:靖難の変|靖難の変]])を起こし、永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、海禁の例外として、国営貿易は行われ、[[w:鄭和|鄭和]]を南洋に派遣して、諸国に[[w:朝貢|朝貢]]を求めた。
 
永楽帝の死後、こうした例外が無くなったことで[[w:海禁政策|海禁政策]]は完全化し、貿易は著しく制限された。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、[[w:4491449年|4491449年]]には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件([[w:土木の変|土木の変]])まで起きた。同じ頃、中国南部沿岸には、[[w:倭寇|倭寇]]と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
 
一方で、絶対的な皇帝独裁制だった為に、政治の質は皇帝の人格・能力によって左右された。そうした体制の常として、側近が力を持ち、その大多数が政体上、宦官が占めた明では、彼らが国政を壟断し、腐敗し、怨嗟の声は朝野に満ちた。