「中学校社会 歴史/日本の開国」の版間の差分

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・薩英戦争(さつえい せんそう)
:1862年に関東の生麦(なまむぎ、神奈川県にある)で、薩摩藩の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が斬り殺すという生麦事件(なまむぎ じけん)が起こりました。イギリスからの犯人の処罰要求を薩摩藩が受け入れなかったので、翌年の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これが薩英戦争(さつえい せんそう)です。この戦争で薩摩は負け、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになり、薩摩は攘夷論をあきらめることになりました。
 
戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった'''西郷隆盛'''(さいごうたかもり)や'''大久保利通'''(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。
 
・長州藩(ちょうしゅうはん)の下関戦争(しものせきせんそう)
[[ファイル:Shimonoseki.JPG|thumb|300px|欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台]]
:1863年に、下関海峡を通る外国船にむかって、長州藩が攘夷の実行のため、いきなり砲撃を始めました。しかし、翌年、外国の連合艦隊(れんごうかんたい)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国からなる連合軍により反撃を受け、下関の砲台を占拠され、長州は負けました。
 
[[File:Hagi Reverberatory furnaces.JPG|thumb|山口県(長州)の萩(はぎ)反射炉(はんしゃろ)。反射炉とは、鉄をとかすための炉で、火炎や熱などを反射させることで高温を出すことで質のよい鉄をつくるための炉。]]
長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)や'''木戸孝允'''(きど たかよし)らは、攘夷論のマチガイに気づき、かわりに長州藩の改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。
 
 
このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊王攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。幕府を倒す、つまり、倒幕(とうばく)をする必要がある、という気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。
 
 
* 薩長同盟(さっちょう どうめい)
[[ファイル:Sakamoto Ryoma.jpg|thumb|200px|left|坂本龍馬(さかもと りょうま)<br />]]
薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。薩摩藩も長州藩も、どちらとも近代的な軍隊を持ち幕府を倒そうとする改革を目指していたのに、両者は対立していました。
しかし、1866年に、土佐藩(とさはん、高知県)の浪人<big>'''坂本龍馬'''</big>(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同盟である<big>薩長同盟</big>(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。