「高等学校世界史探究/冷戦の展開」の版間の差分

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ポルポト
プラハの春
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== 冷戦中の国際情勢 ==
=== 中国および東南アジア方面 ===
1953年にスターリンが死んで、後継の権力者のフルシチョフがソ連の権力をにぎり、フルシチョフらがスターリン批判を開始し、ソ連が反アメリカ的な態度をゆるめると、中国はソ連を「修正主義」だと批判した(中ソ論争)。(社会主義者のなかでは、「修正主義」という用語は批判的な意味で用いられる。)
 
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また、中越戦争で戦闘しあってる中国とベトナムは、両国とも社会主義国であるので、「社会主義国どうしは戦争をしない」とかいった幻想は崩壊していった。
 
 
=== ソ連の外交 ===
1953年にスターリンが死亡すると、ソ連は外交政策を見直して、アメリカに歩み寄ったフリを見せるようになり、
1955年には米ソ英仏の4か国首脳による'''ジュネーブ巨頭会談'''が開かれた。
 
そして56年にソ連はコミンフォルムを解散した。
 
しかし、実際には、ソ連は覇権を崩すつもりはなかった。
 
1956年にポーランドとハンガリーで、反政府運動が起き、新政権が樹立した際には、ハンガリーの新政権は、ソ連からの脱却を表明したが、ソ連軍に侵攻され、ハンガリーの独立は失敗した。また、新政権の指導者ナジは処刑された。
 
また東ドイツでは、1950年代から西ドイツに脱出する人が増えたので、1961年に東ドイツ政府はベルリンの壁を築いた。
 
またソ連は、キューバ革命後のキューバにミサイル基地を建設して、アメリカを挑発した('''キューバ危機''')。
 
しかしアメリカが譲歩せず、ミサイル撤去をもとめて海上封鎖を行ったため、ソ連は譲歩してアメリカの要求を受け入れた。
 
その後、米英ソの3国が、1963年に'''部分的核実験禁止条約'''に調印した。(これは単に、地下核実験以外の核実験を禁止するだけである。核保有は禁止しないし、地下核実験も禁止しない。)
 
 
=== アメリカの情勢 ===
1950年代から東西冷戦が深刻化していくと、アメリカ国内政治では、「アメリカ国内に、既にソ連のスパイが入り込んでいるのは?」という不安が高まり、マッカーシー上院議員を中心にして、反共産主義の活動が活発化し(「赤狩り」、マッカーシズム)、共産主義者とみなされた政治家や知識人が批判されたり失脚していったりした。
 
=== ソ連・東欧の情勢 ===
1956年にポーランドとハンガリーで、反政府運動が起き、新政権が樹立した際には、ハンガリーの新政権は、ソ連からの脱却を表明したが、ソ連軍に侵攻され、ハンガリーの独立は失敗した。また、新政権の指導者ナジは処刑された。
 
1960年代に入った頃になると、ソ連の経済は低迷し、しだいに、共産主義の失敗が明らかになってきた。
 
そして1968年、チェコスロバキアで、自由化と資本主義的な経済改革を主張する新政権が登場し、「'''プラハの春'''」と言われたが、ソ連は自国および周辺国への波及をおそれ、東ドイツなどワルシャワ条約機構の軍とともに軍事介入し、チェコスロバキアの民主化運動を弾圧した(チェコ事件)。