「高等学校世界史探究/冷戦の展開」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
プラハの春
文化大革命、アフガニスタン侵攻、双子の赤字、ベトナム戦争
66 行
(イギリス植民地の)マレー半島では、ひとまず1948年にイギリス領マラヤ連邦が成立し、1957年に独立国の「マラヤ連邦」となり、63年に独立国の'''マレーシア'''になった。その後、中国人の多い'''シンガポール'''が1965年にマレーシアから分離独立した。
 
== 中国「大躍進政策」の失敗 ==
検定教科書には、下記のような感じで書いてある。
1958年、毛沢東は大躍進政策を指示して、中国各地に人民公社をつくらせたが、失敗した。
 
== 冷戦中の国際情勢 ==
実態は、農業や工業の知識のない毛沢東たちが、これら実業の実務に口出しをしたせいで、さんざんたる結果に終わったのである。
=== 中国および東南アジア方面 ===
==== ベトナム周辺 ====
1960年、アメリカの支援する南ベトナムでは、反政府組織の南ベトナム解放民族戦線が結成され。北ベトナムの支援を受けてゲリラ戦を展開した。
 
(※ なおゲリラ戦は、国際法違反である。理由は、非戦闘員の一般人が、戦闘員に間違われて巻き込まれる可能性があるため。よって、彼らは国際法違反のテロ集団でしかない。)
一例として、毛沢東が「農業では、スズメが稲を食べあらすので、ならばスズメを駆除して減らせば、農業生産が増えるだろう」と考えたが、スズメなど野鳥の退治を中国全土に命令した。しかし結果は、イナゴなど、それまではスズメなどの野鳥に食べられていた虫が増えたせいで、イナゴなどに稲は食べ荒らされ、ますます農業生産は減ったという。
 
65年、アメリカは南ベトナムを支援する目的で、北ベトナムへの爆撃にふみきり(北爆)、南ベトナムにも兵数50万人を超える大軍をおくって支援した。(なお韓国軍も、アメリカ側として、ベトナム戦争に派兵され参戦している。)
検定教科書では「凶作」が失敗の原因だと言っている教科書もあるが、その「凶作」とやらの実態は、上述のような実態であろう。実態は、毛沢東の頭のなかの、理系学問の知能が、凶作らしい。
 
しかし、ソ連や中国が北ベトナムを支援したので、選局は膠着し、泥沼化した。こうして、'''ベトナム戦争'''は、本格化しりった。
 
戦争中、アメリカは、ゲリラ側とみなした村を焼き払うなどした。これがマスコミ報道などによって、世論から非難された。西側のマスコミは偽善者なので、ゲリラ側のテロ行為は批判せず、アメリカ軍の行動を一方的に避難し、国際世論はアメリカに批判的になった。(なお、東側のマスコミは、単なる、政府に都合のいい宣伝機関である。)
なお北朝鮮でも、類似の失敗があった。北朝鮮の指導者は「田畑で、苗(なえ)を植える密度を三倍にすれば、生産も3倍になる」と考えたが、しかし収穫物の栄養不足によって、むしろ農業生産は減ったという。
 
アメリカは国内外の反戦的な批判にたえられず、1973年、アメリカ軍はヴェトナムから撤退した。
その他、彼らは「山林を切り開いて、田畑として開墾すれば、農業生産が増えるだろう」と考え、実行したが、しかし山林の減少によって、洪水や土砂くずれを招く結果に終わったという。
 
そして、戦況は北ベトナム側に有利になり、北ベトナムが75年には南ベトナムの首都サイゴンを攻略し、戦争は終結した。
 
こうして、ベトナム戦争は、北ベトナムの勝利で終わった。
中国では、大躍進政策の失敗により、毛沢東は失脚した。しかし、北朝鮮では金日成は失脚せず、しばらく北朝鮮の農業の混乱は深まった。
 
 
ベトナムでは、ベトナム戦争後の時代のさて1976年、カンボジアではポルポトが政権をにぎり共産主義政策を行ったが、独裁者のポルポトは、空想的な共産主義理念のもとに、自国民(カンボジア国民)の大虐殺を行った。
なお、中国などでは人口政策として、当時は「人口を増やせば、農耕業の生産量も増えるし、軍隊の兵士も人数が増えるので、国が強くなる」のような幻想を考えていたので、人口増加政策の最中なのに凶作が起きてしまい、さんざんたる結果になる。
 
なお、中国が「一人っ子政策」を言い出したのは、大躍進政策よりも後の時代であり、1970年代後半ごろから「一人っ子政策」を言い出したである。(ウィキペディア『一人っ子政策』の記事によると、じつは60年代の大躍進政策の頃から、既に統計調査により、農業生産に対して人口が多すぎるという危惧が発見されてたらしいが、黙殺されたらしい。反政府的とみなされ、弾圧させられ、人口問題の提起をしようとしていた研究者は失脚していったらしい。)
 
 
== 冷戦中の国際情勢 ==
=== 中国および東南アジア方面 ===
1953年にスターリンが死んで、後継の権力者のフルシチョフがソ連の権力をにぎり、フルシチョフらがスターリン批判を開始し、ソ連が反アメリカ的な態度をゆるめると、中国はソ連を「修正主義」だと批判した(中ソ論争)。(社会主義者のなかでは、「修正主義」という用語は批判的な意味で用いられる。)
 
 
ベトナムでは、ベトナム戦争後の時代の1976年、カンボジアではポルポトが政権をにぎり共産主義政策を行ったが、独裁者のポルポトは、空想的な共産主義理念のもとに、自国民(カンボジア国民)の大虐殺を行った。
 
そしてカンボジアは、たびたび隣国のベトナムに侵攻した。
122 ⟶ 114行目:
しかしアメリカが譲歩せず、ミサイル撤去をもとめて海上封鎖を行ったため、ソ連は譲歩してアメリカの要求を受け入れた。
 
その後、米英ソの3国が、1963年に'''部分的核実験禁止条約'''に調印した。(これは単に、地下核実験以外の核実験を禁止するだけである。核保有は禁止しないし、地下核実験も禁止しない。)また、米ソの首脳どうしが電話で直接的に意見交換する「ホットライン」も、この63年に設置された。
 
1970年代後半、アフガニスタンは内戦状態にあり、親ソ連勢力やイスラム勢力が争っていた。
1979年にソ連はアフガニスタンにいる親ソ連勢力を軍事援助するために、ソ連はアフガニスタンに侵攻した。
 
これにより、米ソの緊張は高まり、アメリカは軍事費を増大するなどして対応した。
 
 
なお。翌1980年にはモスクワ・オリンピックが開催されたが、西側諸国の多くは、ボイコットをした。(ここでいう「ボイコット」とは、ソ連開催の行事に参加をしないことで、ソ連の行動に反対であるという意志を表明すること。)
 
=== アメリカの情勢 ===
1950年代から東西冷戦が深刻化していくと、アメリカ国内政治では、「アメリカ国内に、既にソ連のスパイが入り込んでいるのは?」という不安が高まり、マッカーシー上院議員を中心にして、反共産主義の活動が活発化し(「赤狩り」、マッカーシズム)、共産主義者とみなされた政治家や知識人が批判されたり失脚していったりした。
1980年代にアメリカの財政は悪化し、財政赤字と貿易赤字のため「双子の赤字」と言われる。原因はいろいろ考えられるが、一因として、アフガニスタン侵攻に対応する為に軍事費が急増している。
 
貿易赤字の原因については、ドル高による貿易の不振などもあるだろう。また、日本などによる、新興工業国の成長により、アメリカ経済が不振になったのかもしれない。
 
1987年のプラザ合意は、ドル高を是正するのが目的である。
 
=== ソ連・東欧の情勢 ===
134 ⟶ 138行目:
 
そして1968年、チェコスロバキアで、自由化と資本主義的な経済改革を主張する新政権が登場し、「'''プラハの春'''」と言われたが、ソ連は自国および周辺国への波及をおそれ、東ドイツなどワルシャワ条約機構の軍とともに軍事介入し、チェコスロバキアの民主化運動を弾圧した(チェコ事件)。
 
 
=== 中国 ===
1953年にスターリンが死んで、後継の権力者のフルシチョフがソ連の権力をにぎり、フルシチョフらが'''スターリン批判'''を開始し、スターリン政権時代の大量粛清などの悪行を批判した。
 
なお、ここでいう「粛清」とは、スターリンのような独裁者が、反対派を処刑したり弾圧することである。
 
 
1953年にスターリンが死んで、後継の権力者のそしてフルシチョフひきいるソ連の権力をにぎり、フルシチョフらスターリン批判を開始しソ連が反アメリカ的な態度をゆるめると、中国はソ連を「修正主義」だと批判した(中ソ論争)。(社会主義者のなかでは、「修正主義」という用語は批判的な意味で用いられる。)
 
==== 中国「大躍進政策」の失敗 ====
検定教科書には、下記のような感じで書いてある。
1958年、毛沢東は大躍進政策を指示して、中国各地に人民公社をつくらせたが、失敗した。
 
実態は、農業や工業の知識のない毛沢東たちが、これら実業の実務に口出しをしたせいで、さんざんたる結果に終わったのである。
 
一例として、毛沢東が「農業では、スズメが稲を食べあらすので、ならばスズメを駆除して減らせば、農業生産が増えるだろう」と考えたが、スズメなど野鳥の退治を中国全土に命令した。しかし結果は、イナゴなど、それまではスズメなどの野鳥に食べられていた虫が増えたせいで、イナゴなどに稲は食べ荒らされ、ますます農業生産は減ったという。
 
検定教科書では「凶作」が失敗の原因だと言っている教科書もあるが、その「凶作」とやらの実態は、上述のような実態であろう。実態は、毛沢東の頭のなかの、理系学問の知能が、凶作らしい。
 
 
なお北朝鮮でも、類似の失敗があった。北朝鮮の指導者は「田畑で、苗(なえ)を植える密度を三倍にすれば、生産も3倍になる」と考えたが、しかし収穫物の栄養不足によって、むしろ農業生産は減ったという。
 
その他、彼らは「山林を切り開いて、田畑として開墾すれば、農業生産が増えるだろう」と考え、実行したが、しかし山林の減少によって、洪水や土砂くずれを招く結果に終わったという。
 
 
中国では、大躍進政策の失敗により、毛沢東は失脚した。しかし、北朝鮮では金日成は失脚せず、しばらく北朝鮮の農業の混乱は深まった。
 
 
なお、中国などでは人口政策として、当時は「人口を増やせば、農耕業の生産量も増えるし、軍隊の兵士も人数が増えるので、国が強くなる」のような幻想を考えていたので、人口増加政策の最中なのに凶作が起きてしまい、さんざんたる結果になる。
 
なお、中国が「一人っ子政策」を言い出したのは、大躍進政策よりも後の時代であり、1970年代後半ごろから「一人っ子政策」を言い出したである。(ウィキペディア『一人っ子政策』の記事によると、じつは60年代の大躍進政策の頃から、既に統計調査により、農業生産に対して人口が多すぎるという危惧が発見されてたらしいが、黙殺されたらしい。反政府的とみなされ、弾圧させられ、人口問題の提起をしようとしていた研究者は失脚していったらしい。)
 
==== 文化大革命 ====
1959年、劉少奇(りゅうしょうき)が政権につき、大躍進政策を見直したが、しかし66年に復帰をはかる毛沢東が'''文化大革命'''を起こした。
 
この文化大革命では、毛沢東に中世を誓う学生などを動員して「紅衛兵」(こうえいへい)を結成し、毛沢東に批判的な党幹部や知識人を批判させた。:(※ 学生は、生産現場の実務オンチで世間知らずだから、同じく(生産現場について)実務オンチの毛沢東にとっては扱いやすい。)
 
そして劉少奇ら党幹部を失脚させ、また、知識人を弾圧した。