「高等学校日本史B/飛鳥の朝廷」の版間の差分

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※ いくつかの検定教科書では、飛鳥時代から「朝廷」という表現で、日本の中央政治の機構のことを表現しています。(実教出版、山川出版社など)
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==仏教伝来==
 
6世紀なかばに、倭国(日本は仏教を外国百済から公式に取り入れた。百済から仏教を取り入れたのである。百済の'''聖明王'''(せいめいおう)が、欽明天皇のときに仏教を伝えたといわれる。日本が取り入れた仏教は、中国・朝鮮などを経由した北方仏教の系統である。
 
日本への仏教伝来の年代については2説あり、538年(『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)『元興寺縁起』(がんごうじえんぎ)などによる説)に仏教伝来したとする説と、552年(『日本書紀』による説)に仏教伝来したとする説がある。
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当時、百済は高句麗や新羅と対立しており、そのため、日本を味方につけようとしたのであろう。
 
しかし、この仏教伝来は公式に限定してのハナシであり、おそらく実際には渡来人によって、それ以前に日本に仏教が伝えられていたと考えられる
 
また、6世紀には五経博士の渡来により、儒教も日本に伝えられた。
 
==飛鳥の朝廷==
また、この6世紀のなかば頃から、ヤマト王権は九州から関東までの広い地域に強力な支配を及ぼし、実質的にヤマト王権が日本を支配する王朝になっていた。現代の日本の歴史学で、古代日本の「朝廷」という場合、この6世紀頃からの日本の中央政治機構のことを意味する。
 
[[File:聖徳太子の系図.svg|thumb|400px|聖徳太子の系図<br />四角で青く塗ったのが天皇。赤字の人物は女性。丸1などの数字は即位した順。]]
 
6世紀なかば、日本では、物部氏と蘇我氏が対立していた。彼らは外国文化の受容の有無についても対立しており、積極的に外国から仏教などの先進文化を取り入れるべき(崇仏派)とする蘇我氏(蘇我稲目(そがのいなめ))と、いっぽう、伝統を重んじるべき(排仏派)とする物部氏(物部尾輿(もののべのおこし))とが、対立していた。
 
587年、大臣(おおおみ)の'''蘇我馬子'''(そがの うまこ)が、大連(おおむらじ)の'''物部守屋'''(もののべの もりや)を滅ぼした。592年には、蘇我の血を引く泊瀬部皇(はっせべのみこ)を大王に即位させた('''崇峻天皇'''(すしゅんてんのう))。しかし、馬子は592年に崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺して自らの姪に当。崇峻天る額田部女(ぬかたべのひめみこ)を大王に即けた。日本初死後、女帝である'''推古天皇'''が即位し、である。そして推古天皇の甥の'''厩戸王'''(うまやどのおう)(※ 厩戸王は聖徳太子と同一人物?)と大臣蘇我馬子協力して大王を助ける治体制が成立した。その体制の下で603年に'''冠位十二階の制'''が、翌604年には'''憲法十七条'''せっけんぽうじゅうちじょう)として補佐しが制定された。
 
:※ 「厩戸皇子」と書いても正しい。検定教科書の出版社によっては、「厩戸王」ではなく「厩戸皇子」と検定教科書に書いてある出版社もある。
 
厩戸王と蘇我馬子は協力関係にあり、603年には'''冠位十二階の制'''を定め、翌604年には'''憲法十七条'''(けんぽうじゅうしちじょう)を定めた。
 
:※ 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したりと、蘇我一族がたびたび暗殺などをしているイメージから、ついつい「立派な聖徳太子と、人殺しの悪人である蘇我一族とは、敵対しているハズだ!」と先入観を抱きがち(いだきがち)が、しかし歴史学的には、そんなイメージの証拠はない。 小中学校までの歴史知識では、ついつい蘇我馬子と聖徳太子の関係を勘違いしやすいので、要注意のこと。また、読者の高校生が将来、子供に歴史教育をする場合も、ここらへん、要注意である。家系図で推古天皇の先祖を見れば推古天皇の先祖に蘇我稲目がいる事からも分かるように、そもそも推古天皇は蘇我氏の一員である。(※ 山川出版社『大学の日本史 1 古代』でも、推古天皇が蘇我氏の一員であると指摘している。 参考文献: 『大学の日本史 1 教養から考える日本史 古代』、第1版、2016年第1版、76ページ)
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西暦600年から607年にかけ、'''小野妹子'''が遣隋使として中国に渡った。
 
『隋書』によると600年に遣隋使が日本から派遣されたとされるが、日本書紀によると607年に遣隋使を派遣したとあり、微妙に時期がくいちがっている。
 
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※ 「聞する勿れ」の意味が、「上奏するな」か「奏上するな」なのかは教科書や参考書ごとに違う。
 
倭の五王の時代とは異なり、倭国は中国に服属しないことを、国書では匂わせていた。これに煬帝は立腹したが、高句麗と中国との戦争を有利にするため、翌608年には中国は使節・裴世清(はいせいせい、 ※ 人名)を倭国に派遣した。
 
煬帝は立腹したが、しかし、高句麗と中国との戦争を有利にするため、翌608年には中国は使節・裴世清(はいせいせい、 ※ 人名)を倭国に派遣した。
 
妹子の遣隋使に同行した高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・旻(みん、 ※人名)などの留学生が、中国に長期滞在し、そして中国の文化を日本に伝えた。