「高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会」の版間の差分

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おそらくデカルトは、単に、当時のスコラ学と数学とを、一緒にされたくなかったのだろう。
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またデカルトは著書『方法序説』(ほうほう じょせつ)で、「神の存在証明」をしてみせたと主張しているのだが、これだって別に教会やスコラ学を信奉してるのではなく、むしろ不信感を抱いてるからこそ、皮肉として、手続き的な推論によって神を証明してみせたのだろう。
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{{コラム|デカルト『方法序説」|
デカルトの格言とされる「われ思う、ゆえにわれあり」は、デカルト著『方法序説』に書かれているが、
じつはその格言は、デカルト本人にとって、割とどうでもいい事である。
 
この『方法序説』は、科学研究の方法論について書かれた書物であり、その主張内容も、
 
:1:『明証』 (幾何学の公理のような)絶対に正しいと思えるものだけを前提に推論しなさい。
:2:『分析』 問題はなるべく、分割して、単純で簡単な問題に分けて考えなさい。(現代でいう「モジュール化」)
:3:『総合』 「分析」し終わってから(小分けに分割した検証し終わったら)、それら小分けにした問題を組み立てなさい。(モジュールの組み立て)
:4:『枚挙』 検証を、例外なく全て(枚挙)、行いなさい。 (自分勝手に例外を設置するゴマカシは許さない。)
 
といったように、科学研究のための思考法の紹介である。
 
背景として、おそらくデカルトの心中に「スコラ学って、ぜんぜん、こういう論理的な思考法が出来てないよね~」というような、スコラ学への不信感があるのだろう。
 
 
つまり、おそらくデカルトの心中に、スコラ学への疑念として、
:1:『明証』 スコラ学はそもそも前提が大昔の聖書や流行した古典にもとづいており、前提がオカシイ。
:2:『分析』 スコラ学は馬鹿のくせに、問題を小分けにしようとせず、見栄を張って、問題を大問題のまま解決しようとする。(怠け者なので「モジュール化」できない)
:3:『総合』 スコラ学者どもは、物事を分類しただけで、組み立てようとせず、ほったらかしに放置したりする。あるいは、2『分析』の段階で、のちに組み立てられるように分解してない。(馬鹿なので、モジュール組み立てが出来ない。)
:4:『枚挙』 スコラ学者は検証の際、自分勝手な都合で例外を設置する。
 
という不信感があるわけだろう。
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