「高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会」の版間の差分

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という不信感があるわけだろう。
 
 
また、デカルトは、「(幾何学の公理のような)絶対に正しいと思えるものだけを前提に推論しなさい。」のような思考法に必要な知性のことを、「理性」ではなく「良識」(ボン=サンス)と言っている。
 
そしてデカルトは著書で、その「良識」の性質を述べた後にデカルトは数学的思考法を述べるのだから、つまり、デカルトの本音は、数学こそが良識である、というのが本音であろう。
 
つまり、スコラ学や教会などが道徳として説いているアレは、「良識」ではないだろ、という背景がある。おそらくデカルト流の、「コペルニクスやガリレオを弾圧するような教会の連中なんかに、良識があるわけないだろ」という皮肉だろう。
 
また、デカルトは「良識」は、すべての人に分配されている、と言っている。つまり、教会の説いているアレは、特定の既得権益に都合のいい理念にすぎず、けして真理ではない、という教会への不信感だ。
 
そしてコペルニクスやガリレオを弾圧するような自分勝手な既得権益の連中は、たいてい、数学が出来ない連中ばかりである、・・・・とデカルトは感じているのだろう。
 
そういう視点で「われ思う、ゆえに我あり」を解釈しなおせば、本音は「わたしは神のためにあるのではなく、ましてや教会やスコラ学のために私があるのではない」という、皮肉だろう。
 
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