「高等学校日本史B/立憲体制の確立」の版間の差分

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中学校社会 歴史/日本の立憲政治のはじまり 2018年5月17日 (木) 01:58‎ から引用。高校用に書き換え中。
秩父事件
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この1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる<big>憲法</big>(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。
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== 私議憲法草案 ==
1881年以前からも、民間人による私議憲法案は、いろいろな人物により、さまざまな草案が出されていた。
 
1881年、いよいよ将来的に憲法制定が本格化しそうだと話題になると、1881年に福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)が「私議憲法案」を出したのがきっかけに、他社や民間人も憲法案を出した。
 
植木枝盛(うえき えもり)による憲法草案は『東洋大日本国国憲按』(とうよう だいにっぽんこく こっけんあん)は、それより後。
 
植木の草案は有名だが、べつに、こいつが最初ではない。単に、植木の草案の『東洋大日本国国憲按』は内容が急進的だったので、有名なだけ。
 
 
== 政争のあれこれ ==
1882年に政府は、自由党の板垣退助にも欧米視察をさせようとして、政府は板垣の洋行を援助した。
 
だが、それを立憲改心党が問題視した。
 
改進党の批判によると、板垣は三井財閥から洋行を支援してもらっていたが、それは実は政府がひそかに三井を支援いていたというのである。
 
いっぽう、批判された側の自由党も、改進党と三菱財閥との関係をあばいた。
 
== 反乱事件 ==
いっぽう、増税などによる不満により、1882年には、福島で県令の三島通庸(みちつね)による道路建設工事に対する運動が起き、三島に反対をした河野広中ら自由党員が反乱をくわだてたとして逮捕された(福島事件)。ついで関東でも反乱が起きた。
 
1884年には、関東の秩父で、約3000人の農民による武装蜂起が起き、高利貸・警察・群役所などを襲撃したので、政府は鎮圧のために軍隊を出動する結果になった('''秩父事件''')。そして秩父での農民反乱は鎮圧された。
 
 
こうした事件への不安から、自由党は支持を失っていき、やがて自由党は解散した。
 
いっぽう、立憲改進党では大隈重信が離党した。
 
 
このように、民権運動家の活動は停滞していった。