「高等学校日本史B/立憲体制の確立」の版間の差分

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三大事件建白運動
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すると、政府は'''保安条例'''を発し、民権派を都内から追放した(正確には皇居から約12km(三里)よりも外に追放)。追放された民権運動家のなかには中江兆民(なかえ ちょうみん)や星享(ほし とおる)などが含まれ、合計で約570名が都内から追放された。
 
== 立憲制の準備 ==
政府は1882年に軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を出し、軍人勅諭では軍人は天皇に忠誠をちかうべきあるとし、また、政治に関与すべきではないとされた。
 
また1884年に華族令が出され、華族の構成範囲が拡大し、華族には従来の公家や藩主に加え、さらに国家の功労者が華族になれるようになった。また、華族は侯爵・公爵・伯爵・子爵・男爵に5分類された。(華族はのちに貴族院の構成員になる。)
(※ おそらく、将来的な二院制を見越しての改革だろう。)
 
地方制度では、ドイツ人顧問モッセの助言により、山県有朋が中心になって改正作業をすすめ、1888年に市制・町村制が、1890年に府県制・群制が公布され、政府の統制のもとであるが地方自治が制度的には確立した。・
 
== 立憲制の確立 ==
憲法作成では、ドイツ人の法学者ロエスレルの助言のもと、憲法草案を、伊藤を中心に井上毅(こわし)・伊藤巳代治(みよじ)・金子堅太郎らによって憲法草案が作成された。
 
そして、この憲法草案が宮中にある'''枢密院'''(すうみついん)で天皇臨席のもとで議論され、1889年に'''大日本帝国憲法'''(明治憲法)として公布された。
 
帝国議員は、衆議院と華族院の二院制で構成された。
 
 
== ※ 未分類 ==
=== 大日本帝国憲法 ===
明治時代の日本国の憲法を、<big>'''大日本帝国憲法'''</big>(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。現代(2014年に本文を記述)の「日本国憲法」とは、べつの法律です。また、この憲法のあとのころから日本の国名の言いかたで「日本」のほかに<big>「大日本帝国」</big>(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく)という言いかたも、されるようになりました。
 
[[ファイル:Itō Hirobumi.jpg|thumb|left|200px|伊藤博文(いとう ひろぶみ)。4度、総理大臣になった。1909年に、朝鮮で政治運動家に暗殺された。]]
[[ファイル:Lorenz von Stein.jpg|thumb|150px|ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein)]]
明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らを、ヨーロッパの憲法を調べさせるためヨーロッパに送り、イギリスの法学者スペンサーや伊藤はドイツの有名な法律学者のグナイストから学び、またオーストリアの法律学者のシュタインから憲法学のほか軍事学や教育学などさまざまな学問を学びました。
 
:※ かつて昭和のころ、「伊藤博文はドイツ憲法を手本にした」という学説が主流だったが、どうも、その学説は、やや事実(じじつ)と、ちがうらしい。最新の歴史研究によると、伊藤が学んだスペンサー(イギリスの法学者)が、伊藤に「日本が憲法をつくるなら、日本の伝統にもとづいたものにするのがよい」などというような内容のアドバイスをしており、べつに伊藤は手本をドイツだけにかぎったのではないようである事などが、現代では分かってる。(※ 参考文献: 山川出版社『大学の日本史 教養から考える日本史へ 4近代』 、2016年第1版)
 
スペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えました。また、伊藤は、シュタインから、憲法をまなんだほか、さらにシュタインから軍事学や教育学、はたまた統計学や衛生学など、さまざまな学問を伊藤博文は学びました。
 
そして、伊藤は帰国後、ドイツの憲法やアメリカ憲法など、欧米のさまざまな国の憲法を手本にして、 大日本帝国憲法を作りました。
:なお、イギリスには、じつは文章でかかれた憲法典がありません。
 
そして、伊藤博文(いとうひろぶみ)の帰国後、ドイツ(プロイセン)などの憲法を手本にして、 大日本帝国憲法が作られました。
 
また、伊藤の帰国後の1885年(明治18年)に、立憲制の開始にそなえて'''内閣制度'''がつくられ、伊藤は初代の内閣総理大臣になった。
 
伊藤は、日本の憲法の、天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているので、ドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。
 
'''大日本帝国憲法'''(だいにっぽんていこく けんぽう)は1889年に明治天皇から国民に発布(はっぷ)されます。「発布」とは、法律などを人々に広く知らせる、という意味です。
 
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 '''大日本帝国憲法'''(抜粋)
 
::'''第1条''' 大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス
::'''第3条''' 天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵ス(おかす)ヘカラス(べからず)
::'''第5条''' 天皇ハ帝国議会ノ協賛(きょうさん)ヲ以テ(もって)立法権ヲ行フ
::'''第11条''' 天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
::'''第20条''' 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ(したがい)兵役(へいえき)ノ義務ヲ有ス
::'''第29条''' 日本臣民ハ法律ノ範囲(はんい)内ニ於テ言論著作(げんろんちょさく)印行集会及(および)結社(けっしゃ)ノ自由ヲ有ス(ゆうす)
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現在(21世紀)の日本と比べると、大日本帝国憲法は国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての憲法となった。当時の明治の日本としては、江戸時代から比べると、大日本帝国憲法は民主的に進歩した憲法だった。
 
そして、明治の日本は憲法を持ち憲法にもとづいた議会政治を行う、アジアでは初めての立憲国家(りっけんこっか)となった。
 
新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。
 
イギリスのある新聞では新憲法は高く評価され、「東洋の地で、周到な準備の末に議会制の憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と報じられた。
 
:※ (範囲外: ) そして「夢のような話だ」と評価した、その新聞では、さらに、日本の新憲法の内容を分析しており、君主については「ドイツを手本にしており」、「内閣が国会から独立している点はアメリカ合衆国を手本にしている」などと、分析をしております。さらに、議院については、「下院(かいん)が、1832年に成立したイギリス議会に似ている」などと分析しています。
 
:※ このように、日本の(明治につくられた)憲法は、天皇制についてはドイツを手本に、その他の部分については欧米のさまざまな憲法を取り入れたという、折衷(せっちゅう)的な憲法であろう、という分析が、欧米の新聞や学者などによって、なされました。
 
大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。
つまり、日本を統治するのは、藩閥ではなく、華族でもなく、天皇である、ということである。ただし天皇の独裁ではなく、議会の助言をもとに天皇が政治を行うとした。大日本帝国憲法では、予算や法案の成立には、議会の同意が必要だった。(表向きには天皇が日本を統治すると定められているが、じつは議会の承認がないと天皇は法律も予算も成立できないので、天皇だけでは国政を動かせず、じつは明治の日本の政治は表向きとは違い、天皇による親政ではなく)事実上の立憲君主制(りっけん くんしゅせい)である。
 
[[File:明治憲法下の国家のしくみ.svg|thumb|500px|明治憲法下の国家のしくみ]]
司法・立法・行政などの最終的な決定権は、天皇が持つ事になった。
 
外交や軍事の、最終的な決定権は天皇がにぎる事とされた。憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。
 
つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。
このように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん) と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。
 
外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。
 
国民は、天皇の「臣民」(しんみん)とされた。
国民の権利は、法律の範囲内という条件つきで、言論の自由や結社・集会の自由、心境の自由などの権利が保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。
 
国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。
 
なお、右の図中にもある「枢密院」(すうみついん)とは、有力な政治家をあつめて、天皇の相談にこたえる機関である。
 
=== 帝国議会 ===
憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である<big>帝国議会</big>(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会)
 
議会の議院(ぎいん)は<big>'''衆議院'''</big>(しゅうぎいん)と<big>'''貴族院'''</big>(きぞくいん)との2つの議院からなる<big>二院制</big>(にいんせい)であった。
 
この1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。
 
衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税('''年間15円以上'''。)が必要で、'''満25才以上の男子'''に選挙権が限られた。実際に選挙が出来たのは'''全人口の約1.1%ほど'''(約45万人)に過ぎなかった。
 
 
:※ 現在(西暦2014年に記述)の日本のような20才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とはちがい、この明治時代の選挙のような制限事項の多い選挙のしかたを「制限選挙」(せいげんせんきょ)と言います。
 
== 法典の整備 ==
=== 教育勅語 ===
憲法発布の翌年の1890年には'''教育勅語'''(きょういく ちょくご)が出された。教育勅語では、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、また、親孝行などを中心とする道徳も示された。
 
=== 法律の整備 ===
憲法の交付に続いて、刑法(けいほう)・民法(みんぽう)・商法(しょうほう)などの法律も整備する必要があった。公布されていった。
 
日本政府はフランス人の法学者ボアソナードをまねいて、1880年に刑法と治罪法(刑事訴訟法)を制定してもらった。
 
つづいて1889年までにボアソナードの協力のもと、民法・商法・民事訴訟法も制定された。そして1890年に民法も公布されるが、しかし日本の法学者から反対意見が出て(家族制度を破壊するものであると)論争となった('''民法典論争''')。
 
帝国大学(東京大学)の法学者の穂積八束(ほづみやつか)は「民法いでて、忠孝ほろぶ」(民法出デテ、忠孝亡ブ)と題した論文を書き、ボアソナードの民法を批判した。
 
結果的に議会で民法は修正されて、家族制度について家長(父親)や男性の権限が強いものに変わった。(一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定し、江戸時代よりかは少しはマシになったものの、あいかわらず女性の地位は低かった。)
 
 
== 初期議会 ==
第一回帝国議会の衆議院総選挙での、政党ごとの議席の割合では、自由民権運動の流れをくむ政党が多くの議席を獲得した。