「高等学校日本史B/第一次世界大戦と日本」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
桂園時代
元老、平民宰相
4 行
そして1906年に西園寺内閣(第1次)が組織された。西園寺内閣は、日本国内の鉄道建設を大いに行った。
 
1906年以降から1913年まで、西園寺と桂が数年おきに交互に政権を交代する結果になったので、最初の桂内閣の1901年から1913年までの期間のことを'''桂園時代'''(けいえんじだい)という。
 
いっぽう、伊藤博文や山県有朋たちは第一線をしりぞき、'''元老'''(げんろう)と言われるようになり、元老は背後から国政に影響を与えた。
第1次西園寺内閣は1907年、恐慌が起き、翌1908年の選挙では勝利したが責任を感じて、桂太郎に政権をゆずった。
 
 
さて、第1次西園寺内閣は1907年、恐慌が起き、翌1908年の選挙では勝利したが責任を感じて、桂太郎に政権をゆずった。
 
そして1908年に桂内閣になり、(財政の建て直しのためだろうか)国民に質素倹約や勤労をとく'''戊申詔書'''(ぼしんしょうしょ)を発布(はっぷ)して、'''地方改良運動'''を推進した。
43 ⟶ 46行目:
'''軍部大臣現役武官制'''をゆるめる改正をして、現役規定を削除し、予備役・後備役の軍人でも陸海軍大臣につけるように陸海軍大臣の資格を拡大する改革をした。
また、'''文官任用令'''(ぶんかんぶんようれい)を改正して、政党員でも高級官僚につけるようにした。
 
(軍部大臣現役武官制は、過去に西園寺内閣の辞職の原因になったので、山本内閣の時点で、すでにこの制度に問題点があること自体は気づかれていた。)
 
しかしドイツやイギリスなど外国からの軍艦の購入にからむ、日本の海軍高官がからむ汚職事件の'''ジーメンス事件'''(シーメンス事件)が1914年に起きた。このジーメンス事件により、山本内閣は国民から批判され、退陣に追い込まれた。
105 ⟶ 110行目:
 
=== 大隈内閣 ===
そして元老は、民衆のあいだで人気の高い大隈重信(おおくま しげのぶ)を、山本権兵衛の後継の首相に任命した('''第2次大隈内閣''')。第2次大隈内閣は立憲同志会を与党として出発した。
そしてこの第2次大隈内閣の時代に、第一次世界大戦が1914年に勃発する。第二次大隈内閣は日英同盟を理由にイギリス側の陣営として、外相加藤高明(かとう たかあき)の主導により第一次世界大戦に参戦した。
 
また、大隈内閣は1915年の総選挙で勝利し、与党の立憲同志会を勝利に導き、懸案の2個師団増設を実現した。
 
== 第一次世界大戦 ==
127 ⟶ 132行目:
 
* 石井ランシング協定
1917年、中国進出をねらっていたアメリカは、おなじく中国進出をねらっていた日本と利害調整をするため、寺内内閣の特派大使 石井菊次郎(いしい きくじろう)と国務長官ランシングとのあいだで、'''石井・ランシング協定'''(いしいランシングきょうてい)が結ばれた。この協定により、日本が中国にもつ特殊権益の大部分は、アメリカに認められた。また、アメリカの主張する、中国の領土保全や門戸開放の原則が決められた。
 
=== 第一次世界大戦のながれ ===
140 ⟶ 145行目:
 
大戦終了後の1920年には連合国の欧米はシベリアから撤退したが、日本は1922年まで駐兵して欧米からの不信感を高めた。
 
=== 日本への影響 ===
==== 大戦景気 ====
在華紡(ざいかぼう)
 
==== 原敬 ====
シベリア出兵にともない、1918年、日本では米の買占めによる米価の高騰が起き('''米騒動''')、社会が混乱し、各地で暴動が起きて警官隊と衝突したため、政府は軍隊を出動させて鎮圧する事態になった。この騒動のため、当時の寺内内閣は辞職し、代わって同1918年に衆議院第一党の立憲政友会 総裁の原敬(はら たかし)内閣が組閣された。
 
原が首相に選ばれた理由は、元老からの推薦によるものである。
 
原内閣は、最初の本格的な政党内閣であり、軍部大臣と外務大臣以外はすべて政友会党員であった。
 
原首相は華族でもなく藩閥でもなかったので「平民宰相」(へいみんさいしょう)と呼ばれ、大衆からの人気が高かった。
 
原内閣は、教育の充実に力を入れ、高等教育(※ 現代で「高等教育」とは大学教育のこと)の充実を行った。早稲田大学や中央大学などの私立大学は、この頃に正式な大学として認可された。また、旧制高校の数を増やしていった。
 
当時、男性普通選挙を求める運動が広がっていたが、原首相は時期尚早(しょうそう)と考えて普通選挙は導入しなかったが、代わりに選挙資格に必要な納税額を引下げ、選挙資格に必要な納税額は「3円以上」になり、また小選挙区制を導入した。
 
また、艦隊の増強や、鉄道の建設、などの積極財政を行った。
 
しかし1921年、原は東京で一青年によって暗殺された。
 
==== 護憲三派 ====
原の死後、原内閣の大蔵大臣であった高橋是清が首相となって高橋是清内閣が成立したが、国民からの人気は出ず、短期政権となり、高橋内閣は倒れ、かわって、つぎの加藤友三郎(かとう ともざぶろう)内閣ではシベリア撤兵が実現し、つぎの第二次山本権兵衛内閣の時代に関東大震災のあとに起きた虎ノ門事件で政権が倒れ、つぎの清浦奎吾(きようら けいご)内閣となった。
 
加藤・山本・清浦の3人とも、非政党人である。
 
このような非政党の活躍に政党は反発したので、1924年、憲政会・政友会・革新倶楽部(かくしんクラブ)の3政党が'''護憲三派'''(ごけんさんぱ)を結成し、'''第二次護憲運動'''を展開した。
 
そして同年の総選挙で護憲三派が圧勝したので、清浦内閣は総辞職した。
 
清浦内閣が倒れ、つぎの内閣は、護憲三派の3党の連立内閣となり、第一党となった憲政会の総裁 加藤高明が首相になり、政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅(いぬかい つよし)をくわえた護憲三派内閣が誕生した。
 
これ以降、1932年に五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまで、政党の総裁が首相をつとめる事が慣例になり、その慣例が「憲政の常道」と呼ばれるようになった。
 
さて、1925年の加藤内閣では、いわゆる'''普通選挙法'''が実現し、25歳以上の男子に選挙権(衆議院)が認められた。(現代の「普通選挙」とは違い、女性選挙権は無い。)
 
これにより、有権者の数は、従来の約300万人から増加し、有権者は1200万人ほどになった。
 
しかし、1925年の加藤内閣で'''治安維持法'''が成立した。(つまり、実質的に普通選挙法と治安維持法との抱き合わせ。交換条件。)
 
治安維持法の当初の目的と内容は、共産主義者の取り締まりであった。その理由は、日ソ国交樹立の年が同1925年であったので、日本はロシア革命の波及をおそれたからであった。
 
== パリ講和会議 ==