「高等学校歴史総合/日本の大陸進出」の版間の差分

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張作霖の事件については、既に他の単元で説明したので除去。
血盟団事件
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[[File:Puyi-Manchukuo.jpg|thumb|right|200px|溥儀(ふぎ、プーイー)]]
 
陸軍課長であった'''石原莞爾'''(いしわら かんじ)は、満州を占領する口実をもうけようとして、満州の日本軍は自作自演(じさくじえん)の事件を起こさせた。
 
どういう事件かというと、1931年に奉天郊外の柳条湖(りうじょうこ、リウティアオフー)ちかくの南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破した事件である。この自作自演の事件を '''柳条湖事件'''(りょうじょうこ じけん と言う
 
日本軍である関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定して軍事行動を開始し、奉天などの都市を占領し支配下においた。(のちに1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。
 
このとき日本本土の若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内閣は、英米との協調外交の方針のため、中国とは戦争をせずに外交交渉で解決しようという方針となり不拡大方針をとったが、野党からは軟弱外交だと非難された。
日本の新聞(たとえば朝日新聞など)や世論は、満州国の建国を支持した。
 
また、日本の世論・マスコミは、関東軍の行動を支持した。
 
このため、閣内の不一致により、若槻内閣は総辞職し、かわって同1931年に立憲政友会の犬養毅(いぬかい つよし)内閣が組閣された。
しかし、満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。
このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを「傀儡(かいらい)政権」とか「傀儡国家」などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。
 
しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして清朝の最後の皇帝であった '''溥儀'''(ふぎ) を、満州国の元首「執政」げんゅ)にさい)として、満州国の建国を宣言し('''満州事変''')
 
満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います
このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府は、中国とも戦争しない方針だった。
 
しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった '''溥儀'''(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。
 
この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を <big>'''満州事変'''</big>(まんしゅう じへん) という。
 
 
満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います。
 
 
当時の中華民国は、満州国の建国をみとめずに、日本と対立した。
 
:(※ このような満州国の正当性をめぐる対立という背景のため、検定中学教科書では、'''満州'''のことを'''「満州」'''あるいは'''「満州国」''' のようにカギ括弧つきで表現する教科書出版社も多いが、高校では普通にカッコ無しで満州と記述している。ちなみに当時の中華民国は皮肉たっぷりに「新 満州国」などと言ってる。 後述するリットン調査書では原文に、「新 満州国」のような中華民国による呼び方の報告がある。 )
 
 
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== 日本国内のテロ・クーデター ==
=== 五・一五血盟団事件など ===
満州事変が起きると、日本のマスコミは関東軍の行動を支持し、新聞やラジオの多くは、反中国の態度をとった。
 
このような雰囲気のなか、陸軍内の結社の桜会(さくらかい)では一部の青年将校や右翼思想化(大川周明)があつまりクーデタが計画されたが、未遂に終わった(十月事件)。
 
また、不況による不満の高まりからか、1932年2月に、井上日召(いのうえ にっしょう)ひきいる右翼の血盟団員の青年が、蔵相 井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)および三井会社理事 団琢磨(だんたくま)を暗殺した('''血盟団事件''')。
 
 
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
[[File:Inukai Tsuyoshi.jpg|thumb|犬養毅(いぬかい つよし)。犬飼は、おそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」(もんどうむよう)と答えてから犬飼を殺害したらしい。]]
 
このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は、満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の'''犬養毅'''(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を <big>'''五・一五事件'''</big>(ご・いちご じけん) と言う。
 
さらに1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが首相官邸および警視庁・日本銀行を襲撃し、首相の'''犬養毅'''(いぬかい つよし)を射殺した('''五・一五事件''')。
 
犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)
 
 
首相だった犬養毅が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、そして元老 西園寺公望(さいおんじ きんもち)の推薦により、次の首相は藤実(さいとう まこと)に決まった。斉藤は海軍出身だが、穏健派であった。(※ 「穏健派」であることの参考文献: 山川出版の詳説日本史B、2012年検定版)
 
また、犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。
 
:※ 検定教科書だと、なんだか斎藤実がまるで軍国主義者の悪者かのように受け取られかねない書かれ方をされてるが、しかし斉藤さんは、のちの二・二六事件で、軍国主義者の軍人たちによって殺害される側の人間である。
:※ おそらく、第二次大戦後の歴史研究で、斉藤さんの経歴の海軍出身という事から、のちに軍部が軍部大臣現役仕官制を悪用した行動と 斉藤さんの首相就任が混同されたのだろう。そのため斉藤さんが、まるで軍国主義者でクーデタ支援者みたいに誤解され、高校教育でもそういう観点で教育がされたのだろう。その誤解の影響が、平成の今でも残ってる。
 
なお、斉藤内閣は「挙国一致内閣」といったスローガンを掲げた。
 
=== リットン調査団 ===