「高等学校歴史総合/満州事変」の版間の差分

転向
(皇道派)
(転向)
 
== 思想の取り締まり ==
この頃から、思想の取り締まりが激しくなったので、社会主義思想や共産主義思想の取り締まりが激しくなったので、社会主義者や共産主義者は、(表面上は)それまでの(社会主義などの)思想を放棄して国家主義に'''転向'''(てんこう)した。
京大(京都帝国大学)教授 滝川幸辰(たきがわゆきとき)は、その刑法学説が危険思想であるとして問題視され、休職処分となった('''滝川事件''')。京大法学部は、処分に抗議し、全教官が辞表を提出したが、教員側の敗北に終わり、滝川ら8名の教員が免職となった。
 
日本共産党は非合法下で活動をつづけていたが、1933年、(転向を強制されたのか)日本共産党幹部の佐野学(さのまなぶ)や鍋山貞親(なべやまさだちか)は、獄中でソビエト連邦への批判を発表した。この後、日本共産党員から転向するものが相次いだ。
 
(じつは、佐野たちの転向は、共産主義をすてたのではなく、ソ連批判をしたのであり、ソ連指導下で天皇制打倒をめざすべきではなく、今後は天皇を尊重して日本独自の一国共産主義をすべきと提唱したものである。 ソ連は君主制打倒というスローガンを掲げてたが、それは日本の実情に合わないと、佐野らは主張したのである。(※ 明成社の検定教科書で紹介されている。) このため、(警察は一国共産主義が戦時下の経済統制の方針に適してると判断したのか)佐野らは減刑されて、のちの1940年代に佐野らは出獄させられた。 )
 
これとは別に、1933年、小説『蟹工船』の作者の小林多喜二(こばやし たきじ)が共産党のスパイ容疑で逮捕され、処刑された。
このような弾圧もあってか、プロレタリア文学は日本では衰退した。
 
これとは別に、京大(京都帝国大学)教授 滝川幸辰(たきがわゆきとき)は、その刑法学説が危険思想であるとして問題視され、休職処分となった('''滝川事件''')。京大法学部は、処分に抗議し、全教官が辞表を提出したが、教員側の敗北に終わり、滝川ら8名の教員が免職となった。
 
帝国議会で、滝川らを攻撃したのは文相 鳩山一郎。(※ 高校の範囲内。実教出版の教科書に書いてある。)
そして「国体明徴声明」(こくたい めいちょう せいめい)では、主権は天皇になると発表され、天皇機関説を否認した。
 
これとは別に、1937年、東京帝国大学教授の矢内原忠夫(やないはら ただお)が、政府の植民地政策を批判したとして、辞職させられ、著書も発禁となった('''矢内原事件''')。
 
これとは別に、1937年、日本無産等の鈴木茂三朗(すずき もさぶろう)ら400名以上ががコミンテルンの人民戦線活動を行ったとして逮捕され、翌1938年には東京帝国大学の大内兵衛(おおうち ひょうえ)が関係者として逮捕された('''人民戦線事件''')。
 
== ニ・ニ六事件 ==
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