「中学校社会 歴史/日中戦争」の版間の差分

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国家総動員法が物価統制の法律だと誤解されそうな言い回しを修正。
大戦翼賛会について記述。書き忘れてたようだ。
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満州事変以降、関係が悪化し始めていた米英からは反発を買い、中国を援助する政策を取ったこともあり、戦争は長期化する。
 
戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また挙国一致」(きょこくいっち)の一環として1938年に'''国家総動員法'''(こっかそうどういんほう)が成立し、議会の同意なく、戦争に必要な人員や物資の動員が行われることが可能になった。1940年には、ドイツやソ連の一党独裁を模倣するために、全政党を解散させて'''大政翼賛会'''(たいせいよくさんかい)を結成した。
 
== 日中戦争 ==
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* 最初に誰が発砲したか?
盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかの説には、多くの説がある。
 
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上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。)
国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
 
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を重慶(じゅうけい)などにうつし、日中戦争はつづいた。
 
12月の南京攻略のとき、中国政府は、日本軍によって、女や子どもをふくむ多数の住民が殺害されたというような宣伝をした。このときの 1937年12月から1938年はじめの南京で殺害事件を <big>'''南京事件'''</big>(ナンキンじけん) と言う。いわゆる'''南京大虐殺'''(なんきん だいぎゃくさつ)のことである。
 
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。
 
=== 南京事件について ===
真偽や実情は今でも不確定であり研究者などが研究中だが(平成2014年に本文を記述)、日中戦争の当時では中国政府の主張が事実だろうと思われて南京事件が国際社会に広まり、日本は連合国から国際的な非難をあびた。
 
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一般住民が殺されたという意見では、30万人が殺されたという説もあるが、日本の学者に多い意見では30万人という数字は大げさであり、たとえ住民虐殺があったとしても、もっと少ない人数だろう、という意見が強も多い。
住民が殺害されたという人数には、数百人から30万人まで、いろんな説がある。
 
 
=== 備考 ===
 
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。
 
アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。いっぽう、ソビエトアメリカ・イギリスは、おもに中フランス領インドシナから、物資をの共産援助していた。(「援蒋ルート」(えんしょうルート)と言う。)
 
いっぽう、ソビエトは、おもに中国の共産党を援助した。
 
 
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=== 日本の戦時体制 ===
日本政府は、1938年には、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人を(政府動かせるように、<big>'''国家総動員法'''</big>(こっか そうどういんほう)を定めた。
 
1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、'''大政翼賛会'''(たいせいよくさんかい)に合流した。
戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは<big>配給制</big>(はいきゅうせい)になった。
 
その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは<big>配給制</big>(はいきゅうせい)や切符制になった。
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。
 
(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。・・・らしい。) (※ 検定教科書によっては、砂糖も米も「配給制」でまとめてあるものもある。)
 
 
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。(このほか「ガソリンの一滴は血の一滴」なんて標語も言われた。)
 
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Image:Advance All Japanese people are 100 million balls of fire.JPG|「進め一億火の玉だ」
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* 発展
(※ 教科書によって紹介されてたり、されてなかったりする。)
 
小学校は「国民学校」に改称させられ、教育内容にも軍事的な話題が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。
 
;「隣組」(となりぐみ)
庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。
 
 
 
=== 植民地での戦時体制 ===