「高等学校日本史B/第二次世界大戦と日本」の版間の差分

帝国国策遂行要領
(産業報国会)
(帝国国策遂行要領)
7月、陸軍の圧力で米内光政内閣が倒れ、(第2次)近衛文麿内閣が成立した。すると、近衛内閣は、'''日独伊三国同盟'''を締結した。
 
同じ頃、援蒋ルートを断ち切るために、ドイツに降伏したフランスの植民地のひとつであるフランス領インドシナの北部に進駐した。これによって、アメリカは態度を硬化させ、日本への石油・くず鉄などの輸出禁止制限した(まだ禁止はしてない。禁止するのは数年後)。アメリカの姿勢にイギリスも同調した。
 
:(かつての歴史教育では、オランダも同調したとされるが、実はオランダとは日本は独自に交渉をしていた。しかし、条件がおりあわずに交渉が決裂し、日本はオランダからの輸入できなくなった。)
 
日本国内では、近衛内閣は、ナチスのような一国一党の'''大政翼賛会'''を結成した。そして、社会大衆党、立憲政友会、立憲民政党などの諸政党が大政翼賛会として合流した。しかし、当初予定をしていた大戦翼賛会の政党としての機能は、天皇の統治権を侵害するという議論が起きたため(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書)、大政翼賛会に政党としての機能は無くなり、かわりに全国各地の町内会などを支配して国策を民衆に伝えるための上意下達の機関になった。このため大政翼賛会は、首相を総裁とし、都道府県知事を支部長とし、部落会・町内会・隣組などを下部組織とする全国組織になった。
日本は、これを、相手国の頭文字をとって「ABCD包囲網」と呼んだ。(アメリカのA、ブリテン(イギリス)のB、チャイナ(中国)のC、ダッチ(オランダ)のD。)
 
大政翼賛会の初代総裁は、近衛文麿である。
 
いっぽう企業などでは、1938年には労使一体の機関として、'''産業報国会'''の結成が奨励された。1940年には、これらの全国組織として大日本産業報国会が結成された。
 
そして大戦翼賛会に、大日本産業報国会や大日本婦人会や大日本青少年団なども統合された。
 
 
 
:(かつての歴史教育では、オランダも同調したとされるが、実はオランダとは日本は独自に交渉をしていた。しかし、条件がおりあわずに交渉が決裂し、日本はオランダ1941年4月から、駐米大使 野村吉三郎(輸入でむらなくなっちさぶろう)とアメリカ国務長官ハルとの間で日米交渉が行われた。
 
その一方で外相松岡洋右(まつおか ようすけ)により、1941年4月に日ソ中立条約が結ばれた。
日ソ中立条約には、軍事面の安全を得ようという思惑のほかにも、(日本の味方を増やすことで)対アメリカとの交渉を有利にすすめようとの思惑もあった。(※ 思惑の参考文献: 山川出版や東京書籍などの検定教科書に書かれてる。)
 
 
しかし6月にドイツとソ連が開戦した。
 
日本は、北方では満州 ー ソ連国境に大軍を集中させるとともに、南方ではフランス領インドシナ南部に進駐した。
 
アメリカは、在米日本資産を凍結し、8月には石油輸出を禁止した。アメリカに、イギリス・オランダも追随した。
 
日本は、これを相手国の頭文字をとって「ABCD包囲網」と呼んだ。(アメリカのA、ブリテン(イギリス)のB、チャイナ(中国)のC、ダッチ(オランダ)のD。)
 
:(※ 近年の日本の歴史学会では「ABCD包囲'''陣'''」との言い換えをされてるし、そう紹介する検定教科書もある。たとえば山川出版の教科書では、「ABCD包囲陣」と呼んでいる。しかし、大戦中の当時は「ABCD包囲網」と日本では呼ばれていた。清水書院の教科書では、「ABCD包囲網」で呼んでいる。)
:(※ このような「包囲○」呼び方の論争があるので、「ABCDライン」のように外来語で紹介している検定教科書もある。明成社の教科書。)
 
== 太平洋戦争 ==
近衛内閣は、ナチスのような一国一党の'''大政翼賛会'''を結成した。そして、社会大衆党、立憲政友会、立憲民政党などの諸政党が大政翼賛会として合流した。しかし、当初予定をしていた大戦翼賛会の政党としての機能は、天皇の統治権を侵害するという議論が起きたため(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書)、大政翼賛会に政党としての機能は無くなり、かわりに全国各地の町内会などを支配して国策を民衆に伝えるための上意下達の機関になった。このため大政翼賛会は、首相を総裁とし、都道府県知事を支部長とし、部落会・町内会・隣組などを下部組織とする全国組織になった。
=== 開戦 ===
近衛内閣のもと、9月6日の御前会議では、日米交渉がまとまらない場合にはアメリカとの開戦をすることが決定された(帝国国策遂行要領)。(ていこく こくさく すいこう ようりょう)
 
しかし交渉は10月まで続いた。そして、対米交渉がまとまらないまま、10月に近衛内閣が総辞職し、木戸幸一(きどこういち)内大臣の推挙で(現代では対米強行派と言われている)'''東条英機'''(とうじょうひでき)内閣が成立した。
大政翼賛会の初代総裁は、近衛文麿である。
 
東条内閣は11月まで対米交渉を継続した。しかし、結局、対米交渉がまとまらず、アメリカは、日本に満州事変以前の状態への復帰を要求した覚書('''ハル=ノート''')を突きつけてきた。
いっぽう企業などでは、1938年には労使一体の機関として、'''産業報国会'''の結成が奨励された。1940年には、これらの全国組織として大日本産業報国会が結成された。
日本は、これを最後通牒として受け取り、本格的に開戦の意志を固め、12月1日の御前会議で開戦を決定した。
 
:なお、ハル=ノートの内容は、満州国の否認、 汪兆銘政権の否認、および 重慶政府のみを中国の正式政府と認めること、フランス領インドシナからの撤兵、日独伊三国同盟の破棄、 などである。
そして大戦翼賛会に、大日本産業報国会や大日本婦人会や大日本青少年団なども統合された。
 
 
そして12月8日、日本陸軍がマレー半島に奇襲上陸するとともに、日本海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日本が米英に宣戦布告し、日米戦争が開戦した('''太平洋戦争''')。
三国同盟にしたがって、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦した。
18,127

回編集