「高等学校日本史B/第二次世界大戦と日本」の版間の差分

鉄血勤皇隊
(ガダルカナル島、自由インド仮政府)
(鉄血勤皇隊)
この大東亜会議では、「アジアの解放」や「共存共栄」、「自主独立」などがうたわれた。
 
=== 戦時下の国民生活 ===
==== 動員 ====
1943年には、大学生の徴兵猶予をなくし、文科系の大学生を中心に軍に徴兵をする学徒出陣が行われた。(理科系と教員養成系が除外され、徴兵されなかった。)
 
:※ 当時の教員養成系の学校教育は、現代の教員養成系とは違い、全教科が得意でなければならない。体育なども含めて、全教科が得意という事であり、理系科目が得意であるという条件も含まれる。つまり、実質的に理系が徴兵をまぬがれた。
=== 国民生活 ===
 
 
徴兵をまぬがれた学生や若者も、軍需工場などに動員された(勤労動員)。
25歳未満の独身・未婚の女子は、女子挺身隊として工場などに動員された。
 
 
兵力不足や労働力不足をおぎなうため、朝鮮や台湾からも徴兵が行われたり、朝鮮や台湾などの労働者が日本へ連れてこられたりもした。なお、この施策は国民徴用令を植民地にも適用したものであり、(いいか悪いかはともかく)朝鮮・台湾を特別あつかいしたわけではない。(※ 参考文献: 東京書籍の教科書)
 
:(現代の韓国が「日本は戦時中の強制連行を謝罪せよ」などと言ってるのは、この事について批判をしている。)
:(なお、慰安婦(いあんふ)も強制連行であるというのが、戦後の韓国の見解である。)
 
:「慰安婦」(いあんふ)というのは、主に兵士相手にセックスするための専門の仕事で、戦時中の軍隊での性処理の仕事。なので日本では、かわりに、多くの兵士を相手に、専門的に性処理の仕事をする女性を多く集めた。
:なおアメリカ軍では、少数の男性の将官(軍の幹部のこと)などが女性秘書など軍属のスタッフの女性をセックス相手にする事例があった。
:また、アメリカ軍によって、フィリピン滞在中の男性将官には、現地フィリピン人の女性が、あてがわれた。同様にイギリス軍も、ビルマなどを支配していたイギリス軍は現地の女性を、イギリス軍の将官にあてがった。
:※ ドイツ軍については、『アンネの日記』にも、アンネの推測だが、占領地のオランダ女性が兵士相手の慰安婦として集められてるのでは、 などの疑惑が紹介されている
 
:※ なお、従軍看護婦をセックス相手にするのは、近代の古くでは行われたが、その後、クリミア戦争の頃からナイチンゲールらの改革によって禁止されるようになったという。ただし第二次大戦後の朝鮮戦争でアメリカ軍が捕らえた北朝鮮の看護婦を慰安婦として募集したよう事例を除けば。
 
 
==== 国民生活 ====
表現規制も厳しくなり、野球の英語用語なども禁止されるようになったり、ジャズなどの西洋的な流行音楽も禁止されるよになった。だが、これは裏を返すと、1930年代ごろには日本でアメリカ産の娯楽が流行していた事のあらわれでもある。(※ 実教出版の教科書の見解。) (※ ジャズはアメリカで流行しはじめて、世界的なブームになっていった。)
 
教育では、1941年に小学校が国民学校に改称され、教育内容でも軍国主義的なものが増えた。
 
本土空襲がせまった1944年からは、主要都市では'''学童疎開'''(がくどう そかい)が行われるようになった。
 
軍需工場も、空襲などの被害をのがれるため、軍需工場が地方移転をする事例も出てきた。
 
=== 戦局 ===
1944年7月には、サイパン島などマリアナ諸島を占領していた日本軍が(アメリカの攻撃によって)全滅し、アメリカ軍がマリアナ諸島を占領した。
 
東条内閣は、サイパン陥落の責任をとるため退陣し、陸軍大将の'''小磯國昭'''(こいそ くにあき)内閣が成立した。
 
アメリカ軍がマリアナ諸島を確保したことにより、日本の本土はアメリカ空軍の空襲の距離内に入った。1947年7月からは、アメリカ空軍はマリアナ諸島を基地として、B29爆撃機が焼夷弾(しょういだん)をつかって東京を標的の中心として無差別的に空襲をした。特に1945年3月の空襲は大規模かつ無差別的であり、一夜にして約10万人が焼死した('''東京大空襲''')。
 
「無差別」的な空襲という事の意味は、けっして基地だけ軍事施設だけを狙うのではなく(※ 「精密爆撃」ではなく)、住宅街なども狙うという意味。
 
:※ しかも、東京大空襲では、らせん状に外側から内側にむかって囲んで東京を焼き払うようにアメリカ空軍が空襲をしたので、住民たちには逃げ場がなかった。まさに無差別爆撃である。
 
つづいて、(京都を除いて)名古屋・大坂・神戸などにも空襲が行われた。
 
(1945年3月にアメリカ軍が硫黄島を占領。)
 
1946年4月からは沖縄本島にアメリカ軍が上陸し、島民をまきこむ戦闘が3ヵ月つづき、1947年7月にアメリカ軍によって沖縄は占領された。
 
沖縄戦敗退の責任のため小磯國昭内閣は退陣し、(天皇の)侍従長の'''鈴木貫太郎'''(すずき かんたろう)内閣が成立した。(※ 鈴木貫太郎は海軍出身者でもある。)
 
鈴木貫太郎は、敗戦やむなしと考え、表向きには戦争続行をのぞむ軍部に同調したように振舞いながらも、ひそかに鈴木はソ連を仲介に終戦交渉をすすめたが、交渉はまとまらず失敗した。
 
沖縄戦では、男子学生が鉄血勤皇隊や通信隊に編制されたり、女学生が女子学徒隊などに編制され、動員された。
通信隊は、形式的には通信・伝令などの任務とされていたが、実際には戦闘にも参加したという。
 
従軍看護婦の「ひめゆり学徒隊」や「白梅(しらうめ)学徒隊」は、女子学徒隊の一種である。女子学徒隊は、野戦病院で看護に従事した。
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