「高等学校日本史B/第二次世界大戦と日本」の版間の差分

ドイツ中華大使トラウトマン、陸軍大将の林銑十郎
(戦艦ミズーリ号)
(ドイツ中華大使トラウトマン、陸軍大将の林銑十郎)
いっぽう、1936年12月に、共産軍討伐をしていた張学良は、督励のために西安(せいあん、シーアン)に訪れた蒋介石を監禁し、共産党との戦闘停止と抗日を蒋介石にせまり同意させた('''西安事件''')。そして1937年には国共合作が実現した。(「国共合作」とは、国民党と共産党との同盟のようなもの。)
 
広田内閣は1937年1月に総辞職した。
 
かわりに、組閣の大命が、穏健派の陸相の宇垣一成(うがき かずしげ)にくだった。しかし、反対する陸軍が陸相を出さなかったので宇垣は組閣できなかった。
 
なので1937年2月、陸軍大将の林銑十郎(はやし せんじゅうろう)が首相となって組閣したが、4月の選挙で大敗し、総辞職した。
 
かわりに1947年5月、国民からの人気も高くて華族出身の近衛文麿が首相となり、組閣した(第1次近衛内閣)。(なお、近衛文麿は以前は貴族院議長もつとめていた。)
 
== 日中戦争 ==
=== 盧溝橋事件 ===
第1次近衛文麿内閣の時代の1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった(<big>'''盧溝橋事件'''</big>(ろこうきょう じけん) )。
 
これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。当時、この戦闘を 「北支事変」(ほくしじへん) と言った。
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。
 
ドイツドイツ中華大使トラウトマンを通して日中両国に和平を斡旋(あっせん)したが(トラウトマン工作)、和平交渉は失敗し、近衛内閣は1938年1月「国民政府を相手とせず」と声明を発表した(第1次'''近衛声明''')。
 
同1938年11月には、東亜新秩序の声明を出し、日本・中華・満州の3国の協力による国際政治を中国に呼びかけた(実質的には国民党に、共産党との提携をやめて日本側に協力してほしいと呼びかけた宣言)、国民党が応じず、失敗した。(※ 参考文献: 明成社の検定教科書)
事変の長期化にともない、日本では、戦争遂行の協力体制の確立のため、1937年から「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」(きょこくいっち・じんちゅうほうこく・けんにんじきゅう)のスローガンとする国民精神騒動運動が開始された。
 
つづいて、総力戦体制を確立するために、日本で1938年に、議会の承認なしに物資・人員の動員・統制のできる'''国家総動員法'''が制定された。また、国家総動員法にともなう類似の法として、1939年には賃金統制令・国民徴用令・価格統制令などを発布した。価格統制令によって、公定価格が導入された。国民徴用令によって、一般国民が軍需工場などに動員された。
 
電力も、電力国家管理法によって、各地にあった民間のいくつもの電力会社が、単一の国策会社に統合させられた。
また、1938年ごろから企業では、労使一体となって戦争遂行に協力する'''産業報国会'''の結成がすすめられた。
 
その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1940年にぜいたく品の製造・販売が禁止され、また、米(こめ)の強制買い上げ制度(供出性)が実施され、1941年からは米や日用品などは<big>配給制</big>(はいきゅうせい)や切符制になった。(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。)
1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、'''大政翼賛会'''(たいせいよくさんかい)に合流した。
 
 
なお1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、'''大政翼賛会'''(たいせいよくさんかい)に合流した。
また、大政翼賛会の下部組織として、隣組・町内会・部落会などが結成された。庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。
 
その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは<big>配給制</big>(はいきゅうせい)や切符制になった。
 
また、大政翼賛会の下部組織として、隣組・町内会・部落会などが結成された。庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。
(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。・・・らしい。) (※ 中学の検定教科書によっては、砂糖も米も「配給制」でまとめてあるものもある。)
 
 
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。(このほか「ガソリンの一滴は血の一滴」なんて標語も言われた。)
 
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Image:Luxury is our enemy.JPG|「ぜいたくは敵だ!」
Image:Advance All Japanese people are 100 million balls of fire.JPG|「進め一億火の玉だ」
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[[Image:Monpe.JPG|thumb|180px|もんぺ]]
 
小学校は「国民学校」に改称させられ、教育内容にも軍事的な話題が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。
 
 
このほか、文化面では<br>
:1939年にパンチパーマの禁止、男子の長髪の禁止<br>
:1943年に野球での「セーフ」「アウト」など英語の使用の禁止の運動<br>
などがあった。
 
1941年に小学校は「国民学校」に改称させられ、教育内容にも軍事国家主義的な話題教育が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。
もし、このような統制的な風潮に反対すると、「非国民」(ひこくみん)などと批判されたりもした。
 
=== 文化と戦時体制 ===
1930年代の文学では、戦時統制とは あまり関係のない文学的な理由で、島崎藤村(しまざき とうそん)や志賀直哉(しが なおや)の作品が流行した。
 
いっぽう、思想弾圧によりプロレタリア文学が壊滅した。いっぽう、戦争を描写した戦争文学がさかんになった。火野葦平(ひの あしへい)は自らの従軍経験をもとに『麦と兵隊』を書き、人気を博した。
衣服も配給の対象にくわわり、また、高価な洋服が禁止されたりもした。
 
歴史学者の津田左右吉(つだ そうきち)は、日本書紀などは歴史的事実ではないと主張していたため、津田左右吉の著書の『神代史の研究』ほか3冊は発禁処分となった。
(※ そのため、女子の服装では、モンペが奨励された。)
 
美術の分野では、戦地に派遣された従軍画家によって、戦争画が描かれた。
(※ 検定教科書では、モンペの写真はあるが、「モンペ」という用語は紹介されてない。)
 
=== 植民地での戦時体制 ===
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