「高等学校日本史B/高度経済成長の日本」の版間の差分

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高等学校政治経済/経済/戦後日本の経済のあゆみ 2018年5月23日 (水) 06:05‎ から引用。
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:※ 高度経済成長とは何かについては、中学で習ったとおり。高校の検定教科書でも、いちいち「高度経済成長」の意味は説明していない。
 
== 高度成長に至るまで ==
=== 経済復興期 ===
1950年、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍を中心とする連合軍からの'''特需'''(とくじゅ)が発生し、日本は不況を脱した。
 
1951年には、国民総生産(GNP)が戦前の水準を取り戻した。
 
1950年代に日本はIMF(国際通貨基金)とGATT(ガット、関税および貿易に関する一般協定)に加盟した。
 
また、1955年以降には米(こめ)の大豊作がつづき、食糧難も解消していった。
 
そして1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述されるまでに景気回復した。
 
== 高度経済成長 ==
一般に、1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述された頃が、高度経済成長の開始の時期とされる。
 
1955〜57年の当時は「神武景気」と言われていた。その後も好景気が続いたので、1958〜61年の好景気を「岩戸景気」といった。
 
=== 所得倍増の時代 ===
1960年に池田勇人(いけだ はやと)内閣が成立した。
 
池田内閣では、親米政策のもと、革新勢力(社会党・共産党などの事)との対立を避け、(その意味か)「寛容と忍耐」をとなえ、また、すでに始まっていた高度経済成長による「'''所得倍増'''」をスローガンにかかげた。
 
1955(昭和30)年から1973年まで、経済成長率が年平均10%ほどという高い率で、景気後退年でも5%ていど以上という高い水準だった。
そのため、1955年から1973年ごろまでを「'''高度経済成長'''」という。
 
1968年には日本のGNPが旧・西ドイツを抜き、アメリカについで日本が世界の資本主義国でGNP第2位になった。
 
高度経済成長期の好景気としては1955〜57年の神武景気、1959〜61年の岩戸景気、1963〜64のオリンピック景気などがある。
 
 
また、1949年に設定された1ドル=360円の固定レートが外国にとっては日本円が割安であり、そのことが日本からの輸出に有利だった。
 
 
また、高度成長期に、企業による設備投資が進み、工業化が進んだ。
そのような企業の設備投資の資金源には、銀行から貸し出された資金が使われた。
この高度成長のころから、太平洋ベルトに工場が集積していった。「投資が投資を呼ぶ」と言われるほど、設備投資が盛んだった(※ 現代社会の検定教科書に、「投資が投資を呼ぶ」の記述あり)。
 
また、農村出身の若者が、集団就職で、都会に移住した。通説では、高度成長の原因のひとつは、教育の普及により勤勉で良質な労働力が供給されたことが理由だろう、と言われている。
一方、しだいに都市部で住宅不足などが起こりはじめ、渋滞や過密化などが起こるようになった。
 
なお、この当時の就職しはじめの20代前後の若者とは、戦後のベビーブームの時期(1947〜1949年)に生まれた「団塊(だんかい)の世代」である。この当時は、大学進学率が低く、中卒や高卒で就職するのが一般的であり、この世代の中卒・高卒の労働者は「金の卵」と言われた。
 
さて、戦前は日本の製品は品質が低いと国際的には見なされていたが、高度成長のころから、日本企業が国際的な競争力をつけていった。
 
一方、公害の問題が深刻化した。
 
なお、石炭から石油へのエネルギー革命が、日本では、この高度成長期に起きた。
 
* 貿易の自由化
1960年代、日本では貿易の自由化を求める声が高まり、それまでの輸入は政府の許可制だったが、1963年にGATT11条国(ガットじゅういちじょうこく、意味: 国際収支の悪化を理由には輸入数量の制限ができない国)になり1964年にIMF8条国(意味: 国際収支を理由には為替制限ができない)になった。(なお1964年は、東京オリンピック開催の年でもある)
 
このようにして、日本はIMFーGATT体制に入り、また、日本では貿易が自由化されていった。