「高等学校日本史B/第一次世界大戦と日本」の版間の差分

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甘粕事件
「今日は三越(みつこし)、あすは帝劇(ていげき)」
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山本権兵衛内閣は、これらの事件の責任をとる形となり、年末に総辞職した。つづいて、清浦奎吾(きようら けいご)内閣が成立した。
 
 
== 未分類 ==
=== 社会運動の高まり ===
* 女性解放運動
社会的に差別されている女性の解放をうたう婦人運動もさかんになり、平塚らいてう(らいちょう) によって、文学団体の青踏社(せいとうしゃ)が結成され、文学活動と同時に女性の地位向上をめざす運動をした。
 
つづいて、平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、1920年に新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。
 
これらの婦人運動によって、それまで女性の政治集会を禁止していた治安警察法第5条が1922年に改正され、女性も政治集会を行えるようになった。
 
* 部落解放運動
未記述
 
=== 大衆文化 ===
この頃にデパートが都心に出現していた。
東京都心では、企業のキャッチフレーズか何かで「今日は三越(みつこし)、あすは帝劇(ていげき)」などと言われた。(三越(みつこし)とは、三越デパートのこと。帝劇とは、演劇などを公演していた帝国劇場のこと。)
 
関西地方でも、阪急電鉄(はんきゅう でんてつ)のターミナルの梅田(うめだ)に阪急デパートが登場していた。(なお、阪急電鉄が経営する劇場・劇団は宝塚(たからづか)歌劇団。)
 
洋服は日本ではもともと男性向けの衣服として普及したのが先だが、大正のころになると、女性むけを含むオシャレ用の衣服にもなり、洋服を着ている男女はそれぞれ「モボ」(モダンボーイ、男)、「モガ」(モダンガール、女)と言われた。
 
また、一部の女学校の制服に、大正末期ごろから、セーラー服が採用された。(※ もっとも、これはオシャレというよりも、水兵の衣装を学校の制服として採用したのである。)しかし、この時代の多くの女性の衣装の普段着は、和装であった。
 
:※ その他、バスガールとか、コロッケやライスカレーなどの洋食とか、中学で習った通り。
 
[[File:キング192501.jpg|thumb|雑誌『キング』創刊号の表紙(1925年)]]
この頃、新聞や雑誌の発行部数が急激に伸びた。『東京朝日新聞』や『大阪毎日新聞』の(年間)発行部数は100万部を越えた。
 
また、雑誌の創刊も盛んになり、週刊誌『週刊朝日』や週刊誌『サンデー毎日』もこの頃に創刊された。
 
大衆雑誌『キング』もこの時代に講談社によって創刊され、100万部以上の大人気になった。