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坂下門外の変
文久の改革
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しかし、尊王攘夷派は、これに憤激し、江戸城坂下門外で安藤信政は水戸藩の浪士に襲撃されて傷つけられ、安藤信政は老中を退いた(坂下門外の変)。
 
== 尊皇攘夷運動の挫折 ==
薩摩藩では、藩主の父である島津久光は、公武合体論を支持し、1862年には京都に上京し、藩内の急進的な尊皇攘夷派を弾圧した('''寺田屋事件''')。そして1862年、朝廷から預かった勅許を持って江戸に下り、幕府に改革を要求した。
京都では
 
幕府はこれに応じて、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永(よしなが)を政治総裁職に任命し、参勤交代を緩和した('''文久の改革''')。
 
 
この帰途、薩摩藩の行列をイギリス人が横切り、薩摩藩士がそのイギリス人を殺傷した('''生麦事件''')。
 
 
島津久光が去ったあとの京都では、長州藩が主導権をにぎった。そして、朝廷は、幕府に約束である攘夷を実行するように指示した。
 
幕府はやむなく、1863年5月10日に、全国の藩に攘夷を命じ、その日に長州藩は、下関の海峡を通貨した外国船に砲撃した。
 
いっぽう1863年8月18日、長州藩に主導権をとられた薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と協力して、長州藩と三条実美(さねとみ)ら7名を京都から追放した('''八月十八日の政変''')。
 
 
翌1864年7月、新撰組による池田屋事件が起きると、長州藩は京都に兵を進めたが、薩摩藩・会津藩によって撃退された('''禁門の変''' または '''蛤御門の変''')。 (はまぐりごもん の へん)
 
この後、1984年7月に幕府は長州討伐の軍を起こした。
 
すると、この時たまたま、長州への報復の機をうかがってたイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの列国が連合艦隊を編制して下関を砲撃して、下関側の砲台を占領した('''四国艦隊下関砲台占領事件''')。
 
その結果、長州藩内では尊攘派にかわって幕府派が主導権をにぎり、長州と幕府軍とが戦闘をする前に、長州は幕府に降伏した。
 
こうして長州藩は攘夷が無理なことを悟り、以降、長州は開国派となった。
 
いっぽう薩摩藩はこれより前の1863年に、生麦事件の報復として1863年にイギリス軍艦に攻撃されて薩摩は敗北していた('''薩英戦争''')。
 
薩摩も、こうして攘夷が無理なことを悟っており、開国派となった。