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藩閥政治
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1871年、薩摩・長州・土佐の3藩の兵を東京に集め、その武力を背景に同年7月、廃藩置県を断行した。
 
すべての知藩事は解任され、旧藩主は東京在住を命じられ、かわって中央政府から府知事・県令が派遣された。
 
廃藩置県の直後に政府組織も改編され、太政官は正院(せいいん)となり、さらに右院(ういん)と左院(さいん)がもうけられ、正院・右院・左院の三院制となった。そして正院の下に各省が置かれた。
 
:正院は政府内の最高機関とされ、太政大臣・右大臣・左大臣の3大臣と参議が正院に置かれた。
:左院は立法機関、および政府内や正院のための諮問機関(しもんきかん)。
:右院は各省の連絡機関で、各省の長官をあつめて協議した。
:神祇官は廃止され、神祇省に格下げされた。
:民部省も廃止された。
 
これら一連の改革を通して、政府内では薩摩の西郷隆盛(さいごう たかもり)や長州の木戸孝允(きど たかよし)など、薩長土肥の出身者が権力をにぎるようになった。また、公家の岩倉具視(いわくら ともみ)など少数の公家が権力を握るようになった。特定の藩出身者などの特定勢力出身者が権力をにぎっていったので、のちに<big>藩閥政治</big>といわれるようになった。
 
:薩摩からは西郷のほか大久保利通と黒田清隆(くろだ きよたか)、
:長州からは木戸のほか伊藤博文と井上馨(いのうえ かおる)と山県有朋(やまがた ありとも)、
:土佐からは板垣退助(いたがき たいすけ)と後藤象二郎(ごとう しょうじろう)、
:肥後からは大隈重信(おおくま しげのぶ)や副島種臣(そえじま たねおみ)や江藤新平(えとう しんぺい)、
:公家からは三条実美(さんじょう さねとみ)や岩倉具視(いわくら ともみ)、
などが、権力をにぎった。