「高等学校日本史B/明治の近代化の改革」の版間の差分

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大教宣布の詔
コラム|靖国(やすくに)神社| :(※ 清水書院や実教出版など、いくつかの検定教科書で紹介されている。)
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いっぽう、政府は神道(しんとう)の国教化を目指し、1870年に'''大教宣布の詔'''(だいきょうせんぷ の みことのり)を出し、神社制度や、皇室行事にもとづく祝祭日を設定した。
 
:皇室行事とは、紀元節(きげんせつ)や新嘗祭(にいなめさい)などのこと。
 
キリスト教については、新政府は当初、旧幕府のキリスト教の禁止を継続し、長崎の浦上のキリシタンが弾圧を受けていたが、列国の強い抗議により、1873年にキリスト教禁止の高札(こうさつ)が撤去され、キリスト教の信仰が黙認されるようになった。これを機に多くの外国人宣教師が来日し、布教活動を行った。
 
{{コラム|靖国(やすくに)神社|
:(※ 清水書院や実教出版など、いくつかの検定教科書で紹介されている。)
靖国神社の前進となる東京招魂社(とうきょう しょうこんしゃ)は、このころ(1869年)作られた。
 
招魂社では、戊辰戦争以来の国事に協力して死没した者をまつった。
 
(※ 教科書に無い話題: )戊辰戦争前に死んだ吉田松陰など、のちに新政府側に都合のいい思想家も、まつられている。いっぽう、戊辰戦争で政府軍の敵側である白虎隊や、西南戦争で反乱軍だった西郷隆盛は、まつられてない。
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== 教育 ==
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しかし、学校建設費や授業料の負担が地域や保護者に課せられたため、反発運動が高まり、政府は1879年に学制にかえて教育令を出した。
 
高等教育については、1877年に旧幕府の開成所や医学所などを統合して'''東京大学'''(現在の東京大学の前身)をつくった。そして、多くの外国人教師が招かれた。
 
そのほか政府によって、教員養成のための師範学校や、女子教育のための学校、産業教育のための専門学校もつくられた。
 
いっぽう政府とは別に、'''福沢諭吉'''の'''慶応義塾'''、新島襄(にいじま じょう)の'''同志社'''(どうししゃ)英学校、大隈重信の東京専門学校(のちの早稲田大学)などの私立の学校が設立された。